入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと   07 これまでの作品を観て   08 「更新設計」が生まれる背景
09 浜北高校サッカー部友と20年 10福島原子力発電所事故現場に立っ  


07 これまでの作品を観て (2022年10月7日 浜松市でみた辻さんの仕事録へ

辻琢磨さんが生きている浜松市の労働人口と街の様子

日本各地の経済は、「新卒一括採用」「年功序列型賃金」「終身雇用」という、いわゆる日本型雇用システムによって敗戦後成長し、輸出超過となり米国から叩かれる経済大国に立ったのは1980年代だった。
プラザ合意ののち、株高・土地高誘導政策によってバブル経済が露わになり、90年代初頭には経済バブルが崩壊した。その後、政府は株主第一主義を宣言し、モノづくりは労働賃金が安いアジアの国々やメキシコなどへ移転させる政策へと誘導し、戦後出来上がった国内の産業構造の大転換を強引におこなった。その結果、地方からモノづくりの場や中小企業(個人商店主など、建築業界でいえば工務店)が蒸発し、シャッター通りがはびこり、ロードサイドショップとショッピングモールが建ち並ぶ、どの地方でも同じ風景ができあがる。

同時に海外で安価につくった質の低下した商品や食品はそれらの店舗に並ぶことになった。地方の若者も働く場は少なく、派遣労働(フリーターなどとも呼ばれ、騙される哀れを加速させた)などへと配転され続けている。負け組フリーター民に落ちれば、家庭にセーフティーネット(主にお金の蓄え)があった若者は救われたが、それ以外の者は安価な賃金と一生給料が上がらない、使い捨て労働者に転落・蟻地獄暮らしへと定着させられてしまった。いわゆる勝組と負け組が固定する世はできあがった。

大企業と富裕層からとっていた税を、株からの益は20%の分離課税とし、株の買える金持ちを優遇し、大企業から得ていた税は所費税の累進課税から消費税へと転化された。今や10%の消費税が負け組を襲っている。MMT論でいえば政府や企業が儲かって民の財布が軽くなる、いわゆるデフレの世をまだしばらくは、若い建築家たちも生き抜かなければならない。(税の付け替えの中身は『世界』752号参照のこと)。』

工務店が蒸発した地方では災害が起きれば復旧もままならず、放置され続ける。2024年1月1日に発生した能登地震後のニュースなどに触れれば分かることだ。

株主第一主義(銭だけ主義)が大手を振るう世では、第一次産業とモノづくりは価値の低い行為とされ、負け組、貧しい者が従事する。金儲けによって成りあがった者たちは、ユーチューブやSNSを使って言いたい放題だ。芸人でなりあがれば、女性を上納させ、お茶の間TVで流される哀れだ。

コスパ第一主義の若者も我が物顔で闊歩している。建築設計界では価値の転倒してしまった世を、生き抜くために大学教員といういっけん高価そうな生業の松葉づえを得れば勝ち組とみなされる。古来建築業に就くものは土いじりをするので、穢れの民として差別の対象となっていた、芸能の民だった。国家が営む、それに準ずる大学にある教員の地位を手に入れれば、満足というわけだ。で、物知り顔で連日SNSに成果を振りまく勝ち組三昧の快楽を味わって暮らしているようにもみえる。

米国の凋落は見え、中露南米の台頭で、大航海時代から500年ほど続いた帝国主義の世相に少しずつ戻り始めたようにもみえる。グローバル経済が行き渡るなかにあって、世界史の中では特殊の民主主義も捨てる中国ロシアもあり増えるかもしれない。モノづくり第一主義を捨ていたアメリカでは自国第一主義と姿を変え、大統領は演技が上手だ。株主第一主義と拮抗し大統領選挙を左右している。その様子を真似た東京都知事は都民ファーストを公約とし、圧勝する演技者でもあった。政府も預金から投資へと誘導することで更に分断が深くなる。若者はポピュリズムの嵐に飲み込まれ、自身が寄って立つ台地を見失って虚無空間に漂ってるようにもみえる。

下図は小熊英二さんが作成した就業地位別労推移の図である。国内では勝ち組が3500万人を保ちづづけ、負け組の数は自営業主と家族従業者数が入れ替わり、非正規雇用労働者に置き換わる世にあることを示した図である。(図は動画より採取

