入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと   07 これまでの作品を観て   08 更新設計がうまれる背景
 09 福島原子力発電所に立った人  10浜北高校サッカー部友と20年  
         
 10 浜北高校サッカー部友と20年間
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1972年20才、ペレの放ったゴールキックを俺は観た 

1972年5月26日、結婚を半年後に控えた佐藤は、仕事を終え恵比寿駅から千駄ヶ谷駅に向かった。目的は丹下健三が設計した旧国立競技場の、向こう正面中央の高段から、神様ペレを観ることだった。チケットはダフ屋から買った。それは妻がプロ野球好きで、後楽園球場に入るためにダフ屋チケットが当たり前だったからだ。予約などしないし、前売り券を買うわけでもないが、首都に暮らす者は、スポーツイベントに限らず、文化的な催しに参加するのは簡単におこなえた。

その日、ペレが放つだろうゴールキックを観にいったわけで、全日本選抜チームを応援しにいったわけではなかった。観客の多くも神様ペレを観に集まっていたきがする。彼は当時は世界に名を馳せたアスリートだった。

その日のぺレのゴールキックを観た。全日本選抜チームから奪ったあの一本のキックは今でも目に浮かぶ、そんな気がする。52年ほど経ったので佐藤の記憶は粉飾修正されているだろうが、こんな動きだった。後方からペレを目掛けて大きくパスされた。そのボールを自陣を向いてペレは軽く胸で受け止める、と同時にコートに落ちていくボールを足で軽く浮かし自分の頭を越す。回転するやいなや、そのボールをボレーシュートし、ズバリと決めた。そのような一ゴールだが、両チームの技の差を素人でも分かった記念すべきゴールシュートだった。その記憶を今でも持ち続ける者は、あの日国立競技場に集まっていた、6万人だと思ったが、生き残っている者は1万人もいるのであろうか。

あまりの鮮やかさに口あんぐりのまま阿保のように観ていた。ペレは執拗に迫る守備陣を難なくフェイントでかわす、日本のディフェンス陣はボールが消えた?と思った、その瞬間に背中に現れ、1点奪われてしまった。マジックのような鮮やかなゴールだった。まるで日本選手を子ども扱いしているようにも見えた。

後に現れるロナウジーニョが繰り出す高度な技ではなかった。ペレの1972年のテクニックは、現在の日本プロ選手ならできて当然の技だ、と鼻で笑われてしまいそうだ。あの日はサントスFCの選手たちの技に見入り、─ペレに限らず日本選手とのあまりの技術の差─ 何度も、阿保のように口を開いたままの観客だらけだった。ただただ驚き、帰宅の道もその話題で尽きない、人生で忘れないサッカーの一ゴールだ。

代々木駅そばに暮らしていたこともあり、丹下の国立競技場は徒歩圏内だったので、何度か観戦に行ったのだが、次に思い出すのは陸上のスーパースター、カール・ルイスを観に行ったこと、他は記憶が蒸発してしまって思い出せない。

佐藤が社会人になったばかりの1970年代、日本にはJリーグはなく、ヤマハ発動機や新日鉄、古川電工などの企業内のスポーツクラブ・チームから集められた日本代表。実業団チーム内選手だから、半プロとでも言えば分りやすいだろう。この50年の間日本はモノづくりから、大衆が文化を消費する世になったことは、サッカーというスポーツを振り返ってみただけでも分かる。

正力松太郎という怪人が、読売新聞、読売ジャイアンツ、読売ランド、日本テレビなどの社主として君臨し、プロ野球やプロレスをメディアを活かし配信し、新聞の販促におおいに使った。結果はいまでも世界でも類をみない巨大なマスメディアを支配し、世論を、大衆の欲望を誘導する機関となった。正力は巨人軍の有名選手を選挙運動に使い、富山から選出され代議士となり、首相の座をねらいながら初代科学技術庁長官に座ることで、原発を誘導し原子力の父とも呼ばれる。そのことは周知の事実である。(参照:佐野眞一著『巨怪伝』)
だが、正力はサッカーにおけるプロリーグは作らなかった。アメリカのジャパンハンドラーは正力松太郎や中曽根康弘などの政治家たちを支配することによって、日本を思うように作り替えたが、アメリカ人のスポーツは野球だったからだろうか、それともオリンピックで金メダルをとる力をつけて・・・からと、考えたからだろうか、プロリーグの発足は遅れた。原因は分からないので課題としておく。

