入門シリーズ 2024 佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 | ||||||
辻琢磨 入門 「建築的更地なき世代」と自覚し自身を拓き浜松に生きること |
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01 出会い | 02 生い立ち | 03 辻琢磨さんの居宅 | ||||
04 村上亜沙美さん | 05 建築を学んだこと | 06 建築を教えたこと | ||||
07 これまでの作品を観て | 08 「更新設計」が生まれる背景 | 09 浜北高校サッカー部友と20年 | ||||
10福島原子力発電所事故現場に立っ | ||||||
■福島原子力発電所事故現場に立つ 佐藤が前立腺がんを発症した後,辻琢磨さんは「死んでもらっては困る・・・」、とのことで佐藤の様子を見たり、佐藤自邸に泊まるために訪ねてきた。2泊3日過ごし、ワイワイしたり原発事故現場に行ったり、大熊町役場を訪ねたりし、奥さんの実家がある栃木県に戻った。2023年6月11〜13日のことである。 東京電力福島第一原子力発電所(事故後は特定原子力施設という)事故現場に立つために佐藤を訪ねてきた知人は辻さんだけだった。発災直後 、建築系の人々ではROUNDABOUTJOURNALのメンバーが見舞いに来たので、飯館や浜通りの被災地を見学して歩いた。 3・11発災ののち長年聞き取りしてたので、義援金が送られてきて、「お前の活動は俺の活動だ」ということで、佐藤は被災地に入り、被災古建築の応急措置や、津波で被災した港町づくりを支援した。そのさい一人では活動できないので呼びかけながら、義援金を送ってくれた関西圏、東京圏の知人に報告しあるいた。東日本大震災のショック効果だろうが、東大や東京芸大にも呼ばれたので、被災地の状況をお伝えし現地に来てとも語った。が放射能に対するアレルギーが強い、ということで呼びかけた大学からは誰も、フクシマにやってこなかった。 辻さんは浜岡原発が近いことと、佐藤の見舞いや知人の働く場所を見回る。予想外だったろうが佐藤の私案である放射性廃棄物を長期保存するためなどの町、「護福まち」を説明しに大熊町と双葉町役場を訪ねた。辻さんは車の中で待っていると思ったのだが、佐藤に付いてきた。佐藤は行政の人配置転換が激しいので説明の効果は、ほとんど無いと考えているのだが、儀式として佐藤には必要な行為だった。辻さんは私案説明巡回活動を、背中越しに見ていたような気がする。それは辻さんにも、現場に立つことでしか聞くことがない、飾らない生の声を聞くことができ、思わぬ経験になったのではないだろうか。佐藤は付いてくるとは思わなかった。家に戻ると役人さんへの態度が佐藤があまりにも無礼なので指導した、と妻に報告していた。それを聞いて妻は大笑いした。 辻さんは浜松市にもどり、2泊3日のフクシマでの体験感想をFBに投稿しているので、ままコピーし辻琢磨入門の番外編の中に註も加え記録保存することにした。辻さんの投稿を読んでいただければ嬉しい。 |
![]() 2023年6月12日1号炉を背に |
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■備えあれ! 中部電力浜岡原子力発電所近いね 浜松市に暮らす人々は浜岡原子力発電所に近い。事故がおきれば30KM前後では風向きと降雨によって放射能沈着の運命は決まる。 佐藤の暮らす、福島市と福一原発との距離の半分しかない。浜岡原発から放射能漏れ事故が起きた場合、浜松市と浜岡原発の間には放射能を遮りそうな地形は何もなく、遠州灘から海風そして山風がとどめなく渦巻吹くことだろう。浜松市の放射能沈着は雨と風向きによる運次第だ。福島市の放射能沈着被害より多い放射能沈着は想定できる。 南海トラフ地震や関東大震災などによって引き起こされる津波などの直撃があれば、帰還困難者が多数発生してしまうのではないだろうか。 