浜松市の就業地位別推移は調査していないので分からないが、下図にならい、浜松市のようす、労働者数がどうなるのか想像してみよう。この表は日本人のみを対象にした図である。
浜松市は78万人(2023年9月)なので当てはめ見ると、15才から64才は466、000人ほど。割りふると、正規雇用者数約272、000人非正規雇用者数約194、000人自営業主・家族従業者数約39、000人と思われる。他に外国人労働者が15、000人ほどが工場労働者として暮らしているそうだ。(浜松市の今後、予想される人口プラミッドは右欄)


辻琢磨さんは建築設計業を請け負う自営業主である。依頼者の多くも自営業主であった。それは、これまで辻さんと仲間たちが造った商店内に立って分かったことだ。彼らは浜松市の中にあっては発注者となる男女合計でも39、000人の中から辻さんたちは依頼されていたことがわかる。個人事業主の多くは規模が小さく、資金量も少ないので、合わせるように建築造営の規模も小さくなる。建築設計料、あるいは工事費全額請け負って施工する、工務店のような請け負い形状にしたとしても、建築業法違反にならない金額、500万円を超えると罰せられる。だからどちら合わせても、工事費の半分の粗利があったとしても、暮らしていくのはキツイのでは、と佐藤は推測した。

だい




派遣労働法の歴史 派遣労働法の歴史リクルート編集 1988年 リクルート事件 

株式会社コスモスは、東京都豊島区に本社を置く、1985年設立の人材派遣会社です。35年以上の長い歴史を持ち、人材派遣とアウトソーシングを主な事業としています。つまり、企業が必要とする人材を見つけ出し、その人材を企業に提供するサービスを行っています。また、一般派遣と紹介予定派遣という2つの派遣サービスを提供しています
 リクルートの歴史 
リクルート事件※を機に、「社会に迷惑をかけた」という重い事実を深く受け止め、社是である経営の三原則が見直された。経営の三原則は「商業的合理性の追求」が「商業的合理性が突出していたという反省」から「新しい価値の創造」へ。また「個人の尊重」が「読者個人や扱う情報一つひとつを大事にしなければいけない」という観点から「個の尊重」にそれぞれ変更。

1988年6月18日、当時リクルートグループの1社であったリクルートコスモスの未公開株が、川崎市助役に譲渡されていることが明らかになったことをきっかけに始まった事件。東京地検特捜部は、4ルート(労働省・文部省・政界・NTT)の収賄側8人と贈賄側4人の計12人を起訴し、全員に有罪判決が確定。その後、2003年3月4日、弊社創業者に下された有罪判決をもって、長きにわたるリクルート事件の審理に幕が下ろされた
2000年、直接雇用を前提とした「紹介予定派遣」解禁
2000年には、直接雇用の促進を目的として、紹介予定派遣が解禁になりました。これは労働者派遣と職業紹介を融合した制度で、労働者派遣終了後に派遣会社が派遣先に職業紹介をすることを予定しておこなう労働者派遣を指します。企業と労働者のミスマッチを軽減し、直接雇用の機会を増加させるための制度といえます。
2004年〜 規制緩和B 対象業務・派遣期間の制限が撤廃された時代
1999年の大幅改正後も、政府による行政改革、構造改革の意向をくむ規制緩和推進の動きはさらに勢いを増していきます。デフレが長期化するなか、効率的なアウトソーシングが企業の経営戦略に組み込まれるようになったのもこの時代です。こうした流れを受け、2004年から2007年にかけて派遣可能な業務や派遣期間に関する規制が段階的に緩和・撤廃されました。

2004〜2007年の規制緩和
2004年 ◇「物の製造業務」への派遣を解禁(期間は最長1年)
◇「政令26業務」の派遣期間制限の撤廃
◇1999年の改正で解禁された業務の派遣期間を1 年から最大 3 年まで延長
2006年 ◇医療関係業務の一部で派遣を解禁 ※
2007年 ◇「物の製造業務」の派遣受け入れ期間を最長3年に延長
※産前産後休業・育児休業・介護休業中の労働者の業務と僻地での就業に限り、それまで原則禁止(注)とされていた医療関係業務への派遣が可能になりました。なお、医療関係業務への「紹介予定派遣」は2004年より認められています。
まとめ

