入門シリーズ 2024  佐藤敏宏は自身のことさえ理解できない人間なのだが他者に会い語り合う、そして記憶を共有し他者を想うことが好きだ。この20年間の小さい記憶を元に他者を記録しようとする試みを始める。 
 辻琢磨 入門    作成:佐藤敏宏 202405〜 
 01 出会い  02 生い立ち 03 辻琢磨さんの居宅   04 村上亜沙美さん
 05 建築を学んだこと  06 建築を教えたこと   07 これまでの作品を観て   08 更新設計がうまれる背景
 09 福島原子力発電所に立った人  
         

02 辻琢磨さんの生い立ち 




1986年、辻琢磨さん浜松市浜北区に生まれる 

両親はともに1958年、現在の浜松市天竜区に生まれ、育った。
琢磨さんのお父さん

琢磨さんのお父さんの名は辻恒彦といい、天竜区の山のほうで生まれた。恒彦さんの両親、父は農協の職員だったそうで、奥様は郵便局の電話交換手を勤めてい、出会いの場は不明だが大恋愛ののち結婚され、二人の男の子にめぐまれた。恒彦さんは次男である。恒彦さんの両親は戦中派だろう。だから太平洋戦争と敗戦を経るなかで、多感な少年少女時期を生き抜いたことになっただろう。

筆者・佐藤のクライアントの一人に、同世代のかたがいた。彼は、「食べ物は少なく常に空腹を抱え成長したんだ」と語り、小さな空き地を見れば野菜を植え、家庭菜園に勤しむ老人だった。一時に、多量に採れてしまい「おすそ分けだ・・」とジャガイモやカボチャ、玉ねぎなどを頂戴している。また、「欲しがりません勝つまでは・・」その精神を叩き込まれていたためなのだろうか、物欲がおおせいで、商品を身の回りに集める傾向がある。敗戦後の高度成長期のなか、反動でもあるかのように、せっせと生活物資も買い続け、とどまれない世代だとも思えた。困窮した生活と体験を持つ彼らは、成長とともに一生懸命働き、商品・物質に囲まれた生活を得ることになった。

戦時下を経る。恒彦さんの両親は、「結婚するには家の格が違う」と周囲からとの圧力にも屈せず、祖父母は大恋愛を突き進み結ばれる。そうして恒彦さんとお兄さんの二人の子宝に恵まれ、天龍の山を下り、浜北区に家屋を構えだそうだ。一生懸命が輝けた時代の幸い多き家族だと言える。1945年の敗戦によって引揚者数は660万人、日本国内の主要な大都市は大空襲によって焼け野原、住む家もなかった。佐藤の妻の親兄姉たちは、浅草で焼きだされ、上野公園に逃げ命を拾う。一時隅田川に浮かぶ船上生活者となっていた。(写真あり)

そのような世にあって、琢磨さんのお爺さんは、寡黙で慎重・努力型の男性だと推測できる。敗戦後は本領を発揮し同世代の見本のように、妻子をふかく愛しもくもく働く男だと聞き取りから推測できた。生業は農協職員で、物販商売のための腕も磨き、順調に年を重ね、浜北区に現在琢磨さんが暮らしている郊外宅地の一角を手に入れ、木造2階建ての家を新築した。

恒彦さんは社会の実相を知らなかったのだろうか・・・あるいはお兄ちゃんと比較され腐ったのだろうか・・・生真面目な父親に反発するような行動にでたこともあった、と語る。それは恒彦さんの現在の言動からは信じがたいことだ。1970年代の、ある1年間東京で放浪し、やさぐれた。その生活はどのようなものだったのか、興味は尽きないのだが先を急いでしまい、聞きもらしてしまった。(琢磨さんに加筆してもらおう)

恒彦さんのプチ・やさぐれは1年間で解消し、浜松市に校舎がある静岡大学・機械工学部に入学することになった。(注:大学入学後、放浪したのか、聞きもらした)彼は「そこそこ遊びながら実家から通学した」という。卒業後は一度、就職したが現在の会社に転職し、空調のプロとして、猛烈社員の見本のような琢磨さんのお父さんになった。昭和の猛烈社員である男たちは家事はほったらかし、奥様にお任せが定番である。現在も奥さん任せの加速度は衰えず、高度成長期の猛烈社員の鑑のような男の語りぶりだった。

