入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと  07 これまでの作品を観て   08 「更新設計」が生まれる背景
 09 浜北高校サッカー部友と20年 10  福島原子力発電所事故現場に立っ  

建築を学んだこと (辻琢磨さん2005年、横浜国立大学に入学する)

建築を学ぶ場所は地上のどこにでも存在する。建築を知らず生活する成人は地上にはいない。建築を学ぶことに終わりはない。

京都大学の柳沢究先生は佐藤が聞き取りを続けている一人である。究先生は2019年9月9日福島の建築を視察しつつ、原発事故後福島の状況を体験するために、学生(中国・台湾の学生も)を連れやってきた。宿は我が家と女性たちは県立美術館そばの安宿で一泊。翌日、原発事故後の浜通り地方を調査体験し、一部被災民を加え大熊町役場でも聞き取り、それらを終え京都にもどった。
来福・当日に佐藤が設定した「県住宅課次長や職員との対話」を実施した。そこで原発事故下における応急仮設住宅について、活発な討論をおこない意見交換し、流布していた間違った木造応急仮設住宅の実情を修正し、フクシマの現在も学んでもらった。(記録へ

佐藤と究先生との長年の聞き取り交流から、『住経験インタビューのすすめ』を2019年11月に刊行に至った、そう聞かされた。本の内容は人(学生)が、これまでどのような家でどのような暮らしをしてきたのか、住まいでの生活にまつわる経験を、家の間取り図暮らしのエピソードなどを、(祖父母も)を(学生)聞き取ることで、各地にある家の様々をインタビューもとに紹介し、住経験の視点の面白さや可能性を感じてもらう試みが実施されていて、他の大学へも感染拡大している。家族で建築を語り合う、その対話をもつことで建築を学ぶ面白さの一端をすすめる本でもある。(共有するためにはプライバシー問題を解決する必要がある)

住経験インタビューの記録結果の展示会は、2024年の12月2日から15日まで大阪市内のギャラリーで開催される(右欄チラシ)。約500人の学生から2000の取り組みらしく、その中から100点をえらび、様々な時代/国/地域/家庭/から、個人のありのままの暮らしぶりを展示・紹介することで、展示された住まいを二次体験し、考えようという試行のようだ。

学生たちと親が暮らした建築・家の対話(聞き取り)から、住建築を学ぶ、あるいは見つめ直しをおこない、学生は建築を学ぶにあたり、自らの暮らす足元をみつめることで、「建築」の、初歩としようとしているのだろう。( 【住み方発見!! Home Life Diaries in Japan】展の詳細へ )















 2019年9月9日京都大学柳沢究研究室の学生さんと福島県本庁舎前で撮る

  
右:展覧会の紹介ポスター 

参加大学は名城大学、京都大学大学院、近畿大学、明石工業高等専門学校、デルフト工科大学、リュブリャナ大学、北海道大学大学院、大阪工業大学、慶應義塾大学。

絵は:【住み方発見!! Home Life Diaries in Japan】展の詳細へ より

建築を体験し学んできた場所を比較する

自邸づくりを観て建築の路へ

辻琢磨さんは実家の建造で建築の道にはいったという。森純平さんは商社マンのお父さんが二級建築士を取得し自らの設計でRC自邸を建てたそうだ。建設時に森さんは仕事を手伝わされ、宮大工に弟子入りさせるぞ、と言われ「丁稚はやだ」と、芸大入学を選び建築の道へ入ったそうだ(聞き取り記録あり)。森さんと辻さんの大きな違いは本を読んだ量の違いだろう。森さんは幼少から本を読み漁り、図書館に入りびたり、中学生か高校生で『ANY会議』を読み切り捨てたとも語る。数年前偶然八戸市美術館で出会ってから佐藤は一推ししている。佐藤は森さんこそ21世紀の建築家であると信じて疑っていない。彼は設計したりすることに身をおかず、現在、自邸を造ろうとしているそうだが、他者に設計依頼しプロデューサーに徹しているそうだ(FB友に教えられた)。琢磨さんは自邸を作る作業はしていないが、改修設計は自身でおこなっていて、造作に魅力を感じているのかもしれない。

上記2人のように、自邸づくりが建築を学ぶ最初の場となるのかもしれない。(聞き取りしてみたいテーマである)
養蚕農家で生まれ育った佐藤が、建築の路に入ったのは幼少期の家の茅葺屋根の葺き替えや、地域の寺の改修工事などにもぐりこんだことだ。詳細は後に書くことにする。
右欄に佐藤の実家、(妻の病が切っ掛けとなり現在も実家との交流を断っているので絵のような建築のままなのかは分からない。)1970年代前半の実家絵を貼っておく。

辻琢磨さんの居宅 で書いたが、辻さんが育った郊外住宅の家と佐藤が生まれた養蚕農家の基本的構成はさほど違わない。右欄に再度民家の構成図を示す。養蚕農家はオレンジのライン、養蚕のかいこを育て繭を紡がせる。2階たての大きな場になっている点が違うだけだ。辻さんの実家はサラリーで家庭経営をしていたので、農家ではないから緑とオレンジのラインの機能が蒸発して田の字型の構成がベースになり変容した型だ。その点を確認すれば戦後日本の家は家内工業的生産機能を捨て、分業化を推し進めた結果、単にサラリーを得、余暇を過ごす機能しか無くなったホーム、建築形式であるとも言えるだろう。ホームが生産機能を失うと、お金に左右されやすい精神性を人に植え付けてしまうだろう。食べ物も身に着けるものさえ自家製で育った佐藤と、全てお金で交換し得る家に育った辻さんでは、35年の年の差以上に、建築で人が暮らすさまを見つめる、眼差しや立ち位置が大きくことなることに異論はないだろう。

