鈴木達治郎先生「2010年代を語る」 作成:佐藤敏宏2024・10・18
     
佐藤:今日もよろしくお願いします。顔が映ってないです。

鈴木:ちょっと待って、はい、これで大丈夫ですか、お元気ですか?
佐藤:元気です。
鈴木:よかった。
佐藤:毎日飯、お蒸かし作ってます(笑)
鈴木:はははは、美味しそうなご飯作ってらっしゃる。

佐藤:福島県は米泥棒が現れたとニュースあります。うるち米がほぼ倍の値段になっています。もち米の値段より高くなってしまったので、もち米をお蒸かしにして喰おうと思いまして。10月から蒸かし始めたらはまりました。
鈴木:もち米、安いですか。

佐藤:もち米の新米はでてませんが、普通の米、うるち米より安いんです。お蒸かし作ったことないので、蒸かしてみたら、面白くなってしまいました(笑)、米は倍値の秋です。お蒸かし評判いいです。今日はよろしくお願いします

鈴木
:よろしくお願いします。

   

原子力委員会委員長代理 就任


佐藤:2010年代語りです、この10年間は大変なことが一杯起きたようで、先生からいただいた2010年譜の書き込みも一杯です。原子力委員会に就任されました。それは10年の何月からでしたか。

鈴木:2010年の1月からです。
佐藤:即、委員長代理に就任されたんですか。
鈴木:最初の会合で指名されました。

佐藤:就任前に何か連絡はあったのでしょうか、いきなり連絡がくるんでしょうか。
鈴木:電話はいきなりだったんです。噂は飛んでたみたいなんです。原子力委員会のメンバーが揉めている、という話は聞いてました。それで、誰かが私の名前を推薦した、という話も聞いていました。けど候補の中に載っているかどうかは聞いてなかった。
で、電話がかかってきて、確か金曜日だったと思うんですけれど、週末の2日以内で回答送れと、言われて。「ちょっと考えさせてください」、と「何日ぐらい待てますか」、と聞きましたら、「2日、月曜日には聞かしてほしい」と。で「わかりました」、と。

佐藤:原子力委員会の委員に就任されることは、他の仕事を辞めて専属で委員会に入ったということですか。
鈴木:そうですね。当時は委員会は5人だったんです。3人が常勤でフルタイム。2人は非常勤で兼務なので、男性の尾本さんと大庭先生は仕事を続けながら、週3日だったかな。私は常勤で来てくださいと。

佐藤:鈴木先生は常勤なので、給与なども公務員並みに決まっていたのでしょうか。
鈴木:決まってます。で、勤めていた電中研に連絡しなければいけない。金曜日に連絡きたので、休みになるの大変でした。
その日のうちに連絡して「まだ決めてないけど、ひょっとしたらそうなるかもしれません」、と話ました。「それはビックニュースだ」という話になって。土・日曜日は友人とか、先生や先輩とか、家族にも相談したかな・・・相談してないかもしれない(笑)。友人先輩たちは「いいチャンスだからやってみたら、どうせ3年で終わるんでしょう・・」、と。
ちょうど59歳だったんです。60歳になると電中研は定年になっちゃうんです。いずれにしても仕事をかえなければいけない。定年後も考えていましたので「ちょうといい」、と。

佐藤:任期が3年というのは、3年ごとに何度か更新して就任し続けるということですか。
鈴木:2期までじゃなかったかな。近藤先生はずいぶん長くやっているから、2期ではないか、だいたい2期でした。原子力委員会の先生がたは高年齢のかたが多くって、大学の先生を辞めた就任される人が多いんです。ですから60代後半の人が多い。そうすると2期勤めると70才超してしまう。政府の関係は70才以上は原則ダメなんです。だから2期で原子力委員会を辞めてしまう人がほとんどだったです。
私が就任したのは59才でした、50代は珍しいかった。非常勤の、大庭さんは40代でした。尾本さんと秋庭さんは60代でした。私は59才でしたから原子力委員会では若い。バリバリ仕事している最中なので、仕事を辞めて原子力委員会に入ってしまったら、仕事になかなか戻れない。

佐藤
:鈴木先生にとってはいいタイミングでの打診でしたね。
鈴木:電中研が長かったです。96年からですから12年ぐらい在籍していまして、2000年代語りでお話したようにいろいろあった。で、そろそろいいかな、と。電中研でも研究参事にはなっちゃったから研究員としては一番上のクラスでした。

佐藤:プルトニュウムに関する研究は封印されてしまいましたからね。
鈴木:そう、封印されてしまった。それ以上あがろうとしたら理事になるしかない。理事になるわけないので、ちょうどいいや、と思いました。

 


■2010年1月12日
第一回原子力委員会定例議事録PDFへ
出席者

原子力委員会
近藤委員長
鈴木委員長代理
秋庭委員 大庭委員 尾本委員

内閣府
中村参事官、渕上企画官、


■2011年3月11日後
  4月5日 
  原子力委員会議事録PDF

他の原子力委員会・議事録PDF






2022年制作電中研紹介動画

 ■原子力委員会の位置づけ

佐藤:原子力委員会は政府の中で、原子力に関しての決定機関ということですか?
鈴木:2000年に行政改革があったんです。改革で科学技術庁がなくなっちゃった。文科省になってしまった。元の原子力委員会は科学技術庁の中にあった。そこは行政官庁だった。したがって原子力委員会は委員長が科学技術庁の長官で、大臣だった。そのころはご指摘の通り、政府の最終決定機関でしたのでそこは行政府だった。

2000年に科学技術庁がなくなって、原子力委員会はある意味格下げ、というか内閣府に移って審議委員会になってしまった。法律上は8条機関といって、いわゆる独立した審議会。審議会にもいろいろあって割と権威の高い審議会でした。なぜ権威が高いかというと原子力設置法の中に「勧告権」があるんです。勧告できるんです。勧告したばあい政府はそれを尊重しなければいけない、と書いてある。言うこと聞かなくってもいいけど尊重しなければならない。
実質的には原子力委員会が勧告したら、基本的にそれは言うことを聞くんだと。もし政府が言うことを聞かなければ、原子力委員会総辞職。要するに勧告しても言うことを聞いてくれないなら辞める。それぐらい覚悟のうえで勧告権を使わなければいけない。それは伝家の宝刀、と言われていた。原子力安全委員会、規制当局のほうにも勧告権はあったので、安全委員会は2回、3回だったか勧告権を使っているんです。ところが原子力委員会は1回も使ったことがない。

