入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと   07 これまでの作品を観て   08 更新設計がうまれる背景
 09 福島原子力発電所に立った人  
         
04 村上亜沙美さん(製本作家) 篇 2024・11 

佐藤の妻は浅草生まれ、北千住育ちだ。生徒会・手芸部活を盛んにこなし勉強はしない。鞄の中は手芸品だけ。往復都電にゆられ、カツサンドは買えずコロッケパンを喰いながらイケメンが運転する都電を待ち、下校する。そんな男女共学・都立女子高生だった。
佐藤と結婚生活をスタートしたのは新宿駅、代々木駅どちらへも徒歩8分ぐらい、渋谷区の木賃6帖(風呂台所つき)だった。妻は山好、手芸・旅好きの女性でサラリーのほとんどをそのために使っていたそうだ。都会より山がある地方で暮らしたい、と言っていた。俺は一級建築士に合格するまでは、福島市には戻らない、と決め建築士としての実績を東京で積んだ。10年長期出稼ぎといえる職業形態を終えた時は、5人家族となり福島市に戻った。妻は水田を沼だと思っていて、どうしてこんなに沼が多いの、と聞いた。子供たちは福島弁を身につけ、母親の東京下町語も身についていて、「二ヶ国語話せるよ」、と喜んだ。子供たちは風の又三郎とはいかず、虐めにも遭ったが、親に語ることはなかった。妻は自然は綺麗、フルーツは美味い、人が少ない地方が好きだ、と年老いた今でも語る。

さて、村上亜沙美さんはなぜ、地方都市・浜松市に暮らすことを選んだのだろうか。さらに建設の時代は終えた日本で、喰えそうもない建築士と結婚しようと思ったのか、その点に興味が沸いた。

どこにでもありそうな、シャッターが閉まった空き店舗。かってここはタバコや化粧品、日用品などを売っていた雑貨屋さんだった。交差点に面した、なんだか不思議に気持ちの良いこの場所で、道ゆく人を眺めたり、街の音を聞きながら本を作れたらいいな、と思った。

と記しているが、佐藤には村上亜沙美さんの事実に迫って記すほどの力は無い
一人の女性にこの思いを湧きたたせる場所に立ってみたかった。


現在、都心の人口は若い女性が流れ込み出ていく者が少ない。地方は仕事もない、希望も見えだせず、人口減少のなか女性に見捨てられ男性単身者が多いとデータにある。
妻のように子供が山登りできるようになったら尾瀬に一緒に行く、そう決め地方に来た女性とは異なり、女性に適した生きがいを持てる職場が無い。地方都市に、都心で暮らす若い女性を引きつける魅力はないのが実情だ。

さて、村上さんはアルバイトで得た資金を元に、高校一年から海外を旅し、大学はイギリスに渡り学んだと語っている。15才の日本少女たちは世界でトップの学力をしめし、潜在力が豊だと言われ、23歳ぐらいになると、院卒者数はOECD最低、彼女たちのやる気をそいでしまう国だ。賢明な女性たちに活躍する場を与えない、日本の男性優先社会が未だに続く日本にあって、村上さんは浜松市でどんな愉楽を見つけ、暮らしているのだろうか・・書き進めてみよう。


村上亜沙美さん(辻琢磨さんの奥様)と会う

佐藤は長年、「お前の家は俺の家」と語り、泊まり歩く活動(住経験を積む)をおこなっている。同時に宿泊の返礼だが、家族の肉声を聞き取り誤字だらけのweb記録に仕立てた「ことば悦覧」と称し、web公開している。

スクール・カーストの最上位の建築教育者は、下層民の家に限らず、他者の家を訪れ宿泊することはない。せいぜいビジネスホテル泊だろう。彼らは他者を呼びつけ、大学経過者にしか見えない玉座に座り、建築村の頂にある。その場から「俺様の情報をまき散らせ」と巧妙に圧力をかけ誘う。その頂は、21世紀政治世界に符号する建築人の最終目標でもある。
だから、建築家などと称する者が、居住セーフティーネット法にもとづく、住宅要配慮者を救うための支援活動者とならず、行わず、もっぱらい福祉行政におしつけている。今でも資本主義社会で富を獲得した者や組織から仕事を得ている。900万戸も空き家がある現在も、住居要配慮者の多くは放置され、階層分解は止まらない。建築物の内部での孤立死者は増え続ける予想だ。(世帯の1/3独居世帯だから当然か)。


浜松市に立っ

新型コロナもおさまりかけた2022年9月24日は、前日の台風の通過にともない、東海道新幹線は長時間運休だった。ホームから人が溢れ大混乱した東京駅で4時間ほど待ち、昼頃、始発の新幹線に乗ることができた。東京駅からは4、5時間かかり新大阪駅に着いた。大阪駅から大和路線に乗り換え、法隆寺駅の一つ手前の王寺駅に着いた。そこで、高知工科大学教員の渡辺菊眞さんと合流できたのは、すでに夜だった。

奈良盆地に立つ目的は、渡辺さんの自邸「宙地の間」(体験記へ)に一泊させてもらうことだ。翌日から、大阪圏で聞き取り(HPー2022年参照)活動をおこなった。帰路の10月7日、浜松市に立ち寄ることにしていた。辻琢磨さん・亜沙美さんが暮らす浜松市駅に昼食時に着いた。時折、雨が落る空だった。