村上亜沙美さん篇で紹介したイーロンマスクが提案する家形は日本では普及しないが、辻さんも森さんも体験した、建築の道へいざなう家づくりのような、体験する機会がまったくない人はまだ生まれていない。だが、建築を造る行為から家が商品として取引される商品へ代わるので、作る場は若い人から遠ざけられ、そのことで彼らから建築現場の興味も持たれなくなるのは当然の理だ。
提案されている、イーロンマスク・タイプの家は、フォード型─自ら自動車作りの工員となり自社製品を買い、買うことで給料が上がっていく会社。家でもなく、味噌醤油まで手作りから工業化へかわり、手作りする人がいなくなったことで、食い物の製造過程に興味を示す者が消えたように、家づくりへの興味を持つ者も、消えてしまうだろう。それが近代の発展が至る必然のようだ。



 
辻琢磨さんの実家、小学6年生だとすると1999年頃竣工だろうか

 
 冬景色1970年ごろの茅葺屋根の実家、養蚕農家の居住形態。妻が好きという実家から見える風景
2011年、フクシマの原発事故で放射能が沈着して人は逃げ去ってしまった。



佐藤の実家は住居スペースより養蚕のための蚕室(茶色部)が肥大化し占める面積は9割ほどで、現在の居住形式とはほど遠い。職場の工場で寝泊りしてると解すると腑に落ちるかもしれない。現在は養蚕が廃れ福島県全地域からはこのような家屋は消えつづけ、都市にくらす趣味人たちが改修し住む程度となっている。彼らの現在の居住形式に暮らそうとする発想は理解できないのが佐藤だ。

佐藤が捕えた「建築」

辻さんは自身の設計事務所を開設され2年ほどなので、老化がすすむ佐藤がとらえた建築と並べて語ることは、佐藤の寿命が尽きるのが早いので不可能だと思う。そこで今世紀直前に実現した佐藤の建築を簡単に紹介してから先に進みたい。

二つの建築は右欄の田の字型ダイアグラムから発展させている。20世紀末の建築として建てたものだ。これらは大きな物語ではなく、小さな個人物語が埋め込んであって、普遍性を捨てている。ここだけ、この発注者だけの思いは世紀をまたぎ、現在も使い込まれているが、子供たちへ継承される建築になって寿命を伸ばすのか、それは確かめられない。

1994年設計開始、1996年竣工で、阪神淡路大震災が起きて半年着工を伸ばしたBOX11。この建築は教員夫妻の家なので、田の字型に国家の象徴である日の丸(国旗法ができた)を埋め込み建築化した。

次に、1997年設計開始し、農地転用、開発許可申請で4年ほど掛かって、2000年春に完成した千万家。これは木造建築平屋で、月々の返済金、4万円支払は可能なので、逆算し総予算は千万円で建てようとした。部材を極単純化した建築で、同じ部材の繰り返しなので素人でも工期3年かければ完成するだろうという単純明快な、セルフビルト建設。それを提案したが、融資先の銀行から半年で完成させよ、と拒否されてしまい、請負師にお願いし完成に至った。

box「11は教師と国家の関係から紡いだ、千万家は所得が低い、浮遊する個同士が付かづ離れず暮らせる建築をテーマにし、他者に間貸しも可能で、共存可能建築とした。若い女性から借りたいと申し込まれたりした。box11もそうだが、住み手がいなくなったらツーリストに貸せる建築形式となっている。フクシマの田園地帯を体験する、ツーリズムに役立つかもしれない。

辻琢磨さんの建築については「これまでの建築」、「更新設計」篇で書くのでここでは踏み込まない。

 
boX11南東から観た完成建築 中央の〇は外部となってて物干し場 田園地帯だが洗濯物は見えない




 
千万家    南西から観た完成 分棟形式で廊下は南面は壁が無く開放のまま


建築を学んだことから、建築の実践に書く内容が寄れてしまうので戻すことにする。建築を大学で学ぼうとした辻さんと、佐藤の建築への動機から始めよう。

注意しなければいけないのは日本国内で通用する建築士資格をもたずとも「建築」は造れる。そのことは知っておいてほしい。(chatGPTは、右欄、ガウディとフランクロイドライトを紹介している)

二人の建築への動機の相違)☆

ここからは辻琢磨さんと佐藤が建築を学んだ内容を比較することで、建築を学んだことや、動機、そこにあった時代状況の差異、暮らし方の違い(社会背景)などを書き進めてみたい。

国内では寡占行為である建築設計。それを請け負い金銭を受け取り、設計・監理などを行う者は建築士の資格をもたなければならない。設計事務所を開設することはだれでも始められるが、管理建築士を常勤せよとの縛りがある。例外はあるが設計事務所を開設する者はたいがいが、一級建築士の試験に合格したのち管理建築士の資格を得ることで、建築設計事務所を開く。だから時間もかかるうえにハードルは低くはない。

大学院卒の辻さんはようやく管理建築士となり、独立系設計事務所を開いたのは佐藤が浜松市を訪ねた年だった。実に長い年月が要る。

オンライン聞き取り

2024年10月22日にオンライン聞き取りを2時間ほどおこなった。内容は辻さんが横浜国立大学に入学し、大学院を卒業するまでの6年間について、また建築を学んだ動機などをだ。辻・佐藤による2時間対話記録を元に、辻さんが建築士になるための道のりと佐藤のそれを見ていこう。