琢磨さんのお母さん

お母の名は章代さんという。天竜区の町中で、両親が切り盛りする和菓子屋さんに生まれた。二人の兄妹で、2番目にうまれた。お兄ちゃんの失敗を鑑とし、自身を磨き上げることができた長女であろう。

ご主人の恒彦さんとは静岡県天竜高等学校(校名は定かでない)の同級生だった。恒彦さんは「兄ちゃんの嫁さんに・・」と章代さんを紹介したそうだが、恒彦さんによると、「僕と、くっついちゃって・・・子どもの前で言ったことない・・・」と遠慮がちに語る。が、章代さんは「人並みの恋愛よ・・・・」と、すかさず反論し、ほほえみを誘ってくれた。「恒彦+章代」ラブラブへの実の詳細は恥ずかしいようで、語ってはくれなかった。(初対面、オンラインの聞き取りだったので仕方がない)

琢磨さんの両親はともに奥ゆかしく、恋愛談を子供に秘密にしていたようだ。根掘り葉掘りお聞きしたが不十分なので、3人のお子さんたちには語っていただきたい。そうして、人が人を恋する豊さと、それを伝えることの意味を噛み締める機会をつくっていただければ、嬉しい。子どもたちには、両親の出会いの奇跡を伝え、お孫さんの代まで「愛情の不思議」を伝えてほしい。

琢磨さんの両親における「当時の人並みの恋」、その心は、八代亜紀の演歌「舟唄」、あるいは五輪真弓の手になる「恋人よ」のような心境だったとすれば、日本の歌謡曲を媒介に、当時の両親の愛の姿を、孫子に伝えるのも趣があって、よい一手かもしれない。残念!恒彦さんと章代さんの推し歌を聞きのがしてしまった。


お見合い結婚

恒彦さんと章代さんはお見合い結婚だという。しかし仲人さんは二人の父親の友人で、恒彦さんは、「彼女の、お父さんとお母さんは・・・僕の素性を調べられたんです」、と語る。筆者・佐藤の勝手な解釈だが、恒彦さんの消極さが裏目にでたとしか思えない。私なら章代さんの両親を説得するために、章代さんの家に乗り込んで行き、お互いの愛の説明は怠らない。幸い、仲人さんがとりもってくれたお陰で、「あの息子だったら一応OKだよ」という結論に至る。その「一応・・」の中身は気になるが、いずれにしても幸いなことに、私が20年後に知り合うことになった琢磨さんが誕生する結婚となった。彼が生まれる、その切っ掛けは想っていたよりスリリンブであった。

他者まかせは、実に際どい人生の道を選択する手法だと佐藤は思う。両者の父親の友達が、「あの息子だったら一応OKだ」と言わなかったら、駆け落ちすることで琢磨さんを手に入れたのだろうか?気になる・・・。それらを想像すると琢磨さんが身につけている「恋愛の手法」の一端を、想像できる気がする。




















〇〇年、琢磨さんの両親めでたく結婚

琢磨さんの両親が結婚に至った時期は、日本と米国との貿易収支バランスは著しく欠き、輸出超・黒字大国の日本だった。米国内の公道で日本車が叩き壊される、国旗も焼かれていたかもしれない。ジャパン・パッシングは激しく、たびたびニュースにも流れ、お茶の間の人々は眉をしかめた。対策としてプラザ合意が強行され、日本国内の内需拡大が誘導されたことで、日本経済が絶好調を通りこしバブル経済が起きた。その収集は6年ほどつかず暴走が続き、北海道銀行などが潰れ、赤字補填対象と救済策として、都市銀行などに莫大な税金が投入された。あの時は津々浦々の猫も杓子も、株だ、土地だ、ゴルフ会員だと大騒ぎし、日本人のお金の使い方の無能をさらした、奇妙な世でもあった。
教育、福祉、インフラ整備への投資は薄い。借金してまで、総・全国民投資の世が出現していた。(のちに、ホリエモンが出現することで、中学生の子供たちまで投資対象者として扱われる、そんな世が出現した。現在はアメリカ型の勝者を推奨し、政府が株式への投資誘導をしている)

