入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと   07 これまでの作品を観て   08 更新設計がうまれる背景
 09 福島原子力発電所に立った人  
         

03 辻琢磨さんの居宅篇 2024・09・

 (参考資料)2022年10月7〜8日の記録
 01:403作品巡り02:奥様のシェアオフィス
 
辻さんの家で(1) (2) (3) (4 運動会の朝 辻家改修について)
 04 
洪水の跡地めぐり〜保育園の運動会
 


■居宅周辺のこと
 
初めて浜松市をたずねる 
 

2022年10月7日、浜松市にある辻琢磨さんの事務所をたずねた。目的は三つほどあった。これまで、辻さんと仲間たちが浜松市内でてがけた店舗・内装を体験する、尾張町にある奥様と仲間たちが運営している町中活動スペース「みかわや」を訪ねること。浜北区にある自宅に一泊させていただくこの三つだ。
翌10月8日は予定になかった琢磨さんの長男保育園の運動会を見学させていただいた。新型コロナが流行している時期でもあり、保育園と教員、家族の方々のご苦労を実体験することができた。そこで今の幼児たちの様子を理解する機会を得ることができた。

この1泊2日の小さな旅を辻琢磨入門を文字でも残そうとしている。「辻琢磨入門」web頁を制作開始は今年度からはじめた。写真や音声データはまま保存しているので、2年前の出来事でも、PCを使うと今目の前でおきている身近な事態のように感じるのは簡単になった。

一方、SNSの使用者が6千万人ほどと言われている。即日の記録をその場で発信することに慣れてしまっている。そして翌日には忘れることが常態となる。昨日の朝飯の品を覚えていないように、発信した内容を覚えてはいない。このような時勢にあって、このweb記録は鈍足のそしりは免れない。だが、人と人との交流と思いの共有は、瞬時に消費される事態ではないと考えている。生な相互の息遣い・ことば悦覧をweb頁に仕立て、四半世紀アップし続けている。だから今日のSNSの常態は気にもならない。たぶん一時隆盛をきわめた掲示板のように、便所の落書きと揶揄されていた、あのようにSNS熱は対立と分断を鮮明にし、あるいは対立を煽る危険なweb場として凍つき、人は使わなくなり忘れ去られるように思う。

IT革命と言われ30年ほどたつ。けれどwebのよい使い方はまだ流動していて安心できるIT発明暮らしをしている人は少ないだろう。マスコミや紙媒体のように発行するのに資金が要る、敷居が高い媒体から、今日はスマフォさえあれば自分を発信したような気になれる。手軽な媒体と誤解をうけ、共有すべきweb場が荒れまくることをくりかえしそうだ。便利なIT機能の一つがまた使い捨てられる姿は見えている。

初めて浜松駅に降りる

新幹線の改札を出る。辻さんとの待ち合わせ場所は公営のコワーキングスペースのようなところだった。そこには等身大の俳優が家康を演じる看板があった。受像機を持っていない佐藤はTVを見ていないので、そこに入るまで2022年の公共放送の大河ドラマは「どうする家康」だということを知らなかった。家康が29才から45才まですごした浜松城があることで、ご当地を盛り上げるため公共放送と共同で浜松市が演出している、看板とスペースだった。

日本各地、古代から、現代までと途切れなく人の営みは続き、人口が半減すると言われている現在、その活動の痕跡は次世代に引き継がれていく。だから少し遠回りになるけれど、浜松市の過去を概観し、地形や簡単な地域史などを眺め、辻琢磨さんの居宅がそのなかにあっては、どういう位置づけになるのか、おさらいしておく。記録は長くなるけど、そうしないと見知らぬ土地や環境、辻さんが暮らしている場を理解した気にならないのでしかたがない。