浜松駅傍の公共施設で辻琢磨さんと合流し、徒歩10分ほどにある、「みかわや|コトバコ」に着いた。冒頭に引用紹介した、空き店舗の場所だ。村上亜沙美さん、高校時代からの辻琢磨さんの親友である竹山友陽さんに案内していただき、製本づくりのための変形の台を囲み語りだした。佐藤はいつものように「建築家になどならんでいいから、家族を大切にしろ」、と一方的に喋り倒しながら、4ショットをものにした。それが右欄の絵だ。中央に立っている男性が竹山さん、右側の女性がこれから書き進める、村上亜沙美さんである。


名前を挙げるのは控えるが、佐藤は建築家の家に泊まることを努力している。加えて建築家設計の著名な住宅を見学するなどの行為を積極的に実行してもいる、今後もそうするだろう。─一番の長逗留は渡辺豊和さんの自邸に2週間、井口勝文さんの「八賢邸」に1週間やっかいになった─。八賢邸以外はいずれも褒められる人の暮らし場ではない、そういう事態が建築家が提案するものは多い。居心地もさほどよくない。家族全員にも愛されていない。─渡辺さんのお嬢様はお父さんに彼女の家の設計を依頼せず─建築の自邸に踏み込んだ時のあの嫌な感じ、孤独な観念の場に入ると、感じるあれには馴染めない。一般の人は感じないかもしれない。

佐藤は建築家と呼ばれる前、独立初期の1984年にRC造で自邸を建てて、家族と共に福島市で暮らしていた。建築家や建築媒体と関わったのは1990年の半ばで、福島に根付いてから10年以上経っていた。佐藤が中学時分から「建築現場」に携わったことで、生きる目的はRCで家を設計・建造し家族と暮らすことになった。そのことは幸運が重なり33才で実現した。とうぜん建築家に興味がないままだった。─たまたまそういう事になっただけで、えらそうに語りたいのではない。─ そういう体験を持っので建築家が設計する家を相対化し眺め済ませることができるのかもしれない。建築家がつくるのは「観念の家」で、自明だが家族には快適な家ではない。だから興味深いのだ。

東京で始めたばかりの佐藤の知り合いで建築家の卵が、大学教師が所有する超著名建築家の手になる、古建築住宅に呼びつけられ、嫌な思いをさせられたと愚痴っていた。だが彼は建築家幻想を抱いているので、そのことを大きな声で語ることはない。卵となった彼はメディアに取り上げられて承認してもらえると思い込んでいるからだ。SNSなどでマウントとるために、かき集めに参加すると知りつつ、東京から電車賃かけ、時間を浪費し、着いてみれば─当然だが─奥様からお茶の一杯もだされることさえない。妻は不快な顔も隠さない。その出来事は雑誌やSNS用に作られた「若者との親密な交流がもてる建築」としてまき散らされただろう。巧妙な情報操作に、若い建築家卵などは藁をもつかむ思いで乗り入れ、溺死し、自身の家族を悲しませる。一種のお山の大将の遊戯であるから、若者も演じつつ対処する。彼の建築遊戯を拒否し、建築家卵の家族を愛する時間に変えればいいだけだ。「建築家になどならんでいいから、家族を大切にしろ」と言い続けているのだが、最も悪質な交流を無視できず、不幸の連鎖を生み出してしまう。建築家村の一計略だが、付ける薬はない。高卒のひがみ、と吐き捨てられることだろう。が、先に紹介した住居に都市を埋蔵する建築著名人は、都心の仕事場に寝泊りしている、そうだ。─幾度となく聞かされた。─彼は家族など、子供などつくらず、建築教の神に身をささげ独身を貫くべきなのではなかったのか・・・そう思う。

だいぶ話がそれてしまった、卵ではない辻さんの話に戻そう。建築家の路を拓いている辻さんに建築家の卵のような誘いがあるとは思えない。けれど、辻琢磨さんは、村上さんとお子さんの三人で健全な家庭生活を作り続けることは人としての義務だ。浜松市に寄ったのはそうなっているか、2つの目的を持って辻さんの家と暮らしぶりを体験しようと決めたからだ。

繰り返すが、このweb頁は辻さんのパートナーである村上亜沙美さんを掘り下げ記録するために作った。

男性建築家のパートナーの視線から描いた映画を、参照例としてひとつ記しておく。それは映画『アアルト』だ。内容は20世紀男性優先主義者で、そのことに無自覚なアアルトを、妻をはじめ女性の視線に寄り描いている。鑑賞すると21世紀に生きる人々に必要な視線の一つを得ることになる。


村上亜沙美さんの私記と みかわや

村上亜沙美さんとは、みかわやで会う前、彼女からの小包を受け取っていた。2021年4月19日に受け取ったユーパックには、村上さん手製の本、三冊季刊新聞『みかわや』創刊号がはいっていた。「みかわや|コトバコ」を出現させた、改修工事の過程を刻んだ小さな私記が同封されていた。─冒頭は紹介した─村上さんがこの小包を、なぜ佐藤に発送したのか、それを聞いていない。けれども、小包の3点に目を通すと、建築家が成し、自ら越え、到達することが決してできない、発注者にも与えることができない、自主の精神が立ち現れる。人が生き暮らすため、柔軟で倒れない底力の源は、丹念な暮らしかたと、その思いへの強さが継続し続け、ようやく成ることだろう。一読したほうがいいので推しておく。