小学6年生で実家・建築づくりの際、設計士を知った辻さん

1986年生まれの辻さんは、「建築を作るのではなくって、考えるだけ、設計するだけの仕事があるんだ、と小学6年生で知ったのは、建築の道に入った理由ですよ」、と語っている。高校は浜松市にある進学校をえらび、2005年、横浜国立大学に入学し、同時にロフト付きアパートで、一人暮らしを始め建築の路を歩みだしたそうだ。
学部生の4年間、加えて大学院に入学し2年間、合計6年の間、博士号を持たない著名建築家から、建築設計計画の指導を受け、先生がたから「理念」を学ぶことで、「理念」の存在と重要さを自覚するに至った、と語っている。(右欄にChatGPTがこたえた建築理念)

課題設計の上手い下手が分からなかったそうで、院に入り自主グループ403アーキテクチャーの活動をはじめた。そこでは建築の歴史をもっと実感したいし本を読んでもあまり入ってこない、との思いで、読書会や勉強会をやっていたそうだ。大学3年生の自主グループ「403」の仲間6人で語り合いをつづけたり、学外の建築コンペで「対比のある家」に応募し佳作入選となったり、その後の現在も、自らの建築理念獲得のため役立ったとも語っている。外部に拓く自らの行動が、現在までつづいているので、現在の基礎を作っていたようだ。

その後、卒業設計は非常勤講師の圧に潰されたような感じで精神的に落ち込んでしまい、脱出できず苦しんだという。先生との相性が学生の成長に大きくかかわっていることが分かる発言内容だ。

院へ進んだのは海外インターンが出来ると知ったことだそうだ。でも2年間の多くの時間は腐っていたという。最後の半年でようやく、浜松を敷地にした日系ブラジル人の町づくりで、手がかりを得て、オランダへ1ヶ月インターンに出向き、卒院した。

院では恫喝も受け、多くの時間はもやもやし、仲間二人とともに腐り続けたという。さらに大学の教員が怖いとも語っていて、もやもやしたり、修士で腐っていた長い時間はもったいない。その時間はさほど役立っていないような気もするのだが、教員への恐怖心と尊敬する心を仕分け分解できず、先生との意思は分断され卒業後も引きずってしまったようだ。彼らをいまでもぼくにとっては偉大な建築家だと語る、死んでもくそ野郎どもめが、とは言えぬのは、やせ我慢か外交辞令なのかは不明だ。

現在更新設計という建築理念を手に入れることができたのも、若者には長すぎる長いその期間のもやもや、と恐怖心と尊敬をともなったアンビバレントな学生時代の心身、その苦労の積み重ねがあって、ようやく手に入れることができたとも語っている。(佐藤がそう受け止めただけかな)その点は辻さん独自の辛抱強い発酵の時がながれていた、と受け止めるのは興味深い。辻さんの個性の一つの現れでもあるだろう。


大学で学ばないと建築理念は発明できないのか)ChatGPTの応答、右欄

佐藤は大学で建築学を学んだこともないので、大学生と教授たちの心理的良し悪しの関係には興味がある。今世紀の初頭は特にだが、スクールカースト有り、と叫ばれて久しい。大学の先生に恐れを抱かなければ教えられない、それほどの人格不適格者が教えているのだろう。大学内で力を持っていることは、my子たちが受けた教授たちの行いから推測する程度だ。

佐藤は子供たちが大学で不快な扱いを受けたと知った場合は、そこから逃げるように指示しつづけた。だから研究室を退室し別の研究室に入りなおすことを推した。海外、あるいは別学部で博士号を取得するように勧めた。若者が相性の合わない先生と長時間付き合うのは無意味な時間であろうと断定していた。学びの環境を転換し自分をはぐくむことが賢明だ、という考えかたをして暮らしてきた。
my子たちは、そうとう変わった学生で、先生に従うほど従順には育っていない。my子は先生も扱いずらいようで「勝手にしろ」と吐き捨てられたよ、と語ってもいた。先生の気持ちも分かるが、そういう態度をもろに出せるのは未熟すぎないか。大学人は社会に鍛えられることがないことで、幼児性を継続できてしまうのだろうか。若い人たちを大人の扱いする手法を身に着けていないようだ。my子たちは、たまたまそういう先生に当たってしまったのかもしれない。それなら辻さんのもやもやした、尻も叩かれず澱んだ時間を学生自身が受け入れてしまうのも理解できる。幸い、辻さんがもやもやした時間を過ごしたことで、更新設計という理念が生まれたと受け止めている。何ともつらい状況を経る、断念することでしか更新設計という概念には辿りつかないように想像する。

凡庸で傷もつかぬような若い人には、現代社会に合う更新設計という理念を生むこともできないのは事実だろう。そのことも理解できる。それら詳細は後日「更新設計が生まれた背景」、で検討するので、これ以上深入りしない。

くりかえすが右欄にchatGTPに、建築の理念とは何かなど3点を聞いてみた。3点は建築理念とは何か建築理念がなければ建築はつくれないか大学で学ばなければ建築理念は発明できないのか、この三点を問い、解を右欄に貼った。




