長崎漫遊 2024 10グラバー邸 |
作成:佐藤敏宏 2024年6月 | ||
01 どうして長崎 02 長崎まで 03 原爆資料館に向かう 04 原爆資料館 05 爆心地に立つ 06 鈴木達治郎先生に会う 07西坂公園・日本二十六聖人記念館 08出島 09 グラバー邸 10結び |
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■グラバー邸 長崎空港で手に入れた「アクセスガイドマップ・長崎」の表紙に描かれている人物はトマス・グラバー(1838〜1911)であった。なぜ彼の人気は衰えず現在に至るのか、興味がわいた。資料を手がかりに、20才早々長崎の地に踏みこみ、やがてその地に埋葬されたトマス・グラバー。かれの長崎での活動をたどり、行きつ戻りつし、トマスの魅力とグラバー邸は住宅ではない、そのことを記録しておきたい。(できれば継続して探っていきたい。) トマスさんのイラストの元ネタは東京都の港区立郷土資料館所蔵、右欄に貼った写真だ。裏書には「英商カラバ」とあるという。(トマスの愛称は多数あり、カラバはその一つ)。背もたれのある一人ひじ掛け椅子に、行儀わるく逆座りし、右手を顎にあてている。さほど深刻さはないものの、ロダンの「考える人」を想起させる構図だ。写真撮影のポーズを決めたのは、洋服や髪型からの推察だが、1864年グラバー邸で、イギリス人のフェリーチェ・ベアトで、彼が撮影したとも思う。(後のグラバー邸の庭先に大砲や小銃をならべた画像参照) 長崎市では今もトマス・グラバーの思いを大切に継承している。この「明治日本の産業革命遺産・長崎マップ」の制作にあたっても、岩崎弥太郎ではなく、トマスを表紙に掲げていた。その選択は興味深い。トマスが亡くなり113年後の2024年、彼の人気は衰えない証の一つだろう。 戦国時代から日本商人たちも軍事力を備え(たとえば村上水軍)、宗教家や地域の人々と協働し、商売の経路を拓き、地域と連携することで北前船などの商売と繁栄は成り立ったという。商品を確保するだけでは、商売は拡大しない。物資を安全に輸送し代金を回収していくためには、未分化な世でかつ乱世に、未知の地で交易することは、21世紀の商人とは異なる、自由で柔軟な個人力を備えなければ、成り立つはずもなかったという。(『商いから見た日本史』) そのようにして大阪、京都、江戸の大消費地に物資を運ぶ仕組みができあがる。千石船と称される和船を手段に、販路を拡張し、鉄道網ができあがるまで千石船に関する人々は活躍したそうだ。 明治維新下にあっても、外国商人たちも、武力や宗教共同体の連携を背景に、活躍し得たことは自明であろう。トマスの人生を通し、長崎の商業を概観し、長崎を少し理解し長崎ファンになれば、my長女に誘導され長崎漫遊を始めた私には、望外の喜びだ。 |
(注意) 初めてグラバー邸を訪ね、印象記にとどまるが、間違いがあると思うのでご指摘いただければ幸いです。 麻布のクラバー邸詳細は港区立郷土資料館 ザ・AZABU Vol.6 - 東京 6頁にも 千石船「気仙丸」webより1840年当時建造費千両 現在の1億円ほど(173P) |
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■インド発ベランダコロニアル建築 建築史ではグラバー邸などを、ベランダ・コロニアル建築とよぶ。西欧から遠来した商人たちが、中東やインドを経由し日本にやって来た。彼らには地域に最適で快適な家屋が要る。商人たちが辿り来た地域の気候に対応しながら、ベランダが家の四方に貼りついた独特の住居形式を発明した。それらはバンガロー・ハウス、あるいはベランダ・コロニアル建築と称される。住居に限らず、明治維新前後に建てられた木造建築にベランダのついた建築を観光資源とし保存している日本の地域は多い。商売をしながらの居住形式だろう、その一つを改良しつつ日本にたどり着いて完成する。その完成した姿がグラバー邸(擬洋風・建築)と紹介される。(『日本の近代建築』上巻23頁) 日本の大工たちは、依頼主の小さな絵をみながら工夫し擬洋風建築を、開港なった日本列島に造っていく。 現在の長崎のグラバー邸にやってくる観光客は、建築に興味があるのではなく、外国人男性と日本女性との悲しい物語の舞台としてのグラバー邸を想って来るのかもしれない。だからオペラになった「蝶々夫人」の舞台がグラバー邸というほうが了解されやすいだろうか。だが、オペラは創作された物語だから事実ではない。歴史的事実と勘違いし来訪する観光客も多いことだろう。 