入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと   07 これまでの作品を観て   08 更新設計がうまれる背景
 09 浜北高校サッカー部友と20年 10福島原子力発電所事故現場に立っ  

08 更新設計がうまれる背景 

辻琢磨さんが刊行した、合同会社辻琢磨建築企画事務所『更新設計01 辻堂の引っ越し』は2023年6月11日、佐藤の家に送られてきた。3/300とサイン入りだった。

内容は更新設計によって造られた、タワーマンションの一室の改修工事録。工事の進捗に合わせながら、改修された新マンションと、それまでに暮らしていた旧マンションの室内のさまを丹念に撮った写真、3D図、平面図などの情報をコンパクトに綴じてもいた。

A4版の中に一回り小さいが、大切で特徴的な情報が綴じこめられていた。それを中綴じするが中綴じの表紙には付録とあり、関係者からの寄稿と資料リストがしるされている。中綴じで注目すべき特徴は発注者であるご夫妻の小文があることだ。開くと御主人、(おそらく辻さんと同窓生だろうか)医師と奥様も医師で、そのご夫妻が暮らすためのマンション改修工事録だと分かる。

次に、御主人の哲学にふれる小文、辻さんが聞き手となりご夫妻の肉声を聞き取りした文字記録もおさめられている。建築雑誌では滅多にお目にかからない構成で、発注者(多くの人は施主という。)の肉声が建築家の文章と並ぶことは、ほとんど見かけない。だから希で貴重な内容だと分かる。

さらに、施工者の二人の小文、事務所担当スタッフの小文も掲載してあった。雑誌ではよくあることだが音楽家の小評論もある。

他には新旧3Dダイアグラム、新旧平面図、契約書、事務所の定款も綴られている。本を手に取ると、工事費(設計図書)以外の主要な内容を知ることになる。印象として浮かぶのは工事に関わったすべての人が、一冊の本を編んだ形式になっていて、それが大きな特徴でもあり、呼吸の合わない人が集い改修したならば、このような本として成立しないことは分かる。

本を作るために、登場した皆さんにどのように依頼をしたのか、断られた人はいなかったのか、など細かい点を辻さんに聞いてない。今後このような形式で受注した仕事ごとに記録集を編んでいくことで、辻さんの「建築」の道は可視化され共有されていくのではないか、と期待を持つことになった。

発注者の本刊行への理解と寛容さがなければ、ここにある工事記録集のような本にまとめることは叶わなかっただろう。せいぜいよくある雑誌の竣工写真と建築か自身の解説文でとどまる内容になるはずだ。

改修工事ではなく、なぜ更新設計と命名したのか?送られてきた本の内容を詳しく見るまえに、都市にある共同住宅の中から更新設計がなぜ生まれるのか、その前段や背景を粗く考えてみたい。








■ 西山夘三著『住み方の記』

敗戦後民間318万、軍人軍属318万人、引揚者総数629万に手当てする住宅がなかった。加算するように大都市は米軍の空襲に遭い、焼かれてしまったことで、降伏すると住宅建設がつづくことになる。行政には住宅供給公社ができたが消滅しあとかたもないし、現在の行政職員にはその記憶さえ少なくなってしまっただろう。住居の手当は民業に任せてしまって久しいからだ。

2025年現在、住宅を作ること、そのことが経済指標となっていた世は遠く、空き家900万戸といわれるし、単身者世帯が4割に届くのはまじかだ。加えて斎藤環氏によると潜在を含めると200万いて、増加傾向にあり、500万人に達する予想だという。老若男女くべつなく引きこもっていて、傾向はやみそうもないと語る。登校拒否と引き籠りは社会問題に浮上し、若年層では義務教育の制度疲労による破れ、中高年層では男女賃金格差放置と働きすぎ社会(システム)の是正が遅れてしまって、精神疾患の増加は、鈍感な者以外には常識ともいえる。(参照:右欄動画)

佐藤の考えではバブル崩壊後に明らかだった、それらに対応した住形式の更新がなされてこなかったことで、社会全体が病んでしまったように見えていた。


そこで家が引き籠りタイプ、単身者世帯、子なしあるいは少子化世帯になっていく傾向はさらに強まる。戦後の住形式は問題を解消せず、解説は省くが、病を加え続ける空間形式であることが分かる(映画『これでよかったのか?』感想録)。家が無い段階から始まる、それらの前段にあった住の展開過程、関東大震災そして敗戦前後にめざした共同住宅を通してみておこう。(地域や核家族が機能していた世にうまれた、住タイプ。)