幕末にイギリスから渡ってきた商人・トマス・グラバーは、長崎に蒸気機関車を走らせ売り込んだ。西南雄藩の士族たちは、尊王開国の大志をいだき江戸時代を終焉させ、日本の近代の扉をひらいた。(トマスの行動は大きく影響しているが長崎漫遊を記録したので興味があれば見ていただきたい。)彼らのスローガンは、富国強兵で新しい産業を興し西欧からの植民地化を逃れ、日本人はアジア系の人間ではないという、奇妙な「脱亜論」の大合唱の下、日清日・露戦争で西欧列強の一員とし国際社会に認めさせることに成功した。同時に近隣のアジア人蔑視がインプットされてぬけていない。その繁栄の時代を支えたのは鉄道で、敷設は横浜から新橋間にはじまり全国に張り巡らされる。そのことで旧来の物流の担い手である舟運や千石船は衰退にいたった。

(周囲の鉄路や歴史の概観から)

辻琢磨さんの居宅周辺にある鉄路を見てみよう。また、明治末期の1890年から2010年までの「琢磨さん居宅」の周辺地図の変遷をアニメに仕立て、人が住み込んできた時間をなんとなく確認しておく。



 路線図 webより 

日の字型とも言える鉄路。北に西鹿島線、南に東海本線と新幹線、東西に天浜線が走り、北の西鹿嶋駅と浜松を結ぶように1909年開業の遠鉄線は走る。鉄路の日の字を突きさすように東名高速道路、それからかすめるように新東名高速道路が東西に走る。
東海地方はトヨタ車やスズキ自動車、そしてヤマハの企業町が多そうだ。だから公共交通は手薄いだろう、そう思い込んでいたが、電車で活動できる土地がいっぱいあることは予想外だった。鉄路が身近にあるが、地域の人々は自動車に慣れ親しみ電車での移動は発着時間に拘束される!と感じ、自家用車通勤に移行したのだろう。そうして奥山線をはじめ、枝毛のようにあった鉄路が廃路になったのかもしれない。もったいないような気もするし、軌道跡地がどうなっているのか興味はわく。


参照図などの欄


 琢磨さん居宅周辺の古墳 PDF                  

中世期は自然災害もあるが隣国に襲撃も遠江国 城 詳細位置はPDFから

遠江国国分寺跡について基壇復元についての記事 


  
遠江周辺の戦国時代勢力図 河川古図 webサイトより 
 葛飾北斎 遠江山中 図  天竜川舟運と木材    天竜木材の今昔を知る 
まことに便利

 江戸期の西・東回り回船航路・五街道・関所位置など 下図 街道と宿場



  (古墳と遺跡のある豊かな台地に琢磨さんは暮らしていた)


この地が長年人々に愛され人を育んできたことは、右欄の最上段に示した古墳マップをみれば説明不要だろう。遠州灘に向かって緩やかに下る地形の上に、河川古図のように河川が下れば狩猟採取の暮らしは豊だろう。産業革命の影響に浸食される以前の近世期のことになるが、天竜川の流れをいかし、山々から切り出した木材を流し、三都などの大消費地に容易に運ぶこともできただろう。そうしてこの地の人々の経済も豊かに支えたはずだ。
秋田県角館出身の建築家渡辺豊和さんは「俺は家の山の杉を売ってもらい、福井大学を卒業することができた」と常々語っていた。1960年ごろの話だとは思うが秋田杉は若者の大学学費になったというわけだ。天竜川周囲からでる木材は多数の学生を育てたことだろう。
現在の日本は、外材を輸入し車を輸出する長年にわたる政策によって、農林業は大きなダメージを受け、山と田畑は荒れ放題。また円安誘導によって輸入木材や食品が高騰する、ショックは継続して起きている。資源のない国が外国に頼りきる状況下にあって、若者が危険をともなう林業に従事しても子供を育てることはできないだろう。だから山林を所有しても、お金を支払わないと伐採してもらえないだろう。天竜木材はそのようなことになっていないことを祈りたい。311以降再エネという太陽光発電設置にも国土は荒らされ、山紫水明の国という冠は地に落ちてしまった。

浜松市の空襲) 