日本の近代建築が生まれる背景は、営為の偶然の重なり合いがなす結晶ともいえるが、具体的な場に立ち見渡すと、たいへん魅惑に満ちたスリリングな時の集合として迫ってくる。建築は発注する者の思想と、その場にある物そして匠が造りだす結晶の一つでもある。 私は明治維新によって登場した「擬洋風建築」の類は、形状も成立過程も混沌としてい、類型を辿り知る、そこに興味が向かないので、好物ではない。だが、グラバー邸は残り、現在も長崎市の観光名所の一つになっている。畳の上に座りつづける日本人の暮らしから生まれる民家とは、まるで異なるベランダコロニアル建築を、長崎市民も観光客も土足で通過し、不思議がりつつ楽しんでいるのだ。 現場に立つと、東京からの女子高校生が観光に押し寄せていた。長崎市民への聞き取りをしていないので、彼らはグラバー邸をどう思っているのか、分からない。 単純に「いい建築だね」と受け入れられないのは、建築設計を生業にしていたことも影響している。グラバーにとって必要で、かつ実用的な建築物が重要文化財となり、やがて観光資源になる。それは建築の生な事態にとって幸いなこととは思えない。人と共に暮らしの背景にあってこその建築だと思うからだ。観光客が通過していく観光資源としての建築は、歴史的資料であり、建築ではない。が、歴史的な物証として保管継承することで、日英交流の具体的なあかしをともない、素晴らしい結果の現れだとは思う。 後にくわしく書きたいが、グラバー邸建設当時の建築の意味が変容している。繰り返すが、そのことは建築の初頭の営為からは逸脱している。建築は多数の位相のなかで生き続けられる、グラバー邸はその見本の一つでもある。明治維新期を振り返り、思いをはせる歴史的物証としての建築的事態は、観光客たちの生と地続きの上に過去があることを実感させるので、3D映像機よりすぐれている。 また多数刊行されているグラバー関連書籍と共振し合いながら、後世の人々が明治維新の世を知るための、大切なメディアの一つになってもいる。建築と文字情報が一体となり継承され続ける事態は、建築を保存継承することも支援してきた私にはたいへん興味深い実例だ。 ■グラバー邸に起きた奇跡 私はどうしてトマス・グラバーに興味を惹かれてしまうのだろうか?、それは現地に立って強く思った疑問の一つである。だから長くなるが、長崎漫遊の1篇として記録を残すことにした。 グラバー邸が残った道のりは、波乱に満ちていて、奇跡が起き残ったとも言える。奇跡の一つだけを示しておこう。グラバー邸が1863年建築され、そののち7年後グラバー商会は倒産している。債権行使に遭わず、他者の手に渡ることもなく、現在もグラバー邸として残っている。その偶然や奇跡は興味深い。グラバー邸として残った因は倒産前に、弟名義に変更していたからだ。(←『トーマスグラバーと倉場富三郎』)トマスに弟は2人いて、アレクサンダーとアルフレットである。所有権の移転先はどちらの名義だったかは確かめていない。弟所有の建築とはいえ同姓だからグラバー邸にかわりない。ちがうと判断しているが、住居だとすればトマス・グラバーが建て、弟が継いだ家になる。所有権移転によって建築の意味は異なっているはずだ。観光資源となった現在のグラバー邸では、その点を案内していない。(見落としただけかもしれない) (グラバーの家三軒) 高島鉱山開発に着手したことも、グラバー商会の倒産の一因であるが、石炭採掘に熱を込めていたグラバーは、鉱山近くの小島に自邸を建てている(『明治維新とイギリス商人』P163)。写真が無いのでどのような建築だったかは分からない。もう一軒は、最晩年の家で、初代総理・伊藤博文がトマスに贈った麻布にあるグラバー邸だ。港区立郷土資料館の ザ・AZABU Vol.6 - 東京6頁)PDFを開くと、トマス・グラバーは1911年12月16日、伊藤博文に贈られた麻布グラバー邸で死去(73才)、とある。遺体の写真もこのPDF内に収められている。 (トマスの子供たち) トマスは日本人との婚姻届を出していない。最初のパートナーは花街に暮らすお園だ。彼女との間に生まれた長男は幼くして亡くなる、それがもとになり別れたようだ。次のパートナー、母親は定かでないが長男、倉場富三郎(1870〜1945) 長女、ハナ・クラバー(1876〜1938)の二人の父親となる。麻布グラバー邸でのトマス家族の絵がある。二人は異母兄妹なのか、資料にあたってみたが分からない。 長男は長崎に原爆が投下されたのち、1945年8月26日、自宅(現在のグラバー邸ではない)の寝室において74才で自死した。倉場富三郎がなぜ自死しなければならなかったのか、母親は誰なのか、2点は分からないので、今後の課題としておく。 |
高島鉱山グラバー邸サイトへ ハナ・グラバーの足跡を知らせる展覧会 長崎新聞2024年3月1日記事 |