ここからは辻さんが建築を学んだこととは異なる、さほど有用とは思えないが、片手落ちになるのは失礼なので、佐藤が建築を学んだ、その道を見ていこう。注意いただきたいのは、生きていた時空に35年の隔たりがあり、ITの有無などにより社会は比較できないほど激変し、浜松市と福島市いじょうに隔たりがある。1995年に始まったIT革命によって激変しつづけ、AIの世に辻さんは成長している。生成AIが成長することで建築を学ぶことから造ることまで変わる移行期だが、古来のように建築が一部の権力者のものでありつづけるのか、平民や貧しい人々の多くに有効な概念になるのか、判断はできない。現在は特定の成功者のための建築媒体が成立しているので、建築を学ぶ若者もそのように刷り込まれ、成功者(法人も含む)のための建築造りに励むことで、収入源を確保しようとしているのだから、益々そのベクトルは太くなる、と推測する。(資本主義下の世の必然)それはさておき佐藤の道のりを振り返りたい。


佐藤が建築士になった道のり

佐藤は阿武隈山地の里山の小さな集落で生まれ育ち、工業高校の建築科を卒業。関西本社で新入社員教育を1ヶ月受けた最後の日に、希望職場を3っ書けと問われたので、全て設計部と迷わず書いた。高卒では俺だけ東京支店設計部に配属された。そこで10年間実績を積むなどし、福島市に戻り独立系建築士となった。
それから10年ほど経った1990年なかばに建築雑誌で特集され、建築家と呼ばれることもあった。今でも建築家と呼ぶ人はいる。だが佐藤は建築家の実感はない。呼称は他者が使うので仕方ないが、建築とそこに関わる人間や社会との関係を、無学者として観察し続けるのは飽きていない。建築設計は思うところありやめてしまい、今世紀に入り、ジャーナリズム(公共圏)について花田達朗先生から学んでいる。

1984年、自邸完成時から始めた建築あそびと、妻の病が重くなった2007年以降は、他者の家に入り込みことば悦覧と名づけた、聞き取り活動を行っていて、老人となった。子供のころからの建築との関り、その後の独立系建築士になるまでの約20年間のことを概観しておきたい。

佐藤が生まれ育った環境は3つの領域で成り立ち、それらの領域を自在に行き交うことが可能な場であった。後々の自邸から千万家までのmy設計建築は、3要素を素直に投影し成り立っている。分かりやすい建築構成なのだが、理解されることはなかった。

佐藤が体験した様
自然(山川田畑)←→(養蚕・生糸生産)←→分校(公共施設)←→自然

辻さんが体験した様
自然(天竜川・浜北原人)←→実家(サラリーマン家)←→(幼稚園など)←→都市

佐藤と辻さんの生きた時間を重ねれば「建築を学ぶこと」の違いが浮きたち、互いが生きた時空を眺め比較し易くなり、相互比較と相対化の初歩として、役立つような気がする。

        

実家周辺の山並みと小学生の頃、杉や松を植林させられ、下草刈の作業もした領域と、屋根をふき替えるため茅を刈り取った場所を、グーグルアースより切り抜いた絵に落としておく。田畑を含む生産の場と自然との交流は日常茶飯事だったので、この記録を書き出すまで、そのことを意識し記憶に止めたことはなかった。(辻琢磨入門によって自覚することができたといえる。)

佐藤が生まれ育った所は、太平洋岸で生産したを福島藩城下に運ぶ道沿いにある小さな集落地だ。福島駅まで徒歩2時間弱だろう。その間には幅広くうねり長い阿武隈川と山並みがあり、生まれた地域の都市化をはばんだ。地形が設置を許すは等高線をなぞるようにうねうねと長い。小学生低学年の生徒には分校なしには通学することが不可能な地域だった。敗戦後は故郷にも引揚者が入植し開墾を自らおこない耕地を拓いた。農地解放により耕地が少なくなったと祖母はボヤいていたが、小作人に慕われていた祖父は農地解放のことを語ることはなかった。

朝鮮戦争による特需によって高度成長の足がかりとなり、1970年代はさらに経済成長は加速し、福島市でも郊外団地造成は盛んだった。自家用車も増え対策として、国道のバイパス工事による緩和策もうたれ、阿武隈川にも多数の橋がかかった。佐藤が幼少時に福島市街に入るためには、阿武隈川の渡し船に乗船するか、塩の道にあった渡舟橋鉄骨橋に代わった松齢橋(右欄に動画)を渡る、この二系統があった。福島駅から実家までの直線距離は短いが、福島市の都市開発の団地造成などの被害には遭わなかった。3・11後は隣地集落の一部が太陽発電場になり、再エネの波が押し寄せている。地形は人の発想と営みに大きな影響を与える、実例を実家周囲の山並みや田畑を見続けていると教えられる。

特に2011年3月11日に起きた大震災と放射能沈着災害は、実家周囲の地域を、文化とともに破壊し尽くし、子供が一人もいない地域となり本校も閉校になった。大人も激減し廃域が約束された惨たらしい場所の一つとなった。いまだ東電と国は実家周辺地域への補償を行う気配もないようだ。

最初に出会った公共建築分校
 
右絵の1958年で子供たち10人は佐藤の分校の同級生(佐藤前列左)だ。複式学級で2人の先生(夫妻が多い)が教壇に立つ小さな分校だった。26年後の分校を取材した記事を発掘したので右欄に貼っておく。

