2022/9/24 渡辺菊眞さん設計 宙地の間1泊体験記 @奈良県 | 作成:佐藤敏宏2022・11・4 | ||
■ 目次 1)はじめに 2)1991年、筆者が体験した菊眞さんの実家建築 3)宙地の間について(主に立地、周囲との関係 配置計画 平面など) 4)宙地の間の断面などを観る 5)まとめ |
|||
2022年9月25日 宙地の間を南東より観る 竣工2015年@奈良県内 |
|||
1)はじめに 2022年9月24日渡辺菊眞さんの自邸である宙地の間(そらちのま 2015年竣工)に一泊体験させていただくことが叶った。体験中に思い巡ったことを記しておく。筆者は20年ほど前まで建築設計を生業としていことはあったが現在は関わっていない。加えて「建築学」を学んだことがない門外漢の体験記であるから、はじめに無礼な点もあることをお伝えしておきたい。 (渡辺菊眞さんは渡辺豊和さんの次男) 大島哲蔵さん 渡辺菊眞さんと筆者は20才の年の差がある。さらに生まれた地は福島市と奈良県の隔たりもある。だが30数年前から顔見知りである。ふたりの友人である故・大島哲蔵さんは大阪市内・天満橋の北たもとにあるビルの2階に洋書店を開いた。天満橋付近は近世期には天満青物市と称される青物の卸元売り市場があった地で、昔も今も変わらぬ賑わいが続いてる大阪らしい土地柄である。大島さんは洋書店に若者を集めては翻訳会を催したり、世界のアクチャルな美術状況も解説をまじえ教え伝え常に若者に刺激を与え続けた、今大阪には居ない貴重な建築若者を支援する存在であった。 筆者は1990年代後半は大島さんが支援していた大阪市内で開く建築フォーラムの講師として呼ばており、その機会には大島さんの実家やフォーラムに参集している友人たちの家に押しかけては「お前の家は俺の家だ」と言い放ち、彼らの家々に強引に泊めてもらっていた。強引な振る舞いには理由があり大阪で暮している若者の棲み処を観察させていただいきながら大阪の実態を体感することを目的としてた。もちろん大島さんの洋書店の床にもごろ寝をして夜明けまで語り合った。 何の機会だったか忘れたが、大島さんが経営する洋書店・スクウォッターに菊眞さんが居て3人で呑み始め、深夜になるにつれ酔いが深まり床に段ボール敷きゴロ、菊眞さんとともに一泊させていただいていたことも思い出す。当時、菊眞さんは結婚され京大博士課程に在学中であったが、終電を逃し床にごろ寝したわけだ。家族を放置したかのように菊眞さんが連絡せず好き勝手に行動する人なんだ、と思ったものだ。 2015年竣工したという菊眞さんの自邸である「宙地の間(そらちのま)」を一泊体験することを目的に、2022年9月24日に台風に襲われた新幹線は遅れに遅れた。ようしゃく奈良に夕方到着した。一泊させていただきあれこれ語り合いながら奈良県産の地酒を呑んだ。その時、体感したり想像したりしたことと、父親である渡辺豊和さんとの関係を思い起こしながら体験記をすすめることにする。 菊眞さんと最初にすれ違った家 さて菊眞さんとの関係の始まりから進めよう。1951年福島市内で生まれた筆者が、20才年下、1971年奈良県に生まれた渡辺菊眞さんとなぜ交流しているのだろうと思うので、その訳を簡単に記しておこう。 渡辺菊眞さんは渡辺豊和さんの次男である。渡辺豊和さんは記すまでもないだろうが、龍神村民体育館で建築学会賞受賞もされている著名な建築家である。村民体育館を造るにあったって、建築基準法では軒高9m以上の大きな木造建築は造ることができなかったのだが、建築センターに数年通い続け、とうとう基準法上は造ることができなかった巨大木造建築造ってしまった。そうして建築基準法を変えてしまったわけで、そのような事をしでかす建築家は居ないし今後も現れないだろう。いわば唯一の凄腕建築家なのであるが、建築基準法を変えた事実を知る建築界の人に、出会わないのはどうしたことだろう。 (渡辺豊和さんの1977年自邸・餓鬼舎をベースに初期建築を巡礼) 筆者は1991年秋、筆者は田原本にある渡辺豊和さんの自邸に2週間ほど泊めていただき、そこをベースに渡辺豊和さんの初期建築から学会賞受賞作まで巡礼した。菊眞さんとはその機会に会話をえることはなかったのだが、京都大学に入学したての菊眞さんと実家の居間ですれ違った記憶はある。だから31年間前から知り合いということになる。 参考までに日本の経済バブルが破綻が明らかになった1991年9月、筆者が渡辺さんの建築巡礼を対象とした建築の名を列挙しておく。1974年・吉岡医院(1+1/2)、1977年・餓鬼舎、杉山邸(遺跡住居)1982年・西脇市立古窯陶芸館、戸口邸(おっぱいハウス)、舟丘に登る(住宅)、飛龍館(民宿) 1987年・龍神村民体育館、ウッディパル余呉、地球庵(住宅)、1991年・竣工なったばかりの豊玉町文化の郷などだ。 巡礼していると発注者や管理者にお会いすることになる。数十年経った渡辺建築にて多種多様な意見を聞くことになってしまった。それらの内容はここでは省略しておく。