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伊藤博文が贈った、麻布のクラバー邸 ■所有権の変遷 長崎に1863年、トマス・グラバー26才は自邸を建てる。グラバー商会は1870年、倒産したが所有権移転をしめすと、弟→三菱→進駐軍(宿舎)→三菱へ返還→1957年三菱創業100年記念事業の一つとして長崎市に土地建物を寄贈、現在に至る。 トマスさんは7年ほどしか営業施設として使用していなかったのだろう。高島炭鉱の経営が順調になり儲けすぎたのだろうか、三菱の岩崎弥太郎の補佐役とし、1884年トマスを月給705円(当時総理大臣の年俸9600円、駅弁5銭『値段の風俗史』)で雇っている。それにともなってトマスは、いわゆる長崎のグラバー邸で暮らしていたのか、それは不明だ。 |
赤点がトマス生誕の地 |
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■ トマス・グラバーの人生と世界の状況 伊藤博文、五代友厚、岩崎弥太郎などの日本人から、トマス・グラバーは愛された。その理由を知りたいので、資料にあたってみた。 杉山伸也著『明治維新とイギリス商人─トマス・グラバーの生涯』(以下、数字は頁)が適しているように思う。この著書に沿いトマス・グラバーの人生、来日から生涯を日本で終える必然を概観してみたい。 トマスは1838年6月6日、スコットランドの東北海岸、鰊漁の港町フレーザーバラに生まれた。下の絵のように8人兄妹の、5人目に誕生した。 グラバー邸の案内板にしめされた家系図の一部 |
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■イギリス、絶頂のヴィクトリア時代にトマス・グラバーは生まれる トマスが生まれ育ったのは、イギリスの絶頂期が始まった年だ。(1838年〜1901年)ヴィクトリア時代のスタート時に彼は生まれた。イギリスは産業革命を経、世界の覇者としてのイギリス人の熱気をトマスもまとい、彼の人生をも規定しているだろう。それは、日本における経済の隆盛期、「もはや戦後ではない」、と言われた1960年から、経済バブル崩壊の1990年までの30年間に当るかもしれない。想像すると、あの狂ったような世相を思うことですこし分かるようなきがする。イギリスの絶頂期は63年間つづき、植民地もない戦後日本のそれの倍の長さをもつので、比較しても意味はなさそうだ。 幕末日本には武力で政治を実行支配した、各藩の武士によってなる武士道(新渡戸稲造著英文)の精神が、政治や政策の底流を流れていた。イギリスのそれはジェントルマンという概念で対応するだろう。 歴史書『イギリス』P17には、百年戦争はジャンヌダルクの出現により、敗戦を契機に大陸から撤収する。島国に閉じこもり国民国家の形成を進めた。闘うことを職分としていた騎士が、軍役免除金制度の導入によって「戦う」ことをやめ、地方に定着した「ジェントリー」となる。高い身分のものは義務を負う、それを生活信条として、治安判事や議会下院議員として地域社会に無給で奉仕し、名望家支配体制を打ちたてた・・・・・このジェントリーを中核にして、貴族とのちに専門職業に従事する者を加えたのが、ジェントルマン」と呼ばれるのだそうだ。彼らが支配階層としての地位を保ったことからジェントルマンの国イギリスというイメージが固まった、という。 彼らはプロフェッション(専門職)と呼ばれる職種の従事者で、高級官吏、政治家、将校、医師(内科医)、法律家(弁護士)、国教会聖職者、貿易商なども含まれていた、とのこと。 トマスの前にはジェントルマンを自認する貿易商が多数存在し、彼はそのジェントルマンを目指し、そのような人物になろうと望んだ、と想像すると、─数年、武器などの取引仲介もしたが─、後のトマスの軌跡と、友との交流の謎も理解できるだろう。彼はジェントルマンになろうと日本で活動したと思う。(注:2024年世界の人権感覚では彼の女性軽視は甚だしい) 2024年日本の政治状況をみると主権者が世襲政治家を好んでいるので、武士道のような高潔さも、ジェントルマン的政治家も存在しない世にあって、新渡戸やトマスの精神を想い共有することはかなわない。 ■13才でロンドン万国博覧会 1851年にロンドンで第一回世界万国博覧会が開催される。13才のトマスがロンドンまで出かけ万博会場に立ったのかは不明だが、近代建築の始まりを告げる、鉄とガラスによって輝くクリスタル・パレス(水晶宮)が登場し、近代建築の始まりとして建築史に刻まれている。 万博開催から8年後、トマスは開港したばかりの長崎港に渡ってきて、その日から日本に根付くことになった。 来日する前は1856年(18才。兄のあとを追う)上海に着き貿易商会に3年間勤めている。上海から日本行きの第一便で、1959年開港したばかりの長崎へ単身で来日する。 参照:(水晶宮は、ジョゼフ・パクストン設計。骨組みが鉄骨、屋根・外壁がガラスのプレハブ建築。長さが563m幅124mと巨大であった。移築され1936年全焼し再建されていない。) クリスタルパレス外観 内観 webより 「沈まない国 イギリス」が覇権を握った地域 |