黄色に黒い文字で印刷された─4頁ではあるが─その紙片は、みかわや|コトバコの誕生そのもの、誰にも注目されることのない、改修にともなう行為によって生まれた浜松の叙事詩である。村上亜沙美さんの人格そのものともいえる。「みかわや」に偶然集う人々の不確かな思いを、代弁しながら振動している。その小さな波動が文字にかわり、読者を待ち受けている。

かすかな詩的息づかいが福島まで伝わってきて、意味もなく恥ずかしい、親密でよい改修記録誌・写真集なのだ。単身世帯が40%に近づき、孤独死が世代分けず増え続けている日本社会にあって、奇跡ともいえる浜松叙事詩を生み出した場だし、今の世にある命が生み出す事態なので、放置すると、いつでも消滅へ向かう可能態でもある。

「みかわや」誕生の浜松叙事詩が刻まれた4頁の紙片と、『街角製本所』とタイトルが印刷された小写真集は共振し合い離れない。そこには村上亜沙美さんのこれまでと、これからへの、強い決意や暮らしの作法が記されていて、他者とも共有できる。そういう改修経過記憶のための継承誌になってもいる。

それらは「みかわや」の場と現物より、遠くにまで長いあいだ伝わっていく。それこそが村上亜沙美さんが「たった一冊でも成る製本の世界」を高らかに響かせている言葉そのもの、形象なのだった。

次に、村上さんが現実に家で持つ本棚について進めよう。


製本の話の前に本棚を比べる

村上亜沙美さんは製本作家なので、本と製本について観ていく必要がある。遠回りし、辻家の本棚(右欄の絵)について観察していこう。辻家の本棚だけでは理解が進まないかもしれないので、佐藤の本棚を併記することで本棚と家の構造を相対化してみたい。
       
(参考資料)
01「403作品巡り 」02 奥様のシェアオフィス 03 辻さんの家で(1) (2) (3)   ■2024・10・22 村上亜沙美さんに聞く 

1986,7年頃 福島県尾瀬の燧ヶ岳山頂で家族写真。

背景は群馬県尾瀬ヶ原至仏山。尾瀬にある燧ヶ岳は東北で最高峰だ。

作図は手書きの世にあって机に座り続け手を動かすだけの田舎・建築士の佐藤ははドアツードアで机に座りつづけ暮らしていた。当然足腰の弱った体で、燧ケ岳登山では家族のなかで最初に顎をあげた。家族の笑い者、伝説になった。


なぜ現在、女性は地元から離れるのか
 ・アンケート調査 @進学仕事の関係 Aは利便性と地元の意識に関わる事
 ・
仕事 希望の職種が見つからない 待遇のいい仕事がない
  希望進学先がない

 ・
女性の場合は日常生活が不便、人間関係に閉塞感がある、
  地域の文化風習が肌に合わない


15才で世界トップの学力を持つ女性たち、大卒、院卒者は17%に減る

    

中央に立っている男性が竹山友陽さん、右側の女性が村上亜沙美さん 
左中央が辻琢磨さん、顔だけが佐藤敏宏 2022年10月7日浜松市内「みかわや|コトバコ」村上製本にて撮影。







絵:左、季刊新聞『みかわや』2021年創刊号。 右上:村上さんによる私記。
右下:『村上製本所』2020年9月1日村上製本刊行、初版50部。



 

初めに佐藤の本棚から紹介し、次に辻家の本棚を観ることにする。

佐藤の自邸 部屋の使い方、その変遷も分かる 自邸2009年作成資料へ
左から地下、1階、2階の本棚の位置をしめす。

地下の本棚。2000年以前に子供が買いためた漫画、妻が買いためた多様な本、佐藤が買いためた建築と他の領域の本多数。過去本のストック場。これだけでは足りないので、隣地を購入したときに付いてきた物置にぶち込んでもいる過去本も多数。

(1階の本棚)以前佐藤の製図部屋だった離れは、ブルーのラインが西欧で暮らす長女の本棚で、現在次男部屋になっている。本棚は長女と次男が共有し、次男の専用の本棚もあるが、部屋にはいらないので本棚の配置は不明。 家人の間の赤いラインが妻用本棚。 (子供が成長するとともに起きた、家族住み方変遷史はまだ書いていない。)
(2階)
本棚
。佐藤が全て使っている本棚各種。
・東側茶色の本棚が家族のアルバム各種と子供たちが義務教育時に書いた原稿や冊子が並んでいる。
・二本の青いラインが建築系、美術・写真集、寺山修司を主に詩集などの希本が多い本棚。
・コの字型のいラインがジャーナリズムに関する書籍、2007年より始めた聞き取り時にいただいた多彩な資料。加え、東日本大震災+福島原発事故関連の本、資料、福島県に関する歴史書。
・オレンジ
のラインが進行中web記録用本棚。
・北面の薄いブルーラインがweb記録作成済み用本棚。(地下や物置に移動予定)

