HOME 佐藤敏宏 2011年 08月の日記 |
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8月31日 午前中小雨 昼ごろから 早朝 5時前に目ざめ 動画データ整理 動画データは整理は手間がとても掛かる メールなどしつつ フェースブックも使いながら今後の活動を考える。学生さんの参加が多いので今後 フェースブックは鮪立計画活動に便利だとういう気分が 森モロわいてくる 29日の仙台での調査報告書などと作りメールす 鮪立活動の今後をいろいろ考え関係者に電話やツイッターやフェースブックを使って飛ばす (完成した 津波到達位置模型 のまえで 後期活動の終了を祝 記念撮影) 午前中かかって 鮪立で活動中の日記の欠を埋めるため写真データの一部を加工し 簡単に日記を埋める 細かい活動期録は 鼻の手術の入院中にHTMLでテキストを作り公開予定 午後は ながやまのりこさん(会ったことも 風聞もない、女性なのか?そのような人)に義援金をいただいたので 被災地からの報告会を東京芸大上野キャンパスで 9月3日午後3時から行うので データ作りをする予定だったができず ■福島市の来月の広報が配られてくる あまりにも酷い内容なので 永久保存の価値がある 福島市の記念碑的恥物であることを災害対策本部の方に電話説明し 理解していただく。 前回の各地報告会でも市の広報紙は多様に使ったり配ったりしたが、今回の来月のペーパーも今後行う被災地からの報告会で使える 活用することなる。 永久保存的価値があるんだが それらの 詳細は書かないがいずれ訪れるだろう各地の報告会などで語る ■食材を買い足しに行く 戻ると にわかつよいにわか雨が来る 15分ほどで上がる ■建築系のアカデミズム内マインドの構成が鮪立計画を実践するまで分からなかったが。分かったかも。俺と共同出来るのは京大出の権力志向者から外れ出 リベラルな者、それから東大をでた 幼少から大都会育ちで理想を未だに追い続けている者 。 残念ながら田舎育ちで東大出の優秀者さ には 相性が極度に悪いのであるんだなー 今後の活動の中での人間関係構築に(危険であるが)有効な物差しを身につけた気分 ■鮪立計画 前半と後半の活動全日において食事を作る作業をお願いした 都重子さんと 綾子さん のお二人の写真を掲げ お礼の言葉に代えさせていただきます |
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8月30日 疲れたんで午前中寝る するも まったく終わらず 疲れているようだ俺 午後 データ整理など 夕飯後も整理を続けて たが眠くなったので 仮眠と思い寝たら 朝だった |
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8月29日 7時に起き 鮪立でいただいた 焼きおにぎりを暖め 味噌汁をつくり朝食 を済ませ 市立博物館へ行く 今日は市文化財課と市博物館内にある史編纂室の皆さんとで 仙台 太白区に在る2軒の古建築レスキュー(2件)や測量のための先見活動である。 1軒目は古民家を活用し 食堂機能にて使用中であった。 覆い被さるようにある植物木々をはらい 側溝を掃除し 雑草を刈り取る そうこうしているとスズメバチのなかの先見蜂1匹が私の回りを調査し始めたので 作業を中止しますと告げる。 じっと動かず2分ほど 先見蜂は敵の襲来でないな と思ったのか去っていった 民家の雑草など処置した お礼として昼飯をごちそうになる 続いて2軒目 色々事情があり 書き記したり語ることはできない。 聞きたい人は俺に直に聞きに来ること 午後3時市博物館でマトメの会議をし 指示を出し 解散 仙台駅までmy長男に送ってもらい 新幹線に福島市の仕事場に戻る。今回のまとまった活動で 漁村から山奥に民家まで調査してきたが 仕事場の位置は人々が大勢暮らす 中途半端で個性無き地域に思えるのは 調査前と同じだ(個性無き個性あり) 活動で得た データ整理するも終わらず 寝る |