ヴィクトリア女王 3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため 1837年6月20日に18歳で即位する |
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■トマス長崎で独立、グラバー商会をはじめる 取り扱い商品は、お茶、石炭、綿花にはじまり、土地担保金融、艦船取引 武器弾薬なども仲介へと広がりをみせる。 19世紀半ばスコットランドの若い世代の間にも、自分の才能を発揮することによって、社会的地位を上昇させる可能性を追求することが強く意識されるようになったそうで、(P14)スコットランドの最大の輸出品は「人間」といわれるほどで、若者が海外を目指したという。彼らは海外で一財産を手にいれれば、スコットランドに戻って余生を過ごすのが一般的だった、という。しかし、トマスは一度だけロンドンへ資金調達に行くも、長崎に戻り、トマスは故郷には戻らなかった。 上海でトマスが就いた仕事は商会事務員だった。それは、商業、サービス業の急速な拡大によって登場した不可欠の職業で、まずは、経済的に独立し社会的地位を得る。貿易商はヴィクトリア時代の夢を実現させる可能性の高い職業であった(P45)。トマスは商売を軌道に乗せ、社会的地位を得てさらにジェントルマンになるという夢をいだいていたのだろう。 長崎で1年ほど勤めるもののジャデーマセソン商会のマッケンジー・上司が中国の漢口に移り、長崎の居留地にあったジャデーン・マセソン商会長崎支店を引き継ぐ。そういう幸運に恵まれる。上司とトマスは1ドル(両)は天保一分銀三枚と定められていた(『新・五代友厚伝』P75)、銀を日本の小判と両替し交換し上海に持ち出すと一両小判は三ドル(両)になり三倍の価値となり、為替益をえる。小判と銀貨を日本から上海に行き来し動かずだけで濡れ手に粟の利益をえた。(それをしってた幕府は、1858〜1860年4月まで、以降、小判の鋳造で小さくしたり金の含有量を調整し、是正した) トマスと上司、マッケンジーは大儲けしたそうで、上司が長崎を離れるにさいし土地を買いグラバーに贈りものとして与えたそうだ。そこがグラバー邸が建っている土地だという。約10年でグラバー商会は倒産するのだが、来て数年は大幸運にめぐまれることになった。 1860年23才、長崎の居留地も完成し、土地管理もすることになると、上海から兄を呼び寄せる。長崎に製茶乾燥工場をつくり、ヨーロッパに輸出を開始するほどの腕というか運がめぐってくる。グラバーが自立した時代、日本においては明治維新というドラマチックな激動期と重なる。絶頂期にイギリスを出て東方を目指した彼の欲望が、明治初期の大混乱に呼び寄せられたともいえる。1911年グラバーは他界し半年後に明治は終わる。 明治維新前夜に長崎で貿易をスタートしたことで、イギリスの艦船や、1865年南北戦争が終了すると、武器弾薬の輸入仲介が増えることになる。(歴史の偶然と言える) |
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グラバー商会が管理あるいは所有してた土地 1865年フェリーチェ・ベアト撮影 長崎居留地と向こう正面が出島 |
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■死の商人だったのか グラバーの長崎での活動を概観すると、「日本にやってきた目的が武器商人となり、一儲けしたら去る」という像は結ばない。むしろ死の商人とラベリングすると、グラバーの生を知るためには障害になるだろう。それは小菅ドックや高島鉱山の開発、ビール工場の運営へと展開する精神を飛ばし、事業への欲望と、日本的近代産業への献身を理解できなくさせる。ラベリングすることでそれを切り捨てることになる。 世界の激動期に貿易商であることで、武器や艦船の購入の仲介を依頼され、アメリカの南北戦争終結で、世界市場にダブついた銃や弾薬、艦船まで取り扱い始めたと受け止めたい。 