   
1972年5月26日ペレ来日

(歴史)について。
日本にフットボールが伝わったのは、幕末期の横浜(神奈川県)のことです。1858年の修好通商条約の締結によって長崎、箱館(函館)、神奈川の3港が開港し、幕府は横浜に外国人居留地を建設しました。1866年1月に居留地に住む英国人によって「ヨコハマ・フットボール・クラブ」が結成され、1870年代には居留地のフットボールを統括する「横浜フットボール・アソシエーション」が設立されました。

初めて日本人がフットボールをプレーしたことが確認されているのは東京築地の海軍兵学寮虎ノ門の工部省工学寮です。1873年に英国から来日したアーチボルド・ルシウス・ダグラス少佐(絵webより以下34人の顧問団が、この年の8月から125人の日本人学生たちに対してフットボールやクリケットなど英国式スポーツの指導を始めました。兵学寮で初めてフットボールがプレーされた時期は明らかではありませんが、当時は「夏はクリケット、冬はフットボール」というシーズン制の意識が強かったことから、フットボールが初めて行われたのは1873年から翌1874年にかけての冬だったとされています。・・・・・以上
出典:『日本サッカー協会百年史』より



サッカーのボール)について。
正五角形12個と正六角形20個の32面体で、土グランド用:中のチューブがブチルチューブ(人工ゴム)、芝グランド用:中のチューブがラテックスチューブ(天然ゴム)、芝では、バウンドが低くなる為、高くバウンドが出来るように天然ゴムのチューブを使用。
5号球中学生以上、直径22センチ、重さ430g。4号球、小学生、直径20.5センチ、重さ370g。3号球、小学校低学年・幼児、直径19センチ、320g。

サッカー王国静岡の盛衰

浜北高校サッカー部の友だちの話によると、辻琢磨さんは中学でソフトテニスに寄れ、高校からサッカーに戻ったことで、仲間たちより上手でないそうだ。でもサッカーによって高校を卒業し20年たつ、というのに部活で培ったきずなは壊れていない。彼らがサッカーをどのような環境で好きになったのだろうか、みておこう。

静岡県はサッカー王国と言われ、清水エスパルスジュビロ磐田藤枝MYFCアスルクラロ沼津の4つのサッカーチームがJリーグに所属している。サッカー熱がとても高い地域に違いはない。静岡県内のプロチームの力が落ち、再生策をおこなっているものの、かってのサッカー王国の輝きは取り戻せない、とYouTubeにはある。(右欄、動画参照)

ヤマハ発動機についてはWikipedia頁があり、「ヤマハ発動機サッカー部は、サッカーJリーグのジュビロ磐田の母体である」、とある。冒頭で紹介した神様ペレと戦った一人、日本のセンターフォアードが釜本邦茂選手だった。彼はヤマハ発動機のチームに1967年から1984年まで所属している。釜本選手にかぎらず、オリンピックなどのスポーツで名を馳せたあと、政治家に転身する者はいる。

琢磨さんが1986年、ノブさん、シモンさん、タケさんは1985年生まれだから、釜本が活躍したヤマハ発動機サッカー部の活躍は観ていないだろう。右の欄に貼った動画を見ると、1964年に日本で初めて藤枝でサッカー少年団が結成され、1967年には清水で小学生のサッカーリーグが誕生したそうだ。また静岡には自動車関連工場で働くブラジル人が多く住んでいることで、移民たちがサッカーを身近なものにした。そのことも知られている。そのうえ、プロのサッカー選手に成れない者は、家族ともどもサッカーファンになる、サッカーにとって好循環が地域に芽吹き育つ、そのことは世界共通のことのようだ。