佐藤
:勧告権を使わなくってもいいぐらい順調・良好だったということですか。

鈴木:両方の解釈があって、使わなくってもいいぐらい政府とほぼ一体だったと語る人と、使うのが怖かった、という人。

佐藤:鈴木先生はエネルギー技術の社会意思決定を研究されて、その研究は原子力委員会では活きることになるんですよね、そうでもなかったですか。
鈴木:そうでもないです。2000年代語りでちょっと話したけど、民主党政権、アメリカの民主党政権は、オバマ大統領の決定過程の民主化というのをならい、全省庁あげて取り組んでいた。一方、原子力発電については政権はガンガン推進、自民党の時よりもむしろ推していた。当時、最初鳩山首相で、菅首相だったかな、輸出にすごい力を入れ、ベトナムまで行って輸出の合意をとってきたりしていた、それぐらい推進だった。だけど、民主化をやろうということで、そういう意味では意思決定のプロセスは、私の頭の中にはあったけど、直接反映させることはなかったです。社会意思決定の大きな提言の一つが非公式、要するに政府の中の意思決定ではなくって、政府の外の意思決定プロセスをもっと有効に使えという提言だったので

佐藤:
反対派でも賛成派でも推進派でもない、中間的な意見をかっちり仕分けさせないでまとめるという面白さがありますけど。日本社会ではマスコミだけが賑わっていて議論がほとんど起きないんですからね。そういう意味では鈴木先生の研究は面白い位置づけの仕方だなと思いました。
鈴木
:賛成派も反対派も、意思決定プロセスについては誰も反対しない。ということで民主化についてはずいぶん頑張ってきた。
佐藤:そうですね。民主党政権時には記者クラブの会見にフリーランスの記者も入って、質問し記事にしていと記憶してます。マスメディアの風通しは良くなってました。

鈴木:民主党政権下では記者クラブもやめると言いだしてた。結局やめなかったけど、やめていれば、世はたいぶ違ったと思う。

佐藤:新聞TVのマスコミは記者クラブで情報を得て流し、それで飯食ってますから。
鈴木:既得権益だよね。
佐藤:首相と食事会して新聞に軽減税率適応させていましたし。政治家とつながって利益共有しているので、SNSでマズゴミと書かれたりし始めました。民主主義がなりたっていない問題もありますから。

鈴木:『地平』創刊号に書かれていた花田先生の「第三のジャーナリズム」おもしろかったね。

佐藤:そうですね。1本の論文が3号に分割掲載でしたけど昨今の花田先生実践が素直に投影されました。研究者もジャーナリストも通じ合う精神があると思います。花田先生は東大から早稲田大学に移られジャーナリスト育成教育しはじめて卒業生を世に送り出す。そういう教育を始め、早稲田以前は理論派だったんです。送り出した学生は先生からみて優秀でマスメディア内で大きく成長するだろう、と期待してたんです。だが、優秀な学生が社会に出て心を病んだり、いじめに遭ったのでしゅうか、長続きせず退社する教え子がでてきました。で、試行錯誤していて、大学発のメディア『早稲田クロニクル』(現在・Tansa)をたちあげることになりました。資金は寄付、媒体はネットで無料配信しだしました。
この10年は先生の理論と実践がマッチしだし社会性を持ってきたんです。とはいえ資金が集まらない。日本の寄付文化は貧弱なので、苦労していると聞きます。
独立系メディアも若い人を育てるために、広告費を支えにすると記者活動の自由は拘束される。自由に発信しつづけるための資金が要るので、そこは一番苦労されている点。以前から変わっていません。が、若い女性記者たちが活躍しています。

メディアの話はやめまして、鈴木先生の話に戻します。「成長にむけての原子力戦略」PDFを開いて読む年表には、政府の「グリーン・イノベーション」「ライフ・イノベーション」「フロンティアの開拓」とあります・・・。

   

2024年6月、月刊『地平』創刊

原子力委員会の仕事 平和利用の担保

鈴木:鳩山政権だったと思いますが成長戦略をうちだします。インフラの輸出を作ってインフラ、そこに原子力発電所もはいっちゃったんです。それで内閣府のほうから「原子力委員会のほうで輸出をふくめた国際戦略をつくってくれ」という話が1月の頭にすぐきて、「6月まで作れ」、と。(成長にむけての原子力戦略PDF
ここに書いてないんですけど、実は津村さんが政務官だったんです。津村さんは熱心に何回も原子力委員会に来てくれて、実は原子力委員会廃止のアイディアがあった。審議会みたいな原子力委員会があってもしょうがないんじゃないか、原子力村の塊みたいになっているから、あまりよくない、と言って。「原子力委員会やめるとなったら困るか、原子力委員会にはどういう役割があるのか、原子力委員会の全員にメモを書け」、といわれた。

私も書いたんです。エネルギー基本計画ができちゃったので経産省が全部エネルギー計画を牛耳っているので、原子力委員会はエネルギー政策に声をださない。科学技術、研究開発のほうも総合科学技術会議ができちゃったので、そっちで計画をたてやちゃった。そこに原子力も入っちゃっているので、要らないよね、と。
長期計画は科学技術政策が一番おおきかったので、エネルギー開発も研究戦略も他の役所ができちゃったから、原子力委員会はいらないんじゃないか、となっていて。
私が書いたのは、原子力委員会の一番重要な役割は平和利用の担保だ、と。そこだけ残してくれ、と。それは核不拡散とか保障措置とか核セキュリティーとか。安全のほうは規制委員会が、当時の安全委員会です。安全規制はできているんだけど平和利用の担保は原子力委員会がちゃんと見る、そういう主旨でそこだけ残してほしい、というメモを書いた。結論から言うとなくならなかった。

佐藤:現在でも核兵器不拡散、廃絶運動については政府はやる気なさそうですが・・。

グリーン・イノベーション、ライフ・イノベーション、フロンティアの開拓

鈴木:やる気ないです。平和利用の担保は重要な役割で、日本は核不拡散は一生懸命やっていたので、原子力委員会はそれに特化するというのは、悪い話ではないなと思ったんです。その話は無くなって、すぐ輸出を含めた戦略作れ、と話がきた。ではやりましょう、となる。
当時原子力委員会の雰囲気から言うと、とにかく原子力ちゃんとやらなければいけない、だけど国内の需要はあまり無いよね。だったら輸出して人材確保しなければいけない、それが基本的に頭にあった。それと、近藤先生はそれ以前から日本の原子力産業はグローバル・スダンダードになっていない、と言い続けていた。
佐藤:どういうことでしょうか。