1962年25才グラバー商会を名乗り、長崎で独立したばかりのグラバーが抱える社員は、4年後は24人となる。長崎一の貿易商であることをしめしている。(p75)長崎には22商会があり、唐人はのぞき100人以上の外国籍の貿易商人がいた。 長崎一の貿易商となれば、艦船や武器を扱える位置になる。それはトマスの意志というよりは、偶然が重なった結果だろう。日本は尊王か攘夷か、倒幕か開国か、と帝国主義を実践してきた西欧の外圧から自立するために必要な、話し合いで対立を乗り越える民主主義を知らない。で、日本の武士同士が殺し合う場は必要だったのだろう。そこで、西欧の武器を多量に所有し使う必要があった。日本の乱世、その時流に乗るというか、政局に合わせ武器販売も行わざるを得なかった。トマスをそう見ると、1911年麻布で亡くなるまでの彼の歩みを受け止めやすくなる。 トマスを日本に引き付けたのは、乱世にあってうごめき合う若い人たちと、花街で働く女性たちの存在だろうか。伊藤博文や五代友厚、岩崎弥太郎とその兄弟、子孫と続く交流によって、日本に対する愛情が芽生えたのだろう。日本に骨を埋めるほど、日本離れしがたい地となり、第二の故郷でもあるかのように、島国・日本観は変容していった。好ましい日本男性との交流の結果、トマスの愛すべき土地に変わっていったのだろう。 だから日本で一儲けしスコットランドに帰郷し、悠々自適を過ごすことを理想とした、あまたのイギリス貿易商とはことなっている。イギリスの死の商人、金を儲けるためならなんでもする、そういう人としてトマスを片づけることはできない。トマスの心の動きを詳細に堀こむと、当時の日本の良さも浮き出るだろう、が課題としておこう。 『蘇る幕末』p122の一部 全体を観ると商品の大砲が3門以上設置してある トマス・グラバー27才 1864年7月頃 撮影フェリーチェ・ベアト 五代友厚は薩摩藩とグラバーの間をとりもち、蒸気船の購入に奔走する。またトマスは同藩の留学生の密出国を支援する。他方、幕府とも艦船取引をする。幕府は背に腹は代えられなく、艦船購入の仲介をトマスに依頼する。トマスは幕府から見ても、薩英戦争を起こしたイギリス本国から見ても、質の悪い「死の商人」と思われて当然で、そういう無節操な商人に映っただろう。 オランダや唐人の貿易商も多数入り乱れる時期に、高潔を求めるのは勝手な思いだろう。戊辰戦争に突入せず、日本人同士で対話の場をつくり、流血なき明治維新を成就できなかった点を棚に上げて言えば、グラバーも勝手きわまる行動を選択する怪しげな冒険商人だ、と両国の政府筋の方々には映っただろう。だからか、イギリスの公使レベルの外交文章にはグラバーはほとんど登場しないという(P9)。武器や艦船の仲介は薩長や幕府を売り先として盛んになる。 独立して3年後、25才で長崎グラバー邸を建てる。長崎港にやってくる艦船の行き来を一望できる高台で、大砲を庭園に設え、幕府にも薩長などにも売りさばく。 (p31)1870年長崎で開業していた欧米の貿易商会数は24。内イギリスが9商会だ。1〜4人の規模で破産確立は63%(P32)、という。 1863年トマスは自邸を建てたが、お金の回収がうまくできない、キャッシュフローにうとい人間にみえる。または腕利きの経理師を雇っていないように見え、どんぶり勘定で1870年、倒産したようにも思える。 (p91)艦船取引は取引額も大きく、利潤も大きい魅力的なビジネスであったが、支払いが滞ったり、取引自体が政治の変化によって影響を受けるので、投機的性格の強いビジネスだったろう。(p92)取引先である、乱世のなかで各藩の財政状態が苦しくなると、外国商会は信用取引や特産物を引き当てに取引を維持しようとする傾向が強まったそうで、トマスも自転車操業と俗にいう様だったろう。 商売相手が多すぎ、貿易商同士で無理に売り合いをするほどに金繰りが怪しくなり、さらに無理をする悪循環に入っていく。好景気の後の倒産、それにしても63%の倒産率というのは凄いものだ。冒険商人のうごめく場ならの数値だ。 グラバー商会は1870年の倒産時の手持ち保有現金が1010ドルしかなく(p184)。負債681,566ドル、資産、594、148ドルに比べると、現金が少なすぎる。10万ドルの現金がないと辛いだろう。融資をあてに先食い、手形を発し、効率よく乗り切る。その腕がなかったのだろう。若すぎた上に事業が急膨張すると倒れることは多い。だからトマスは商売達者な人には見えない。そこが関係した日本人を惹き付けた点かもしれない。 取引相手の幕府も各藩も、武器や艦船の代金支払いには苦労した、とあるので、トマスの人の好さに付け込んで、幕府も藩も、支払いを先延ばしつづけたことは考えられる。で、売掛金の回収が出来ず倒産したとも想像できる。 やがて、1868年を境に幕府も各藩も蒸発してしまい、明治新政府はトマスがもっていた各藩や幕府の負債を、肩代わりして支払うとは考えにくい。売上金をどのように回収したのか、すべて回収できなかったのか、それは、今後調べることにし、グラバー商会の武器類の輸入について羅列しておこう。 |
