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記録一覧 | 布野修司先生に聞き語る | ||||
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2108年4月8日晴れ 17時から深夜まで 新宿南口バスタ向かい集合し 徒歩10数分、新宿3丁目の居酒屋へ 01 2018日本一決定戦 布野先生の学生時代 卒業設計は自分の表現 02 店内賑やか リヤカーの実作 3点が100選に 03 ファイナル10選(1) 04 ファイナル10選(2) おもしろい 05 感想を語り合う 評価軸は色々 06 藤本壮介さん 審査員 1991年ごろ 07 SDL雑感 雑談開始 08 進撃の建築家 若い奴を応援するよ 参照 近代日本の建築家と請負業
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佐藤:3月に仙台で開催された卒業設計日本一決定戦の舞台裏と本戦を観る機会を得ましたので聞き取をしています。布野先生はながねん卒業設計にも関わられていると思いますので、卒業設計に関する話を聞かせて頂きたく参りました。 布野:仙台の卒業設計日本一決定戦は今年で何周年なの 佐藤:16回目でした 布野:丁度、21世紀になってくらいからかな (注1) 佐藤:そうです。メディアテーク・オープンが2001年で、2003年に第一回が日本一決定戦が開催されたようです。小野田先生と阿部仁史さんなどの尽力によって、全国の学生が大学を離れ自由意思で、卒業設計を出品でき、公開審査が基本で続いているんですね。学生が憧れる知名度の高い建築卒業設計での日本一決定戦ですから人気沸騰したようです。 布野:ちょうど『建築雑誌』(サイトへ)の編集長を2003年までやって、日本一決定戦の情報は知っていました。 (2018年4月8日日曜夕刻 居酒屋超満員でワイワイがやがやしている) 佐藤:以前動画配信をちょっと見ましたが、16回目の今回は五十嵐太郎先生にお誘いいただき、前日に仙台入りし予備選と3月4日本戦と舞台裏までを初めて体験しました。決定戦の運営形式と時間割りがかっちり決まっていて、舞台裏で働く仙台の学生が130人ぐらいの大きな舞台裏でした。 運営母体の仙台建築都市学生会議は毎年度の初めから毎週水曜日にミーティングを開いて勉強会を開いたり日本一決定戦の準備も続けてるようです。彼らは会社に似た組織を作り、学生の役割分担を決め、名刺を持ち歩き、決定戦の日の時間割も分刻みに決め。きっちりし過ぎていて「タバコも吸えない、融通がきかない」と辻審査員はこぼしていました。テレビ局のライブ番組なみの動画取材クルーも来て。「とっても高額!動画撮影をしているんです」と、五十嵐先生が語ってました。 布野:あ、そうなの。誰がシステムを作ったの 佐藤:学生会議でしょう。まだ、彼らに聞き取ってないので分かりません。(中谷圭佑実行委員長と聞き語る記録へ) 酒と何か食う物も頼まないといけないですね。 布野:そうだね 佐藤:この店の売り・目玉はなんですか 布野:そんなものは無い、ここは居酒屋だよ。たいてい有る 佐藤:決定戦の運営システムが完成しちゃっていて学生が仕組みの歯車のように整然と動いているので「それが気に入らん」と語る大人もいます。決定戦の目的は「学生に議論をさせる場所なのに〜時間割とおりの審査に追われ多数の議論をする暇がない」と語る学生もいます。 ファイナリストでさえ本戦会場でプレゼン5分、質疑応答が8分と決まってます。一人当たり13分なので、10人で130分と短いんです。予備審査など準備に時間をかける割に決定戦壇上での議論時間が少ない。 布野:学会の発表みたいだ 佐藤:流れ作業でファイナリスト10人の発表が進み、その後審査員の投票が行われました。そこで問題なのは審査員それぞれの評価軸のすり合わせができない、バラバラで投票が行われるので、当然ですが票は割れます。さほど議論が無いまま一位は挙手で決まりました。 出品学生や観客は審査員同士の熱い議論やファイナリストとの熱い応答をして欲しいと考え観戦してたので、「今年は低調」と思っているようです。毎年観てないのでその点も判断できません。 五十嵐太郎先生によると「出品した学生はあまり喋らなずに帰ってしまう」そうです。出品した学生3人と聞き語ったですけど、私に向かっては喋りますね。聞き取り人数を増やさないと、それも判断できません。 布野:あなたが聞き取っている学生3人というのは応募して来た学生ですか 佐藤:3人そうです。全部で320ほどみたいでした。一位の工学院大学の渡辺さん。審査員打ち上げ呑み会で知り合った100選の熊本大学の福留さん。