鈴木安全規制もグローバル・スタンダードからちょっとずれているし。市場メカニズムを有効に使ってない。政府があまりにも関与しすぎている。研究開発もいまだに原子力委員会という組織があること自体、他の国にはほとんど無いんです。核兵器造っている国ぐらいにしかない。
要するに原子力産業が自立しないと長期的にはやっていけないから、早くグローバル・スタンダードになったほうがいい、と。自主エネルギー、国産エネルギー、とか言っているけれど、本来原子力は国産エネルギーではなくっても、世界に原子力エネルギーは必要なんだから、世界に貢献するつもりで原子力をやったらいい、そういう考え方だったんです。悪くはないですよね。
国際化戦略というのを打ちだそう、というイメージは近藤先生の頭にあったので、これもぴったしだ、と言って一生懸命やっていた。作成期間は6ヶ月と短いですから、何人かキーになる専門家をインタビューして、4月頃には下書きをして作った。

佐藤:で、「グリーン・イノベーション」、「ライフ・イノベーション」、「フロンティアの開拓」に貢献しうる原子力 戦略となった、と。

鈴木
:世界で今起きていることは何か、というとグリーンイノベーションとライフイノベーションと、フロンテアの開拓。ライフイノベーションというのは健康とかそういうものなので放射線の利用ですね。医療用の放射線です。
佐藤:グリーンイノベーションは、今言われているGXですか。
鈴木:そう、グリーン・トランスフォーメーション、要するに温暖化気候変動に対応するとか。

佐藤
:フロンティアの開発というのは。(ChatGPTに「GXを絵にして」と依頼してみた、応答は→グリーン・トランスフォーメーションは、再生可能エネルギーから持続可能な都市計画、さらにはライフスタイルの変革まで幅広く含まれるため、一枚の絵にまとめるのは難しいテーマです・・・とのこと)
鈴木:先端科学技術です。
佐藤:原子力の先端科学とは具体的に何でしょうか。
鈴木:当時から、我々が注目していたのはロボットとか新しい材料とか、基礎研究で出てくるモノで可能性のあるもの、デジタルコントロールもそうでした。AIまでは考えていなかったな。デジタル化とロボットと原子力発電を近代化していくなかで先進技術が出てくるんじゃないですか、と。核融合も入っていたかな・・。

佐藤
:発電が政府とくっついている状態を・・・はやく自立していってほしい、という思いもあるんでしょうか。
鈴木:そうですね。年譜には6項目の提言が出ています(右欄に掲載)。2番目と4番目を太字にしてあるんだけど。

佐藤:2項目の情報技術を用いて誰でも共有できるデータ公開、面白いですね。

鈴木:当時からオープン・イノベーションと書いてあって、今は常識になりつつある、科学技術のデータを普通は自分のノウハウだから、論文を書くまでは抱え込んでいる。論文になって初めて公開する。そうすると発見、発明してから表に出るまでに数年ある。その間に特許を取ったりするわけですね。それをやっていると折角のいい技術が世界に広がらないので、進んでいる人は当時から即オープンにしちゃって、どんどん使っていいですよ、その代わり世の中に普及するからその方がいいんだ、と。オープン・サイエンスという考え方があって、原子力はオープン・サイエンスにしたらいいんじゃないの、と。それを一般化したわけです。

佐藤:で、4項目もオープン・サイエンスの考え方と連動しているんですね。

鈴木:ここはかなりコントラバーシャルで、独立性という言葉を私は入れたんだけど、これを政府は嫌がる。

佐藤:原子力発電、それとも研究機関の独立でしょうか。

鈴木:研究機関の独立性ですね。研究開発の中身を海外で言うと、大学とか研究機関は独自に研究開発して政府から独立しているというイメージがある。そういうイメージでやっているほうが伸びる。お金が付くから政府に言われていることをやっているうちはイノベーションは起きない。したがって独立性は大事だと

佐藤:先生の話を聞いてきて思うことですが、MITの先生がたは活動費・研究費を稼ぎだしていましたね。そういう意味では研究開発の独立性というのは、鈴木先生にとっては当然なんだけど、日本では大学など研究所に独立性を入れると反発や反対議論が噴出してしまいそうですね。
鈴木:政府からは政府と反対のことをやるんじゃないか、と心配する人がいる。で、太字で原子力の安全規制体制とありますが、これもタブーなんです。原子力委員会は安全規制のことを言ってはいけないんです。安全委員会は独立しているからです。

佐藤:越権行為だと。
鈴木:越権行為だと捉えられるおそれがある。だけど近藤委員長は安全の専門家なんで、だからいつも文句を言っていた。

佐藤:思い出しました、近藤先生は原子力委員会ではなく規制委員会に行く予定だったのが、鈴木篤之先生と入れ替わってしまった、という話がありましたね。
鈴木:そうそう、(笑)
佐藤:それで原子力安全規制行政体制の確立を提言しているわけですね。

鈴木:電源三法交付金制度等の在り方の不断の見直しは私は前から言っていて、1974年だったか・・・通った法律で、時代遅れなんです。交付金なければ原発が建てられない、そんな時代ではないでしょうと。もっと競争力付けなければいけないんだと。
佐藤:さすが、鈴木先生はアメリカ仕込みですね。

鈴木:はははは。
佐藤:日本は今でもなんでも政府にやってもらうことにしている。
鈴木:これも、原子力産業はいい加減にグローバル・スタンダードになりなさい、という意味です。

佐藤:理解されないですよね。
鈴木:グローバル・スタンダードにならないですよね。当然このドラフトは、経産省、文科省など官庁に回るんです。薄っぺらいレポートなので「あまり影響力無い」、と思われていたのか、ほぼフリーパスだった。

    1. 国民の原子力、エネルギー、科学・技術に関するリテラシーの向上を図ること

2.政策策定に係るデータを最新の情報技術を用いて誰でも共有できようにするデータ公開に関する 新たな取組みを立ちあげること

3. CO2の経済的な価値の「見える化」を推進し、原子力発電事業を通じての地球温暖化対策の推 進に国民がより効果を感じ、またこれに貢献する取組みに自ら参加できるようにすること

4. 原子力の研究、開発及び利用における世界で初めての取組みが必要な安全を確保して遅滞なく実 施できるよう、独立性、公開性、効率性、合理性、信頼性の確保を重視し、国民の視点に立った 効果的、現実的、タイムリーな規制活動を行うことのできる原子力安全規制行政体制を整備する こと