浜岡原発は防潮堤をかさ上げした、とは聞くが、被害は震源地の場所にもよるので非常時の防災グッツや食料と燃料の備蓄はすべきだろう。加えて事故が発生した場合の心構えを学んだり、福一事故の跡をたずねたりし、事前に話合い原発事故後の被災地で必要な知識を共有すべきだと思う。 原発事故が起きたら、風向きと降雪、降雨の有無を予報で知ることで、放射能と放射線が降り注ぐなか移動するより、静かに屋内退避することのほうが、心労と被ばく量は少なく抑えられるのではないか、と佐藤は体験から想像する。食料と知識の備えも欠かせないが、日々つとめ重ねるしかない。 佐藤は、妻の病は環境をかえてしまうと悪化するので、宮城沖地震で福一原発事故を想定し、逃げないことを決めていた。避難指示があっても従わない決意で、事前に東急ハンズからサージカルマスクを買いそなえた。また米、薪燃料は備蓄していた。 水は発災の日に、風呂桶と700L入るポリバケツを備えていて、断水になるまで2時間ほどで飲み水を貯めた。米は1年分確保していたが、おかずが10日ほどで切れ、その日からはスーパーのレジに1時間半ほど並ぶことになった。闇ガソリンが天井知らずの高値になった。電気は1日で繋がったが、太陽光パネルと、蓄電池があれば、webにもつながり携帯電話も使えるので所有しているほうが賢明かもしれない。 以上が原発そばに暮らしている人にお伝えしたいことだ。(具体的な福島での佐藤の活動などは、発災2011年3月11日から佐藤の日記を参照ください。) ![]() |
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■2023年6月16日辻琢磨さんによるFB投稿 (以下公開されている全内容をコピペし註などを加えた) (以下カッコ内書き込みは佐藤が加えた) 「卵の建築家とフクシマ」 福島に佐藤敏宏という建築家がいる。現時点で、私にとって最も歳の離れた友人である。 佐藤さんは、分かりやすく言えば20世紀終盤には植田実に見出されて(註1)『建築文化』という雑誌に特集を組まれるほどの建築家だが、21世紀に入ると建築の実務を離れ、さまざまな建築の若者に聞き取って文字に起こし、自作のウェブサイトfull chinで公開するというライフワークを20年以上続けている 千万家という、1000万円の予算で建てた「1000」の平面形状を持った(千万家もあるが佐藤はBOX11を推す)怪作が代表的な作品である。 自分は、佐藤さんとは、15年ほど前、私がまだ大学院生だったころに、当時若手建築家だった藤村龍至さんを中心としたTEAMROUNDABOUTが主催していたイベントLIVE ROUNDABOUTJOURNALに文字起こしの協力で参加していた時に出会い、気づけば独立してからも何度か聞き取ってもらっているし、昨年、浜松の自邸にも来てくれた。第一印象は変なおじさんだなという感じで、踏み込まないとそれ以上の印象は受け取れない。踏み込めば踏み込むほど、只者ではないことが分かる。そんな人である。いつぞやに村上春樹が壁と卵の話をしていたが(エルサレム賞のスピーチ)、佐藤さんは、それはもう完全に、紛れもなく卵側の人である。 ▼辻の記事 大学での建築教育を受けず、中学時代から土方でアルバイトしながら、建築に目覚めたという。 ▼佐藤年表(自作) 2024年1月五十嵐太郎先生に誘われシラスで語ったときの年譜) で、自分もいつか佐藤さんを聞き取りたいと思っていたのだが、今回は佐藤さんが前立腺癌を罹患したということを聞き、聞き取る前に死んでもらっては困るということで思い切って福島を訪れることにした(実際は存外にお元気だった。)。 で、福島の数少ない知人である、震災後、楢葉でまかない付きシェアハウス食堂を運営する古谷かおりさんにも連絡したところ、古谷さんが楢葉で培ってきたネットワーク経由で福島第一原子力発電所(現在の正式名称は特定原子力施設、以下イチエフ)を見学できる、とのことになり、佐藤さんにも話したら是非行きたいということだったので、一緒に行くことにした。 (原発視察後は、古谷さんが拠点を構える楢葉にも伺い、まかない付きシェアハウスkashiwayaや、古谷さんが楢葉に根付くきっかけとなったスナック結のはじまりにもお邪魔させてもらった。古谷さん、有難うございました) ▼kashiwaya 佐藤さんへの聞き取りは(6月12日)、福島市内〜イチエフの車中で実施した。音源をどう公開するかは改めてゆっくり考えたい。 ちなみに、福島滞在中二泊させていただいた佐藤さんの自邸は、素晴らしい建築だった。 関西のゼネコンを退職し、独立直後、1984年。32歳でつくったのだというから驚きである。躯体はRC造で仕上げも兼ね、ダイニング、リビング、玄関、子供部屋、階段、地下室、それぞれに建築的な発明があった。38年の歳月を経て、その作品性は明らかに増しているように思えた。38年前は私はまだこの世にいないので、経験できていないが、竣工時点が最も美しい、ということではない類の建築であることは確実だった。 奥様の野菜たっぷりの手料理と福島の酒をいただきながら、佐藤さんが8割話し、自分は2割適格なタイミングで意志ある会話を差し込んだ(佐藤さんと話していると変な緊張感があるのだ)。 東日本大震災直後は、福島市内の佐藤さんの自邸にも放射能が降り注ぎ、佐藤さん自身で除染作業もしたという。 で、佐藤さんは今年に入って(癌が発覚したこともあって?)、冥土の土産案として、福島第一原子力発電所と第二原子力発電所とその周辺地域や海を巻き込んだ壮大な計画を進めている(フクシマ護福都市 護福まちとう放射能廃棄物をストックするためのまち)。 |
(註1)佐藤は1991年渡辺豊和さんの自邸に2週間ほど泊めていただき、渡辺初期建築をしらみつぶしに観てあるき、直接感想を渡辺さんに語った、なんだか喜んでいた。 その後、渡辺さんに誘われて世界の遺跡巡りをするようになった。(1992年メキシコ篇記録)。 94年3月、カンボジアのシェムリアップにあるアンコールワットを観に行った。ツーリストでも、まだゲリラに威嚇発砲を受けるほど安定していなかった。「アンコールワットに行くからお前の建築作品写真をもってこい」といわれた。まずいことになった、それは佐藤は建築家と称されることに何のこだわりもない、ゼネコン上がりの独立系・建築士だったからだ。見せたとたん、「バーカ・・・このまま建築文化に送れ」と渡辺さんに指示された。逆らうこともあるまいと送った。 建築文化から直ぐ連絡が入り、編集長が一人で観て回った。数日後、担当編集者が植田実さんを連れ来福した。また同じルートをまわった。植田さんのコメント付きで特集が組まれた。「皆にあこがれられる」と担当者は語っていた。特集が届き目を通してみると植田さんだけは佐藤の建築を理解できていると思った。本物の批評家に会ったわけだ。 その他の人はまったく理解していないと思っていた。30年過ぎたがそのことは変わっていない。要素がたすう重なってなる建築を理解するのは簡単ではないのだろう。 新作できたら必ず送れといわれたので送っていたら、BOX11が表紙になって驚いた。 |
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そんなこんなで、翌日、さあいよいよイチエフを視察。建屋1号機-4号機の目前まで近づけた。一番驚いたのは敷地内で作業に当たった車両が放射能汚染され敷地外に出せないので敷地内に大量に残置された風景だった。廃炉作業に従事したあらゆる物質が放射能に汚染され、核廃棄物となり、今日も核廃棄物処理作業に従事した何らかの物質が核廃棄物になっている。海洋放出が検討されるALPS処理水は氷山の一角である。 原発は冷やし続けなければメルトダウンする。冷やすには水(とそれをポンプアップするための電気)が必要である。皮肉なことに、原子力発電の安全神話は、電気それ自体に依存しているのである。