本戦当日の午前中に競りが行われ、ファイナリストが決まる前35選になったけど10人のファイナリストに残れなかった東北大の須藤さんの3人と聞き語りました。 本戦の翌日に五十嵐先生が「思うところあって始めたエスキス塾」も体験してみました。エスキス塾の内容は、抽選された40人を対象の講評会です。そこで講師をつとめていた在野の建築家の堀井さんとも、聞き語りました。 布野:誰が100選を決めるの、辻君ですか 佐藤:辻さんも選んでます。投票欄を見ると100を決める予選・審査は東北大の先生とその仲間たち15人のようです。10選を決める競り主は本審査員の7名の決定権が強いように見えました。 布野:審査員決まっているわけ 佐藤:公式パンフレットに審査員紹介の頁がありその情報です。各作品に審査員がシールを用意された欄に貼ってました(下図)五十嵐太郎先生は審査員ではありませんでした。 布野:審査員も320ほどの作品を見るべきではないの、知らないけど。 佐藤:青木審査員長は当日午前中に来てさっと見て10を独自に選び競りに上げたようです。 布野:100選ぐらい予備選があるのは知っている 佐藤:100選を本戦前に選ぶ。審査員が3グループに分かれ、それぞれ10選ほど上げて、審査員長は独自に10選んでファイナル予定作品加える。重なってる場合もあるのでしょう、35選前後で話し合っていました。 10選に絞るのを「競り」と言ってました。競りの議論はマイクが無なので、立ち会ったんですが、聞こえない。どういう選択基準なのか分かりませんでした。 布野:「何のためにやっているの」って話で言うと審査のやり方は大事なんじゃないの。仙台だけじゃなくって、僕が京都にいるときはディプロマ京都もやっていた。あれは歴史が古いからね。九州の学生デザインレビュー、名古屋圏でもやっていたね。色々あった。今はどうなっているのか知らない。東京の学生なんかを観ていると、それを渡り歩く。 佐藤:あ〜渡り学生ですね、多いですね。TL見てると作品を持って渡り歩いてますね〜。他に出品のため輸送するので、仙台の展示会場は毎年決定戦が済んだ翌日から展示は歯抜け状になってしまうようです。 布野:今もそうでしよう。そうすると、丁度スーツケースに入るぐらいの模型大きさに作っておいて、それを持って。例えばゼネコンとか、組織事務所の面接に持って行く。その要領で模型は出来ていて。「そこで賞をもらうと就職に有利になるから」って、もっともらしく言っていたよ、京大の時の連中はね。「あ!そういうことか」と。一瞬理解をしたことがある。一位とか二位とか入賞すると、それを面接のときに威張って言えるわけよ。今は知りませんよ。組織事務所だって、たぶん実技なんかやらせているでしょうから。 佐藤:聞き取った3人は大学院進学でした。卒業設計展へ出品する動機を知りたいので当事者である学生に聞いて語ったてみたいんです。3人は参加動機は別のことを言いましたね。 布野:面接で威張る、そういのが一つあったよ。そういう機能を果たしていたのは分っていたよ。 佐藤:大学の中で自分の作品の評価が低いから、持ち出して多くの人の目に触れさせたり、他の先生にも評価を受けたいと、一位の渡辺さんは話していました 布野:他の先生の評を受けたいのはもちろんあるけど。今は、そういう意味で言うと、大学内でもゲスト審査員を呼んでやっているし、どんどんそういうのは大学内でも、あるわけ。でも日本一決定戦とうたっているから。 だいぶ経てから、「あいつはそうだった」と。「あいつは新建築のコンペで入賞した」とかね。どうなんだろう。組織事務所といかいうよりも、むしろ建築家になるためのアトリエで働くときに、「あいつは出来た」みたな事はあったよ。「あいつは、あのときよかったよ〜」みたいな。「ライバルだった」とかね。そういう話をしているのを聞いたことがある。 佐藤:学生は色々な審査員の意見を数多く聞いてみたいのでしょうし。議論を頂いて自分の欠点や好い点を知りたい、向上心は強いですね。新自由主義の影響もあるようです。さらに情報が一気に広まり消える、SNS的フロー社会なので大学内だけの評価で学生は満たされないのでしょうね。腰を落ち着かせてコツコツ勉強してられんのでしょうか。 布野先生は大学に50年間ぐらい関わって来ていらっして、卒業設計を見続けてこられたでしょう