5. 社会環境の変化を踏まえて、電源三法交付金制度等の在り方について不断の見直しを行うこと、 国と地方自治体、電気事業者は、原子力施設立地地域の人々が地域の有する人材、資金、資産 (産業技術、部品・サービス需要、文化、自然等)、周辺の学術機関等を効果的に活用して、雇 用の拡大・高度化に主体的に取り組む活動を推進すること

6. アジア地域を中心とする原子力分野における新しい共同事業を起業する機会を豊かにする観点か ら、この地域の政府と民間の交流ネットワークを強化すること。
 
原子力委員会の組織・人員構成 原子力大綱作成

佐藤:次に2010~14年は原子力委員会、福島事故と原子力政策見直し、とあります。原子力委員会では研究はされていないでしょうが、入ってみて、どうでしたか。

鈴木:原子力委員会は研究しないです。
佐藤:研究・調査なし。入っていきなり福島原発事故に遭わなくってよかったですね。1年間の時間があったのはよかったですね。

鈴木:そうですね、一番大きな仕事が5年ごとに見直す原子力政策大綱です。2005年にだしていたので、2010年にはださなければいけなかった。新しい委員になってしまったので、1年では無理なので翌年2011年にだしましょう、と準備を始めましょう、といってやっていた。
その前にグリーンイノベーション戦略会議が出てきちゃったもんだから、半年ぐらい遅れた。ちょうど6、7月ぐらいから、何から始めようか、という話になって。2010年の10月ぐらいから長期計画、政策大綱の見直しの委員会を始めたんです。

佐藤:3人が常勤の委員は分かりましたけれど、スタッフの秘書は与えてくれるんですよね。一人ひとりが手配するんですか。無茶ですよね。

鈴木:グット・クエスチョン。スタッフは20人ぐらいいたんです。もっといたかな。プロパーは誰もいない。文科省から7,8人。経産省から7,8人。あとは電力業界から7,8人、メーカーさんからも3,4人ぐらい。研究機関からも数名。事務局のトップはフルタイムの役人、文科省、経産省ですが、審議官レベルのかたが付いている。二人のほかはごちゃ混ぜ。
それぞれの委員に担当のスタッフが1人付きます。私のスタッフはいい人でした。 後で話ます。もの分かりがよくって言うことをよく聞いてくれました。ご存じの通り、私が原子力委員会員に入ることになったときに、役所は皆さん恐れていた、あいつが来るんだと。

佐藤:先にスパイを注入しておかないと危険人物だぞ、と。
鈴木:おっしゃる通りで、電力業界から優秀な人が一杯来てて、電力業界でも一番優秀なのが、トップの役人の下の一番偉いポジションは電力業界の人で優秀な男だった。

佐藤:鈴木先生、要注意人物なんで優秀な人間を与えられてよかったですね。
鈴木:(笑)彼はしょっちゅう来る。はははは。どっか見学に行きたいなー、と言うと「ぼくも付いて行ます」、と言って付いてくる。
佐藤:分かりやすいですね。


   

 ■内部メモが漏れ

鈴木:(笑)凄いいい男ですぐ友達になってしまった。後で分かったんですけど、私の言っていること、全部電事連に漏らしていた。驚いたんです、何かの時に、政策大綱の議論なににしようか、というのでそれぞれ委員はメモを書いたんです。私は今までの政策大綱って、予算、なにもついてないです。本来政策というのは優先順位つけるべきだから、最重要な分野がここだから予算をつぎこみなさい、と。予算のウエイト付けをしたほうがいいんじゃないかと、いろいろ書いた。
そしたら電事連から直ぐ電話掛かってきた。びっくりしちゃって。大庭さんは、市民参加のやり方を変えたいとおっしゃっていた、それも文句言われた。あんまりよくない、と思いますと。内部メモなんだからどうして漏れちゃったのか分からなかった。で、近藤委員長に「どうして漏れるんですかね」と、お前何言っているんだ電力業界の者が一杯いるだろう、と。だからメモを書くときには名前付けるな、名前書きいれると誰が言ったかわかってしまうので、ノーネームのメモにしておけ、日付も書くなと、と。それってメモにならない、だからノン・メモなんです。
・・・具体的な内容を語りつづけている・・・・・・
大綱の議論が始まる。週に一回表の定例会があるんです。前の週の木曜日に定例会の打合せがある。そこで来週の定例会の議題とか議事の進め方とかを打合せする。そこで書いたメモが漏れちゃって・・・(笑っている)。それで不思議なことにコメントまで来てしまった。ははははは。
コメントは電力会社の人が持ってきて、こうしたほうがいいと思います、と。誰のコメントと聞くと、「言えません」と。電事連のコメントだと分かった。ここでのコメントはおかしいだろうと。電事連は政策大綱を表の場でコメントするチャンスがあるんだから、表の場でやればいいじゃないか。なんで今内部の資料に電事連のコメントして来るんだ、とおかしいと言って怒った。そしたら、近藤委員長は「そうだなー・・、今までそうやってきたけどこれはやめよう」となった(大笑)。


秘密会合問題福島事故と原子力政策の見直

佐藤:次に福島事故と原子力政策の見直しについてでしょうか。

鈴木
:その前に事故が起きた後の秘密会合問題があります。
佐藤:新聞社に抜かれた件ですね。2012年5月23日の会議が24日の朝刊にスクープされた。見出しが「秘密会議で評価書き換え」の記事ですね。事実ではないんでしょうか。
鈴木:まったく事実でないんだけど、これ酷かったです。新聞記事に〇〇、△△、××の表がありますね。
まず、検討小委員会が終わって、報告書も終わった日に毎日新聞の記者が、ひょこひょこっと私のオフィスにやってきた。アポとって無かったので、受付でアポとってない人はダメですと断った。でもドア開いているから入ってきちゃった。事務局が困ります、と言うけど、毎日新聞と言うから私がいいと呼んでしまった。
来ていきなり、鈴木さん内々で秘密会合開いてますね、という質問だった。秘密会合ってどういう意味かと聞いたら、表の委員会とは別に事務局と電事連なんかと一緒にストーリー書いてませんか?そこで結論出していませんか、と。そんなのだしてない、全部表で議論している、と答えたら、ここに証拠があります、と言って、ドラフトなど、電力業界に有利に書いてある書類を持っていた!