(本棚配列の特徴。)
家族の時間が混在するのを反映し、混在交流する本の配列。離れと地下が家族が過去に利用した本の置き場。2階の赤いラインは原発事故関連本と資料で、この本棚は一般家庭には存在しないだろうし、日々資料が増えつづける。そこに割り込むように建築系博士論文が同置し微増している。



辻家・本棚の特徴

1階本棚
・和室まえ広縁の奥に、村上亜沙美さんの本棚だと思うがこじんまりとある。
・竪穴式辻家の遺品展示室は、思い出の物品が本のように配置され、辻家の過去から現在までの時間が流れ生きていて、一般の家には無い形式と場の構成だ。展示室壁に描かれていた品々が飛び出したように、配置されている。時間を逆に回し見ると分かりやすい。記憶と物が頭の中で行きかう姿そのものが展示されている、と言える。やがて物が絵になり壁に描きこまれることもあるだろう。

2階本棚
・辻琢磨さんが集めた建築系の本が並んでいて、面積と本棚の数は辻家ではもっとも広く多数だ。



佐藤の家の本棚と辻家の本棚を眺めて 

・佐藤の本棚は50年以上家族と共に集めたもので、辻家の本棚のように、家族各位に当て区分けされず、混在している。加えて佐藤の家からはじきだされた本棚もある。

・辻家は互いが家族を運営して日が浅いことと、改修しながら暮らしているためか、村上さんの個室が無いようだ。強いて言えば村上さんの部屋は広縁奥に仮設ふうに本とともに置かれているのかもしれない。改修工事が済んでないので、断定できない。

あるいは、2階寝室内に村上さん専用の書庫があるのかもしれない、が寝室に入ることは断ったので、分からない。

辻家の本棚には、領域分けしてあり、それぞれの家族間にある本棚に対する思いが混在せず、分かれつつ、現れている。今後、3人が必要とする空間の特性が、浸食し合い、混じり合い変化し続けていくなかで、辻家の本棚は成熟していくのだろう。

特筆すべきは、佐藤の家には無い部屋、展示室だ。辻家の先人たちの遺品展示を内包していることで、過去の構成員の長い時間を共有し、本棚や展示室として成長しつつ、設えてある。それらの物が紙の上の情報に変わるまでは時間を要するだろう。だから展示室はこれからも変化し続けるだろう。

展示室がどこで変化を止め、理解共有できる辻家の思が立ち上り、可視化と他者と体験・共有は可能となるはずだ。しかし今は佐藤にはその姿を想像できない。


(人々の暮らす家の中に本棚がどのように配列されているのか、家族の本棚史、それを研究し続けると、村上さんとは異なる人々の本への思いが解明できそうだ)

 


 佐藤の家2階の原発事故・資料コーナ


  
左:1階広縁奥、村上亜沙美さんの本棚。右:2階2間をぶち抜く辻琢磨さんの本棚


辻家、1階にある竪穴式形状の間
 壁周囲に代々の遺品が展示されている展示室は大きな特徴となっている。





 ■村上さんが目指し、手に入れた村上製本


前書きが長くなったがここからは製本と本の歴史について、その後、「村上製本」について思いを巡らせてみたい。基礎情報は2024年10月22日村上亜沙美さんに聞くことによって得ている。 

村上さんは書物の少ない、読書もさほどしない地域で生まれたそうだ。彼女は小学1年になり学校にある図書室の偉人伝集に出会い、本の魅力にとりつかれてしまった、そう語っている。本を愛好する人が少ない、町や高校だったそうで、リクエストすると希望の本を開くことが出来たそうだ。大学からは本づくりを外国で学ぼう、と心に決める強い信念をもった女子高生へと成長していく。

日本国を脱出し、旅し学ぶ。その資金は、高校で禁じられていたアルバイトで得たという。現実を大胆に渡り歩く強さと行動力をもった女性となり、本への思いを一歩一歩、実行している。高校時分にはアメリカ、オーストラリア、イギリスの現場に立ち、実の外国を身をもって体験し、本づくりの勉強の場をイギリスの大学とさだめ、そこで就学し基本から身に付けた。

イギリスに渡り、本づくりを学んだことは村上さんの人生、進む道を決めることによって、確かな道となり、日々本作りのための彼女だけの小さな道づくりに励むことになった。現在の過剰な情報下で育つ、女子校生のことは分からないけれど、当時なら日本では希な能動的女性として成長したといえる。小学一年生で魅せられ、そこで沸き立った強い意志で、「本」、そこから派生する本作りの世界の扉を開いた。

「希」といえる、村上さんが本に対し持ち続けた長い年月強い意志を確認すればこの記録は十分だ。

しかし強い意志だろうが、純粋な本作りへの思いを持とうが、世俗はなにかと面倒だし、他者はやかましいものだ。
結婚を機に転居し浜松市に設けた街角製本所にも、野次馬が現れた。横車を押し本づくりの道を荒らし帰ったという。本作りの私的道を荒らされても、村上さんは「みかわや|コトバコ」を手に入れた、あの叙事詩的手順をもって、浜松市内の野郎どもが荒して去る、悪路化した本作りの道を整備し続けるだろう。