総務省のHPによると 、浜松市は、戦前から航空隊の根拠地であり、また軍需物資の生産都市であったので、27回に及ぶ爆弾、焼夷弾、機銃掃射、艦砲射撃の攻撃を受け、著名な公共建築物や公共施設、商店、住宅、工場の大部分は焼失または倒壊した。罹災面積は旧市内で6.90km2、罹災戸数3万1,000戸罹災人口12万人に及んでおり・・・航空機関係の軍施設、工場が多かったことのほかに、米軍の本土侵入経路の目標に本市が存在したことも考えられている。

18万人の人口にあって12万人が空襲で罹災し、家がなければ暮らせない。同頁には浜松市の人口は半減以下になった、とある。大空襲の後、戦災で家を失った者、疎開先を求めて移住する者で浜松市の人口は、昭和19年当時の18万7,433人が、昭和20年には8万1,437人に急減したのである。(「浜松市戦災復興誌」)

平成の大合併前は302、000人強であったから敗戦後、大幅に人口増になったことがわかる。27回におよぶ空襲に遭い、敗戦後の人口推移に注目してみよう。このPDFを見ると、浜松市の人口は昭和22年125,767人、昭和25年 152,028人、昭和30年268,792。空襲で激減した人口は2年後には回復し、そのご順調に増え続ける。琢磨さんが生まれた1986年には514,118人となり、敗戦時から6倍強に増えたことになる。また引揚者世帯数は1700世代だ、1世帯3人とすると5100人増加となる。

先に埋め込んだ地図アニメを見ると、鉄路の周に宅地が増えていく様子を感じることができる。浜北の地力と魅力が家の数になって顕われているようだ。住戸数増加の詳しい経緯や人口増の原因を探ることは今後の課題にして、琢磨さんの居宅語りにすすむことにする。

   


天竜木材(株)天竜川をいかした木材の切り出す様 天竜川舟運と木材より







 表 このサイトより 

石器時代から暮らしている台地

琢磨さんの家で一杯のんで語り合っていると「このあたりには遺跡があり、原人が暮らしていた」と言い始めた。万年地域といっておくが、人がながく住んでいた地域は魅力がある。石室でつくられた横穴式居住もあるのだろう・・。東原遺跡通信をひらくと右の絵が示される。また蜆塚(しじみづか)遺跡には、縄文時代後期(約4000〜3000年前)の住居を推定して再現したともある。辻さんが語る浜北原人の家は横穴住居だと思う。浜松市で復元した竪穴住居よりはずっと時をさかのぼることになる。

石器時代の古墳の形状はわかっても、人が暮らしただろう横穴居住は、権力者のお墓でないから分からない。辻さんが語る浜北原人にふれ、とうとつにコルゲート・スチールでできている現代の横穴型の家を思い出した。1990年代の前半に名古屋市内に建築書店を開いていた、故・大島哲蔵さんに案内されて見学した。所有者は留守だったので外観を見て戻った。そのことを思い出した。 

現代の横穴型住居は浜松駅から西へ7駅目、二川駅から徒歩30ほどにあった 川合健二・花子さんの家である。2007年に刊行された『川合健二マニュアル』によると、東海地方には数軒あるようだ。また長野県菅平にあるレタス農家・主人の正橋孝一さん(現在74才)がセルフビルドした「開拓者の家」の記事もある。正橋さんを2000年代初めだが訪ね、語り合った記憶と写真がある。土木資材を転用したコルゲート・パイプを横倒にした形状の家で木口には個性的な窓や出入口がしつらえてあった。設計は、正橋さんと川合さんに学んだ兄弟子弟である石山修武さんだそうだ。藤森照信著『昭和住宅物語』「コルゲート男の冒険として16頁にわたり評されているので、建築家系の人々は現地を訪ねたことはないにしても存在は知っているだろう。