この書類は事務局の中の打合せ会合で使っている資料だから、当然ならがら外部持ち出し禁止なんです。まだドラフトだからね。誰かがリークしていたんですね。

佐藤:委員会内部の者に鈴木委員長代理潰しを仕掛けられてしまった。

鈴木:そうそう。記者に、これはどこから手に入れたの、と聞いたら、言えません、という。これは会議で内々で準備している時に、委員の先生がたのコメントを聞いたうえで何回も何回も訂正して書き換えるものだから、電力業界に有利な訂正もしているけども、電力業界に不利に訂正もしている。しかも修正したものを表で議論するので、我々は意図的に改ざんできない、と言った。
そしたら委員会に電事連が入っていることはおかしいです、それは認めますねと言うから、電事連はいたよと。電事連がいないと資料が手にはいらないからね。
そしたら分かりましたと出て行ってしまった。
知り合いの新聞記者の何人かに「これはどういうこと・・」と聞いたら、それは鈴木さん仕掛けられました、って。

佐藤:誰がリークしたかは追求してはもめ事は益々拡大します。記者は取材源秘匿は守りますから、告発ではないのか、資料を流しただけか・・面倒になりますね・・。
鈴木:新聞記者は言わないんだけれど、委員会の内部のルールとしては。翌日・新聞記事のトップで出ました。(右欄の記事)で、朝の10時に報道ステーションがやって来た。記事でたばかりですから10時に来るのはおかしい。報道ステーションはビデオ動画も持っていた。私が部屋から出ていって、部屋に入るところまで撮影してて、部屋に入っていろいろ秘密の議論をしているというシーンが、報道ステーションから流れてしまった。ビデオで録画しているってありえないですよね。誰が撮ったか分からない。電力業界か通産省か分からないんだけど・・。

佐藤:動画流出の意図は鈴木先生潰しでしょうから、隠しカメラで撮っていたんでしょうかね。

鈴木:この時は本当に落ち込みましたよ。私のよく知っている新聞記者の方々すぐフォローしているんです。テレビもNHKでも、でかでかと出てしまったし。知り合いの何人かに電話して、事実ではないのでどうやったらいいか、と。鈴木さんあそこまで出ちゃったら難しいかもしれない、と。社会の流れが反原発になっている時に、原子力委員会が、あんなことをやっていたらダメだは・・と言われて、記者、誰もちゃんと取材してくれないの。

佐藤:原発事故後なので、原子力村は悪いことやっている、と決めつけもありますでしょうから。

鈴木:決めつけなので、しょうがないから年譜にも書いてあるけれど、2012年6月から・ Twitterで「秘密会議」についての説明 を連続掲載10万以上のリツイート、─一部新聞等にも掲載された、私も手段がないので、誰も取材してくれないので発信し始めた。日経だけ電話かかってきて「あれは本当ですか」と。経緯を説明したら鈴木委員長代理のコメントと付けてくれた。あれは事実ではない、とコメントあり。他のマスメディアは毎日新聞の後追い記事。

   
 (以下 記事拡大版を読む)
鈴木委員長代理が就任する以前から
行われていたことが記事で分かる。 

 2012年5月24日 毎日新聞1頁


2012年5月24日毎日新聞25頁


2012年5月25日毎日新聞1頁


2012年5月25日毎日新聞 26頁

2024年5月26日 毎日新聞1頁 

佐藤
:2012年6月原子力委員長・委員長代理に懲戒処分 (史上初)と年譜にあります。
鈴木:原子力委員会で初めてです。
佐藤:記事内容への反論はツイッターで続けられるけど、給料は没収ですか。鈴木さんを追い出したかった内部の人が資料を流したとしか考えられないですけど。

鈴木:記者は1年後に謝りに来ましたよ。あの記事で鈴木さんを落とすつもりはなかったんです、と言って。報道ステーションの記者とも何度も会った。彼らとはかなり話をして誰がビデオテープを持ってきたかは言えないけど、記者は女性だった、彼女が言うには鈴木が再処理に有利な発言を何回もしていたと言。それは違うと、内部の会合だから相槌をうつこともある。

佐藤:放送に都合の合うストーリーを作って取材して仕立てますからね。そう見える、見せて伝えまるのが仕事ですからね。web記事に付いてる総理の顔なども記事に沿った意図的な絵ばかり流れています(印象操作)。鈴木委員長代理が相槌打った瞬間を切り取っり繋で放映されたら、視聴者はそう受け止める、ある種の記事制作意図に沿った印象操作し伝えますからね。

鈴木:そう、でもTwitterがあって助かったですよ。Twitter使って説明し始めたんです。毎日新聞のどこが正しくってどこが間違っているのかを、長くツイートし続けた。そしたらフォロアーが増えだして、「原子力委員長代理がツイートしている」と。
そしたら質問も一杯来て、酷い投稿する人も一杯いありました。謝ったうえで事実と違うことがありますと書いた。しつこく書いた。そしたら何人かのジャーナリストが喰いついて来て、江川紹子さんて知ってますか。

佐藤:江川さんは知ってます。神奈川新聞の記者で坂本弁護士一家殺害事件の記事を書いて、オーム真理教批判で名をはせた記者ですね。
鈴木:そう、江川紹子さん、と毎日新聞の編集委員で俺はこの記事とは関係ないという方がやってきて、真実を教えてほしいと言ってきた。いろいろ書いたり書いてもらっているうちに、反対意見が減っていって。よくある事務局の会合めもだよね、という理解が進んできて、そうなったから私もやめたんです。

佐藤:新聞社は修正記事をださないですからね、自分でTwitterを使って訂正していったと。
鈴木:いい経験になりました。
佐藤:炎上したと。Twitter使って反論できたのはよかったですね。一部の人たちの記憶が修正されますからね。新聞の誤った内容の記事でも致命傷になりますね。

鈴木:致命傷ですよ、次に原子力委員会改革案ですから。
 

原子力委員会改革について  (年譜:2012・06・19)

鈴木:そんなことで、原子力委員会は飛んでしまった。せっかく核燃料サイクルの小委員会の議論で、いい提案ができていたのが、信頼性がなくなっちゃった。で細野豪志代議士には「鈴木さん悪いけど、原子力委員会の提言を尊重することができなくなっちゃった」、と言われた。一応原子力委員会としては改革案をだして、電力業界に皆さんにも帰ってもらった。

反省なんですけど、検討小委員会の打ち合わせのための事務局会議(これが秘密会合と報じられた)って経産省と文科省と委員会ぐらいだと思っていたんですよ。部屋に行ったら人がたくさんいる。何でこんなに人が居るんだ、と聞いたら電事連の人たち、日本原燃これだけいます、JAEこれだけいますと言う。