村上さんの手によって整備された本づくりの路を歩む者は少ないだろうが皆無ではない。そこでここからは「身近な手作り本本の歴史」を振り返っていこう。

    

ChatGPTが描く小学校の図書室      偉人伝の一部背表紙
 
本来の本に押し寄せる資本主義の害


本を作りたいと思っても、本を作る人は少ない。本を作って販売して生活を支えようとする人は多数いる。と言っても江戸期に起きた木版による印刷が、本・印刷物を売る人々=書店屋を生み出したような気がする。それ以前、本は、市民とは無縁で、気軽に売り買いする物品ではなかっただろう。きわめて権力上位の者たちが持つツールで、巻物や襖絵、そして仏像そのものだったろう。本の歴史は後段で確認することにするが都市化と本の出現は同義だ。

(手作り本)

今は後期資本主義が地球を覆う世だ。さらに人口減少が加速する日本にあっては、紙媒体を使った「本」の需要は勢いがなくなり、特殊な品物の一つとなるだろう。本は消えてしまうことはないが、一般民が日々情報を得るためには紙媒体から電子媒体に置き換わっていく、移行期であることは周知の事実だ。

そのうえ電子媒体による情報は、宇宙から見下ろす多数の衛星で得た─気象に関する、潮流、雲の流れ、気圧の高低など─、AIを用い統合された情報となり、人々や企業活動にとって有効で、幾重にも情報に加工され配信されている。現状の本はタイムラグがありすぎるから、災害現場などに必要な情報媒体としては適さない。電子化し瞬時に配信せざるを得ない。メディアリテラシーの問題を身につけ家族を守ることが求められる、そういう社会に生きている。

企業活動から人々の行動、軍事作戦にまで広く、瞬時に加工・転用・配信されることで、紙媒体が起こす功罪とは比較にならぬほどの益と害を人々の暮らしにもたらし続ける。

さらに、地下深くの情報にあっては振動解析とIAを併用することで、岩盤の強弱と地層の歴史が可視化され、地震の多い日本列島の家づくり、都市づくりを含む社会整備のための基盤づくりに革命的変化をもたらすだろう。

身体内の異変については、現在は医療領域が分断されたままで、事務手続きのIT統合はすこし始まっているものの、それらの情報を病院や医師どうしで共有する段階には至っていない。やがて全ての医療領域が情報化され統合、AIよって一人一人の予防医学の効率化とし社会に定着することだろう。

個人の身体にかかわる情報の統合によって「」という概念は、変容し続けて無くなる。個に関する情報が統合され、いつでも取り出し可能となるだろうからだ。現在はバーチャル故有名人がTVモニターに現れる段階だが、やがて三次元空間にも出現させることが普及する。そのことが安価で故人情報をふくむ人とのコミュニケーション媒体となることだろう。だから、やがて個の精神の死は永遠になくなる。(家に個人史展示物を置かずとも)だからいつでも未来の人は、過去の人と交流し続け、生きることが可能となり、「生」の概念も変容する。(途中段階での問題をえがいた平野啓一郎著『本心』など参照)

文字のデジタル情報化が加速する世において。個の短い生のなかにあっても、身の回りの世はいつでも深化(進化)移行期である、そう捉えたい。その事態は皆が認識できるようになったかもしれない。が過去と現在は交流することで過去は限りなく現在に浸み込み、時間の概念も変化している。同時にモノの交換において貨幣を介在する社会は善し悪しを越え、分解され激しく変り続けるだろう。

死の概念が変わった社会において、死体や人体は人間にどのような意味をもつのだろうか。手触り、他者の体温、息の揺らぎ、体臭、汗、そして、他者が存在すれば人はそこを覆い占拠することができないなど、物としての人間が見直されい、恋人どうしが身体をとおして存在を確かめ合うように、人の存在をいとおしむ世は訪れるだろう。

手作り本と、電子情報の本もどうような差異が自覚されることだろう。そこで身の回りにある「手作りの本」を再度確かめておきたい。

    
 本心予告編 
  

■ 村上さんの本づくり

村上さんが自室から始めた村上製本所の行為は、売ることと作る行為の境界が無い独立し存在する人間のように、一品に限りなく近づく行為も愛おしみながら成り立っている。その点は資本主義の社会において、多くの人が携わる「本づくり」とは異なっている。
個人、一回限りの生を、あるいは家族のそれを記録し保存継承するための、手作り本に近づくように感じる。辻家から生まれ出た、あの家にしか出現することがない、あの展示室に似ていて、村上さんの存在と辻家展示室は、やがて共振しあうだろう。他者が介在することで、それらを語ることはできない。自らが紡ぎだし意味を他者に語ることで、始まる。

佐藤の家は、各部屋を機能分解させず一体で身体と臓器のような関係なので、他者と食物を共有するように、場もだらしなく繋がり、暮らすことが可能な構成にしてある。だから家の記憶を保全展示する建築形式をまとうことはなく、人が入れ替え可能な場を求める資本主義の影響下にある家と言える。しかしあまりに特殊解なので、市場での取引は成立しない。で、資本主義の影響下にあると言うと多少の誤りを含んでしまう。