川合健二さんの家、正橋孝一さんの家は基準法上は住宅ではないようだ。基礎がなく台地と緊結してないし、柱がないから建築ではないという。ドカンと大地に置くだけで人が住んでしまう、過激な手法の構築物に人が住むと家になる。固定資産税も払ったことないと聞いたが、その後、建築として認められ課税されたのか、それは知らない。
これらを横穴住居・現代版と言っておくと理解が進かもしれない。正橋さんはセルフビルドだから、川合さんよりハイレベルに古代にさかのぼっている。正橋さんが暮らすそれは長野県内をうろちょろしつづけたが分からず、しかたなく道で交差したタクシーの運転手に聞いた。あの辺だよ、と教えられ探し当てた。そして正橋さんとだべって2ショットする機会も得た。

現地に立ち肉声を得ることで、建築メディアの情報から逃れられることを確認できた。長野に行った理由は思い出せないけど、正橋さんと語り合ったことだけ覚えている。スライド・スキャナーを失ったので、スライドを直撮りしたものだが、形状が分かるので下に貼っておく。右は正橋さんと佐藤2ショット。左は川合邸を後ろに故大島哲蔵さん。川合さんの愛車のポルシェも同地で腐りつづけていた。


 浜松市の遺跡情報 と土器 北区細江町からは袈裟襷文銅鐸もでている。

 
6世紀ごろの古墳、横穴石室 

     
 
2018年から暮らす辻琢磨さんの居宅

建築史家の故・鈴木博之著『夢のすむ家─20世紀をひらいた住宅』(1989年)には、集合住宅をふくむ12の住宅と建築家が掲載されている。あとがきには「近代社会は職場と生活の場が分離した職住分離の社会であり、そうした近代社会をうむプロセスのなかで、住まいの性格は大きくかわって、その結果、今我々の暮らしが生まれた。12の住宅をえらぶことによってその変化を浮かびあがらせ、ひとつひとつの住宅にこめられた住まいの「夢」をふただびよみがえらせようとしたのが本書である。と、結ばれる。

お爺さんが建てた住宅

現在・辻琢磨さんはお爺さんが建てた木造建築の2階の一部を設計事務所にしている。1階は家族の暮らす場所である。鈴木の定義によると現在の辻邸は近代社会の家ではない、ことになる。建築だからいいじゃないか、で済ませることも可能だが、すこし順をおって観ていこう。

「生い立ち」篇でふれたことだ、辻さんが2024年に暮らす建築は、琢磨さんのお爺さんが彼の家族四人で暮らしを営むために建てた木造2階建の職住分離された専用住宅である。竣工当時の絵と2022年の絵を並べると、おそらく辻さんの両親の部屋として充当したのだろうか、2階東側に一部屋増築し、現在に至ることがなんとなく分かる。

プライバシーにかかわることなので平面図は示さないが、家のほぼ真ん中に階段と通路が設えてあり、2階に上ると東側が辻さんの事務所で西側を寝室としている。

1階は玄関・階段を芯にし、東側が応接、食堂、台所と北へ順に並んでいる。西側には和室2室があり、客間とお爺さんの部屋に使用していたのだろうか。昭和後期の高度成長期下には日本列島のどこにでも見かけた住形式だ。家の真ん中に東西に中廊下があり、北側には洗面、納戸、台所が並んでいる形式だったと思われる。思われると書くのは、辻さんが改修工事をしながら暮らしている家なので、そのように推測したからだ。東西に下屋がついて、西側が物干し場、東側は物置付きの作業場である。それらはお爺さんの手によって造られたようだ。


建築史家が辻さんが引き継いだ爺さんの家を、近代住宅とは認めないのはなぜだろう

日本の近代を明治維新以降とすれば、琢磨さんのお爺さんが建てた家は近代の家と言える。が、日本の家屋はここが難しい。で、すこし日本の住居形式をさかのぼってみよう。先に横穴式居住の実例はあげたので、竪穴式居住から概観していこう。

竪穴住居

1997年国から指定され保存作業が続いている三内丸山遺跡。青森市にあるが約5900-4200年前の戸建てタイプもある。登呂遺跡のような竪穴式住居と掘っ建て柱の集会室のような、大きな竪穴縄文期の建築を体験できる。三内丸山遺跡は前世紀末のメディアに取り上げられ話題に上ったので体験済みのかたも多いだろう。後に遺跡と連動し青木淳さんの手になる青森県美術館が建造開館なったので、美術館見学ついでに遺跡体験を済ませたかたも多いだろう。