そのような世相の1980年代なかば、琢磨さんの両親はめでたく結婚した。

恒彦さんと章代さんの新婚生活の舞台は、現在琢磨さんが暮らしているお爺さんが1976年に浜北区に建てた家であっただろう。爺さんが建てた家は琢磨さんの両親の結婚にともなって2階を増築している(─そうだとして、話を進めていこう─)。爺ちゃんが増築した部屋は、琢磨両親の新婚生活者のために提供される。そのことは両親の人生に大きな影響を与えたにちがいない。

1972年、佐藤は布団一組と製図机一つだけの財産、(─財産とは言えない─)で結婚し、妻が探してきた、新宿駅そばの木賃6帖で暮らしはじめた。スッカラカンに何も無い佐藤には想像もつかない恒彦さんと章代さんの豊かな新婚生活の舞台だ。
そこは日当たり良好で家賃無料、新婚愛に満ちている場だったろう。家のある新婚さんの暮らしの豊かさや質の良さを、借家人をつづけていた佐藤には、その違いは分かるような気がする。家賃支払を子どもの教育費の蓄えに回せるのは後々効いてくる。いいな〜、浜松市にせっする大洋を遠くに眺めながら、次に続く暮らしを予感させる、広々と開けた浜北の大地は輝いていただろう。

佐藤の新婚生活時の家は新宿駅そばの木賃で、日夜、高級な新婚さんの下着を選ぶ泥棒が出没した。隣部屋の愛人たちは真夜中にどんちゃん騒ぎをする。飲み屋で働いている店子たちは朝方部屋に戻る。なんとも賑やかな都市集合木賃だった。「都市生活はこんなもんさ・・・」と確認し合ったものの、踏ん張り切れず、半年後に調布市内にある木賃、「平屋の6+4.5、台所風呂付き住居に引っ越してしまった。

豊かに整えられた新婚生活の舞台から、恒彦・章代さん夫妻には、1985年に、お姉ちゃん、1986年に琢磨さん、1990年に妹さんを授かっている。上ふたりの年子を育てるのは、「亭主元気で留守がいい、パパ会社へまっしぐら・・・」と語られた時代にあって、働く男の見本のような恒彦さんを横目に、章代さんは息つく間もないほど、子育てと家事、さらには恒彦さんの両親に対する気遣いで翻弄され、疲れる日も多かっただろう。

幸い、授かった姉さんと琢磨さんは仲良しで、お姉ちゃんは友達の仲間と琢磨さんの面倒をみていたという。琢磨さんの現在の優しく穏やかな佇まいは、親譲りでもあろうが、お姉ちゃんが磨き育てたのかもしれない。3人の子どもたちは大人へと成長し、今、手の空いた章代さんは「医療事務の仕事も・・」されているという。天竜市の町なかの和菓子屋の娘さんは、相変わらず働き者なのである。

日本のバブル経済が崩壊したのは1991年だ。琢磨さんの妹さんが誕生し、琢磨さんが幼稚園から小学校に入るあたりだった。恒彦さんはいっそう仕事一筋につき進み、家事や育児を章代さん任せにして稼ぎ、琢磨さんが成長にともなって不可欠な学資を着実に蓄えていたに違いない。