なぜ分校を紹介したかと理由を書くが、この学校は地域の人たちが力を合わせることで、実現に至った経緯を祖父から聞かされていたからだ。地域一丸となって公共施設を自分たちが造った。その分校を皆が大切にした。子供の俺は屋根に上り叱られ、ソフトボールしてはガラスを割り叱られた。学校が終わるとソフトボールやブランコで暗くなるまで使い切った。放課後も利用が許される公共建築と出会った場所が分校である。

同時に分校内にはTV受像機が設置さられ、夕方5時から8時までの時間制限ではあったが分校の予備室がTV鑑賞室とし、地域に解放されていた。NHKや民放の番組を浴びるように観ることで、生まれた地域と都会の差、そして地域の人々が語る社会と公共放送が語る地域の質の差を知ってしまった。大人は時代遅れだと実感することを体感してしまった。
大人たちは優しいけれど、外部の社会とずれていると、最初に疑うことになった。受像機からの情報は、IT社会の情報と比べると貧弱なものだが、それでも佐藤には多大な影響を与えたと、今でも思う。佐藤はTVによって世界の広さを知った。

他方、分校では芝居が演じられた。プロ芸人や地域の人々が演芸会をおこなったこともあり、地域の人々は喝采し大いににぎわった。校庭では映画が上映された。闇夜に分校の壁に白い幕を吊るし大スクリーンとなる。校庭が観客席である。そんな素朴な映画上映室だった。時々フィルムが切れたり、子供が悪役に向かって罵声を発すると、大人たちがげらげら笑って、五月蠅いとは叱らず、大人たちはその子を賞賛した。

分校から脱走する

授業時間の間、同級生10人と分校から脱走し本校の校長、市の教育委員会も巻き込み大騒ぎになったが、家に戻ると父は大声で笑った。大人・先生にも逆らい説得を受け入れない、佐藤の本質にかかわる一面だから面白いのだが、深堀せずこれだけでとめておく。その先生の家を設計して喜ばれ倍の設計料をいただき、おおいに助かった。先生は株取引で儲けていた。亡くなって8年ぐらい経つかもしれない。

本校生徒と合流

一方、本校は5年生になると4kmの道を通うのだが、同学年が学ぶ本校の教室は学級崩壊が甚だしい様で、上級生は、本校に行くと殴られるぞ、と驚かすし、地域の人々は顔をしかめひそひそと語り合うありさまだった。合流してみれば校庭にでると、喧嘩は売られたが、やり返したし。頭が悪いとすぐに分かったので、彼らを押さえるのは簡単だ。さほど時間もかからず、暴れん坊たちはまもなくおとなしくなった。それが第二番目の公共建築体験。初の粗っぽい体験だ。5,6年生になると、分校よりは数倍も広い校庭でソフトボールばかりに熱中した。本校は木造校舎で小中が同居した2階建てだった。本校校舎も地域の人が自力で建てた、と祖父から聞かされていた。毎日床や窓ガラスを磨くのが校舎の手入れだった。まずは清掃、公共施設を使用する者は掃除するという習慣が身についた。

中学が統合するため廃校になる

中学2年が済むと、地域から中学校が無くなり市内の大きな中学校に統合することになった。3年生が卒業する、3年生を送るため自分で書いた文字を読み上げながら、祖父たちが地域の人々と協力して建てた中学校が消えていくのだ、と想った瞬間に涙があふれ大泣きしてしまい、送辞がまともに読めなかった。

地域の人たちのためにも町中の中学校に統合し学ぶ方が、後輩、若い人は育つ、という考えをもっていたので、統合大賛成派だった俺が、最終日に大泣きするとは自分でも想像できなかった。そういう思いでを一生もつことになった日のことは忘れがたい。つまり俺が先輩たちが築き上げた校舎を廃棄するため、ひと役を担った責任、それを自覚し何をおこなっのか分かり、痛感してしまった。地域の歴史の一端を閉じることを担うことは、中学2年生にも辛いことなのだ。その思いは今でも消えずに残って、時々思い出す。あの時の俺の判断は本当にまちがっていなかったのだろうか。 間違えていた、と思う。

地域のインフラを皆で整える

■地域には電気が来ていない時期が長かったようで、祖父や仲間が電線を買いに秋葉原まで自動車を走らせ、電柱を立て、電線は東北電力が配線したと祖父は語り、功労金として東北電力の株券をもっていた。地域の人々がインフラを整える具体的な仕事を聞かされ育った。作業に関わった大人たちが集まると話題にのぼり、何度も聞いた。水害に遭えば道を整えるため地域の大人たちは総出で、早朝から作業をし終え、通学に差しさわりのない道に仕上げられていた。地域の人々は大雨に遭えば荒れる場所を知っていたので、皆そこに集合したわけだ。道路も公共建築も自らが整える人の姿が、佐藤の幼少期の原体験で、幼少期から道の整備作業にも参加していた。参加させられていたのかもしれないが定かでない。地方税も潤沢でなく建設業者に通学路の復旧工事を発注する余裕がなかったからかもしれない。

前川國男や大高正人などの手になる、福島県教育会館の工事作業写真を調査すると分かることだが、予算が無くて、教員が給料から一定金額を寄付しつづけ、他方父母たちは作業員として工事現場に入り土方のような仕事をなしていたことが分かる。税金が無い世では自らが作業するのは当時の当たり前のことだったのだ。同様に、福島市内で初めて鉄筋コンクリート造3階建て校舎をもつ清明小学校。その工事記録(市立図書館・蔵)を開くと、父母たちと教師たちと一体となり工事の後方支援をして完成に至ったことが記録されている。記録から、皆で公共建築を造る姿が立ち現れて感動を誘うのだ。