辻琢磨さんの家のそばには遺跡が多いことを紹介した。静岡市内にある弥生時代につくられた水田をもつ登呂遺跡も著名である。登呂は敗戦まじかの昭和18年、1機でも多くの飛行機をつくるため、プロペラ工場、エンジン工場が建設されはじめていた、住友金属工業静岡工場建設敷地から、弥生文化の大遺構が発見された。だが戦時下の発見であったため、昭和21年の暮れに静岡県郷土文化研究会ができるまで、遺跡発掘のための鍬入れはなく、昭和22年に行われたという。(森豊著『登呂遺跡』1979年)それ以降、弥生時代の遺跡は津々浦々で例えば吉野ケ里遺跡をはじめ発掘・公開されている。

   
お爺さんが建てた当時の姿。2022年佐藤が訪ねたときの姿、2階東側と下屋を増築



お爺さんの家の骨組みが出来たので関係者が酒盛りしている(建前という)











1979年森豊著『登呂遺跡』

近代建築でなければポスト近代建築

家内工業と一体に成長した近世の民家

弥生時代から近世末までの民家に関する資料がないので、今後の調査課題とし省略する。近世代の税は年貢という米だった。後期に江戸・大坂・京都の三都などは大消費地に成長したので、農民などは無税の換金作物や織物などの手工芸品を生産し、あるいは佐藤の暮らす地域では生糸から撚った撚糸を売ってお金を稼いだ。同時にお蚕さんの種も関東地方まで販売しては、売り先である関東圏の養蚕農家の人々や武士や商人と句会をも開き腕を競った(杉仁さんの著書に詳しい)。山形では生糸を染めるための紅花を栽培し関西圏に売った。余談だが、この時期は家族の労働力を基本としたので「〇〇家の墓」がおおいに流行ったそうだ。江戸的家内工業が消えても墓の形式と墓参りは現在にまで残っている。(佐藤はそういう行為を一切しない、生きている人にだけ会う)地域の民家も集合体も消滅しかかっている現在、高価な〇〇家の墓じまいの愚痴を、聞かされることがある。

三都と商品の仲介者(船主など)は、登り荷は産物、下り荷は古手の品々などを三都以外に運んで商った。それはのこぎり商いとよばれた。だから東・西廻りの千石船や舟運をつかさどった廻舟主と豪商たちが大活躍し地域経済を隆盛させた。生産者も、各湊の豪商たちも民家と呼ばれる住居に暮らしていたので資料などの情報は多くある。日本一の豪商であり地主は山形県・酒田の本間家であり、二位が仙台の斎藤家であった。家屋敷は山形県と宮城県に現在もある。いずれもおおきな庭園と倉庫などをもつことで有名である。庶民にとっては夢のお屋敷で暮らす、それらの家屋敷を倣い規模縮小し居宅としただろうことは容易に想像できる。


竪穴ワンルームから田の字型へ

近世期の民家の平面を見ることで、敗戦後の高度成長期に現れた郊外住宅に至る原型を訪ね知り、辻さんの居宅との関連を想像してみよう。(庶民の住宅歴史と発展過程)(田の字型古民家

そのためには初めに登呂遺跡にある竪穴住居(ワンルーム)が、どのように「田の字型」に構成される民家に変容していったのか・・そこを探し当てなければいけない。しかし浅学の佐藤には突き止めることができない。で、想像で進めることにする。

登呂の形式から大幅に離れてしまうのだが、1927年の『日本民家史』131頁には4本の掘建て小屋の中央に柱を1本いれてみたくなる・・・これが心柱(大極柱)である。これを中心として4間どりの家になる。こういうのを滋賀県の人は傘建(からかさだて)といっている。現今の民家はこの傘建から出発したものであって・・・各部屋の任務は自ら全国的に共通の約束事がある・・よほど古くからの定めがあるらしい・・・とかなり強引であいまいな説がのべられている。