とは書いたものの、保存されている本を観ると、我が家にも、世界に一冊しかない手作り本があるので紹介しよう。妻が中高生の時に手作り製本した『思い出─かるいさわ』、『古都を訪ねて』。右の一冊、『アドリブ帖』は佐藤が朝日新聞福島支局の依頼で一年、挿絵を書いたことがある、その50本ほどの記事紙面を、友人たちが和紙に別印刷し綴じた手作り本だ。 

村上亜沙美さんの語りから引用すると、製本を手作り一冊本に近づけ、想うと理解しやすい。所有者が長年愛読し身体の一部と化し、その身体の綴り、あるいは本と認識し、その本を修理製本する支援行為だと受け止めていい。医療あるいは整形外科医的行為だろう。紙に載った文字情報を拡散し、お金を手に入れることは、村上さんの製本の基本的な目的を忠実に実現すればするほど、資本主義の行為から外れていく。あるいはその点が崩れ曖昧になる、けれど、いとおしいというアンビバレントな行為である。

今後、村上さんの展開は鮮明になっていくと思うので、ここまでのまとめは村上さんが本づくりのために「みかわや|コトバコ」に村上製本本所を開設した事実と村上製本所誕生叙事詩の冊子3冊を注視しておきたい。



 

 ■手作りの唯一、本を手作り、建築の手作り

村上亜沙美さんは手作りで一冊だけの本づくりを目指しているわけではない。理解しやすくするために、世に一つしかない手作り建築を眺めつつ「手作り唯一」について触れておく。

岡さんによる手作り建築)

岡啓介さんに会ったのは、五十嵐太郎さんに誘われ「高山建築学校」に参加した時だった。高山の傾斜地にある木造2階建てのもと住宅建築で合宿をし、「建築」について議論し周囲の敷地に手作り品を残す行為の場であった。その高山学校で学生たちの世話をしていた一人が、型枠大工であり、身体表現者の岡さんだった。
港区三田に自邸の手作り計画案を、名の通ったコンテストに出品し、入賞した年だった。高山建築学校で教えたり、出品したりする動機を想像すると、手作り一品建築案に一般社会の商行為に含まれる建築造りに横たわるギャップ、というか錯誤の大きさに参加学生は戸惑っただろう。あれから20年が経ち、岡さんの手作り一品建築は完成し、SNS投稿などで話題になっている。

佐藤の家もコンクリート一品建築であるが、手作りせず、建設会社に請け負ってもらい、完成させた。岡さんはコンクリートも手練りなのだろうか、それは知らない。岡の型枠大工の技をもって、思いの形に造形しつづけたようだ。窓ガラスも手づくりではないだろう。設備機器や電気設備工事も手作りではないだろう。だが話題に登るのはなぜだろうか。

右の絵はSNSに落ちていた岡さん建築である。背景になっている高層ビルの外装と、岡さん建築の外装を比較すると面白い。工業製品と手打ち型枠コンクリート板の違いだけだ。岡さんの建築も近代建築に倣って豆腐のような全体をもち、表面は平板の組み合わせで凸凹を造作する。安藤建築のような外観にもできただろう。岡さんは形にこだわっているのかもしれない、凸凹した外壁、開口部も不定形。たぶん内部も同様に床以外は凸凹不定形に出来ているんだろう。横穴洞窟の内部に近づいているかもしれない。だからと言って工業製品を使わずに完成に至ったわけではない。
建築を造るための素材の入手、その素材を三田の現場まで運搬、それらは現在の工業化の合理化された製品と技術を使っているのだから、手作り一品建築も近代の経済システムから逃れているとは言えない。三田の建築づくりを、岡の一回性を求める身体表現と捉え観察すべきだと思う。

一方、イーロンマスクの提案する一万ドルハウスは、資本主義社会におけるあらゆる技術を統合し、安価に快適な住宅を提供する試みで、人口が減り続け空き家が900万個を超え増え続ける日本では売れない。が、人口が密集するスラム的都市の住宅づくり対応に力を発揮することは疑いようがない。

一つの情報を載せる、一つの紙媒体の本、一つの建築、それら手作りの地平は現代における地球規模の困難を解決するための、手法ではないことは明らかだ。

そこで本が生まれる歴史を振り返っておきたい。

   
 港区三田にある岡さんの家と高層ビル。絵はネットから。



手作り 本づくりの歴史 

電子媒体も紙媒体も、文字や絵が掲載され情報とすると人は欲する。本やPCやスマフォなどと、掲載された内容(情報)の仕分け、制作過程などが混然一体となり曖昧に、「本」=「言葉・情報」と語られることが多い。現在、本を作ることは、多量に生産され続ける情報を整理し伝え、販売するため、紙などに印刷し、流通システムに載せるための物だ。「本を作る」とはそれを指すことだし意味する。

世紀をまたぎ物としての本が電子媒体に置き換わり、急速にwebを介し拡大し、情報を蓄える、サーバーも巨大な場を占め、多量な電力を消費し続ける現代の本と言える。

そこで電子媒体の本を体験する姿が変わるか、と。消費者は本を求めるものではなく、紙媒体に載る情報・言葉としての感情の揺らぎや、同様に書き込まれた絵やグラフなどを手にいれ、暮らしに必要な情報を手に入れようとするのが大半なんだと分かる。主権者の一票を立候補者に投票する、その行為もSNSから得た情報を元におこなう。紙媒体を丹念に読みこんで投票行動に結びつけはしない。