巡礼から戻るたびにそれぞれの建築について忌憚のない感想を渡辺豊和さんに伝え続けたが、渡辺豊和さんから叱られたことはなく、酒を呑みながら喜んでいた。 巡礼は当時はたんに秋田出身の一人建築家の暮らしぶりと、彼が手に入れた数々の初期建築を知るための道程だった。今、振り返ると一人の建築家に焦点をしぼり、彼の自邸に寝泊りし、彼のつくりだした建築を巡礼する依頼者の苦言を受け取りなだめたりする・・・大変貴重な体験をしていたと思うのである。また大胆にして貴重な体験と言えるだろう建築を依頼した家族や建築関係者に出会いあれこれ語り続ける、そのような建築における贅沢な体験をもつ者に会ったこともない。無礼とも言えるがなぜか分らないが、さんざん苦言を聞かされたあげく、渡辺豊和さんに設計依頼者である画家の杉山さんという方には、とうとうお酒とお寿司つきの宴を開いてもらう始末にもなった。そんなことも思い出す。 |
宙地の間ー日時計のあるパッシブハウスpdf 故・大島哲蔵さん 2022年9月天満橋から中の島を見る 1・1・2 断面模型 ★渡辺豊和さん初期建築についての語り録 2001年11月25日 講師:渡辺豊和さん 筆者が開いた「建築あそび」講演録 建築あそび参加者の要望により奈良県にお住まいの建築家渡辺豊和さんをお招きして建築あそびを開きました。朝5時ごろご自宅を出発なされ、大阪空港を8時30分ごろ飛び立ち、福島空港には9時30分頃着陸なされました。飛行場までお向かいに上がりましたが、元気なご様子に一安心でした。建築界のリポビタン男の面目躍如です。我が家に着いたのは12時ごろでした。少々休憩して、早速講演に入り・・・・12時間も !(^^)! つづきました・・ その一部の記録です・・ |
||
2)1991年9月、筆者が体験した菊眞さんの実家建築 (竣工1977年) (二つの建築が同置している場) 人は一生の間、多数の住宅を体験し生を終えるであろうが、体験してきた空間からどのような影響を受けているのか、そのことは建築学徒の方々によって十分研究され解明されていないと思う。だが、私の知るところでは京都大学の柳沢究先生が、水沢あかね先生、池尻隆史先生とともに、2019年末『住経験インタビューのすすめ』を刊行されたことで全国の大学へ住経験を聞き取り記録しようとする活動の波紋が広がりだしている。その結果どのような住経験報告と研究成果がもたらさせるのか、十数年の研究蓄積を待たなければ明らかにならないだろう。じっと待つことにしたい。 そこで、渡辺菊眞さんが生まれ20年ほどの間に経験したはずの実家に建っている二つの建築、菊眞さんが体験しいたであろう建築について考えてみたい。書き進めることで人を惑わす内容になってしまうかも知れないから、事前に断っておく、あくまでも私の推測である。 右にスケッチした図はオレンジ色の部分が渡辺豊和さんが奈良県磯城郡田原本に1966年ごろ建てた菊眞さんの生家である。便宜上、オレンジ色の部分を渡辺豊和さん初期住宅と名付けておく。 菊眞さんは1971年生まれだから、1971年以前に渡辺豊和さん初期住宅はすでに建っていたと推測できる(1966年完成らしい)。初期住宅は木造2階建の片流れ屋根で平凡である。両親と子供3人が暮らした場合、子供たちが成長するごとに家族間に問題が発生するは予想できる。そのような小さく平凡なプランをもつ住宅である。(脱衣所だってない) 推測を裏付けるように、青色部分が1977年に鉄筋コンクリート造で増築される。増築部分は「餓鬼舎 がきのや」と名付けられた特徴的な横穴建築である。名が示すように「餓鬼」3人たちが暮す廊下あるいは通路状が直角に曲がった空間である。その空間には他者が驚くかもしれない、設えが隠されている。それは最奥(●印の位置)突き当りにコンクリートの丸い柱がドカーンと突っ立っている奇妙さで、建築家による建築空間らしい特徴を備えつつ、餓鬼舎を訪れた者を特異な位相へ誘う仕掛けとなり建築を強く印象づける設えにもなっている。 渡辺豊和さん初期住宅と餓鬼舎を対比し建築について考える事は、建築家自身の建築に対する変容と思考の変遷を読み解くことになる十分の事例であると思う。そこですこし紐解いてみたい。 (勝手に読み解きます、渡辺豊和さん自邸敷地内に造られた二つの建築) ・餓鬼舎は建築編集者を幻惑するための建築 渡辺豊和さん初期住宅と餓鬼舎については「渡辺菊眞建築展」体験記04」でふれたが再度振りかえっておく。 色のついた部分は『文象先生のころ毛綱もんちゃんのころ』2006年8月刊行(p29より)の書き写しだ。 (右書影と柱の写真は同書より) 渡辺豊和さん初期住宅を造り住んでから10年ほど、とあるので1967年頃に造られたのだろう。「10年経って子供が3人になり物置がほしいと言われ、幅1.8m長さ20mの廊下型住居をつくった・・」とある。さらに、このようにも語っている「木造18坪はRIA調ではあって稚拙そのもの。・・・そこで増築部分はこれとはまったく対照的に幻想に富かつ非日常な空間にしようとした。」