地方に暮らす若者が東京や大阪、そして世界にある大都市で大学教育を受けるためには、実に実に金銭が必要で、日本国の貧しい教育制度が親たちを待ち構えている。さらに大学で建築学の教育の成就をなすには、詳細は省くが湯水のような銭が要る。建築学を成就したとしても、その者に建築年金が支給されるなどの、建築家を育てる国家的な育成システムが無い。気合で生き抜くしかすべ無き、涙の流れるような建築界の現実が横たわっている。働きながら建築をまなび、一生建築を追求可能な機関を設置する、などの対策を怠っているわけで、○◯賞を受け、ふんぞりかえりオヤジたちは若者の教育環境を、その足元を見つめようとしない。だから、金銭の有無によって、発掘されない建築の貴重な能力が消えていく。そんな悲しい現実を誰も変えようとしていないのも事実である。(森純平先生の聞き取りによると、東京芸大はすこし工夫を凝らし、若い建築人を育てようとしているそうだ)

佐藤が子育て中の1980年代初頭は、家庭崩壊や学級崩壊が叫ばれたこともあり、顕著なできごとで、思い出すのは「川崎バット殺人事件」だ。東大卒業し大手建材・ガラスメーカーに勤める、エリートサラリーマンの息子による犯行で、マスコミに連日大きく取り上げられ建築業界も越え、ショックは広がりつづけたので、記憶に残っている。
子どもの教育は難しい、唯一無二の才能をもって生まれきた我が子を比較叱責し、義務教育などのつまらない物差し・性能で我が子を語る、そういう世と、その愚かさを、川崎市の尊属殺人事件は教えていた。親の身勝手な欲望によって、子供は相変わらず傷ついていることだろうが、辻家においては、章代さんの見事な子育て術によって、すくすく健全に大人になったのである。

恒彦さんが仕事に没頭している中、章代さんに課された3人の子育でのご苦労に、共感できるし、具体的に想像することもできる。3人の子どもたちを無事、育てあげた章代さんの源パワーは、今も医療事務の仕事をしながら、パパと家族を下支え続けている。


■ 両親の願い 二代目・琢磨

琢磨という名の由来をお聞きしたら、章代さんは「切磋琢磨からきたんですよ、響きがいいな〜」とのこと。恒彦さんは、「思いついたのは切磋琢磨という名で、それがいいなと。それなりに私も切磋琢磨してきたつもりなんです」、という。

琢磨という名前への思いは二代目、「恒彦」で戸籍名称は「琢磨」ということだ。父と息子は「切磋、もいいな・・」などとつぶやいてしまうほど、通じ合う、感じ合う仲なのである。恒彦さんは琢磨さんを「変わり者、くちべた」とも言う。また「大学の修士を卒業しいきなり起業したので、すこし心配であった」と語る。が「食べていけるのか」と訪ねたことはなかったそうだ。住む家もある、そのような問を発して息子を苛立たせる、狭量の両親ではない。浜松市を育むでかい太平洋ににた両親だということだ。

一方、「習い事とかもやっていたんですけど、本当に普通です。習字とそろばん。」と琢磨さんは証言しているが、読み書きそろ盤はきっちり身に着けさせ、町中で商売を担う、基礎遺伝子は引き継がれている。

辻親子の仲の良さを一つ挙げておこう。恒彦さんは1990年頃、小学生6年生の琢磨さんからアドバイスを受け住宅を建てた。 アドバイスの内容は天窓の設置と間取りだ、という。加え、最近琢磨さんの設計で階段を緩勾配に改修している。親づらをせず、家の設計内容について家族、息子の思いも尊重していた父。こどもの考えも腕前も信頼する父母を、琢磨さんはもっているということだ。

恒彦さんが建て家族5人が暮らした家のある場所は、今の琢磨さんの家からさほど遠くないそうだ。が佐藤は実見していないので、琢磨さんが影響を与えた内容を評することはできない。

 

琢磨さんが両親を心配させたこと、2件

河川敷の土手に火が移る

38歳になる琢磨さんが現在も、サッカー愛好者であることは周知のことだ。彼は小学生からサッカーを始め、練習がキツすぎる中学時代はテニスに移った。その後はサッカーにもどり仲間たちと練習を続けているという。6年前、サッカーの練習で足をくじいていた琢磨さんに新宿駅南口で会った。