天地根元宮造というのであろうが、四本の柱で屋根木をささえ、周囲をタツコモ(筵のようなものか)または壁でふさぐ。入り口や応接、炊事場・食堂、寝室が1棟に統合され、便所、井戸、仕事場、物置は戸外におかれたようだ。p137には八重垣神社、神魂神社、大社の心柱をもつ田の字型平面がしめされている。
下図のオレンジ色の部分を観ると、東側が南北二間続きの土間で、この土間で交流、煮炊き、食事が行われた、現代のLDKの機能だったという。土間には炉が掘られているので煮炊きをしただろうし、時代が下ると一部にのこぎりで引き出した高価な板を敷いた。作業場や馬屋や座敷などが能力に応じ田の字型の左右に追加され、一つの茅葺屋根でまとめられていったようだ。

『近世民家の成立過程』p63 17世紀 福島県猪俣家 復元平面

近世期初頭以来の急速な農耕の拡大によって、民住居の大多数において耕馬は必需品となり、そのために馬屋は必要となった(62P)。なるほど、青ラインでしめした東側に、馬屋がオレンジラインでしめした田の字型に加わっている。

田の字型に加算された概念図を右欄に描いてみた。登呂のような竪穴式住居は住むためだけの家であり、作業や交流は戸外で行われていたのだろう。住むためだけの家は鈴木による近代の家の定義からはなれ続け、機能が加算され民家の姿を造っていくのは興味深い。そうして日本の近世期の民の家が成立したように想える。日本の民家は家内工業による生産の場だった・・・としておこう。

 辻さんの家概念図

お爺さんが建造し辻琢磨さんが改修し続けている居宅の概念を上に描いてみた。部屋は仕切られているものの、ベースは近世期の田の字型であることが分かる。東側に入り口や台所・食堂が南北にならぶ。西側に座敷や寝室がしつらえられる。田の字型の構成の中に通路や階段が埋め込まれる。2階概念図は省略する。現在は寝室だったろうが東の2部屋は辻さんの建築設計事務所に改築され、外部階段が設置されたそうだ。

お爺さんが建てた専用住宅に事務所が加算され、何かをつくりだす建築に変わった。鈴木のことばを借りれば、前近代の居住形式に戻ったと言える。しかし佐藤はポスト近代へ歩をすすめた21世紀型の辻さん居宅と考える。家族それぞれの歴史が建築に刻みこまれ始めた家と仮定し、観ている。

 
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左)1927年藤田元春著『日本民家史』
右)1995年草野和夫著『近世民家の成立過程』


『近世民家の成立過程』p168 村のまとめ役の家 肝いりまたは名主ともいう。








 田の字型居住の概念図を書いてみた。登呂の遺跡にあるワンルーム居住から、人が増えたことで、社会状況の変化によって、個と他者の間に多様な機能が要求されたことで、4つに機能分解し大きな屋根でおおわれたるようになった家としておく。
このような住居がどこにあるのか、あったのか、それは知らない。
上図、中央の田の字を内包した原初の居宅は、入り口、社交スペース、煮炊き用の囲炉裏、台所、食堂がワンルームになっていて、ワンルームは土間であった。やがて一部に高価な板敷スペースとして成長していったのだろう。佐藤の住む周囲の豪農居宅は一歩踏み入れると、大きな土間スペースが現れ板敷スペースと一体の構成をもつものが多い。



辻さんの居宅は「個人歴史館を内包する」、ポストモダン居宅



辻琢磨さんは居宅を改修しながら暮らしているので、ここでの感想は2022年10月初旬居宅を佐藤が体験した、それをもとにしている。その後どのように変化したのか、ままなのか、それはわからない。居宅概念図の要注意部屋に限定し記録しておきたい。はじめに写真で注目部屋の地・人・天をしめす。右に竪概念図を示す。

              
                    注目部屋 天井 小窓からかいま見える2階の建築事務所・仕事場
注目部屋壁@     
                                         @の対角の猫階段            辻さんの居宅、地・人・天の概念図
  注目部屋の床は登呂遺跡のような土間に還している            
  