(「RIA」とは渡辺豊和さんがかって勤めた山口文象らが起こした建築設計協同協働組織だそうだ) 「幻想に富みかつ非日常な空間」にしようと挑み、成功したと語られているのだが、日常生活を営むための物置の増築をもとめた家族にとっては、呆れてしまうほどの閉塞的な空間だったろう、と思う。建築家の欲望がうみだす建築は、他者へ向かう暴力性もふくむが、そのことを家族はどこまで耐えたのだろうか?それを判断する建築的定規にもなっている。 筆者自身は「建築は日常的な利便性を兼ね備える必要はない」と考える、その一人である。が、快適な住空間を求めていたはずの、大人以前の渡辺豊和さんの3人のお子さんたちにとって、餓鬼舎はどのような建築だったのだろうか。その答えは渡辺菊眞さんの自邸「宙地の間」を訪ねずとも推しはかることは容易であろう。 では、渡辺豊和さんは儀式の場でもあるかのような「幻想に富み非日常な空間」を餓鬼舎に求め、実現してしまった・・・建築家の欲望が湧いたのはなぜだろうか。 『文象先生のころ、毛綱もんちゃんのころ』P29によると「稚拙凡庸だった、渡辺豊和初期住宅とは対照的に増築部分は、初期当代一流の『都市住宅』編集長の植田実さんを幻惑してみたかった」とある。 奥さまからは物置をもとめられた餓鬼舎だったが、設計者の当人は建築編集者を幻惑する建築空間にしてしまった、と正直に語っている。この逸脱する心、建築家の欲望を激烈にもってしまった渡辺豊和さんは、1980代から2000年代まで長い間、世をあっと驚かせ続ける巨大な建築を日本列島の上に実現した。建築界の人々さえも目を背け、陰口をたたく建築人の姿を、その言動に触れる機会が多くあった筆者であるが、建築家の欲望と世間のズレ、あるいは溝を観察するには十分な事例であった。そのように幻惑あるいは驚嘆させ続ける渡辺豊和的建築は、一層磨き上げられ実現しつづけ、幻惑と驚嘆を得意技とし続ける建築家として、世にも稀有な存在となっていった。 最晩年には渡辺豊和さんの驚嘆建築の軌跡からは想像を絶するだろう、シンプルで古楽器のなかに入ったのだと感じ入る「現代磐座(いわくら)」を宮城県白石市内の採石場に実現している。現代磐座の所有者に聞き取りしたが、彼は「秘仏的存在である安易に他者に見せることはない」と語っている。所有者のそのような決意は現代磐座を菊眞さんと共に体験した筆者には十分すぎるほど理解できる言葉であった。現代磐座が一般の人に目を触れる機会は限られているのは残念である。偉そうに・・と思われる方もいようが、現代磐座の存在はそれでいいのであると筆者も思う。 |
1967年前後の菊眞さんの実家平面概略図 上が北 オレンジ色:渡辺豊和さん初期自邸 水色:餓鬼舎1977年 2006年8月1日刊行 1983年9月30日刊行 |
||
動画:2021年11月20日快晴 渡辺菊眞さんと訪ねた 現代イワクラ 西門より |
|||
(初期住宅と餓鬼舎にある大きな断絶と そこへ至思考にあるだろう巨大な溝) 菊眞さんの実家の二つの建築の間には、10年間ほどの時間が横たわっているようだ。その間、渡辺豊和さんの身の上、あるいは建築思考術において何がおきていたのだろうか。 1971年2月2日に渡辺豊和さんによって刊行された『現代建築様式論』によると、田原本に「渡辺豊和アトリエ」を開設しつつ、都市問題経営研究所員として都市再開発計画に参加、とある。都市計画の仕事をしつつ、建築の実現を待ち構えていたのだろう。 1977年、吉岡医院(1・1/2)を竣工させ、第二作目の受注が「仮面の家」だという。その当時の渡辺豊和さんの心境はどのようなものだったのだろうか。2000年11月25日筆者の家で開いた「建築あそび」での講義のなかで、渡辺豊和さんは以下のような灰色背景に示す語りで苦境を吐露している。 これが2作目。その間2年間仕事が無くて、ーね。ついに、一回ね。「こーなったら乞食するしかないな」と思ったことあんの。大阪に心斎橋というところがあるんですよ。橋の上に乞食がいて、今はいないけど、モノもらってるわけ。 子供を連れてその気にさせよと思って連れていつた。覚えてないらしいけど、自分の親父って変な親父だと思ってる、今でも寄りつかない。上の子は貧乏よ〜知ってるわけ。ズーッと貧乏その時極端やったから。 貧乏を脱しようと思いたったのだろうか。心斎橋の上で物乞いをしようと長男を連れてその気にさせようとした。笑えない深刻さ極まっている貧乏だった?・・・ようだ。サービス精神豊かな渡辺豊和さんであるから、相当脚色してるように思うが。独立系建築士として建築事務所登録をすませ、32才で設計請負業をスタートしてしまった筆者は、建築家ではなかったが、3人の子育て伴う、初々しい建築家の心境には、涙を流すほどではないが、痛く同共感する者の一人なのだ。孤立無援で受注商売である建築事務所を経営し始めることは、サラリーマン生活を見慣れたり、それしか思えない者にとっては無謀ともいえる仕業に写るだろう。 しかし貧乏だったと言い切るなか、1977年には鉄筋コンクリート造、延べ坪30坪の餓鬼舎を完成させてしまった。坪40万円としても1200万円と諸経費が要るから1500万円を蓄え、あるいは借財して自邸を増築することが可能になるまでに、渡辺豊和さんの身の上には何があったのか?筆者は聞き洩らしていていまだに不明だが、機会があればお聞きして解明しておきた課題の一つである。 経営資金不足や貧乏生活は、独立系建築家の道を志し歩み始めた者にとっては通過せねばならない難関門の一つだ。30才前後に出現していた渡辺豊和さんの貧乏、いばらの道をどのように渡り切ったのだろうか。その答えは読者に想像いただいて、私は解明しないことにする。お聞きしている唯一の手がかりは、奥さまが学習塾を経営され、豊和さんを支え続けたそうだ。だから、奥さまにお聞きするのが、渡辺豊和さん困窮脱失劇の根を解き明かす一つの方法だろう。そのことは息子さんである渡辺菊眞さんに任せ、先に進もう。 |