SNSからあふれる多量の情報を浴び続けるだけで、人は本の歴史、本を作る技術や紙の製造方法、本の流通過程などには興味がむかない。まして、手作りの本を作り、人生を楽しむ一つの行為を自覚することなど、思いも至らない。


村上さんの本づくり

村上亜沙美さんが指向する手作りの本は、「本」と心身の一体化を生きる、それを想っている。本づくりを介し、作る行為。手作りされた本を所有する行為、さらに本と文字(精神)の関係に思いを馳せ、再考することで村上さん自身の生活の質を拓き〈耕作)つづけようとしているのだろう。

そこで、簡単におさらいした後、村上さんの本づくりについてまとめよう。

粗く、人と本づくりの歴史のあらましを見よう。福島県立図書館には、『本の五千年史人間とのかかわりのなかで』(1989年刊行)予想外だったが、この本しか無かった。章だけ抜き書きしてみよう

 序章書物とわれら
 1章初めに言葉ありき
 2章文字の発生
 3章写本の材料
 4章紙の到来
 5章印刷以前の書物
 6章木版印刷の発明
 7章活版印刷の発明
 8章洋式活版印刷の発明
 9章印刷技術の伝播
10章造本の進歩
11章日本の出版文化(一)
12章日本の出版文化(二)
13章書物の将来
 あとがき
印刷物としての本から逃れていないので感想は書かない。次に、言葉についてすこしみておこう。
   

ChatGPTによる本の歴史

1. 古代の製本(巻物時代)
書物の最古の形態は、粘土板、パピルス、木版、竹簡などでした。
紀元前3,000年ごろ、エジプトでパピルスの巻物が広まりました。これが古代の主要な書物の形態でした。ローマ帝国期には、巻物(ロール型)が標準的でしたが、次第に扱いやすいコデックス(冊子状の書物)が登場しました。

2. 中世ヨーロッパの製本
**コデックス(codex)**は、羊皮紙やパーチメントを使った冊子形式で、今日の本の原型です。手書きの写本(Manuscript)は、中世の修道院で制作され、多くは宗教的な内容でした。表紙は木製で、革で覆われ、金属装飾が施されることもありました。背の縫製技術(糸で束を結び綴じる方法)が発達しまた。

3. 印刷術の発明と製本の進化(15世紀以降)
15世紀のグーテンベルクによる活版印刷の発明で、大量生産が可能になり、製本の需要が急増しました。本の表紙には、紙や布、革が使用されるようになり、より軽量で機能的なデザインが一般化しました。

背綴じの発展:
背に糊を使い、耐久性を高める技術が広まりました。
16世紀以降、表紙のデザインが多様化しました(箔押しや装飾的な模様など)。
4. 近代製本(19世紀〜20世紀)
産業革命により、製本工程が機械化されました。
**上製本(ハードカバー)と並製本(ペーパーバック)**が一般的に。
接着製本が普及し、糸ではなく接着剤で束を固定する方法が広まりました。
本の装丁が重要視され、芸術性の高いデザインや装飾が行われました。

5. 現代の製本
現在は、デジタル技術の進化により、オンデマンド印刷や電子書籍の普及が進んでいます。
製本にはさまざまな種類があります:PUR製本(高強度の接着剤を使う)無線綴じ(糸やホチキスを使わない)中綴じ(ホチキスを使う)
エコ製本や再生素材を活用した環境に配慮した製本も注目されています。

日本における製本の歴史
奈良時代には、仏典を記録するために巻子(かんす、巻物)形式が一般的でした。
平安時代以降、折本(おりほん)や帖装(じょうそう)と呼ばれる、現在の本に近い形態が登場しました。江戸時代には、和綴じ(糸で綴じる技術)が普及し、庶民にも書物が広まりました。明治時代には西洋式製本技術が導入され、現在の製本技術の基礎となっています。


「言葉」がどこでどのように発生したのかは不明だ。養老孟司著書には視覚と音の統合によって文字が生まれたと書いてあったように記憶する。山極寿一さんは講演(記録は佐藤がまとめた)で、人間の集団は150人ほどが基本となると語っていた。その集団がそれぞれ言葉を発明しくらしたので、地上には多数の言葉があるのは周知のことだ。
文字はどこでどのように発生したのかは、遺物が発掘されるなどしてある程度分かる。壁画や絵文字を描いたり、絵文字にするのは手間がかかるので現代では文字と写真に代わっている。でもそれらの役割はほとんど変わっていない。

辻家にある展示室のように、壁画には暮らした人々の記憶する遺品が一体となることもある。豊橋にある故・川合健司さんが建てた横穴式住居には壁画が描かれていない。それは工業製品を最大限いかした住居だからで、辻家のように記憶を継承するための居住形式ではないからだ。

4万年以上前のスペインの北部海岸サンタデル州。そこにある後期石器時代末期のアルタミラ洞窟で発見された壁画には、トナカイ、野牛、マンモス、アナグマ、トラ、駝鳥などが描かれているという。壁にトナカイや野牛など、生きた獲物を展示保存することは腐るから叶わず、壁画に置き換えたのだろう。アンコールワットには文字ではなく石壁に王の足跡が刻まれていて、文字や言葉を知らずとも、統治者の偉大さ、権力の様を教える。