ちょっと待て、俺は呼んでないぞ・・なんでこんなに居るんだと。これは大事な会合だから呼びました。後で分かったんだけど勝手に彼らは呼んでいたんです。事務局会合だからここに出てくる書類は持ち出し禁止ね、と言って会議開いたんだけど、皆さん平気で持って帰った。録音機回している人もいた。近藤委員長に叱られたんだけど、「鈴木お前、脇が甘いよ」と。味方だと思っているから、味方じゃないと後で分かった。

佐藤:そこが鈴木先生のいいところなんですけどね。

鈴木:(笑)申し訳ない。結果的に原子力委員会の信頼性を失墜してしまったので、改革案を、年表のよな内容をいくつかだしました。


第三者委員会 福島医大に入院する


佐藤:原子力委員会解散させようという人もいたので、良かったかもですね。
鈴木:結果的にはよかったかもしれません。後に第三者委員会ができて報告書を作ってくれたんです。そしたら我々の知らないことが一杯出てきたんです。事務局が私たちの知らない所でメールを一杯だしていた。メールは彼らは消していたんだけど、でサーバーから取り直したら。私の解釈は事務職会合は表の会議の準備会議だから、何も決める場ではありませんとしていたんだけど、電力から来た男は皆にメール配っていた。この事務局会合がストーリーを決めるから、ここでストーリーを決めてしまおう、と情報を送っていた。

佐藤:第三者委員会設置したので全部わかってしまったんだ。
鈴木:分かってしまった。そのメールは公開してないけど、原子力委員に無断でメールをだしていて、それをコントロール出来なかった委員会の責任だと、報告書は公開しています。
実は、最終報告をする直前に近藤委員長が、これは電力業界に意見しておいたほうがいいだろうと。電力業界のトップ何人かと官庁の何人かを呼んで会合開いているんです。それをやってはいけない

ここに書いてあるけど、その検討小委員会の最中に私は福島に行っていて、突発性難聴になってしまい1週間福島県立医大に入院したんです。2012年3月の頭でした。その間は会合しばらく開かないでいいよ、と事務局に言ってた。が、実はその間に事務局が会合を開いていて、そこでシナリオを4つぐらい作るはずだったのが、3つに削られてしまっていた。なんで4つのシナリオだったのに3つになったの、と聞いたら、4つは2つが六ケ所の再処理工場を動かす、2つはそれを動かさない。4つあれば公平だった。ところが六ケ所再処理工場を動かすのが2つ、動かさないが1つで計3つにしてしまった。この二つは評価してもほとんど変わらない。
3つにした理由を聞いたら、鈴木先生、時間がありませんから、とても無理です。私は「そんなわけないやればできる」と主張。でも、3つで決めてしまいました、と言う。これは事務局がマニュピュレート、操作したという証拠になった。私の入院中の出来事でした。

週末にもう一人の原子力委員(秋庭さん)と個人的に福島県、飯舘村の見学に行くことにした。金曜日の夜に長い会議があって。家に帰って土曜日の朝、耳がおかしくなってしまって。そのまま福島に行って一日過ごしたんだけど、お医者さんに行って薬ももらった。だけど、日曜日の朝起きることができなくって、即医大に入院でした。

佐藤:突発性難聴はストレス貯めすぎですよね。
鈴木:ストレスです。本当に大変な一週間でしたね。
佐藤:原子力委員会内部ではストレスの溜まる仕事をされていて、原発事故は1年前の3月11日のことです。鈴木先生は発災当日、何をされていましたか。 
   
 
3月11日 福島原発事故起きる

鈴木:事故の最中は、政策大綱の議論をやっていて、3月11日は前の日に打合せをして、高レベル廃棄物の処分のテーマで議論をしようと準備をしていた。私は国際文化会館でテクノロジー・アセスメントのプロジェクトの国際会議があってそれに出ていました。

オランダの研究者が登壇ししゃべっている時に地震がきちゃったものだから、彼は地震体験生まれて初めて、それが東日本大震災だった。顔まっさおになっちゃって、しばらくしたら収まるから大丈夫ですよ、と声かけていたら、揺れが止まらない。シャンデリアが揺れて落ちそうになってきたので、危ないから会議中止して外に避難した。
庭に逃げて、しばらくして収まったので中に入って再開しましょうとしたら、また地震が来ちゃった。2度目の揺れのほうがおおきかったですね。その時は皆あせった、これは危ないと。また下りて庭に逃げて見ていたら津波が来るかもしれない、という話があってオフィスに電話して、原発どうなっている、と聞いたら、「全部シャットダウンしてるから大丈夫です」、と答えた、でも原子力委員会に帰った方がいいので帰った。ビルから出て皆さん退避していた。

電気もとまってしまって、電車もとまってしまって、今日は仕事にならないから皆自宅に帰ってくださいとなって、家に帰った。4時ぐらいにオフィスを出たんだけど7時ぐらいに家に着いた。その間、ラジオのニュースで聴いていたけど大きなニュースはなかった。TVつけたら緊急事態宣言です。

佐藤:原発事故後の対応については全く知らなかったので、基本の原発を止める冷やす、封じ込めるも知らない。3段階を継続して原発は安全ですと言える。それすらも知らなかった。ですから何も起きなければいいが、原子力発電所がどうなっているのか、情報もないので理解できなかった。庶民は怖がるばかりですよ。

鈴木:分からないですよね。

佐藤:直ぐに停電してしまったので、情報を得ようがなかった。スマフォの電源を使いつくすまで、webで関連情報をさがして、ました。Twitter閲覧で関連情報を得てました。
鈴木:安全にとまりました、といっているだけでしたから。
佐藤:安全にとまりましたとか、直ちに身体に影響は無いとかアナウンスするけど、心のショックは解消しない、それどころか不安は増す状態でした。冷やせないので自衛隊や東京都の消防隊がやってきて冷やすとか、ブツブツに切れた情報が入ってくるだけです。原発事故がどういう順序で進み爆発とか炉心溶融するとか知らないので怖がるだけ。SNS場では東電社員は70km圏外へ逃げた、米軍の戦艦は逃げたとかおちてきて、不安は増すばかりで知っても対応術がないので、大混乱してました。

鈴木:7時ぐらいのニュースだったと思います、全電源喪失。ステーションブラックアウトという事故は日本では初めてだったので、何時から停電になっているの、と聞いたら、4時ぐらいから全電源喪失だというから、「それはアウトだよ、3時間も電源無い、回復してないのか」、と聞いたら「今のところ回復してません」と。
スリーマイル島の事故は3時間でメルトダウンしているんで、3時間経っちゃっているから一部溶けてんじゃないの、と言ったら、いや、炉心の温度はまだ大丈夫です、と。どうなっているの今は、実はメーターもはっきりしません、という話でした。メルトダウンは起きてないの、と聞いたが、分かりません、と。夜の11時ぐらいになって東電からこのまま行くと1時には炉心溶融が始まるというメモがまわった