そのような静岡の環境から日本代表になった有名選手に中山雅史、三浦知良名波浩小野伸二高原直泰など綺羅星のようにスターが生まれ、日本代表がメイドイン静岡でなってたこともあったそうだ。静岡にあって、Jリーグでの極めつけが1999年に行われたジュビロエスパルスの日本一決定戦だという。辻さんとサッカー仲間たちが13才、中学1,2年生の頃だから、4人はそれぞれの学校の仲間と、ともに熱狂し観戦していたことだろう。

だから、4人はサッカー王国静岡で生まれ育ち、もちろん静岡のサッカーは誇りのようだし、うなずける。しかし2000年代からサッカー王国静岡は崩れ始め、現在はアイデンティティも薄れてしまったそうだ。静岡県民の多くはサッカー王国の復活を願っているだろうし、サッカー競技を愛している。

一地方ではどうだろうか、人口7万人弱の茨木県鹿島町を拠点とする鹿島アントラーズ(住友金属・愛好会からスタート)は、いまだ常勝軍団、と言われている。1991年7月1日Jリーグ発足、15,000人、収容可能な専用スタジアム。地元に根差した存在など7つの条件があったそうだ。(現在のライセンス制度へ)鹿島町と茨木県はもろ手をあげて歓迎したようだ。
鹿島町に招聘されたブラジルのジーコは監督兼選手で、部室の掃除からはじめた。「献身、誠実、尊重」の合言葉、ジーコ・スピリットを胸に刻み、常勝鹿島アントラーズに育てたという。ジーコは町づくりのようにクラブハウスの掃除から始めた。そのことがクラブチームを強化する鍵のようだ。汚い施設では強いチームは育たない。(参照:右欄動画、弱小名門鹿島アントラーズ。)Jリーグの各チームのクラブハウスを取材し歩き、記事にすると、そのことは証明できるかもしれない。






日本からブラジルへ移民、それらの人々の子孫が浜松市へ還流しているという
静岡県浜松市の日系ブラジル人を中心にかたる論文へ


 




■サッカーと演劇と映画と文字


琢磨さんと、ノブさん、シモンさん、タケさんの4人は現在も一緒にサッカーの試合をしているのか、それは知らない。辻さんは時々足を捻挫して松葉づえを使っているので、現在もサッカーゲームを続けていることは分かる。彼らを魅了するサッカーの基本を粗く学んでおこう。

直径22センチ重さ430gボールを、幅7.32m、高さ2.44mのゴールを目掛け、105m×68mのフィールド内で2チームが競い合う。(プロの競技場は余白スペースとしてフィールドの外周に5mの面積を要求されている)。

(サッカーは何が面白いのだろうか

グローバル・サウスと呼ばれる、発展途上国の人々が暮らす地域にも子供のクラブチームがあることで、巧みで個性豊かな選手が育つ、だから強いのだそうだ。

国際規格によって演じる場所、(舞台)・競技のフィールドは統一され、競技はFIFAが管理し、各国4年ごとに開催国を決めワールドカップにて、競い合う、世界的なスポーツだ。スター選手になれば世界的名声財産家族を手に入れ、憧れの選手として歴史的に記憶される

しかし、国民の支持を得すぎて、ワールドカップなどで期待どおりの得点を上げられず、オンゴールによって、国民から射殺される悲劇もおきている。
当時27歳。コロンビア警察の発表では、エスコバル選手は友人と市内のレストランで食事を取り、同日未明に店を出て駐車場に向かったところを複数の男女に取り囲まれて口論になり、銃弾12発を撃ち込まれた。複数の目撃者の証言では、男の一人が「“自殺点をありがとう」と言っていたといい、同選手のオウンゴールのことで口論になったらしい・・(webより

日本でもサッカーに関してもめ事は起きている。競技場内で暴徒と化すフーリガンの存在は知られている。─彼らの目的は、労働者階級の者たちが鬱屈した生活のウサ晴らしとして大声を立て暴力を行使するのだとされる。─それほどにファンを熱狂させ、ときには暴力を露わにしてしまうスポーツ・ゲームでもある。 (絵:我が家のDVD棚にある。2007年制作『HOOLIGANS』)


(役者は選手と演劇同様に観客でもある)