ダイニングキッチンという革命をもたらす研究・基礎を作った生みの親である。西山夘三の昭和40年(1965年)6月15日刊行『住み方の記』のなかから、1927年竣工の財団法人同潤会・代官山アパート(国民住宅)について、家賃16円にて入居し、月給200円だった西山の暮らしぶりを見る。

次に、西山の研究をもとにDKを普及させた源、1950年の吉武泰水+鈴木成文が発明し後の世で爆発てきに増えた、都市住宅平面を合わせ観ることで、辻琢磨さんが辻堂の引っ越し平面図は紹介しない)と名づけた住居形式は、その潮流にあり、更新設計へ枝分かれし進んでいると把握しているのだろう。佐藤も個と家族の問題を考え、サラリーマン設計士時代はコンクリート共同住宅を造っていたが、独立後は都市型マンションには関わっていない。

更新設計は都市型住居・マンションの改修の一手法なのか、衰退していくのか、ますます個の単位に適応した形式になっていくのか、住戸に投光して見ておく。そこで更新設計がそれらの潮流にあって、どういう立ち位置にみえるのか、少し深掘りできれば幸いだ。

  




動画:斎藤環教授「なぜ、人はひきこもるのか~不登校の子どもへの接し方〜」



西山がくらしていた代官山アパートの様子 浴室は無く敷地内に銭湯があった。
『住まい方の記』代官山アパートの特徴

玄関について
代官山アパートは2kアパートと矮小にもかかわらず、洗面所と一体になり、来客を想定し玄関と居室が分かれている。が、台所とは直結している。佐藤の家には玄関が無く即、居間になる、居間を大きな外部あるいは玄関ととらえても誤りではない。辻堂の家は扉は3重になっているものの、客を招き入れる空間構成になっておらず、極端に狭い。(書斎に親密な者は寝泊まりできるだろうが、夫妻の暮らしを支援する親密な住居形式なので、もし佐藤が聞き取りに行くことになったら、通常泊めてもらうがそれは遠慮するだろう。

台所と食堂について
代官山アパートは炊事場といっていて、作業場なので外部のような扱いになっている。都市ガスもあっただろうが、バルコニーで練炭や木炭などもつかい、煮炊きしていたのかもしれない。右欄のカラーの台所兼食堂は佐藤の家で、都市ガスで煮炊きし、冷蔵庫とステンレス流しが設えてある。辻堂の家はワンルーム形状で寝床と応接コーナーと寝室と台所食堂が一体になっている。代官山アパートは炊事場は畳4.5帖で応接間兼食堂となり分節された形式になっている。

聞き取りし各地を訪ね泊めていただく活動を続けている佐藤だが、調理しないすべて外食ですませる夫婦は一組いた。彼らの家には冷蔵庫も流しもガス台もない。住居に台所を持たない家は日本の大都市にはあり、快適だろうな、と思ったことがある。佐藤は飯を作って食べるルーティンが好きなのでこれからも台所は必要と考える者だ。ドローンで飯が庭先に運ばれても災害時いがいは別として、食べたくない気がする。

風呂・洗面洗濯室について

代官山アパートには浴室が無く、団地内に公衆浴場が設えてあった。また洗濯はベランダでたらいで行っていたのだろうか描かれていない。それならば主婦の動線は長く、専業主婦であることでまかなえたのだろう。佐藤の家の浴室は手作りで、辻堂の家はユニットバスを設えていると思われ、どちらも洗面洗濯室とつながっている。

和室について

代官山アパートは4.5帖と6帖の畳敷き2室があり、寝室になったり、応接間になったり、書斎になったりした様子を西山は描き記録として残している。佐藤の家と辻堂の家には畳敷きの部屋がない。畳の部屋は可変性が高いので、押し入れと連結配列になっている。佐藤の家も、辻堂の家にも寝室はベットを用いているので、収納ルームはあるが押し入れはない。