 

@ 建築の理念」とは何か、そのことを教えてください

ChatGPT
「建築の理念」とは、建築という分野において建物や空間を設計・構築する際に根底となる哲学や考え方を指します。この理念は建築家やプロジェクトに応じて異なりますが、一般的には以下の要素が含まれます。

1. 機能性 (Functionality)
建築物がその目的を果たすために適切に設計されることが基本です。
例: 住宅は住みやすさを、オフィスは作業効率を、学校は学びやすさを重視。
2. 美的価値 (Aesthetics)
建物や空間が視覚的に魅力的であること。これは形状、材料、色彩のバランスに影響を受けます。建築の美しさは文化や時代によって変わることも特徴です。
3. 持続可能性 (Sustainability)
環境に配慮した設計が重視されています。エネルギー効率、再生可能資源の使用、地域に適応したデザインなどが含まれます。

4. 文脈との調和 (Context and Harmony)
建築物がその場所や地域の歴史、文化、自然環境と調和すること。これにより地域社会との一体感が生まれます。
5. 人間中心設計 (Human-Centric Design)
建物や空間が利用者の身体的・心理的ニーズに応えるように設計されること。快適さ、安全性、アクセシビリティが重要です。
6. 社会的・文化的役割 (Social and Cultural Role)
建築は社会の中で象徴的な役割を果たすことがあります。例: 教会や寺院、公共施設は特定の価値観やアイデンティティを表現することが多いです。
7. 革新性 (Innovation)
新しい技術や材料、建築手法を取り入れることで、未来の建築を形作る挑戦が含まれます。

例としての有名な理念
ル・コルビュジエ: 「建築は機能の機械である」という合理主義的アプローチ。
フランク・ロイド・ライト: 自然と建築の融合を追求した「有機的建築」。

日本における例
数寄屋造り: 日本の伝統美と簡潔さを表現。安藤忠雄: 光や空間を重視したミニマリズムと現代建築。
建築の理念時代文化個々のプロジェクトによって変化し続けるため、建築を考える際にはこれらの要素を総合的に理解し、自身の目的に合わせて適用することが求められます

A建築の理念が無ければ建築は造れないものでしょうか

ChatGPT
建築の理念が「全くない」状態でも物理的には建築物を造ることは可能です。しかし、その結果は単なる「構造物」にとどまり、「建築」としての深み意義に欠けるものになるでしょう。以下に、建築の理念がない場合と、その影響について考察します。

1. 機能的には造れるが目的意識が薄れる
理念がなくても、建築物は技術的な計算と材料を用いて構築できます。しかし、その建物が利用者のニーズを満たし、長期的に価値を持つものになるかは疑問です。
例: ただ空間を仕切り、屋根を乗せたものは「建物」とは呼べても、それが心地よい「家」や役立つ「オフィス」になるとは限りません。

2. 美的価値や文化的意義が欠ける
理念がない建築物は、見た目や空間の調和を意識せずに設計される可能性が高いです。結果として、文化や地域と調和しない無個性な建築物が生まれることがあります。
例: 無秩序に並ぶ無機質な建物が都市景観を壊す。

3. 利用者に不便をもたらす可能性
理念がない場合、利用者の快適性や安全性が考慮されない可能性があります。これにより、利用が難しい建築物や、環境負荷が高い建築物が生まれるリスクがあります。

4. 持続可能性が無視される
持続可能性や環境への配慮といった理念が欠如すると、長期間にわたり運用可能な建築物を作ることが難しくなります。資源の無駄遣いや環境破壊を招くことも考えられます。

建築の理念が持つ役割
建築の
理念は、単なる技術的な構造物を超えて、人々の生活に価値をもたらすものを創造するための指針です。
理念は建築家や設計者の「意図」を形にします。
社会や文化、環境に調和した建築を生み出すための基盤となります。
時代を超えて評価される建築物は、必ず何らかの理念に基づいています。

結論

理念がなければ建築は「可能」ですが、「良い建築」「意義ある建築」を生むことは難しいと言えます。建築はただの物理的な構造ではなく、人々の生活、社会、環境に影響を与える重要な存在であるため、理念がその質を決定づけると言えるでしょう。


B大学で学ばなければ建築理念は発明できないのでしょうか

ChatGPT
大学で建築を学ばなくても、独自の建築理念を発明することは可能です。しかし、大学での学びが建築理念の形成や発展に役立つのは確かです。その理由や、大学外でも理念を生み出すための方法について考えてみましょう。

〇大学で建築理念を学ぶ利点
基礎知識と歴史の習得
大学では、建築の歴史哲学成功した建築家の理念に触れる機会があります。過去の知識を基盤にすることで、新しいアイデアを形成しやすくなります

技術的スキルの習得
設計や構造の技術、環境デザインの知識は、理念を具体的な建築物に変える力を与えます。大学はこれを体系的に学べる場です。

批評と議論の機会
教員や同級生と議論することで、独自の視点を磨き、理念を深めることができます。

アクセスできるリソース
図書館やスタジオ設備、実地経験(インターンシップやプロジェクト)は、理念の試行錯誤に役立ちます

大学以外で建築理念を生み出す方法
大学教育がなくても、以下の方法で独自の理念を発明することは可能です。

〇経験を通じた学び
建築現場や職人のもとで働きながら、実践を通じて建築について深く理解する方法があります。多くの歴史的な建築家は大学に通わずに成功しています(例: アントニオ・ガウディは建築学校で形式的な学びを深めませんでしたが、独自のスタイルを確立しました)。