シンボルエコノミー化する世界に翻弄される日本】2%の物価上昇と2%の実質GDP成長の実現に拘泥する政府・日銀と、苦境から脱却できない国民生活



上記図はwebより
 
日本の大都市以外で建築設計業を営むこと

辻琢磨さんは建築設計業者とし自認しているだろうか、聞いていない。だからどのような層から仕事を得よう、どのような目標をもって暮らしているのだろうか、分からない。この節は佐藤の個人的な体験をもとにし書いたので飛ばされてもよい。

(修業時代10年)
そこで、半世紀前だがゼネコン設計部の仕事、佐藤自身が10年ほど所属しみていた設計業界の事を少し紹介しておく。佐藤は一部上場とはいえ1000人ほどの中規模ゼネコンに勤めていた。東京支店設計部は構造4名、意匠担当10名、設備設計は見積部員と兼任だった。作図を請け負う一人親方の事務所の仕事も多数支援した。確認申請は専属の代願屋さんがいてオートバイにまたがり行政を回っていた。急ぎの場合は佐藤自身もこなしたので、丹下健三の旧東京都庁には幾度となく足を運んだ。また村野藤吾のてになる横浜市庁舎にもかよった。

依頼先は、大手商社からの民間工事設計が半分、仕事をもらうため3ヶ月ほど派遣され中規模設計事務所へ通う。あるいは製図用紙を必要枚数もって支店にもどり、支店内でワイワイ設計図を仕上げ見積部に回し値段を合わせる。東京支店内で設計する用途はマンションや遊戯施設だった。他は小田急沿線にある神奈川県下の農家が田畑を宅地にかえ、大手企業の社宅として一棟貸しする条件が多かった。借り手の要望をきくために巨大企業を訪れた。三菱重工爆破事件には1日前の打合せだったので被害に遭わずに生き抜くことができた。

佐藤の担当は主に大手商社からの依頼で巨大洋服メイカー(ユニクロではない)のプレタポルテ部からの依頼で、高級縫製を主にするデカい工場を建てるために、土地探しから設計そして下請け探しなど、地ならしする先兵役で、全国各地に事前調査と確認申請に歩いた。確率は3割ほどだった。既存増築の場合、縫製工場は女子社員が多いので打ち合わせに行くと、キャーキャー言われアイドルのさまであったし、重役から姪っ子にいいと縁談話を押し付けられて弱った、結婚している、と言っても嘘だ、と言われる始末だった。(民間仕事はこれがあるから辛い)、また運送会社の東京支店配送センター、食品工場も担当した。

確認申請作業で最も最短は宮崎県小林市と青森県の弘前市役所での2つ日間での確認済だった。

設計部の部長は見積部から積算を0一つ間違え請け負ってしまい赤字がでたことで、責任をおわされ降格した者が5年、他は最高裁判所営繕課からの天下りのおじいさんと5年付き合った。営繕課長以上位の高い者は居ない、と語っていた、ふんどし愛好者で構造計算が大好きな好人物であった。設計部内にはアルバイト用設計も多数持ち込まれ、佐藤にも多く割り当てられ、夜も寝ず図面─鉄骨の施工図も─を書き続け、給料と同額あるいは超えるバイト料を得ることで、5人家族を養った。

(地方での常套手)

■福島市で成りあがっている建築士事務所の商売手法は以下の類型に分けることができる。
@代議士の私設秘書に身を置き県内の各地行政を代議士と共に廻り、その地域の地方議員たちと懇意になり選挙になれば応援し、疑似コンペになれば仕事をいただく。
A代議士の選挙応援をしつづけ、その彼が法務族なら法務省から発注になる福島県内に建つ施設の設計を、鶴の一声で請け負う。代議士を続ける者と親しくなることで道を拓く者は多い。
@とAが設計「業者」と呼び捨てられずに済む方法である。