 
代官山アパート玄関 腰掛けがある。佐藤の家には玄関がない、玄関機能はあり伊東豊雄・椅子と下駄箱設置


   
代官山アパートの台所と流し、作業場扱いで独立している 佐藤も台所は作業場と思うので仕切っている。


115万人引きこもり 2023年動画


3DK誕生記─計画学者とダイニングキッチンより

藤森照信著『昭和住宅物語』1990年3月10日刊行の冒頭に、戦後住宅を横に貫いて走った現象はわずかにふたつだとある。ひとつはステンレス流し台の誕生、もうひとつはDKの誕生だと語り、藤森はその二つともアカディミシャンの発明品であったことをおお喜びしている。

藤森は建築家作品がメインで扱われ、アカディミシャンの論文は二の次と嘆く。だが佐藤は独立系の建築家に聞き取りしていて、博士課程の修了者なら博士論文を日本酒4合瓶と交換して、書棚に保管し貴重な参考資料としてきた。時折それらを開く。2025年1月現在は京都工芸繊維大学博士学位論文2003年3月、『スペイン植民地計画法に関する研究加嶋章博さんの論文をみている。

加嶋博士が全訳されたフェリーペ2世法」は植民地都市をつくるための興味深い法の一つで、福島原発事故後の復興庁による福島の再興を目的とした、「 子ども被災者支援法と照らし合わせると、興味深い点が浮かび上がるからだ。

フェリーペ2世方は、大航海時代はポルトガルとスペインの2強が、カトリック教の布教とともに地上の植民地化を果たすことによって、地球儀にある地域を両国が二つに分け合う帝国の時代につくられた法文で、植民地内の都市づくりにあたっての細かな法文だ。
日本が植民地にならなかったのは、当時の日本は戦国の世で、日本列島が各藩に分かれて争う世で、秀吉によって統一されるが、諸藩には武士とい武闘集団がごろごろ集まってなす、世界最強の軍事国家であったからだ。後にプロテスタント教会を背に、イギリスとオランダが植民地獲得戦争に日本にも参入するが4国とも日本の植民地化を断念している。(参照:平川新著『戦国日本と大航海時代』)現在は民主主義が破れはじめ、新しい帝国主義が動き出した世なので、家族や家の形式も激変するだろう、と思うので建築系の加嶋先生の論文は興味深い。


1950年2DK案を眺めてみよう

吉武と鈴木案共同住宅は、玄関の脇に物置があり、動線は2本可能で流し付き台所へ、和室6帖への2本である。台所からは浴室はないがトイレとシャワーと洗濯場がひと区画になり洗面室はつながっている。台所を通過しなければ洗面室へは到達しないので、親密な者、家族だけが使用しうる洗面室だと推測できる。バルコニーへ洗面室からはバルコニーに出入りでき、洗濯ものを干すためのバルコニーだと思われる。

佐藤が見るに、辻堂の家(ほぼワンルーム)と、1950年2DKの代官山アパーの6畳間をを蒸発させ1DKと解すれば、(鈴木両者は接近し、80年後の差を一気にちじめ比較することでわかることも多い。一つはほぼ同質にみえる、(鈴木+吉武案も同じ)そのことだ。形式を維持しつつワンルームとして大きくなったと解することもできる。繰り返すが、辻堂の家は小さな収納室兼ワークルームを、2DKアパートから6帖和室を取り除き観れば、ほとんど同質の空間形式であると想う。(辻堂の家を知りたい人は『更新設計01辻堂の引っ越し』を購入してながめてほしい)

佐藤の自邸は玄関から居間、そして台所と食堂は一望できるのだが、家族それぞれの個室が確保してあることで、ベットは見えない。(だから佐藤の妻が病で長年引き籠りも可能なのだ)れるその点は辻堂の家の方が激しく個室を取り除き、50年代回帰し1DKの空間形式を意図的に造ったかのように見えてくる。その質の変化、あるいは後戻りは何に起因しているのだろうか。

@マンションが高騰したことで、医師夫妻であっても2つの個室と生まれてくるだろう子のために個室が確保できなくなっている。そのことなのか。
A竪穴式住居のようにワンルームの親密性を感じることで一体となることを選択した。
B改修前の辻堂の家は2LDKの形式である。なぜ2つの個室の壁をとりはらい、引き籠ることができない、一体部屋に近い建築形式を選択したのだろうか。
C家族の構成が成長変化するたびに、家を買替えつづけ更新していく、ことも考えられる。