独学とリサーチ
ドキュメンタリー、オンラインコースを活用し、建築に関する知識を自主的に学ぶことも効果的です。特に建築の歴史や哲学は、独学でも十分に学べます

〇自然や環境からのインスピレーション
自然現象や地域文化、環境との関係性を観察することで、独自の理念を生み出すことができます。例: フランク・ロイド・ライトの有機的建築は、自然観察から生まれました。

異分野との融合
芸術、工学、哲学、心理学など他分野からインスピレーションを得ることで、新しい建築理念を開発することが可能です。

批評的思考と試行錯誤
現代建築の問題点を批評的に捉え、自分なりの解決策を試行する中で理念が形成されます。

重要なのは視点と意志
大学は、体系的な知識や環境を提供しますが、理念そのものは「自分自身の視点」と「意志」から生まれます
建築理念を形成する鍵は、「何を大切にしたいか」「どのような社会や環境を作りたいか」という
自分の問いを見つけ、答えを模索することです

〇結論
大学は建築理念を発明するための効率的な場ですが、必須ではありません。
重要なのは学び続ける姿勢と、独自の視点を持ち、それを建築として表現しようとする創造力です。大学に行かずとも、独学や実践、自然や文化への洞察を通じて、自分自身の理念を発明することは十分可能です。


 1984年5月5日朝日新聞福島版記事 





放射能沈着後 戻った人の動画





佐藤制作 松齢橋










佐藤制作 福島県教育会館


建築に関わる(あるいは学ぶ)

茅葺を手伝う

辻琢磨さんが体験した実家新築のような建築造りの場に、佐藤は立ち会うことはなかった。強いて記せば茅葺屋根の葺き替え工事には参加した。屋根をふき替えるには茅場から茅を刈りだし、葉を払い一定の長さに整え工事に見合う量の茅を確保する作業を済ませなければ成せない。子供にはチクチクと痛痒を伴う作業だが、面白く参加した記憶が奥底に保存されている。茅葺職人たちは近所の農家を副業とした大人、数名が、主導で家族親戚一同で、家の周りに丸太足場を組む。次に顔面から身体まで煤で真っ黒になりながら古い茅をはぎ取り、新しい茅に置き換える。屋根のてっぺんから見下ろす機会はそれだけだが、特別な視線を獲得したような、お祭り気分だった。新しい茅葺作業は下から開始し、茅を躯体にくくり付けながら最上段に至り棟を整えてお仕舞。その後は最上段から大きな茅刈バサミの刃物で表面を整えながら刈り下る。見慣れた茅葺屋根の優美で生物に似た表面が徐々に下段まで下りてくる。軒先の刈あげ仕上げは数名の職人たちが刈る。仕上がると丸太足場を解体したり、刈りくずの茅を集めたり、子供でも作業は手伝うことができる。

お寺の屋根を葺き替える

実家以外の葺き替えで思い出すのはお寺の屋根葺き替えだ。作業工程は同じであり、小学生高学年の子供でも申し出れば建築現場の雑用でも手伝わせてもらえた。工事現場が好きだったのだと思う。

中学生になり現場にもぐりこむ

中学生になるとNTT(昔・電電公社)中継局のRC打設にアルバイトで入れてもらった、日当は500円だった。辻さんはレストランバイトで時給850円だと語っているので、土方バイトは時給63円ほど。佐藤のバイト代は35年ほどで14倍弱に高騰したことになる。

NTTの工事現場から往復1.5時間ほどの工業高等学校の合格発表を見にいった。工事現場の職人たちの中には中卒で同世代の職人たちが現場に住み込んで働いていた。1960年半ばの現場は、2024年の建築工事現場とは様相が全く違う。コンクリートミキサー車も圧送ポンプ車もないので、工事現場にバッチャープラントを設け、タワーを建て高層へと生コンを搬送していた。中卒後の春休みのバイト代で製図用品を手に入れた。また冬休みには黒川紀章著『行動建築論メタボリズムの美学(1967年12月1日第2刷り)を市内の書店で見つけて購入し、読んだ。価格は650円で1日のバイト代500円では買えなかった。

電電公社の工事現場は施工管理者をふくめ職員が6名ほど常駐していた。だから工事管理がしっかりできていて、あれから57年経過しても現役建築なのだ。

高校3年で体験したまるでダメ建築は福島市の発注した養老院で、コンクリートブロック造り平屋建てだった。工事現場の長は建築の基礎を全く知らないで現場を担当していた。設計管理者も杜撰であった。10年後に観にいったら解体されていた。酷い工事管理を具体的には書かない。けど、高校の3年間を建築現場でバイトすることで、現場という建築を造る場がどうなっているか、観察してしまった。
そういう体験を積み、中堅ゼネコンに入り建築設計部にもぐりこもう、と決めた。希望は3つとも設計部と書いて、受け入れなければ辞職して次を考えようと決めていた。さらに黙っていたが10年実績を積んだらゼネコンを辞職することを入社時に決めていた。

1970年から社会人19才となる

大阪万博が開催された1970年から1980年まで東京支店の設計部で実績を積みながら、よその設計事務所から頼まれて、バイトしまくり、家族を養い続け、スパッと東京を離れた。だいぶ粗っぽいが佐藤はどこで建築の理念を学んだのだろうか、書き進めてきたが浮かび上がらず。
佐藤の暮らした地域のある建築や建築工事現場の数々を経てなんだろ。自己流、あるいは叩き上げで、知らず知らず建築の様を知ってしまったのかもしれない。