3.11に起こったイチエフのメルトダウンも、想定外の高さの津波による全電源喪失がその最大の原因と言って差し支えないだろう。 (その後FBにて、「福島原発を襲った津波の高さは想定外≠ナはなく、2008年の東電関連会社による調査で想定されていた事実がある。」というご意見も頂戴した。どの情報が真実か、最終的な判断は読者に任せたい。それを考えること自体も意味が大きいはずである。) 恥ずかしながら、そんなことすら知らなかった。 重ねるが、イチエフは実際にメルトダウンが起こった現場である。訪れてみると、まず被曝線量の数値に対する身体感覚が身につく。レントゲン一回分が50μSvだとして、というところから理解し、空間線量計がところどころにあり(高速道路にもあります)、付近は概ね0.1-1.9μSv/hで推移。敷地内の最大線量は建屋前の高台で約60μSv/h、10分程度その場に滞在したので実質10μSv。レントゲン一回分に満たない。敷地内では約5000名が今も作業しているし、2000μSvの建屋の目前でも作業に従事している方もいた。命懸けである。 建屋内は人間が近づけるレベルの線量ではないためロボットに頼っているそうだ。ようやく最近50cmの隙間に22mのロボットアームで、数グラムのデブリ(メルトダウンした燃料棒で全部で88トンあるらしい)を取り出すことに成功した。数グラムだが大きな一歩と呼べるのであろう。 ▼佐藤さんによる原発視察レポート 要するに(付け焼き刃の知識なので簡単には要せないことは承知しているが)イチエフ廃炉の課題は、デブリの取り出しという本丸と同等かそれ以上に、その取り出し作業に関わることで汚染されたあらゆる核廃棄物の処理と、土壌汚染による除染作業で出た汚染土(現在は原発付近の中間貯蔵施設と呼ばれる元畑や林に一旦仮置きされている、施設と呼ばれるが実際には大地である)という、廃炉を進めれば進めるほど生産され続ける放射能汚染ゴミをどこに置くかという問題であった。そして今の所、それらのゴミは敷地の外に出せないので、敷地内と周辺の「中間貯蔵施設」に溜まる他ないのであった。放射能ではなく、あくまでも人の手によって「マテリアルの流動」が強制停止させられる、物質の墓場である。 ちなみに、佐藤私案は、その核廃棄物を、水と、土と、瓦礫に分別し、それぞれ慰霊塔(福島の震災関連死者数2320人と同じ本数あり、処理水をセメントに混ぜてコンクリートにするのだという)、250m角の海上ピラミッド、発電所跡地を取り囲む巨大な卵型の枠(大きさは皇居がすっぽり入る、枠線の幅が160m)に安置するというもので、驚くべきことにこの日の視察の印象と一致した。佐藤さんも今回が初めての視察であった。 (佐藤さんが勝手に作詞したプロモーションソング、歌い手募集中だそうです。護福人よおきて という祈願歌 作曲はサーンス 震災後12年間、フクシマのことは完全に他人事だったが、佐藤さんを経由して少しだけ近づいた。フクシマの入口としては、ネトフリのTHE DAYSがおすすめである。知れば知るほど途方もなく絶望的な状況だが、知る、ということの影響は現代においては異次元に大きな情報だとも感じる。 原発視察後、佐藤さんが私案を近隣の大熊町役場と双葉町役場に見せたいというので、同行した。そこで、大熊町の職員の方が、中間貯蔵施設や原発の敷地内のことは、国(環境省)と東電の管轄なのでうちでは判断が難しいです、と、そう言わざるを得ないような発言をされた。その中で「これは町民だけの問題ではなく国民全体の問題なんです」という言葉があり、僕は部外者として佐藤さんに同行していたが、自分も日本国民だったことに気づいて、恥ずかしかった。 ともあれ、佐藤さんとの議論は何故か楽しい。 彼は建築家を自称しないし、自分を友人と捉えているかもよく分からないが、私にとっては尊敬すべき建築家であり、同時に歳のだいぶ離れた友人である。 |
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