1950年の2DKは家父長制を投影した、専業主婦が家事を運営する住形式である。そして大都市民もこぞって、この形式の住宅を建て、公団住宅の抽選にはささやかな家を求める人々が殺到した時代で、それは戦後行高度成長期と言われる世の住居であった。

経済成長とともに人々と社会は成熟し個室を与える世も続いていたが、人口減少や引き籠り、単身者世帯が4割に届こうとしている世にあって、更新設計01と宣言してまで訴える、空間形式に換え、造ることに注目しておきたい。

これ以上辻堂の家の解釈には所有者のプライバシーに関わっていくことなので、今回の「更新設計が生まれる背景」篇はこの程度で筆を止めておくので、しばらく後に若い人々で議論を加えてほしい、と願っている。


次に佐藤が提案してきた住宅、個人史を内包させた建築の事例だが、それを国内に観、論評紹介した、─1996年に植田実によって論じられた。─「日本の現代住宅設計に何が見えるか─私的領域と公的領域の錯綜」を振り返っておく。











  
2DKアパート 吉武泰水+郭茂林による最終案 1950年11月20日39u 11.8坪
右:『昭和住宅物語─初期モダニズムからポストモダンまで23の住まいと建築家』1990年3月10日
    
                           

植田実著『都市住宅クロニクルU』2007年11月21日刊行を見る

戦後日本のアトリエ派の住宅を回顧展望すると
塔の家 1967年 東孝光
スカイハウス 1958年 菊竹清訓
住吉の長屋 1976年 安藤忠雄 

がベスト3とある。丹下健三自邸、シルバーハット、最小限住宅・・と続き、1950年から80年代の日本の住宅における建築家の思想の実践、(実験的住宅)がほとんどカバーされているという。(参照:建築文化別冊 日本の住宅戦後50年 1995年3月刊行)

新しい家族像の提示、・・・で全てプランに直接投影された明快な図式、欧米の現代住宅の図式、居間を中心とした部屋の構成とは本質的に異なるものだった、と語る。

これらの後に続く・・1990年代にみることになった住宅を植田は10軒紹介している。佐藤の提案も選ばれているので、列挙しながくなるが抜粋してみる。

伊東邸 安藤忠雄 1990年(以下数字は竣工年)
葛西の住宅 山本理顕設計工場 1992年
葉山の家 飯田善彦設計工房 1992年
日本橋の家 岸和郎設計事務所 1992年
堺町の家 村上徹設計事務所 1993年
角地の木箱 葛西潔建築設計事務所 1992年
CONCRETE BOX10 TAF設計/佐藤敏宏・昭子 1993年
H 青木淳建築計画事務所 1994年
聖蹟桜ヶ丘の家 早川邦彦建築研究室1994年
星龍庵 スタジオ建築計画/元倉眞琴 1992年

東や安藤のように、都市との関係において捉える、家がまるごと私領域であることを外部に明示した建築が評価された、・・・上記10軒はますます家族と生活の図式を平面形に直截に示す展開が過激に続いていること、どの部屋をとっても私的性格が強い、応接の機能を果たすはずの居間はそれがどれほど広くても家族室化していて、食堂を補完するような位置にある。ソファーセットがある居間が減っている。主寝室が居間より広いケースもある。アトリエや書斎が拡充する。浴室が庭やトイレを加え特化し家族室に近い性格をおびている。・・・・上記10軒の私的領域化の進行を否応なく浮き彫りにしている

欧米であれば家族間の交流、外部との社交を日本では臆面もなく払拭されている。・・・ 来客を想定していない・・・1日中、どこでもパジャマを着たまま生活するのにふさわしい家ということである。(社会的生活の光景を必要としなくなってしまった家。)・・・しかしこの私室化とは単純に社交を排除するものではなく、福島市の野球のスター選手である息子さんの応援歌が家中に満ち満ちているような、御主人の個室に通されたときの独特の居心地のよさは、かって清家清先生の御宅に足繁く通っていたときの記憶に結び付くようであった