|||
(初期住宅のなかで『現代建築様式論』を著す 餓鬼舎の竣工に至る4〜6年間に本は編まれた。 二つの建築にある思考の溝) 渡辺豊和さん初期住宅を自身は「RIA調で稚拙凡庸」と語っている。19977年、餓鬼舎を竣工に至せる実践と思考には大きな溝・隔たりがあり、その溝を飛び越えたのだ・・・と考えるのは自然なことだ。そこで別世界へ至る跳躍のエンジンはなにか?それを想像してみたい。 溝があると思われる10年の間に、吉岡医院と仮面の家を手に入れながら、私家版『現代建築様式論』を1971年2月2日刊行している。そこでその同書にある奥付の略歴など特徴を拾い書きしてみよう。 @芥川龍之介・萩原朔太郎に傾倒し詩と小説の創作を始める。 A1964年からRIA在籍中は植田一豊・富永六郎両氏から直接にデザイン教育を受け、この時点で建築の形式性の解明の必要を感じる。 B1970年渡辺豊和アトリエを自邸内に開設単体建築の実作をはじめる。 Cメタボリズムに至る機能主義の決定論的建築創作法をのりこえるものとして映画のドキュメント法を基盤として発想する「建築ドキュメタリズム宣言」を準備中。 RIAに在籍することでデザイン教育を受けるも、1970年独立し自身の建築創作法を模索するなかで『現代建築様式論』を刊行したことが分る。独立そうそう吉岡医院の設計を依頼されたのだろう。同書より27年後の1998年に、東大博士論文として『記号としての建築』と『空間の深層』の2冊が刊行されたが、『建築様式論』はそれらの魁の著書である。とくに重要だとおもわれるので、小さな自序を写しておくことにする。 |
1970年代 吉岡医院 1・1/2 龍神村民体育館 建築学会賞受賞作品 |
||
|
渡辺豊和著 『現代建築様式論』 1971年2月刊行 |
||
建築空間が意味として捉えられる、様式と形式の問題を意識しつつ形式美学の復活をここに宣言し追求していたようである。ここまで渡辺豊和さんの著書を読み返してみても、初期住宅から吉岡医院、仮面の家、餓鬼舎へいたる創作の源と、ジャンプ力とそのベクトルを解明し、お伝えすることは叶いそうにない。今後の課題を確認したこととし、渡辺菊眞さんの自邸である宙地の間体験記を先にすすめることにする。 (参照として、渡辺豊和さん初期住宅と餓鬼舎の航空写真を提示しておくので、興味のある方には筆者が想う溝の姿のあぶりだしと解明に参加していただき、渡辺豊和さんの初期創作の泉を観察していただきたい。そのことで建築家にいたる道を一つ確認してほしい。) |
|||
(上図:最初期建築、渡辺豊和さん自邸 南・東L型が餓鬼舎1977年竣工) |
|||
3)宙地の間について (渡辺菊眞さん自邸 2015年竣工) 宙地の間の基本情報を右欄に示し、ここからは敷地の立地、周囲との関係、配置計画などを見つつ、体験記を続けることにする。 (敷地の立地について) 宙地の間を訪ね最寄りの駅で電車を降りると下図のような立看板がある。石室をもつ烏土古墳をふくめ多数の古墳が記され、同時に神社も溜池もたくさん描き入れてある。それらの間を縫うように戦後、というよりは1980年代に開発されただろう宅地造成地のための主要路線も描き入れてある。 北から南にながれる河川に沿って桜のマーク描かれ、バラのマークや葡萄の絵も右下の方に描かれている。西に向かって進と霊峰・信貴山と戦国の夢街道との文字も識別できる。戦国の夢街道とは何か不明であるが、登山好きの人たちを誘うために名付けられたハイキング客には便利な道案内の一つなのだろう。 案内図を紹介したように、菊眞さんが自邸を建てるために選んだ敷地は歴史の積み重なり、古代の飛鳥人などと現代のサラリーマンが住み続ける好ましい土地である、と言うことができる。菊眞さんは奈良盆地のど真ん中、田原本で生まれ育ったので信貴山を超え大阪湾の見える生駒山裾に土地を探す気にはならず、奈良盆地も遠望できる敷地を選んだと語っている。 大阪市内で働くサラリーマンにとっても、菊眞さんが建てた敷地周辺に住宅を建てることになれば、大和路線に乗ると通勤時間は片道1時間前後の利便性のある土地柄だと言える。歴史のある古都から、大阪のビジネス街に通勤しならが、ゆとりのある土・日曜日、あるいは休日を活かし古都の史跡を訪ね歩くことにもなるだろうが、それは日本でもっとも豊かな文化的宝を体験しつつ、贅沢な時間を積み重ねることが可能で、時別な人になった、そう思える選地なのではないだろうか。 激務が続く現役のサラリーマンよりは、むしろ現役を退き自適に暮すことが可能な人々にとっては、足腰も鍛えつつ多数の遺産に接し、脳を生き返らせることができる贅沢な土地柄の一つだと言える。現在、菊眞さんは高知県内で建築を教える教職に就いているので、上記のような日々はまだ過ごせない。引退後はきっとそのような生活を続けるのではないだろうか。駅前の立看板を眺め、そのようなことを思った。 |