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8月28日 鮪立計画後半 活動最終日 反省会 掃除 鈴木さんにあいさつ などど 今日もタイトであるよ 鮪立に在る西側の港 藤浜では数日前から広島県の蛎養殖の人々が 鮪立の人々のために 蛎養殖よう筏をつくるボランティアに来ていた 桑田仁先生のアメラグクラブの仲間であった 広島県知事が来て挨拶をするので皆で挨拶に行く 雑事があり俺は間に合わなかったが 桑田先生など 広島県知事と交流できたそうだ。 藤浜には大勢の養殖に携わっている人々が竹を組んで 縄や番線で編み込んで〆込む作業中 強い日差しのなかで懸命におこなっている テレビ局も大勢やってきていて お祭り状態である マスメディアの人々が居ないと多数の人に伝わらない問題があるけれど、実作業には 邪魔にしか成らないようすに 色々 思いを致すのであった 俺たちの活動がそのように成るのは極度に避けたいので 派手なマス(鱒)メディアへの案内行為は禁じている のだ ■ 9:50分から 事務連絡 15分を行い 食事をつくっていだいているご婦人方のカンパや シャワーのガス代 お茶の葉代として 一人1500円以上を集める。 津波到達位置を模型に黄色いラインにて示す作業を行う 津波で被害のあった浸水域図など必要なデータを印刷したり 各班に分かれて行うを 10時15分から 鮪立港まちづくり百年会のその後のその後について 話し合う。 何時行いたいか 参加者一人一人 に発表してもらう感想なども同時に聞く。 このまま続けたい との意見から 桜の季節に きぶしい冬になどに 多数の意見が出ていた。 俺自身は聞き取りと古建築の測量は10月頭から再開くのたが そのことは伏せておいた。 昼食をいただき 憩いの家の掃除を行い 3時 30分鈴木さんの家に行きご挨拶をし 記念写真を撮る 学生さんたちは 気仙沼発のバスで 仙台を経て 東京や大阪へむかった。my長男と三人の先生とで再度 鮪立に戻る。 支給されていた車を返したりしつつ いろいろ話し合い6時現地解散 仙台に戻り my長男と10時 牛タン屋で呑みながら 色々語り合う 12時寝る |
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8月27日 風ありさわやか 主要メンバー全員揃いさわやかに 8:30分朝食をいただく 9:00今後の方針を決める朝の会議 10時 野調査開始 津波到達ライン位置を現地で聞き取り浸水域図作成をつくるためが主な目的であるが 地域の人々にはあたりまえ過ぎて見落とされてしまう 観光資源になる工作物 よう壁 路地などを体験するよう指示 8月27現在の1/500を地形模型をつくるための 藤浜および鮪立湾の現地調査 を3班に分かれて行う 午後4時ぐらいまで調査はかかる。 大きくは 現地調査を津波到達位置図=浸水域図を作成のための 作図班とに分かれての活動 3時ぐらいには作図班にデータが集められて それを地図に落とし込んでいく 夜 現地の人々が集まる、聞き取りの時に配布するために鮪立浸水域図を作成、印刷する となかなかキツイ時間割であるが 即 正確で最新の情報を地域の人々と共有するした上で語り合う ためには不可欠な実践なのだから 尻を叩く叩く俺 5時半に夕食開始 6時半現地の 超明るい 海の男ひとびと 大漁唄込み保存会のメンバーを中心に大勢集まっていただいた 、7時半まで 1時間聞き取りを行う。 その後聞き取った内容を マトメ 印刷する時間を1時間取ってある。その間集まっていただいた人のためにお宝講義を行う。 昨日見付けたばかり =my長男が発見した内容の紹介をする。 大津波のときに 鮪立湾の再生の様子が克明に書いてある日記を 活動開始初日に発見したのである。 