 
注目部屋を観た第一印象

辻琢磨家の注目部屋を観た第一印象、それは著名な建築家の「都市を住居に埋蔵する」という宣言で、建築界に一石を投じた建築、それを思い出した。この住宅建築を佐藤は撮影したことがある。2003年雑誌社の企画で多次元フォトコラージューを作り、付録としてそれをCDに焼いた。偶然そういう依頼が来て著名な家を体験することになった。

近代建築計画者は簡明・直截な表現によって感染力をもって影響力を発揮したのだろうか。見た目の話で論文を読んだわけでもないが、佐藤には、それが都市というより上り下り階段が激しい、神社などの参道と店のような気配に感じた。それも都市的といえばそうだろう。だが都市という家なのだが、多数の他者が行き来するのは見かけない、気配がない。同時に静謐な森に包まれた居宅であることも、都市という言葉に違和感を覚えたような記憶がある。(風聞によるとこの居宅に建築家は長年暮らしていないという)

家族歴史館を埋蔵

辻琢磨さん居宅は「住居に家族歴史館を埋蔵する」と言えよう。

1970年代前後の「建築界の野武士たち」と称された彼らは佐藤の1世代上である。(琢磨さんのお爺さん世代)あの時の著名な建築家たちは自邸や親族の家を設計建造することで世に打って出ていこうとした。それが流行りだったし、住宅が少なかったので機会も多くあった。佐藤は彼らのひと世代下で、高卒でゼネコン設計部に10年所属し、1級建築士の試験に合格したら独立しょうと想って就職した。だから建築家という言葉には興味がなかった、今でもさほどない。建築業界に入った当時の夢は「自分の家を自分で設計、建造し家族を養う」そういう凡庸なものだった。32才で自邸をコンクリート壁式造で設計し、34才からそのコンクリート住宅に暮らし、他者の家づくりは興味がなくなり、40年を越えた。

辻琢磨さんは一つ世代下で大学の修士課程を卒業し、事務所に所属せず、といっていいだろおうが建築士と事務所の資格を得、建築家としての開所したばかりだ。空き家が900万戸といわれる世にあって、建築家として立つために自邸を新築し、設計して住んでいるの者は、佐藤の知人では渡辺菊眞さんの「宙地の間」と満田衛資さんぐらいだ。他は家土地が高額なので、故建築を手に入れ改修し暮らしている人が多い。

辻さんは野武士たちの後続とは異なり、空き家問題が顕在化し、誰でも知る世に建築家として立った。居宅はお爺さんが建てた家を琢磨さんが改築しつづけて、完成を想像することに意味はない。既存建築とどのように対話しお爺さんの家を改変しつづけるのか、その経過は重要なことだ。家族の歴史を刻み込むことが大きな特徴となっている。だから全体の完成景は無い。建築界の野武士たちや佐藤の世代と比較することも意味がない。強いていえば、辻さん世代の建築ははるかに複雑で柔軟な手さばきが求められ、完成した結果も他者に伝えにくい。地域や人間の歴史が終わらないように、辻さんによる居宅改修の完成は、その時々の家族の個人史館を埋蔵しながら「終わず生きる家」になる。

だから辻さんの居宅を時々訪ねては経過を観察記録し報告することが大切だ。過去の著名建築家たちのように目的は完成、そういう概念をセットし語ろうとしても結果もでないし、意味がない。それほどに辻さんはポストモダン手法をもちい、数々の事態の中を生きる姿と行為そのものを愛でつづければいい。そう佐藤は思う。

モダンのような目的合理をもって目標に進む前代の所作とはことなり、今後は辻さんの仕事を観察記録し発信する若者の登場をまてば、事足りる。だから報告者からの観察記録を受け止める観客が要る。どうように活動が拡張するのは時期到来を待つだけなのだ。フロントランナーは常に冷風を受け止め、関係者を育み生き続けることが肝心だ。家族史館を埋蔵しはじめた居宅形状の発明に、他者が興味を示すのか、それは情報の発信しだいだろう。