宙地の間基本データ ■ 規模 地上2階 軒高 68850mm 最高の高さ 7519mm 敷地面積 357.41m2 建築面積 98.87m2(建蔽率 27.67% 許容 50.00%) 延床面積 143.97m2(容積率 36.81% 許容 80.00%) 1階 95.74m2 2階 48.23m2 ■ 工程 設計期間 2013 年 11 月?2014 年 11 月 工事期間 2014 年 12 月 2015 年 8 ■ 敷地条件 第一種低層住居専用地域 道路幅員 南 4.0m ■ 外部仕上げ 屋根/ガルバリウム鋼板小波 t=0.4mm 縦葺き 外壁/ガルバリウム鋼板小波 t=0.4mm 縦葺き 開口部/アルミサッシュ 外構/砕石敷 |
||
(宙地の間が建つ敷地の周辺環境) 宙地の間が建つ敷地は、奈良盆地を形成する信貴山など連なる山々と、奈良盆地に浮かんだような矢田丘陵との間に生まれた、谷状の西傾斜地の中に位置している。起伏高低は30〜50mほどだろうが、うねうねし波打ちつづき止まらない、平らな場所がない地形の中に位置した宅造成地だ。30年ほど前に宅地開発された規則正しく南に向かい雛段のようなに均質な宅地形状がならぶ場所でもある。 すこし拡大して見る。絵を下に示したので理解できるだろうが、葡萄などを生産するビニールハウスが建ち並ぶ農地と、均質に区画された住宅造成地の際に位置している。際であるから思いもよらぬ宅地形状となっている。周りとは異なり不規則な形状と高低差を持つ場所が、宙地の間が建つ敷地の特徴である。 敷地形状は、さらに近づくと分るのだが中華包丁に似た形状であり、それは宅地分譲地の際にあることで、宅地開発業者が持て余したかのように、え、やー・・・と形を決めたかのだろう。投げやり仕事にも見える。そのような経過で不規則変形の宅地がうまれたのでないか。投げやり造成地とは言い過ぎたのかもしれないが、何かの際にある形状であることを確認しておきたい。溜池と農地のせめぎ合いに遭い、苦肉の果てに絞りだされた?そのような形になったような一塊の中の宅地形状である。 |
|||
(宙地の間配置計画を観る) 周辺環境を離れ、宙地の間の敷地周囲を観ることにしよう。中華包丁に似た形状の敷地はいっそう露わなる(下図)。隣接の住宅建築と宙地の間を見比べると、30度ほど宙地の間は東に向きを変えた異なった配置が採用されていることが分る。西側の敷地境界に沿って宙地の間を配置すれば、東側の余地の形状がブーメラン形状に残ることもなく、隣地の建築と並んだような様相に落ち着いただろう。 宙地の間と残地の関係は敷地形状を無視してドスンと配置した証であるが、それは建物の内に日時計を抱えた自宅の設計が完成していたことによる。菊眞さんが語ったのだが「どのような住宅地でも建設可能な宙地の間とし設計をすすめた」そうだ。 あまたの設計士なら日時計を内包した住宅を設計することはないだろうし、日時計が要るなら、周囲を水平に土間コンクリと等で仕立てた中にポールを立て、その日陰を作り出すことで日時計とし外部に設えただろう。 菊眞さんの説明によると「宙地の間」は太陽住宅だと言う。そうして畏怖すべき自然・太陽の存在を忘れないために日時計を空宙地の間の内部に設置したそうだ。その目的は日時計を内包した空間に身を置くと自然の大きさと、恵の深さを噛みしめることが出来る・・・と語るのだ。
しかし、説明を読んでも残余地の形状と敷地境界を無視したような配置を理解することはできない。前面道路を隔てた宅地を購入していればブーメラン形の残余地形状も生まれなかっただろうし、模型のまま建てることになっただろう。そうすれば西南部分の屋根のカットも生ずることもなかっただろう。 ■偶然得た敷地形状が宙地の間の特徴を露わにするかのようだ 中華包丁のような形が印象的な敷地だが、宙地の間の建築的特徴を露わにした。そのように筆者は思う。それは太陽建築(住宅)ありきで設計が敷地選びより先行完成し全ての形状が決まっていたからだ。敷地がもつ建築基準法の縛りによって、屋根の南西部の一部が外観から見ても不自然にカットされたことで分る。 敷地を購入する前に宙地の間の設計図は模型は完成してて、手に入れた敷地にまま配置することで、このような余地と屋根の一部カットが生じたのだ。 敷地を手に入れてから完成設計図を使わず新たに設計し直すことは可能なのだが、なぜ設計をやり直すことをせず、造り始めたのだろうか、その疑問は消えない。 そこで平面図や断面を観ながら次にそのことを推測してみよう。 |
宙地の間PDFより |