・・・家族像の崩壊といわれる、その家族とは主人が接客の主幹となり妻がその裏方を務め子供はさらに見えないところに隠されている、かっての姿であるといえる。・・・建築家による住宅設計の歴史が、建築にかかわる未来とどう結びつけられるのかが次第に錯綜している。そこに新しい可能性があると信じざるをえない、と植田は1996年3月に結んでいた。
  
アトリエ派の戦後日本を回顧展望する1995年建築文化別冊号『日本の住宅・戦後50年』には42人の方がそれぞれ10点を選び集計したないようだとある。














佐藤によるCONCRETE BOX10などは1994年、建築文化に小特集された
上:右2階 左1階平面図


更新設計01 辻堂の家 まとめ

1995年win95の発売とともにIT革命は、日本列島とそこにある産業と暮らしかたを激変させてしまった。個電化で家族の個室は外部とゆったり結びついていたのだが、0年代からの携帯電話、その後のスマートフォンの普及によって、食卓にも、愛しあうベットの中にも世界の最新情報が侵入してきてしまう、そんな暮らしに変わった。新型コロナによってオフィス仕事のオンライン化は加速している。さらに生成AIは多量な電力を消費しながら資本主義の最終地を目指し、かしましい2025年現在である。

先に紹介した全て外食で、台所と冷蔵庫をもたない夫婦の暮らす住宅は、これまでの住形式を蒸発させ、都市全体の営みのなかに「家屋」という機能を住み手が選んで移動する、その姿を見せてくれるわけだ。

大都市のなかに星座型のように家の機能を選び結び暮らす、家のタイプは、大震災、各種災害にはきわめて脆弱な暮らしかたの一つとはいえるが、地球規模で温暖化が叫ばれ、暮らしかたを変えなければならないと、警鐘、木鐸を打ち鳴らし合う世にあっては、暮らしを支えるエネルギーを化石燃料や原発に依存している人々の暮らしの脆弱さ、とさほと違わず、目くそ鼻くそを笑うの例えのようなありさまだろう。


IT化とグローバル経済が列島の隅々世界の果てまで到達した世に、辻堂の家は「更新設計01、辻堂の引っ越し」として捉え引っ越しも建築行為にと1950年代の考え方を拡張し、捉えなおすことで建築家の活躍する領域を拡張する試みである、と捉えておきたい。

更新設計の極や仕舞がないのか?それは家をもたず引っ越しなどもせずに夫妻で都市ホテルに寝泊り生活の拠点とするほどには、1950年代の家タイプからは離れていないのか。私物を持ち歩き引っ越しを繰り返すことで、振り返ってみれば記憶の中にだけ、星座型の自邸が立ち上がる。そういう行為の始まりだと佐藤は受け取っている。

更新設計の果ては、やがて柳沢究先生が提唱し始めた「住経験インタビューのすすめ」の手法をかりて、ご夫妻の家は記憶と紙とweb媒体などに刻印されていくだろう。将来、建築の全体は消え、そのことでしか「家」という旧来の暮らし方を表象していた「家」を見る、その手立てもなくなる世が間もなくやってくると想像している。

同時に建築家である辻琢磨さんは、辻堂の家の医師ご夫妻家族の構成員、かれらの暮らしかたの変化に伴う暮らしの移動とともに、更新設計01がさらに何度も更新され続けていくことは、想像できるが、具体的果てを辻琢磨さんは語っていない。

さて、では更新設計には仕舞がないのか?佐藤はこのように想う。使い手、(施主)自身が都市に浮遊するかのように都市内の施設を時々刻々と移動する、私物をもたず、映画の中のタレントのようにあらゆるものを持たず、着せ替え、借り換えし続けることで成りつづける。そういう超都市人と成長する、今後の世のさまと、辻琢磨さん、医師夫妻の観察を続けなければ予測断定はできない。年老いた佐藤には超都市人を見ることはかなわない。

辻琢磨さんを佐藤の世代に引き付けて語れば、外部を持たない(佐藤が見えてないだけ?)建築の内装設計を続ける。そのことは、やがて巨大都市そのものをも、巨大な内部として捉える、全体を見届けることができない巨大な星座型の家の一部に、暮らし続けるインテリアのような恰好で新しい、更新設計として超IT社会に適した、次なる建築の全体を示すことになるのではないか。それらを期待し辻琢磨入門はお仕舞とする。

2025年1月吉日 佐藤敏宏