資料ネットの活動とその多発見した記録などの あらまし話していただく 30分ほど 地元の人の祖先達は 100年ほど前にも津波に遭い そのときの祖先の活動を知ることになる 参加した学生もみなも耳だんぼ状にして聞き入る。 みなさん興奮ぎみ。 続いて ギリシャ出身のヤニさんの発表 これまた鮪立湾風景そのも とても似ている港町のギリシャの様子を紹介。 みなさんあきることがない。 つづいて唄込みのメンバーに舞台衣装(カンバン)が寄附されたとのアナウンスがありみな大喜び 続いて 太田先生 桑田先生 伊藤先生に感想と挨拶をしていただく 聞き取りまとめた内容を印刷するために5班に分けて作りおいた 聞き取りチラシを参加していただいた 各人に配りながら 学生の発表。 9時15分ギリギリに終了 みなで外に出て見送る 後 酒を飲み交わしながら 反省会を行う 前日の朝ねワークショップが効いていて今夜は皆元気である 2時半寝る |
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8月26日 小雨のち 曇り午後 測量日より 早朝 武藤父 娘金沢に向けて出発していた 学生のみな疲れている様子 朝寝ワークショップ 二日酔いと興奮とタイトな活動内容にて疲れているようすなので 休ませる ■ 12時太田先生、桑田先生伊藤先生 丸橋さん 葛西学生隊長 到着 みんなでとれたて!朝差し入れいただいた烏賊の天ぷらを入れたうどんをいただく 超うます 1時支所に出向き 桑田先生太田先生 伊藤先生の挨拶と前日25日現地での活動報告をする よき情報交換の場になって嬉しいことであった。 桑田先生のアメラグ仲間である 広島県知事が 鮪立湾に来場とのこと、それなら みなで挨拶に行こうぜ!と盛り上がる 2時 元気仙沼水産高校 菅野栄喜先生による水産のあらましについての講義を受ける 3時40分 おれんちの半島と半島にある 鈴木家代々の墓参り 神社参り おれんちの半島のポイントにて鮪立湾を観る 5時半食事 6時半 地元の人々の聞き取り 世界の港 イバナ、リタ ヤニ発表 作った聞き取りペーパーを参加者全員に配布する 9時半終了 反省会 呑み会(夕方からオニヤンマの来場し会場を飛び回る) 2時 寝る |
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8月25日 11時齋藤善之先生の講義 東京から夜行バスを乗り継いだ東大生 理科大生 芝浦工大生 朝8時40到着 武藤清秀先生父娘 古舘さんと集合 11時 東北学院大学の齋藤善之先生による 鈴木家の歴史 と南三陸にあった大規模イエ経営の実態についての講義を受ける 午後2時 武藤先生による古建築測量、初参加の人被災地調査 竹内泰先生と研究生合流 竹内先生 佐藤大介氏とともに支所と漁協に挨拶に行く 6時半 聞き取り 7:45分 竹内泰先生 による鮪立番屋プロジェクトの説明 8:30分 聞き取り内容発表 聞き取った内容を即印刷紙参加者に渡す 9:30分 終了 10時から呑み会 参加者大いに語り合い 皆呑みすぎ 泣き出す者もあり と大賑わいなのである すばらしいではないかい |
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8月24日 支所など基礎資料をとり混乱混線の原因を知り 今回活動に死傷(支障)がないように調整作業 大阪から 大橋力さん到着 武藤清秀先生親子5時半到着 。 夜6:30 漁り火パーク集会施設にて高台移転など会議に参加する何年ぶりだか思い出せないが 胃痛が起きる 混乱の原因を数点理解できた。 |