B静岡県内には建築設計設計共同組合という県発注の仕事を受ける組織があるのか、わからない。組合があれば参加し仕事を分配してもらうことも可能だろう。ただし県職員の天下りの受け皿であること、過当競争によるダンピング防止のための組織なので、設計料の数割は上納するらしい。組合員に近づかなかった佐藤は詳しい仕組みをしらない。以上が地方建築士がおこなう常套手段であろう。

他には、地方では建築雑誌などで建築家で名を成しても仕事には結びつかない。(建築媒体は全国の同業者から批判を得るためには有効だ。)関西圏や関東圏に生きる自称建築家のように、掲載のためにポートフォリオを持って雑誌社に売り込みをかける、そのことは地方で仕事を得るためには効果は少ないだろう。掲載されることで自身が卒業し全国に散った仲間に認めてもらえる、その満足を得る一つの手法にすぎない。

他に、民間業が発注者となる仕事だ。地方ゼネコンや不動産店と仲良くなって仕事を得ている者は佐藤が聞き取りした者の中でも多い。謝礼はとられるだろうが設計仕事紹介にかかるお礼の支払いはどの程度か、それはしらない。

最後の砦は、親兄弟、友人から仕事を得ることだろう。だが、他者から設計料をいただくのが醍醐味だ、と思っていた佐藤はそれらの仕事はすべて断った。実建築の発注者は活動で知り合った知人、口コミなどで知った者だけだった。佐藤は極めていい加減な仕事ぶりで、年に数ヶ月ほど設計仕事をするだけだった。他は我流で学んで事業計画をたて金融機関との交渉仕事は数年にわたる、長期の仕事がおおかった。バブル期にはダメ元で提出する事業計画にも金融機関は食いついた。そして数年後に破綻することも見てきた。佐藤は経済バブル放射能除染バブル期の二つの狂乱下の建築業界を見ている。

今世紀に入って設計業を積極的に請け負う気がなくなった佐藤は、現在どのようにすれば仕事を獲得し金を得ることが可能なのか、分からない。



辻さんの仕事403での設計

次に辻琢磨さんが造っていた現地に立ち、辻さんの仕事のなかから、どのような道が立ち上がるのか見ていきたい。

   

403仲間と造った店舗をまわる

(詳細は2022年10月7日 浜松市でみた辻さんの仕事録

(1)最初に造った共同物販店
先に挙げた地方での仕事とはことなり、興味深い特徴を生かし賑わう形式をもつ集合店舗だった。

店子たちは小口10×10を定額で幾口でも借り賃を支払い、木口の上に商品を並べる。店番は共同で雇い委託する。それぞれに交わした契約の詳しい内容は知らないが、縮退する世にあっては好感がもてる試みとして記憶に残った。最小に縮めたモール型商店街といってもいい。25店舗ほど入居中!

雨空にも関わらず客は頻繁に出入りしていた。それぞれの店の愛好者たちが、客として増殖する様に可能性も感じた。

■(2)古着と新品を扱う衣料品店

幅の狭い店舗で仕事場と会計が島になっているのが特徴の衣料品店。

洋服ダンスの中に迷い込んだような形式になっていて、さらに店のなかほどにオーナーが部屋というか囲ったスペースがあった。オーナーが座敷牢に入って客を見ているのか、客が店主を見ているのか、転倒した構成がおもしろい。

洋服はガス管のような物につるしてあり、飾らない点は身近さを醸し出しているので、派遣社員などの若者向きの造りのようだ。

開店後7年で固定客もついていて、店舗を大きくしたいという言葉が記憶に残った。

 ■(3)陶器屋さん

戦後まものなく完成したかのような、古い共同ビル内の一部にある陶芸家の個展会場と作品販売も兼ねる陶器屋さん。

辻家の展示室に似ていて、床の仕上げ材をはがし防塵処理しただけなので、古層を露わにした床は、高価な陶器との相性もいい。

当日展示されていた備前焼き物で商品に引っ張られたことで好印象をもったのかもしれない。採光の位置も床面と天井面からであり、竪穴式建築内部のようであった。商品が浮いている、浮遊感も、いにしえ人もこのような光の中で暮らしたのだろうか、そういう印象、時間を混在、あるいは時を移動するための仕掛けで面白い。