私は家にいたので事務局からメールで情報をもらっていたんです。「やばい、メルトダウンだ」、これは大変なことになっちゃった。何とか冷やして電気回復しないとえらいことになってしまう、電源はどうなっているのと聞いたら、非常用電源ぜんぶアウトで、今、消防車を呼んでいるんだけど、地震で道路が通れないとかで、そしたら全然だめじゃない。もう焦りましたね、7時ぐらいには避難始めたんじゃないか。

佐藤:3月11日は自主避難ですね。政府からの避難指示が出る前に首長の判断で逃げだした、独自の判断で方々に逃げだしました。本当かどうかは分からなかったですが、東電のかたが逃げたとか、SNSで流れていました。米軍の戦艦が逃げたとか、かなり危ない、大変な事が起きているということで逃げ出しました。県のオフサイトセンターから副知事をはじめ全員避難したとか流れました。混乱の極みでしたから、怖がっているだけです。

鈴木:佐藤さんどこに居たんですか。

佐藤:家から数分の仕事場にいました。家人の病歴20年超だったので、新聞もTVも電話も無い生活を続けていました。家人は人のいる場は情報が多すぎて妄想が増大するので、ほとんど家から出ずに暮らしています。で、私は長年食材買い出ししてました。
3月11日も1週間分の食材を買いだしを済ませ仕事場のPCで作業してました。家も仕事場も家具などは倒れないようにすべて固定してますから、じっとして揺れが止まるまで待ってましたが、長い揺れでした。以前から地震が起きても暮らせるように米・味噌など食べ物、薪燃料は備蓄してました。水が無かったので、断水に備えて作業場から、家に戻って、トイレ用の水は湯船に、飲料水はポリ漬物用樽に2つで1トンぐらいかな貯め始めました。2時間後に断水でした。その前に水を確保して。
そこから、近隣で何が起きるのか、大きな災害時に自分が何をするのか観察していこう、とTwitterで発信してました。それ以前からweb日記で発信してたので、地震が起きたときからTwitterに切り替えて行動を発信していました。で、焦っているので間違い打ちも多いんですが生々しい記録になっています。(佐藤の2011年日記 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月B 5月A 4月B 4月A 3月後半 3月15日まで 2b 2a 1月 )


鈴木:それは読みたいですね。

佐藤:11日は15分間隔ぐらいで地震が起きと記憶してます。12日から電気が来たのでコツコツ記録しました。3月9日もやや大きな地震が起きてんです、宮城起き来たとおもいました、ですから、またでかい揺れ来そうだと身構えていて暮らしていて肩こりました。チェルノブイリ原発事故のときの、放射能拡散図を見ていたので、ドイツあたりまで放射能は沈着していた。福一からは我が家は60km超なので、放射能は我が家も軽々と届くので事故前から渋谷の東急ハンズで買い、サージカルマスクも持ってました。

鈴木:フィンランドまで飛んでます、サージカルマスク持っていた、偉い。

 
2011年3月13日 1頁



2011年3月13日 社会面
 
























 汚染図学術会議PDFより

佐藤:3月9日、2日前に続き、宮城沖地震来たと思いました。長男が東北大で近世期の災害史の研究していたので、40年前後の間隔で宮城沖地震はずっと起きている・・・文書などみせてもらったり、聞いてもいました。余震も頻繁に起きることも、そして仙台の駅周囲には地震に備えろ、と案内がたくさん貼ってました。長男による宮城沖地震の情報ですけど、地震が起きると津波を含めた災害が重なり、民衆がどうなったか知ってました。津波後の死体の土側溝を掘り埋めるなども、読んでいたんです。311でも江戸期の災害のまま再現されていました。家族用には食い物と水を備えることは真っ先です。

鈴木:津波はなかった。

佐藤:福島市は内陸ですから津波被害は無いです。けれど、内陸は農業用ダム決壊があり、5名だったか行方不明になってしまいました。福島市内も死者が15名道路やのり面崩壊が2531件、(『東日本大震災の記録─発災から復興に向けた取り組む』福島市災害対策本部2014年3月刊行より)一部の大学の校舎・市中の建物は潰れました。
。自宅は火事と地震に備えて鉄筋で造ったので潰れない。本が本棚から飛び出す程度で被害は無かったです。

混乱の原因は食い物がスーパーから消え、ガソリンスタンドからガソリンが消えてしまいました。原発事故に関する情報は福島市では独自に回覧板を回すとかして発信してなかった。で、原発事故に関しては何をどうすればいいのか分からない。阪神淡路大震災の記録を読んでいたので、近隣の老人の飲料水とトイレの世話をしたりして見回りしてました。新聞でもメルトダウンしたとは記事にしてないはず。燃料が溶けたことは3か月後ぐらい記事になったと思いました。
 
鈴木:私もフェースブック記録をとったんです。(現在もFB閲覧可能)海外の人向けのニュースが無いだろうと思ったので、英語で発信していたんです。そしたらドンドンフォロアーが増えちゃって。(参照:鈴木達治郎さんのFBを開いてフィルターに日付を入力すると投稿内容はすべて閲覧できる)
私は自分のために投稿していたんだけど、ドンドン質問が来ちゃって、やめられなくなった。

佐藤:それはいい記録になりましたね。

鈴木:そう、だけどしばらくしたらブレティン・オブ・アトミック・サイエンティストという雑誌から、「お前のFBをそのまま掲載していいか」、と。いいよ、と応じて、英語は直してくれる、という。なるべく臨場感があった方がいいので、そのまま載っける、と。それをしばらくやっていて、4月の終わりだったか、今、聞いたら国内も無かったんですね。海外にも全くなかったわけで。1週間ぐらいは英文の情報が全くなかったんです。英語の情報はすごい少なかった、英語での発信はいろんな人から感謝されたんです。

原子力委員会は事故対応をしないんです。土曜日の朝、1号機が爆発したんです、その夜に、これはどうなの?と。オフィスに行った方がいいですか、と電話したら、原子力委員会は事故対応はしないので来なくっていいです、と言われた。
原子力委員長の近藤さんは安全の専門家なのと、東電の福島第一発電所をよく知っているので、自分で安全審査したんです。隅々まで知っていると言ってまして、東電から来ている尾本さんは京都から新幹線で帰ってきた。帰路で地震に遭っちゃった。しばらく新幹線に閉じ込められて、夜か朝にオフィスに着いて東電と行き来して、尾本さんと近藤委員長が二人で原発事故の対応。私は日曜日の午後に地震が起きてから初めてオフィスに行った。