||
宙地の間 配置を観る | |||
(宙地の間その平面を観る) 正確な平面図は 宙地の間ー日時計のあるパッシブハウスpdfを開いて読み込んでいただくとし、概略図を描いてみた。赤い位置に日時計が設置されている。オレンジ色の部分は日常生活に必要な間取りで、水色の部分は上部がアトリエで右側(東)が倉庫になっている。東側にある倉庫は高くもち上げられているのだが見学することはできなかった。筆者は渡辺菊眞建築樹が育っていると想像してみた。建築樹が育ち続けているだろう倉庫の足下は玄関先の庭であり、物干し場として使用されていた。夏の夕涼みやバーベキューなどに転用でき、眼下にある釣り堀に集う釣り人の様子を楽しみながら、ビールを呑む場に適していそうだ。釣り堀の向こうには古墳や矢田丘陵の山々が見え、夏場なら風通しも良さそうであるし、毎日仕事に出かけるために最初に目に入る風景として、逆光であっても最適のうちに入るような景観だと思える。 下図に、宙地の間と菊眞さんの実家である渡辺豊和さんの初期住宅の概略図を並べ観ると分ることの一つは、住居機能部と倉庫などの構成が似ている、同じ構成になっている点で、興味深い。宙地の間も幅は1.8mと餓鬼舎幅をなぞっていて、3階建ではないが、高く持ち上げられ、ピィロティ部は玄関先のテラスとなり、よいしょと持ち上げ上部は倉庫(=それは持ち上げられた餓鬼舎だ)となり、大きな屋根一つに包摂されていて見知ることはできない。 このように設えられた倉庫であるが、築模型をストックするためのものだそうだ。建築家ならではの模型置き場として機能していると菊眞さんは語っていた。 |
|||
玄関前ポーチと上部倉庫のありのままの様子 |
|||
上に示した写真は玄関周りを撮影したものであるが、T型コンクリートの上に餓鬼舎が載って変形しているのだと想像していただければ、宙地の間と餓鬼舎の深層にある記憶の連続性を容易に察することができるだろう。 宙地の間にある住宅としての機能部とアトリエと倉庫の連続の間に、渡辺豊和さんがうみだした初期住宅と餓鬼舎にあった路地状の空地は無く、強く密接・密着して一体化してしまった点が特徴であり、実家との相違点の一つだ。 敷地を購入する前から宙地の間の計画は完成していたそうだから、オレンジ色・住宅としての機能部と、水色のアトリエと倉庫部分は、菊眞さんの住居機能としては必要かつ不可分な関係なのだ、と言える。 |
|||
左: 宙地の間 平面スケッチ 右:渡辺豊和さん住宅と水色の部分が増築された「餓鬼舎」 |
|||
筆者は宙地の間のアトリエにも餓鬼舎にも寝泊り体験がある。その体験をもとに両者の印象的な点を挙げてみたい。 宙地の間はアトリエ部分と倉庫部分がきっちり分断されているので、菊眞さんが作り貯めた模型は見えない。一方、餓鬼舎の方は最奥の神の依り代としての柱を体験するための聖なるボイドになっていて、住居に求められる機能の分解はなく、3層がらんとした空洞になっている。だから豊和さん初期住居からあふれ出る生活必需品である物が、無秩序に放り入れられていた。それらの物は、例えばリードフェルトの椅子・レット&ブルー、模型、建築写真のパネル、多数の本棚、布団などである。加え一部の床は学習塾として使われ現在に至っている。聖なるボイドが生活者によって侵略され続けているという見方は筆者の考え方であり、断っておくがそれは所有者の感情ではない。筆者は柱がスット立ち何も無い餓鬼舎であってほしいと思うのだが、生活者にとっては倉庫を求め増築した建築であるから、倉庫化していくのは当然のことだろう。 豊和さんの逸脱した暴挙に似た設計に対する、家族と生活者としての設計者自身からの真っ当な応答による姿だと思った。住居は神殿や儀式をとりおこなう宮殿にあらず、と言えるからだ。その混同がのちのち菊眞さんの体験や身体をとおして、露わに成り消え去った点も含め、興味深い。 渡辺豊和さんの奥さまの話によると、餓鬼舎を関西のテレビ局で番組紹介するため撮影班が入った事があったそうだ。その時は餓鬼舎を一時空っぽにするため大型トラックを用意して品々は全てトラックに積み置いて、撮影を始めたそうだ。もしその番組を観て餓鬼舎の記憶をとどめられた人がいるとすれば、実態の餓鬼舎を示してはいないので記憶を修正する必要があるだろう。 先に紹介したように餓鬼舎は建築編集者を「あっと驚かせる」ために造った・・・と語り残している。さように建築雑誌の掲載することが家族の要望を越えたところで辺豊和さんの切実な思いとして育てていたことは事実だろう。餓鬼舎は建築メディアに消費され、建築の内部は家族によって使い込まれたのか?意見は分れるが、50年経過しても建築メディアが新人建築家に及ぼす害に似た影響は、この地の建築状況を豊かにはしていないのも現実である。 建築家の強欲はときに家族という他者からも恨みを買うわけだが、それは近代の主体を持った建築家像を保持しようとしている、この150年ほどに生まれた建築家と社会の悲劇の一つなのだ。