たまたま廊下の最奥に位置してることも、光と時を混ぜ合わせたための、トンネルふう相乗効果をあげている。

(4) 床屋さん

郊外住宅にある広い庭先のデッキで散髪しているかのような親密でアットフォームな雰囲気を作りだした美容院。飼い犬も賑やかに吠えるので、その感は一層増す。それらは住宅の庭を想起させるには充分だ。また入り口付近に厨房もあり、簡単なパーティーなら開催できそうなので好感をもった。

独立系建築家、デザイナーに限らず、初期に美容院の内装工事に関わる者を多数、見てきた。大都市では老若男女は頭髪の手入れに余念がない。メークアップすることで、都市を生き抜いているために美容室は雨後の竹の子のように、流行と共に模様替えをし続ける。で、内装工事も途絶えないということだろう。

佐藤の知人で丹波の笹山市で畑の中に越した家具作家の若者がいるが、奥さんが古い物置建築を理髪店に改修し商売している。神戸などの遠方からも来客、リピーターがあり、髪結いの亭主って、いいですよ、などニヤニヤしながらのろけてくれる。


美容院や理髪店は若い建築家やデザイナー未満の若者を鍛え育てる場として機能する姿を見るにつけ、デザイン雑誌に掲載され、日本各地から引き合いが来ることで、更に腕が上がるわけだ。辻さんと仲間たちの仕事は美容系雑誌に掲載されなかったようで、その後の美容院設計仕事については聞かない。

(5) 洋服店

佐藤が訪ねたときは10周年目になった、と女性オーナーは語った。坊主の辻さんは息子にそっくりだ、と言われているほどに家族で付き合っているようだ。

天井に店舗用の格子がた什器が吊り固定されている。客は吊り下がった洋服の海を漂いながら好きな洋服に出会う仕掛け、デザインであった。

2点目の店舗とは違い数倍広いことで様々な仕掛けは考えられるだろうが、洋服をたくさん吊るすことに集中していて、買いに来る客を満足させることだろう。

だが新型コロナの災禍が商売にブレーキをかけたともいう。彼・彼女たち、辻さんとほぼ同世代のものは、コロナの災禍をも抜け切り現在も商売を営んでいた。

(6) 機械仕掛けのもの

労働と福祉を兼ね備えている、知的+身体障碍者が通う施設のようだ。その施設の玄関先に仕掛けられた上下する鉄製装置。そのデザインをしたのだという。

機能は多様に可能で、使い方で名は発明されるので命名されていなかった。
403で制作したものは他にも15ヶ所ほどあるそうだが、プロに見せるものは、この6か所だそうだ。



初期の仕事を観て まとめ

大学の修士課程を経、浜松市内での仲間との店舗づくりは辻琢磨さんは楽しかった、という。大学の場は抽象的な思考が優先されているだろうから、浜松市の店舗づくりのような、一人個人事業主の課題を学ぶことはないだろう。403の仕事を終えたのち、浜松市内で建築事務所を開所した辻さん。

スタート時に店舗を営む、個人事業主・一人と自営設計者の相性がよかったようだ。働く者と経営者が同一人物というのは、個人の体験を普遍的な解に転換するのは難しいだろうが、具体的な問題に解を与え造作することで、充実した体験を得ることになっただろう。それが辻さんの初期の仕事としては合っていたようだ。店舗を観て佐藤はそう思った。

村上亜沙美さんの章で観た、「みかわや」の再生仕事を横目で見ていた辻さんはおおいに影響を受けていると推測できる。同時に自邸を改修し続けていて、完成した姿をまだ佐藤は観ていない。加えて辻琢磨さんには新築物件や公共施設に関する仕事に関わっていない時点で、辻さんの仕事についてあれこれ語るのは時期が早すぎるだろう。

自邸改修は佐藤の思い込みかもしれない、が誰も気づき実践していない家族史を埋め込んだ個性的な仕事だと受け止めている。佐藤が生きている間に、辻琢磨建築の全貌が姿を現すことを期待し、まとめにしたい。

無理せずこつこつ続ければ個性は磨かれ、他者に理解される世が現れるだろう。辻さんには家族も自宅も友人たちも多く、すでにある、急ぐことはない。浜松に腰を据え迷わず現在の自身を継続しつづけてほしい。