その日時と場所は、2018年4月6日14時、新宿駅南口に集合した、駅ビル内の焼き肉店だった。仙台で行われた「卒業設計日本一展」の審査員を、琢磨さんは務めたので、ひな壇にあった琢磨さんの感想などを聞き取った。(記録は公開している)その日、琢磨さんは松葉杖がなければ歩けない怪我の体だった。「サッカーして遊んでいてくじいた」と話していた。

あの日は6年前だが、結婚し浜松市に移ったばかりだったのだろう、「独立し、浜松でやろうというのは距離も東京から離れられる・・・っていのもあったし、関わる人間の種類が浜松の方が多いな・・・と直感的に思って。建築を知らない人、自分が知らない分野の人。行政の人とか、商店の人だったら・・・乾物屋もいれば、美容師さんもいて・・・それぞれ、違う知識を持っている人がいたり、ジェネレーションもバラバラだから・・・。」付け加えてこうも語っていた、「多感な時期に自分の身を置く環境として、違和感が有る、建築の中だけでどっぷり嵌っていると、あんまり好くないなーと思ったんです。」そのように浜松市を拠点にした理由を語っていた。

天竜市の町や山に源を持つ琢磨さんの遺伝子は、明治期よりハイカラが続く横浜港町をへて、再び母港である天竜の山裾に戻り、建築のプロとして一歩を歩み始めたのだった。先走るが、この春琢磨さんはインドのプネーに行き、辻家に続く遺伝子の行き着く先を確認していたように想う。

 
琢磨さんが両親を心配させた話に戻そう。恒彦さんの話によると「河川敷でサッカーしていて、琢磨さんの友達がライターで草に火を付けてしまい、消防車が出動、恒彦さんはこっぴどく注意を受けた・・・」。その時、琢磨さんの高校受験後のことだったんので「高校に進学できないと冷や汗をかいた・・・」そうだ。(放火は重罪だが未成年のそれはどれほどの罪になるのかは知らない。)
琢磨さんの語りによると、「中学校の不良グループみたいなの、あるじゃないですか。ああいうところとは仲よかった。半分混ざったりして、中2ぐらいの時が一番荒れていたかなー・・・なんだか分らないけど悪さはしていましたよ。不良グループとは高校の受験勉強を機会にちょっと疎遠になって・・・。」

琢磨さんは中学校時代にプチ不良仲間とやさぐれずに、読書に没頭していれば、高3卒業後の大失恋を経験することがなく、琢磨さんの人生の現在はまるで違ったものになっただろう。人の人生は日頃の修練と、一期一会、折々の選択の積み重なりの妙がなす、虹色に似ていて、自分の思うような生を捕まえることは不可能に近い。また虹が現れず気づくこともない幻影のように、消えていくものでもあろう。


高校時の活動

浜松北高校(静岡県立浜松北高等学校)って言って、一応、県内では一番みたいな。だけど、中二まではぜんぜん勉強とかしていなかったんです。なんとなく塾に入ってみて、そうしたら割と成績が伸びたんです。それで、割と勉強できるんだなーと思って。」

さらに生徒会活動に参加したそうだ。「会長じゃなくって副会長に立候補して。それこそ勉強、始めたくらいのタイミングで。不良グループとも仲がいい生徒会の人、みたいな、(独自に)個性発見塾というプログラムを作って、会長と副会長で給食の時間に各クラスに旅して、一緒に飯を喰って、何がやりたいんだ・・」と校内を旅したのち、750人の聴衆を前に演説し、無事当選を果たした。

恒彦さんは琢磨さんをほとんど、見ず語りである。「口下手と」決めつけているが、実は中学生の時分から聴衆の前で積極的に演説し副会長に当選している。今後は認識を改めていただきたいと思うのだが・・・親子はお互いの生の軌跡をさほど知らない、そんな同士なのだろうか。

琢磨さんの高校は合唱が盛んで「翼をください」を歌っていたそうだ。「翼をください」を親子孫で歌ってみていはどうだろうか。そして歌詞とは逆に「悲しみもある自由な大地、悲しみとともにある生を」自在に闊歩する逞しい脚を、お互いが身につけたことを確認しながら、詩をつくることも一つの妙案となるかもしれない。