しかし法隆寺や東大寺を体験するでもなく、建築の歴史や文化は聖なる空間や機能と不可分に生き続けてきたのであるから、近代の主体をもった建築家のありようを一度、振り返り、議論する必要はあるだろう。また家族それぞれの基本的人権を主張し快適な住空間に暮す権利があるのは当然だ。 餓鬼舎が誕生するための経緯を記述し、それらを共有し、新たな社会に不可欠な建築家像を提示する必要に迫られている、そのことを示す一事例となっていると筆者は思うのだ。そうすることによって渡辺豊和さんの暴挙とも言える餓鬼舎を手に入れるための振る舞いと、家族に起きたであろう建築に対す不信を解消し、次世代の建築造りに役立てることは、他山の石とする実例の好機が放置されたままだと考える。いかがだろうか、判断は餓鬼舎増築いたる大きな溝をジャンプした因を知ってからすべきだとは思う。この記録を見ていただいた方に委ね、次に宙地の間の断面を観ていこう。 |
宙地の間PDFより |
||
4)宙地の間 断面などを観る |
|
||
「日時計が内蔵されたパッシブソーラーハウスである。」宙地の間ー日時計のあるパッシブハウスpdf の冒頭に記されているように渡辺菊眞さんの自邸、宙地の間には南面の屋根にスリットが斬り込まれ、陽光を受ける続けることで太陽の動き、地球の公転が可視化される。そしてこそ太陽の存在を日々自覚される。そのような思いで日時計が天井高く仕込んである。筆者が訪ねたのは宵闇が迫り始めた時刻であったから、日時計の存在は意識することなく、天井裏の小屋組み構造がリズムよく並んでいることを確認しただけであった。 翌朝、日の出とともに日時計の存在が刻々と明確になりだしたが、強い印象は残らなかった。筆者の家はコンクリト造陸屋根なので勾配のある小屋組みを眺める機会はまったくない。遠い昔、筆者が暮らす福島市の民家の棟には木材と藁縄を加工した男性器が括り付けられ、その家の繁栄を願う風習があり、滑稽さに触れたことはあったが、農業が廃れた現在では新築住宅にあのような呪術的品の設置は求められないだろうし、大工たちの氏名を記録した棟札さえ残していないが、建築業界に生きる者達・大工たち、造る人たちへの尊敬を無にして、生きる発注と設計サイドの怠慢の仕業だと思う。宙地の間に現れている小屋組みを眺めながら日時計の存在よりはその事を思いだしていた。 太陽は地球に生きる人々にエネルギを与え続ける父・母なる存在であることは明らかだ。日時計は、建築に設えた女性の外性器でもあるかのように小さなスリットを露わにしている。そこから宙地の間に太陽の動きと存在を刻々と知らせる。餓鬼舎の男根のような柱に対し宙地の間の日時計は子宮幕でもあるかのようだ。白い幕一枚の日時計を内包している小屋組みを見上げるのは初めてだったので、口をぱっくり開け眺めた。 南面屋根の表面に刻まれたスリットは陽射しを誘導するための小窓だが、それに対する違和感は襲ってこなかった。その事は日時計が無理なく内部に設置されていて、柱や梁、天井材と一体化し突き出た存在として主張していないほど、溶け込んでいる証でもあった。陽光の動きを間接的に示す白いテント地が貼られることなく、骨組みだけの仕掛けだとしたら、それは煤にいぶされた小屋組みが露出している、古民家の小屋組みを眺めた時の印象とさほど変わらないだろうし、太陽の存在を意識することのない民家の小屋裏になっていただろう。 渡辺菊眞さんはなぜ、現代住宅にとって違和感を放つ強い存在として「日時計」を鉄筋コンクリートなどの素材で造ることを放棄したのだろうか?呑みながら語り合い知ったのは、工務店の方に「RCで造ると1億円かかる」と言われ、木造に変更してしまった、そのことだ。その拘りの無さが日時計の存在と他者が受ける日時計への強い印象を共に消しさってしまったのだろう。 内部から見上げた日時計の印象は薄いのだが、全外観や配置は意に図らずも異彩を放ってしまっていた。敷地選びの前に決定していた外観は、日時計を仕込むために南・北に掛けた屋根の勾配を正しく調整し設置しなければならない。その点に集中してしまい周囲の家並への配慮が欠けてしまった点は明らかで、建築家らしい集中しすぎた仕事の結果であるとも言える。 異彩を放つ外形と屋根の形状は特徴的である。南面の屋根勾配は敷地の緯度、北緯 34.60°に設けなければ日時計として機能しないのだが、北面の屋根勾配は南屋根と直角に下る必要はないのだろう。けれど直角を採用している。そことによって周囲の民家とは異なる形態となり立ち現れ、平凡な民家の建ち並ぶ郊外住宅地内では異彩を放ってしまっている。敷地に建物を配置した後の残地も不整形になってて、活用をする気配がない。それらは日時計を内包する一点への強い意思が、他の細部意思を家族と共に蒸発させ尽くした証である。 住居機能に重ね書きし、パッシブソーラーハウスと日時計が設えてある宙地の間が導きだされるための先例的な建築として、菊眞さんの目の前に現れたのは太陽建築を示した井山武司さんの教えの賜物だと語る。パッシブハウスという考え方、太陽の恵を活かすことは古来から一般的なことなので、説明は不要であろう。だが渡辺菊眞さんは下記のような警鐘をならしている。
|