布野:50年はいないけどふふふ 佐藤:布野先生の学生時代も含めて多様な体験、卒業設計一つとっても体験をされて来ているでしょう。延べ50年ぐらいですよね。昔の卒業設計と今の卒業設計は、おおきく変わってきているのではないですか。図面の書き方は手描きですよね。 布野:メディアから言うと僕らの年で、烏口からロットリングに変わった感じね。図学は烏口だった。 佐藤:図面書くたびに烏口を研いで 布野:そうそう、烏口を研がされた。烏口で墨をボタと落とすとカミソリで削って、みたいな。俺なんか下手くそだから、ケント紙透けて見えた、ふふふふ。 佐藤:用紙に穴! 寸前〜 布野:それで、学部で製図を始めるときはロットリングが出て来てねー。それから平行定規で。それからインスタント・レタリング。文字も。カラートーンも出た 佐藤:スクリーントーンが出た 布野:そうそうスクリーントーン。そういう時代。それで、(東洋大から)京大に移ったときに1991年だけど。それもぜんぜんなし手で描け〜って。 佐藤:手で描かせたんですか! 布野:ケント紙に手で描くのが京大だったわけ。1991年。それで、やっていた。「それより、もう一寸とプレゼンをやった方がいいんじゃない」と僕が言うぐらいな感じだった。 佐藤:昔制作された、卒業設計・作品はどこに有るんですか。大学に保存してあるんですか 布野:京大はぜんぶ保存する。 佐藤:今はデータ保存 布野:今はね〜。ほどんどスライドに撮って保存というやりかたしてたけどね。ジャビーっていうね。 工学部で学科の資格、その時はね、エビデンス・ルームと言って、模型もなんとか5年分ぐらい保存して置かなきゃいけない。それで審査する。今はそいうのを受験しようと思うと、今でもそれを要求するみたい。 要するにトップクラスのやつと平均のやつと、レポートとかなんとかも保管しておかないと。
佐藤:高卒なので卒業設計ってなんだという感じなんです。布野先生の学生時代の時は何だったですか。建築科の学生は全員卒業設計完成ですよね 布野:僕らの頃は論文と卒業制作の両方が基本。卒業論文書いてから、制作する。両方やらす大学もあるし、どっちかでいい大学もある。 佐藤:東北大学は両方取り組む者と、製図だけの者に分かれるそです(須藤さんより)布野先生は両方やられましたか 布野:全員がそうだよ。12月末までに卒論をやって。それから卒業制作。だから始まるのは遅かったよ。3月ちょうど日本一決定戦ぐらいまでが締め切りだったね。ぎりぎり2ヶ月から3ヶ月使ってた。 佐藤:一位になった工学院大学の渡辺さんは前年の8月から取り組み半年制作していました。 布野:意味ない。どうせ年末までテーマ決まらへん。正月開けたらがらがらっと変わったりするんだから。いいかげんなもんだよ。本気でやる奴が取り組んでてギャーギャー言われて、また手を入れてやって。そうしたら凄いのが出来るよ。 要するに卒業設計というのは知識の集大成、基本的に建築の学生だったら、やるべき。僕のところは基本的には論文と卒業設計、全部やらせる。 滋賀県大の場合はどっちかでもよかったのかな。その場合でも必ず、ゼミで論文を書く、小論文みたいなかたちにして、全員に書かせて、設計やらせましたよ。だって一生でそういうことを無い、という位置付けは変わってない。 佐藤:論文と作品制作に挑むのは一生で卒業の時期しかないと 布野:そりゃコンペに一杯出すとかね。それに向かって最後までやるみたいなのはあるかも知れない。それ以外無いと思うよ。社会に出ると(設計だって)部分でしか関われないし。 佐藤:卒業設計の場合は自分でテーマを決め、全部関わって完成させることが出来る。社会人になって建築設計に関わると分業なので、それは無い。 布野:そうそう、テーマセッティングから全部やる。 佐藤:実施コンペの場合は他者がテーマを与えた事案だからなー。それで優劣をつける。その場合の評価基準、布野先生の場合はどうしてたんですか、たくさん実施コンペの審査員もやらてますが 布野:基準は、それぞれあってもいいかも知んないだけど、指導の問題もあるよね。だけど、卒業設計の場合は自分の表現だから。時代、時代のテーマセッティングとか、敷地の設定とか指導の問題としてあると思っていて、そのチェックだけです。 今は何を表現するのかが一番。例えば社会的にインパクトがあるのか、っていうテーマセッティング。 佐藤:社会に対してとか、社会性を持った表現じゃないと駄目ですか 布野:表現が今は社会性って言えばいいんだけど。それで並べてみたら、その時代時代の表現になっている。だから仙台日本一なんかずーっと16年の作品を並べて観たら、その時代の「あれ」が見えるはずです。 その02へ続く |
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(注1) 仙台メディアテークメディアテーク沿革抄 1994年9月 せんだいメディアテーク設計競技開始 1995年3月 設計競技において伊東豊雄建築設計事務所が最優秀者に決定 2000年8月 建築竣工・施設引き渡し 2001年1月 せんだいメディアテーク・仙台市民図書館開館せんだいメディアテーク・仙台市民図書館開館 |
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