丹下健三による(+川合健二など)旧東京都庁舎には、19才から29才まで、建築確認申請を提出するたび連日のように通いつめた。RCの躯体と岡本太郎の作品がもたらすハーモニーは魅力的であった。なまめかしいのである。万国博覧会のお祭り広場(磯崎新)をあげるまでもない名コンビだったが、中学3年で訪ねた国立代々木競技場、第一、および第二体育館分校と似た機能、(公的+私的領域)を可能にしている、大都会で最初に出会った公共施設でもあった。

恵比寿駅の目の前にあった社員寮で暮らすようになった1970年からは、2つの体育館のRCの躯体に下で彼女とデートを繰り返すこともできたし、(抱き合って見上げると良さがわかるよ)、プールで泳いだ。(実家そばに沼はなかった)、また第二体育館にはバスケットボール、第一ではバレーボール競技の大会を観に行った。実家の野山分校のような位置と機能の関係で、しょっちゅう通ったもと軍の練兵場の跡地である。なかでも第一体育館の内部のエロい生命体の内部のような構成にはしびれるほかなかった。理由もなくただただすごいRC+吊り構造でつくられている身近で19才の日々の生活にある公共建築となった。現在もこれらの建築と明治神宮とれんどうした様は日本ではこの場をしのぐ公共性と市民の活動の可能性を兼ね備えた建築と場はないと思っている。(外国人が流入し夜間閉鎖の対策はかなしい、もったいない)右の欄に修学旅行で撮った(前列右から2番目佐藤)をはっておく。敷石は廃線になった都電の敷石だ。

丹下健三や愛弟子たちの建築以外にも東孝光の塔の家、浅田孝の子供の国、林昌二による数々の都内にあった建築、内井昭三の桜ダイコートビレッジを観に行いくなどし、さほど時間が掛からず、「ゼネコン設計部の限界を知ってしまった」、と思った。(右欄にゼネコン、東京支店設計部の哀歌を紹介しておく)設計部員は安藤さんの図面も書いていたが、独立系建築家の問題も、建築家の作品の素晴らしさも、知っていたが語る場はなかった。10年たらゼネコン設計部を退社すると決めていたのは佐藤には間違っていないと確信するに至った。さて独立系になったらどうか、それはいずれ書く機会がおとづれるかもしれないがここまでとする。

設計行為から言葉(公共圏 建築スフィア)へ

今世紀に入り、思うところあって建築設計から離れた。悔いはない。なぜなら建築に関わる人を観ることが好きで、観続けているとの確信があるからだ。建築の理念や才能は学問を積み重ねても、生まれ出てこないし、スクールカーストが強い国内にあっては東大卒以外は野良犬のようなもので、国家や行政権力が発注する建築に公共性を育むには民度が無い、だから建築家も成長しにくい、独自の理念も生み出せない、と思う。

それらは複合的、有機的に生きる可能態であり、社会の変化にともない柔軟に変容し続けるなかから飛び出てくるのかもしれない。理念を手に入れたと思った瞬間に「建築」は保守的な人を置き去るほど、社会に生き続ける可能態なので個人の努力には限界があるだろう。さて社会性、国際性をもつ柔軟な建築士制度を構築できるか、3年に一度定期講習と試験などでは成せない、それは社会に問われている課題の一つである。


工業高校建築科で暮らし、エピソードをたくさん持っているが、割愛する。高卒した1970年19歳で東京の恵比寿駅そばにあった、東京支店設計部で働いた10年間も、たくさんの学びがあった。同時に面白い話もたくさんある、いずれ書く機会があるんだろう。建築を学ぶこと篇はこれでお仕舞とする。


  
 右バイト現場だった建物は現在も現役である 大きいRC造 左:web地図でみる電電公社  


  

右:高校卒業間際に監督に泣きつかれ基礎工事を手伝ったリンゴ畑の中にあるリンゴ倉庫、鉄骨造



■2024年12月2日FB投稿
高校一年で、人生初、手に入れた建築本、黒川紀章著『行動建築論

土方バイト(日当500円)して手に入れた初建築本。工業高校1年生の冬だった。建築を作るにあたりこのような発想で設計する人間がいると初めて知った。黒川さんをあこがれたことはない。タカラ・パビリオン、中銀ビル、寒河江市庁舎は観にいきました。理由は不明だが意識高い系の建築有識者には評判が悪い。生・黒川さんには一度、岩手県のデザイン会議で会った。女優があこがれるだけの男だと思った。京大卒の建築人は黒川さんも一つのモデルになった時代もあったと推測する、なにしろテレビ週刊誌、新聞にでる、著名度では磯崎新さんと双璧をなす丹下健三の愛弟子だからね。(男の嫉妬は醜いよ)

■工業高校でこれを読んで語ると先生に大いに白眼視されたので、一切語らないで2年間過ごした、入学した学校を間違えたと思ったけど、時すでに遅しだった。人生間違え、逼塞した時をもつのもよいのである。怒りをガソリンに建築現場でアルバイトしまくった。建築現場ってひどいことになっていると身をもって体験したのでよしと。現場バイトしてることも黙って過ごした。現場では大人扱いされ酒も飲むのだがバイト代は婦人と同じだった、怒りはなかったよ。




東京支店設計部の歌

すえは丹下かコルビュジェか 夢見て入った設計部
予算と法規に縛られて 出来た図面にまた涙