ゴールキーパー1名,選手10名、計11名が1個のボールを蹴り合い、ゴールを突破しようとする。試合時間は45分ごとにコートを入れ替え、計90分で競う。体力の大変消耗する競技だ。ルールは手が使えない。(細かい規則。ゴールキーパーはペナルティーエリア内では両手を使える。)アルゼンチンが生んだスーパースター、マラドーナのゴット・ハンドは有名だ。審判から見えなかったが、反則ゴールだった。現在はビデオ判定なども採用されているのでゴットハンドは出現しないだろうし、審判の判定ミスは少なくなっているだろう。


 






サッカー選手に演劇のようなシナリオを与え、演じることは可能か

人々を感動させる演劇はまるで演じてない、そのような演技をする役者、人間の存在。もちろんシナリオも無く、目の前で起きている生活という名の演劇を、シナリオとして観客の脳裏に焼き付けてしまうことが演技と演劇の、キレ・切れる醍醐味だろう。

人がただ生き感情を所作に表すように、即興でもあるかのように、舞台で演じスポーツでもあるかのように客を熱狂させる。そのために本番のように稽古しつづけ、即興のように、まるで目の前の人がまま生きているように、セリフをはきつづけながら所作を進行できるまで稽古を続ける。稽古がそのように至れば、稽古のままを舞台で演じ観客を魅了する。それが役者を生きる人の価値や醍醐味だろう。
だから、彼らは片時も演技を忘れて生きることはできない、暮らしの中こそ演劇の母体だし、生きることそのものが演技に力を与える早道だからだ。

佐藤が20才で感染した寺山修司は、青森県出身者で、俳句、短歌、詩、映画監督、演劇(劇団天井桟敷を主宰)、競馬評論もした、マルチ人間だった。寺山は市街劇も演出し記録は残っている。もっとも粗っぽい演劇は『ノック』だ。見知らぬ家のドアをノックして、その家に赤子やモノを預け、それを皆で観察するという演劇であったそうだ。だから寺山は晩年、覗き犯として逮捕されているほどの、筋金入りの役者でもあった。(事件になり裁判の結果は知らない)

演劇やスポーツを観戦した観客も、役者や選手の脳に没入し一体化が成されたような気分、─ 快楽を脳内で共有することがチケットを手に入れる意味だろう。選手や役者の身体を借り、自身を離れて、神のような所作を共有する。そのように演じ誘導できれば超スターに成れる。だから、役者もサッカー選手も徹底して練習しつづけ、イメージ通りの所作が無意識に成せるまで練習しまくる、わけだ。

右欄に『メッシュ』、『ペレの伝説の誕生』、『NAKAMURA〜Celtic Legend〜』の予告編を埋め込んだが、選手本人も同じ演技はできないので、競技会での所作を映画に埋め込んで編集している。このことは、シナリオがあっても、─ 役者やスポーツ選手は脳裏にベスト・シナリオを埋めこみ、プレーに挑むということだが、─同じ演技を二度繰り返すことは決してできない。映画の埋め込まれたサッカーの動画画像は、その証の一つだろう。人生どうよう、繰り返せないライブだから人を魅了する。ライブのように所作をしたいのだから練習に没頭する、その循環こそがサッカーの魅力の一つだ。

浜北高校サッカー部、仲間四人も、そのことを共に体験したことだろう。そして後の20年のあいだ友となり、友情をはぐくむことになった。自身の身体と仲間の身体を通してしか共有できない、演劇のような体験を持ったことは、有名選手になることでは達成できない、浜北高校で一人それぞれが生きている間に一度しか演じることができない、希望という名を目指した人生演劇だろう。そのような記憶を共有し、共感し合える身近な友と生きること、になっていた。

そのことは、建築仲間では決して成しえない身体的体験だ。そのような体験の一つを浜北高校サッカー部仲間と共有してのち、建築界に踏み込んだ辻琢磨さんだ。サッカー友と自身のあの日の所作が、相互の脳内に生き続け消えることはないし、聞き取りしてみて分かったことは、彼らは希望に似た、役者のような一瞬のあの記憶を共有していたことだった。


(2024年 12月26日 浜北高校サッカー部仲間、聞き取り記録へ