佐藤:原発事故対応の避難について事前に訓練も受けてないうえに、事故情報が流れてこない、回覧板も回って来ない。1号炉、3号炉と爆発しました。4,5、6号炉点検しているなんて知らないですから、10基爆発するんだろうなと身構えてました。それに、モックス燃料を燃して間もないので怖い。

鈴木:3号機ね。

佐藤:プルトニュウム燃しているというので、爆発しちゃってプルトニュウム飛び散ったたら対応できるんですか、と不安でした。
でも食い物など確保してあるので、近隣の被害調査をし写真も撮り続けてweb公開してました。
私の近所には高等学校が2校、あったので、避難所の手伝いでもしようか、と思って2校を回りました。浜通りからの避難民の方々、高校の体育館内で話している人は誰もいない、お通夜状態で、雑魚寝していました。


原子炉爆発時の委員長の顔

鈴木:3号機が爆発した瞬間の近藤先生の顔は忘れられないですね。あ、ああという絶望感が。
佐藤:専門家は隅々まで知っているので恐怖の度合いは深いでしょうね。けれど、何もしらない福島県被災民の私も、3号炉爆発したときは、10基全部爆発しちゃうな・・と想像し覚悟は決めました。でも避難指示が出ても家人の事情があるので家から逃げず家に居続けると決めました。
知り合いに聞くと、福島市内から逃げて遠くに行く。ガソリンは無くなって、高価な闇ガソリンを売って儲けたと言ってました。いろんなやつ出ますね。リッター1000円超え、10L制限あり。だから、いくら高くしても売れるよ、と話してました。ガソリンが無い、電車も止まってしまってる、だから遠くへは逃げられない。浜通りの方々はバスで避難して高等学校に雑魚寝してました。

スパーの棚に食料品はもちろん、何も並んでないんです。物資は東北自動車路、ガソリンはJRのタンク車両で横浜から新潟、会津若松盆地から坂を上って仲通り福島市内に運ばれても行列できてました。ガス配管は高速道路の下にあり切断しなかったので、煮炊きは問題なかったです。原発のメルトダウンはしただろう・・・と思ったが発表が無い。
   




『18~19世紀仙台藩の災害と社会
 別所万右衛門記録』
東北大学東北アジア研究センター叢書
2010年2月18日(非売品)


南相馬市
『東日本大震災記録誌』
より抜粋羅列
■2011年3月11日 地震
14:46 三陸沖震源 M8.4 
     13日M9.0に修正
 福島原発、1、2自動停止
14:49 大津波警報発令
14:51福島沖M6.8
14:54 福島沖M6.1 
14:58 福島沖M6.6

15:12 福島沖 M6.7
15:14 大津波警報3mから6mに

15:15 茨木沖 M7.6
15:30 大津波警報6m~10m超に

15:35 南相馬に津波到達
16:28 岩手県沖M6.6
16:55 菅総理記者会見
17:31 福島沖M5.9
17:40 福島沖M6.0
19:03 原子力緊急事態
21:23 半径3km住民避難指示

12日 
0:49 1号機格納容器圧高まる
     東電が国に報告
5:44 避難指示
     半径3kmから10km拡大
6:19 菅総理、ヘリで官邸を飛び立つ
7:45 半径3km避難指示
        10km屋内退避指示
15:36 1号機水素爆発
18:25 半径20km避難指示

14日
11:01 3号機水素爆発
自衛隊半径100k圏外へ避難を呼びかけ

19:54 2号機海水注入開始

 ■メルトダウン

鈴木:メルトダウンの話は原子力安全保安委員(当時の規制当局)の方が炉心溶融起こしているかもしれないと一言しゃべっちゃった。そしたら直ぐに東電の人と近藤委員長とか、原子力の専門委員から炉心溶融が起きたかどうかまだ分からないので、そういう言葉は使っちゃいけないという話になって。炉心損傷という言葉をそれから使い始めた。でも、その時は12時間以上経っていからもう一部溶けてますよ。

佐藤:後に東電のテレビ会議が映画になりました。あれを見て気づいたことは県知事だと思うんだけど、東電にそういうことは発表するなと、伝えている、それを語り合うシーンがありました。ちらっと放映された。被災者が多いと、福島県も正常な情報を流さず情報押さえるんだと驚きました。福島中央テレビの無人タワーから撮った1,3号機爆発の動画は世界に衝撃を与えましたね。

我が家は避難しないど決めていたのですが、近隣の老人たちは自家用車の中に座ってねてました、エコノミー症候群きそうですよね。ですから、原子力事故が起きた場合は周囲の住民は何を頼りに正しい情報に辿り付けばいいのか分からない、そしてどのように安全な避難を判断すればいいのか分からなくなりました。
情報隠蔽体質などは映画になっり観たから分かったことで、リアルの現場にいてはなにも避難情報は無い。ひたすらTwitterとチェルノブイリ原発事故の絵をみて想像していた。

ザビザビでしたが放射能の汚染状況図は横田基地から米軍が飛行機飛ばして計測したのがSNSで流れました、それが最初の福島県汚染図でした。動画はドイツの方が発信したのを見て、放射能の流れ方を想像してました。ほとんど間違えない静岡あたりまで飛んでいくんですね。
春先は南東の風が吹くので原発から福島に向かって吹く風が多いのは想定してましたけど正確には分からない。花田先生の関係者・フリーランスの方をTwitterフォローしていたんです。彼らは翌日だったか双葉町に入って計測数値を発表してしまった。で、その足で伊達市月舘町の汚染度も発表したので、同じ方向の福島もかなり汚染空気が流れていると知りました。後に記録をみると15日18時40分が最も高線量で毎時24.24シーベルトでした。(福島市にある県の保健所計測記録より)

一番高い15日の夜に、2号機から噴き出していた放射能が、みぞれとなり飯館から福島市に向かって放射能を沈着させた。2号炉の格納容器が割れて放射能が吹き出た、と後で知ることになりました。風で遠くに飛ぶのはいいんだけど雨とみぞれで台地に放射能が落ちてきた。15日の夜みぞれの中を歩いてましたから、その数値を知ってからその日に着ていた防寒具などは全部捨てました。計測器もってないので、数値のことも風向きも知らないで放射能雨の中を歩いて活動してました。


   
2011年3月12日 1頁


鈴木
:スピーディーが機能しなくって問題になりましたね。 


その2に続く