渡辺菊眞さんにとっての太陽建築源 師・井山武司さんが示した 『太陽建築』の曙 三内丸山遺跡住居 オレンジ楕円 パッシブハウスに不可欠な通気口 下:通気口 外観 |
||
上記にしめしたように、菊眞さんの自邸に日時計を包摂することで自然の存在を常に自覚し、共に生きるのだと宣言している。この姿勢はある一面、現況をあらわしてもいて、地球温暖化にともなう各種災害が日常茶飯事に顕れ、誰にでも理解できるようなった、今の世にあっては、真っ当に思える。しかし、現在、建築を造ろうとすると工業化を経た建築材料と素材があふれ尽くしていて、天然素材を活かすとの文言や、地産地消という宣伝文句は空を彷徨っているだけで、実態を得る世が戻りくることは無いだろう。地上に人が暮すことが不可能になる、その日まで建築造りも食べ物もさらに工業製品化され続ける。そして素材も食材に工業製品に依存し続けるだろう。 建築のつくり方も、近世から敗戦まで続いていた大工たちよる家造りの手法は蘇ることはなく、さらなる工業化素材と工夫によって、あるいは工業化そのものによって住居建築は展開し続けるだろう。 このような建築をとりまく状況を渡辺菊眞さんも当然理解し、宙地の間を設計を開始しただろう。設計期間は2013年11月から1年間とあるので、東日本大震災や東京電力福島第一原子力委発電所の全電源喪失による放射能撒き散らし事件が発生した、世界中の人々が原発賛否の激論をした2011年の記憶は消えず、パッシブハウスへの思いは強まっていった時期だと推測する。 |
1+1/2の展開を顕著。1としての親海亀 1/2としての子海亀をモチーフ展開 秋田市立体育館 |
||
だが分っている未来への決別の物証として宙地の間をこの世に提示したのだ。そこにある世から孤絶した姿ともとれる、渡辺菊眞さんの強い意思を想うことができる。強い意思をあからさまに具現化しありふれた住宅地の風景と敷地環境を一切投影せず、かなぐり捨てて、宙地の間である初期模型を木造にかえただけで、どすんと実現させてしまった。その行為の結末を見ることで菊眞さんの孤絶と苦悩とジレンマ、多数の困難を理解できるはずだ。宙地の間を実現しようとした決断は、一種の現代人の多数の困難と絶望を表現したとも言えるし、現在の建築状況に一切加担したくないという思いが建築になったとも言える。 5)まとめ 渡辺豊和さんは凡庸な初期住宅から建築家の道を拓き、その後の建築づくりの原形となった吉岡医院(1・1/2)、餓鬼舎を経ることで、1・1/2の巨大化しであろう秋田市立体育館のような幻想的な公共建築へと大きくジャンプしたことを思うと、渡辺菊眞さんがお父さんから引き継いだかのような「住居+倉庫+日時計」がどのように巨大化し建築として姿を露わにし、人々に見せてくれるのか、それはまだ分らない。 さらに、お父さんは幸運な波にも出会い、造る機会をあたえた日本経済バブル。経済バブルの再来は菊眞さんが生きる現在の社会には起きない。それどころか日本の経済は一層縮退していくのは必至である。だから菊眞さんには、お父さんが許され実現した建築的大きなジャンプは許されない。なぜなら、2022年2月には21世紀的戦争が始まり、まま膠着している。そこにあるのは国際ルールを無視し攻め入る帝国が勝ちなんだ・・と見せつけられてしまった世にあっては、米中の代理戦争を日本は背負わざるを得ない。だから公共建築に財を投じる余裕はなくなり、代理戦争を防止するために税を生きることがない防衛として投じざるを得なくなる。そんな世がもうじき到来するからだ。 渡辺菊眞さんは自身の建築家しての姿と、やがて来る日本の状況を予言したかのように、教壇にたつ高知県内に金峯神舎と拝殿を分離して建てた。そのことによって父親の巨大な幻想的フィクションとなった建築を軽々と乗り越えて見せてた。金峯神舎を1と読み拝殿を1/2と読みすすめればそのことは容易に理解できるだろう。私は菊眞さんが生てる大地は父・豊和さんが生きて来た大地より遥かに豊かで困難だと思う。だから古来から続きている日本的建築家の職能を希求している社会が到来しているとも言える。 父・渡辺豊和さんの初期住宅と餓鬼舎をもって、個人の幻影としての神の依り代である柱を建て巨大な幻夢を実現しつつ続け、巨大な太陽を越えた父(建築家)を社会化しようと挑み続けたのだが・・豊和さんはその点では成功したとは言い難い。しかし渡辺菊眞さんは過疎化極まった小さな村の村民たちに金嶺神社と拝殿を再興する道を示し、かれらの生を鼓舞し続けているのである。 渡辺菊眞さんが自邸に内包した日時計と、彼の模型を納めている場を筆者は建築樹と名付けた。住居機能と建築菩提樹と日時計の組み合わせと配列は、渡辺菊眞的建築の存在証明であり、さらに豊かに繁っていくための渡辺菊眞的建築の菩提樹そのものなのだ。そのように筆者は宙地の間に一泊体験し思ったのである。 渡辺菊眞さんは父をとっくに乗り越えていたことを記し、今後の菊眞さんの建築界での健全な活躍を願い「宙地の間・体験記」はお仕舞とする。 2022年11月7日 佐藤敏宏 |
金峯神社 本殿 金峯神社 拝殿 |
||
■ | |||