中学時、仲間の不注意で乾いた春先の河川敷に火事を起こしたが、琢磨さんの心配をよそに、無事、県内一の進学校である浜松北高校に入学することになった。両親は「好きなことをやれ・・」と言っていたそうだ。

高校入学時にはまだ建築の道へ進もうとは決めてはいない。琢磨さんが小さい頃から、自宅のプランなどをアドバイスしたように建築に興味があったそうで、現在の建築の道を拓く行為に、高校合格で近づいたことになった。
参照:ullchin/edz21/0412tuzi/tuzi21-01.html

琢磨さんが両親に心配させたことはもう一つある。それは大学の修士課程終了時のことなので、生い立ち編では記さない。

以上が辻琢磨さんの生い立ち録です


1980年代建築宣言文


・ポストモダンと歴史再考
・建築と文化 大江宏
・「秋葉原」感覚で住宅を考える
 石山武修
・東京の空間人類学 陣内秀信
・直島飛雲閣 石井和紘
・路上観察学の旗の下に 藤森照信
・機能から様相へ 原広司
・アート・キッチュ・ジャパネスク
 ─大東亜のポストモダン 井上章一
・消費の海に浸らずして新しい建築はない 伊藤豊雄


注意書

自身もふくめ、生い立ちを調べ記録することは思っているより困難で不正確になる。その理由の一つとして、人は過去を創造し生きる動物でもあり、事実を整理し一つに絞り簡明に語るなんてできないからだ。大げさに言えば眼の前でおきている歴史(事実)を、語ることさえ不可能だからだ。同時に彼ら自身の生と、ともに寝起きし記録したとしても、彼が思い感じた記録になることはないだろう。荒い画像に似た「生い立の記録」をつくることで、過去を創造し、自身の生い立ちを作り上げることが、生きているということだとも思う。

各自が各様に「こうだ」ったと思い込んだり、共有しやすくするため、過去の出来事の記録に合わせ、事象を整理し「生い立ちテンプレート」に落とし込み、伝え易くする定型を用い、決め台詞によって簡潔に記録することで、どれだけの事実を捨象してしまうのか、正確に語れない。

なんとか辻琢磨さんの「生い立ち」をweb記録にし、それが共有すべき生い立ちの事実だと一端は決め、過去の想像を繰り返すことが生い立ちの記録をつくる、行為の肝心な一つだと思う。

この記録は素人の佐藤が聞き取りなどを重ねて、作る記録だから、研究者などが過去の多数の研究成果に上書きし、更新し続けるものでもない。できることなら新たな写真や動画、または関係した人々の証言を得、書き加え続けるなどし、「次なる生い立ちの記録を編集しつづけ合えば、それが共有すべき事実となるかもしれない。そのように、お互い確認しあい継承することが可能な生い立ちの記録切っ掛けになることを願っている。

その事とは少しずれてしまうが、多くの人の参加と上書き更新によって、人の生も書き継ぎ、編むことで共有すべき事実とし、個の無能を確認するしかないように思う。

映画『羅生門』(原作・芥川竜之介、羅生門+藪の中)にも描かれたように、すべての関係者が、これが事実だとは強弁し共有したとすれば、インチキ建築家の一片の虚像を、独裁者のように振りまく愚かさを繰り返す者になるだろう。





1980年代の建築系キーワード

・超芸術トマソン 都市の奪還を目指して ・広告=都市
・神戸ポートランドと水谷 穎介(えいすけ)  ・地区計画制度
・生闘学舎(チャリブ)             ・ゲニウス・ロキ
・名護市庁舎                  ・ホテルニュージャパン火災
・風景学               ・ラ・ビリット公園国際設計コンペティション
・ハイテック・スタイル       ・批判的地域主義
・東京デズニーランド       ・超芸術トマソン
・AT&Tビル            ・九龍城砦
・東京画               ・ルーヴル美術館(増設)
・チェルノブイリ           ・リゾート法
・OMソーラー            ・DOCOMOMO
・くまもとアートポリス        ・シムシティ
・ベルリンの壁崩壊