■米・南北戦争終焉による余剰武器争(1812年 - 1814年) アメリカ南北戦争 (1861年4月12日から1865年4月9日) |
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絵webより ■銃などの武器類の輸入 1)幕末全体のことを羅列する。 ・原則は幕府以外の武器類の販売は禁止されていた。が、守られず、取引が行われた。 ・イギリス領事報告 (P97)輸入は神奈川が中心で全体の55%、総額904万ドル。 長崎での輸入は35%。 ・武器輸入の中心は小銃 (密輸入は除く) 1865〜70年に長崎で172,000挺、241万ドル。1挺14ドル(=両)。 横浜で328,600挺、447万ドル。 1挺13.6ドル。 ・先込施条銃が中心。(ミニー銃、エンフィールド銃など) ・後装施条銃も輸入されていた。 ・これらはアメリカの南北戦争に使用された小銃が、大量に中国市場にでまわり日本に販売された。 2)トマスの武器取引(長崎の38%) ・長崎で売り渡された小銃の合計は、33875挺で、グラバー商会は12825挺。 ・薩摩藩は1868年、グラバーを通じて長崎のミニー銃(ミニエ銃)を買い占めた。 ・長州藩はグラバーから薩摩藩名義、でミニー銃4300挺、ゲヴェウル銃3000挺 を92400ドルで購入した。グラバーの銃の調達先は分からない(p100)が グラバーは香港や上海にある欧米系の商社から買い付け、藩に販売していたようだ。 ・グラバー自身は銃砲や弾薬などについて知識がまったくなかった、と後に語っている、そうだ。 3)イギリス政府公認のアームストロング砲の注文 ・幕府から長崎奉行をつうじての35門の注文はグラバーにとって初めて。 ・1865年4月、総額183847ドル 70ポンドの先込砲15門12ポンド後装砲10門 8ポンドの後装砲5門、6ポンド後装砲5門。 ・1867年8月長崎に武器は到着したが、おそらく官軍の手に渡り幕府軍との戦闘に使用したのだろうか? ・1865年9月頃、長州藩からもアームストロング砲15門の注文を受ける。 ・注文の一部がキャンセルされ、洋銀の相場変動もあり、1510ドルの損失、とある。 トマスは、ジャデーン・マセソン商会からの融資にささえられ、投機的な艦船や武器の取引にうつり、西南雄藩との関係が深まっていった、という。 |
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■艦船の仲介について ・1862年7月幕府は、「海防力」の強化の一環として諸藩に外国艦船の購入を許可した。 ・1860年から1870年まで幕府、国内の維新期の艦船輸入は162隻。 ・長崎での輸入は112隻。そのうちグラバー商会は24隻を仲介、とある。約15%扱ったことになる。グラバーによって日本に販売された小銃の割合も14%ほどであろう。 |
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p88 グラバーによる艦船取引数と売り先、幕府と西南雄藩リスト。 |
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■高島炭鉱について(155P) 高島炭鉱は18世紀はじめごろ採掘がはじまり、製塩用の石炭として中国、四国地方に販売されていて、日本の開港によって欧米の商船と海軍から注目されるようになる。同時に上海に輸出されていた、という。上海の石炭市場はイギリス炭35%、オーストラリア炭35%、日本炭13%であったが、1870年代の後半、日本炭は60%を占めるようになったという。 グラバーは経営がいきづまるなかで、高島炭鉱の開発に執着せざるを得なくなった、という。 佐賀藩との話し合いによると、外国人技師の雇入れと、機械据付、機械二基などで6000〜7000両かかり、佐賀藩単独で採炭と販売をしても期待ができず、販売はグラバー商会に一任し、共同で開発をおこなったそうだ。佐賀藩はグラバーから艦船と銃の代金を立て替えてもらっていた、そういう背景があったそうだ。 また、グラバー商会倒産一年後の1871年12月30日グラバーは、見解を以下のようにまとめ、書簡をおくったという。 ・イギリスから日本に石炭を輸出すると鉱脈が減少し、東アジア全域に供給できない。 ・遠い地域から燃料補給することは貿易の法則に反する。 ・日本の炭坑開発は日本だけではなく外国人の利益にもなる。 ・雇用機会がひらかれ技師や職人に職を与えられる。 ・日本の繁栄と日本政府の収入にとっても炭坑開発は必要。 など、鉱山開発はヨーロッパの熟練労働者や機械設備にとって重要な分野となるだろう、と提案。 トマスはイギリスに戻る(1867年)。そこで100,000ドルの資金調達に成功し、1868年佐賀藩と開発契約を交わす。内容は、1)採炭期間は7年半。 2)輸出石炭1トンにつき、1両をグラバーが佐賀藩に払う。3)石炭販売代金から、採掘諸経費を引いた利潤は折半する。4)機械購入費を除く他の諸経費はグラバー商会が融通し、販売利益で償却する。5)グラバー商会は、佐賀藩の松林源蔵の承諾なしに販売権を譲渡することはできない、などであった。 高島鉱山の石炭の売り先は長崎港に寄港する蒸気船、あるいは上海に輸出だ。 グラバーは貿易商から日本に根を張る企業家へ転身をはかろうとした、が・・・乱世にあって転身は阻まれることになる。 |
3カット上野彦馬撮影 明治初期の長崎高島炭鉱の様子 |
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■明治政府 明治政府は、諸藩が所有していた製鉄所、造船所、鉱山を接収し日本の近代化を進めていくなかで、グラバー商会のビジネス環境も激変する。幕末の一時的に激しいく流動しる政治状況に乗り、急激な事業拡大となったものの、若い10年間では資本力が身につかず足腰が弱く、経営基盤の整備ならず、経営能力も蓄えられなかった。さらに高島炭鉱に資金が固定してしまうことで、当然のように現金不足になる。炭坑開発が初頭から収益をあげる安定した事業に成長しなかった。 一方、明治政府は外資排除の方針をかためる。新政府内が安定するほどに、グラバーの交易はいきづまる。若年の冒険商人の限界も顕在・露呈し限界に達し、1870年グラバー商会は倒産する。 高島炭鉱は、いったん1872年に官収され、土佐藩出身の後藤象二郎に55万円で払いさげになる。トマスは1876年東京飯倉狸穴町4番地に転居。1880年長崎に戻り高島炭鉱の支配人となった。1981年、高島炭鉱は後藤から、海運業を母体とする三菱、岩崎弥太郎が97万円で買いとる。自らの船舶の燃料を確保、グラバーは三菱の顧問となる。以降、順調に出荷量が増え、高島炭鉱は三菱のドル箱となる。岩崎弥太郎が1885年、50才で胃がんで亡くなるが、高島炭鉱は1986年11月末閉山となるまで、三菱の配下で、やく100年以上続いたことになる。 |
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■グラバー邸 建築について ここまでは、商人トマスの軌跡を概観した。グラバー邸はトマスが商会を25才で名乗った翌年、26才で建てる。この建築は奇跡的に残り、日本で出現した珠玉のベランダコロニアル建築(文久3年・1863年)と称される。(『日本の近代建築 上』P26) グラバー邸が最初に造られる。オルト邸(1865年)、リンガー邸(1869年)とつづき、それらは重要文化財に指定されている。その建築は外国人発注者の簡単なスケッチをもとに、地元の大工たちが知恵を絞って施工したもの、と言われる。 住宅建築と見ると、近代初期のバンガロー・ハウス(住宅)を身近におもい感情を移入できにくい。平面形状が特異であるけれど、外観は豪邸の意匠を押し出してはいないので、グラバー邸は質素に写る。平面形状は長崎港を行き来する艦船・帆船などを眺めるためだろうが、表面積を多くとる工夫が施してあり、凸型が三つ組んだ平面形状はおおきな特徴だ。 ひとり長崎に立った冒険商人トマスに合っている。開港第一便で長崎港に渡り着いたグラバーに合った建築形式で、社交や交流・懇親がおこなえる、商売を主にした建築形式だと思う。子育てを主にする親密な家族経営をするための、建築形式には見えない。 現代の家屋にこのような長くて変形しつづけるベランダ(深い軒下)を持つ建築は見かけない。平屋なので多くの市民に親しまれてたのだろうか。 ベランダを持つ住宅建築に至ったのは、西欧の家屋形式が天辺に日が昇る灼熱のインドなどの地をへ、遮光のため改善をされたからだ。陽射し除けのため軒が飛びだした結果、特異なベランダが建築に設えられた。奥深い軒下を支えるため、列柱が居室をうねうねと取り囲む。農家の縁側みたいで、それが特徴のひとつでもある。日本人には受け入れやすかったのだろう。 木陰のような、菩提樹の下のような、人為的な陰を作り、軒下で社交や談笑をする。