辻家と、アルタミラの壁画に共通する点は、人の記憶・継承に貢献するためと受け止めれば、浜北原人(アルタミラ人)と辻家の人々の思いは共通すると、受け止めたい。それが数万年変わることがない人が抱く思いだからだ。壁画は子供が描く絵手紙ににていて、地球規模で意味を共有する力をもっている。

しかし、絵手紙が文字記録に変わった瞬間に、文字は統治者が権力を保持するためのツールになり、長年木簡、あるいは巻物としての書籍となったのだろう。だから文字で学ぶことは統治者の思いが裏貼りされている。その点に気づいて文字を使い、対話しなければならないことは、自明だ。私的言語を使い対話が成立するのは親密な親子、あるいは恋人同士に限られてしまうだろう。

文字は物や人間の身体が発する情報をもれなく記述することは不可能なので、その限界を知り、使い対話をつづけないと、いさかいの原因になってしまう。文字は便利だけれど危険なことは、グーテンベルグの発明によってなされた印刷物(聖書)が、西欧の宗教改革を起こし、新教と旧教の対立を生み、現在に至る。そのことを知っている者には同意してもらえるだろう。

   アルタミラ壁画に関する動画


文字に関する簡単な動画

「スズセイ印刷」と村上亜沙美さん

辻琢磨入門─村上亜沙美篇をかくために、10月22日オンラインで語り合った(村上亜沙美さんに聞く)。そのことに触発されたのだと思うが、11月3日にとどいたクリップポストには季刊新聞「みかわや」7号8号と、赤い蟹が右隅に印刷された黄色の封筒に入った手紙がとどいた。村上製本がスズセイ印刷所で刷った便箋に鉛筆で書いた手紙だったので、手作りは強まっていた。

新聞「みかわや」8号、2023年冬号は4頁、すべて「スズセイ印刷」に関する記事で埋め尽くされている。編集者は竹山友陽から出路優亮・柳本茉希に代わり、デザインは村上亜沙美さんである。QRコードもついていて、かざすと「みかわや notoへ」に飛んでいくことができる。もちろん手作り製本に愛着をもつ村上さんは、自身のお洒落なHPを開設している。

村上製本を営む、村上さんが「みかわや|コトバコ」を改修し、あの場を拓いた。その中に村上製本所を開所したことは紹介した。しかし新聞「みかわや」8号には、村上さんと鈴木考次郎さんの出会いの詳細は記してはいない。想像するのだが、鈴木さんが村上製本所をふらりと訪ねたことで、二人の交流がはじまり、村上さんがスズセイ印刷の奥深くに立ち入り、印刷や製本を始めた、そのことは推測できる。

鈴木幸次郎さんと村上さんが出会うまでに3年かかったと、村上さんが「まちと製本」で書いている。村上さん自身が道ゆく人を観察している、その視点をもつまで3年かかったという。「三河屋」と「みかわや|コトバコ」に改修するために2009年12月から2020年8月まで掛かったと同様、浜松市の一角を村上さんの生きる町に読み替えるまで3年かかったということだ。

改修工事も鈴木さんとの出会いも、村上さんが浜松市に立つことがなければ無かったことだ。村上さんにとっては、無縁の台地をすこしずっ、村上さんの速度で拓きながら村上さんの町にし始めているわけだ。

村上さんが「スズセイ印刷」で手にしたことは、村上さんの若いときからの行動の必然だ。

現在の高速で多量の情報が行き交うネット空間に包まれた地上の営み同様、それらの行きつく先はだれも観ていない。イーロンマスクのように世界中の富をあつめ、やりたい放題が新自由主義者と資本主義が合体した人間の欲望だろう。彼らは資本主義の頂点に立ち、国家の行動も左右しようとしているのだが、彼の出現によって、対立が激化して争い続ける世になるのか、貧しい人々も救われる時空を保証する社会が生まれようとしているのか、もうすこし観察を続けなければ分からない。

意図せざるも、村上亜沙美さんは現況に抗い耕し続けたことで、スズセイ印刷の歴史に入りこみ、村上製本のノートをそこで製本してしまった。が、辻家の中にある家族史の展示空間で暮らしていることと同様、印刷と製本の歴史をもつスズセイ印刷において、村上さんが暮らしを営むことに祖語はない。二つのことなる場の共振を自覚することによって、村上さんの人生は変り、豊かになるだろう。そこでようやくクラシカルな人間(村上さん)は不要だったのか、その問の回答を村上さん自身が示すだろう。

浜北原人の暮らした豊かな台地、その浜松市に暮らし現在の浜松原人に成長しながら、多くの他者に幸いをもたらす、唯一の存在となる。それこそが村上亜沙美さんが求めてきた彼女自身の生きた姿だ。


 
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 法人番号8080401002547 法人名スズセイ印刷株式会社(閉鎖)
本店所在地静岡県浜松市中区北田町128番地の10
登記記録の閉鎖等年月日2022年10月25日(鈴木考次郎)