敷地が広くなければ、その機能を発揮することはない。郊外住宅のような狭い敷地にこの形式を採用すれば、家族陳列場にみえ使用者も通行人も落ち着かないだろう。で、塀を巡らし視線を遮断すれば、軒下の快適であるはずの通風は生まれない。 グラバー邸の柱を支える軒下には木製の格子状の欄間がしつらえてあり、風は十分に四方八方に抜けるようになっている。この意匠は長崎の人々には愛されているようだ。格子ベール状の格子は、長崎を走る路面電車の原爆資料館駅を見るとうなずける。 繰り返すと、 平屋あるいは二階建てでベランダが付いた建築。日本で完成したそれを擬洋風住宅と呼ぶことがおおい。ベランダは日本の民家にある縁側のような機能をはたす。日本の民家の縁側は南面だけだ。擬洋風住宅には四方にベランダをそなえた鹿児島紡績所技師館(サイト)があるそうだ。 葡萄棚や果樹下の木陰での、野あそび(社交)をするほどワイルドではない、半外部空間のひとつ。部屋とベランダの間には、暑くって窓を閉じては暮らせないので、鎧戸(陽射しはさえぎり、風は通すので開閉でき、鎧戸は日よけ機能をはたしている。クーラーが存在しない世にあって、天然の海風を活かした暮らしかたを保つ交流の場をもつ建築形式だ。 グラバー邸は住宅というよりは武器を売るため、アンテナショップのような機能を担わされた施設と受け止めるべきだ。下の写真は1863年、イギリスンの写真家フェリーチェ・ベアトが撮影したグラバー邸と商品の武器。グラバー邸の完成後実際に庭に大砲を並べ幕府側と物議をかもした、という。 艦船を見下ろし、大砲や小銃と弾薬などを展示し、雄藩と懇親を重ねる。それらの売買契約を促進するための施設と捉えるべきだろう。住宅の庭先に大砲を並べ、小銃を立て防護壁のない、木造平屋はアームストロング砲一発で木っ端みじんに吹き飛んでしまう。それをトマスしは分かって、この家に住むことはない。邪推だが、丸山町に毎夜でかけて、朝帰りするわけだ。二地域居住実践者と、とらえておく。(今後、継続調査してみたい、トマス日記はなさそうだ) |
グラバーと岩崎彌太郎(案内板より) グラバーと三菱の関係は、シャーディン・マセソン商会時代から始まっていた。当時兵器の売買を行っていた各藩の若い武士の中に、後に三菱商会創業者となり土佐藩出身の岩崎彌太郎が名を連ねている。1867年の土佐商会設立以降、岩崎彌太郎は代表としてグラバー商会の様々な取引を行った。 1881年に三菱が高島炭鉱を買い上げると、グラバーは後進の育成を行いつつ、後の三菱商事の基盤となる、海外への石炭販路を拡大邁進した。1885年には三菱の顧問として迎いいれられ、国内外の財界と三菱を結びつける欠かせない人材とし、その縁を強めていくことになる。 大浦居留地に建つていたベランダ付き建築群 |
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1886年グラバーは再び東京へ。芝公園53番地に居を定める。 末弟のアルフレッドは1867年来日し、37年間長崎にとどまり、高島鉱業所、グリブル商会、1878年以降はホームリンガー商会に勤める。そのあいだ1904年までグラバー邸に住んでいた。1904年スコットランドへ帰途するも、香港で亡くなる。 トマスの末妹のマーサは1887年、アバディーンで母を看取り1895年来日、1903年61才でなくなるまで、長崎のグラバー邸に住んだ。 ■建築は一度建つと多様な住み手を受け入れる、寛容な場を保証しつづける物であり、グラバー邸の所有権移転と、住み手の変遷を概観すると、外国人にとっては豊かな建築形式であったことがわかる。 今日も観光客が行きかうグラバー邸や他の施設を体験通過しても、トマスとグラバー家に起きた数々の悲劇と、グラバー邸にある歴史の妙をうかがい知ることはできなかった。単にもやもやした疑問だけが残った。そうして長い坂道をくだりグラバー邸を後にした。 帰路・結びへつづく 参照資料 |
倉場富三郎さんを紹介するサイト |
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参照:2024年観光図より @旧三菱第2ドックハウス A旧長崎高商表門衛所 B旧長崎地方裁判所長官舎 C旧ウォーカー邸 D旧リーガン邸 E旧オルト邸 F旧スチイル記念館 G旧自由亭 H旧グラバー邸 I長崎伝統芸能館 |
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帰路・結びへつづく |
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