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8月23日 きのう同様 肌寒い 8時起床 9時食事など終える データ整理や メール連絡など 10時鈴木武男さんが憩いの家に来てくれたので 被災者の現況と生活の困難などに ついて話を聞く(音採取) なるほど 漁業に携わったことがないので 色々分かった 午後、支所と現地の人々の間を何度も行ったり来たりするたびに 正確で最新の情報(各種資料)を次々と頂戴してしまった。昨日の市役所での活動と午後支所との交渉によって得た各種情報を組み合わせると 住民の方と市役所と支所の方の構造の全体像が分かった=役所内でどのように情報が瞬時に流れるのかも思い知った。 これで落ち着いて鮪立港まちづくり百年会の活動が行えると確信がもてた。 俺が呼びかけた事によって 各地から若い建築系の人々が憩いの家で合宿し そこで築き上げる活動の成果は確実にまちづくりの行為となって記録されされ幸いなる記憶として参加者に残る素地は整った。 3日間導かれるように好きな人々に出会うことが出来ているを傍で見ている 鈴木古舘だんなは 目を丸くして人徳・奇跡だねなんて言っている 単に幸運に恵まれているだけで、俺は人徳など備えているような代者ではない ■水産高校で永年教鞭を執られていた鈴木栄喜先生を紹介いただき まちづくりの招集講師なってくれないだろうかと 元唐桑小跡地にできた仮設住宅に暮らしている鈴木さんを訪ねる 歓待を受け 色々引き受けていただき まちづくりも共に活動することに同意いだくことが出来た。 仮設住宅ってああいう代物なんだと知る)感想は書かないよ ■深夜まで 鈴木古舘さんと奥様と三人で話し合う そのときうっかり呑んでしまったカフェイン入り飲料にて朝4時まで目が冴えてこまってしまう。気温やや上がってきているようだ と寝入りながら遠くで思う |
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8月22日 のち 鮪立憩いの家に泊まり目ざめる 雨 朝方やや強い揺れがある。午前中は各種整理をする。メールなど昨夜の話し合いの資料を眺めて 今後のためのデータを整理する 活動用にと車の提供を受けたので、唐桑支所へ 出向き基本調査をする そこから気仙沼市 まちづくり関係の課をまわり復興会議とまちづくりのことについて話をうかがう、鮪立に暮らす氏職員の方がたなので大変好意的に色々聞いていただけた。と同時に 情報交換ができた。 神戸大の学生が復元1/500模型をつくり展示していたので 動画インタビューをする。 気仙沼市内で道にまよい冠水地にはってしまい 車が泥だらけになる、市役所に戻り 唐桑へ元来た道を支所に戻り 地図 人口構成表 などをいただく 唐桑長地域協議会が策定に向けた意見書をいただく 8月18日 今日の調査内容と問題を 鈴木伸太郎さんに報告しつつ語り合う よる はそれらをまとめて 細かなデータにし整理する 1時過ぎ寝る |
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8月21日 20日は鮪立計画 後半活動前の準備をし10日分の食材買い出しをして終える。 早朝から強い雨9時福島発仙台 シティーラビット号にて仙台着 同じ車両(前2両)が一ノ関行きに変わったのでそのまま乗車し 12:18分一ノ関着。夏休みなので青春18切符を使って旅行をしている人の姿が目につく。一ノ関あたりで小降りになる。 12:22分発ディーゼル車2両にて気仙沼駅 13:40着 鈴木伸太郎さんが車で向かえ出ていただいたので乗車。バスと徒歩でと考えていたのだが、ありがたい気仙沼も小降り 途中食材をフードセンターで数日分の食材を買う。おみやげの果物なども少し。 唐桑の鈴木家は和歌山県の新宮市から出て鮪立に根付き漁法を伝播しているので今でも、和歌山県の人々との交流が多い。和歌山ではきたるべき南海大地震の備えて何をすべきかも含め ての取材とのこと。pm3時から25日の活動や現地の情報交換を行う。5時ぐらいから紀南新聞社の取材を受ける 6時夕食をいただき 6:30より鮪立復興委員会の会議に参加する 道路部会、港湾部会、集団移転等検討部会 があった。各部会からの報告がなされ討議する 正しくって最新の情報の共有が課題にみえた。 全員の情報を正しく受けとめることと、共有の意識をつくることは難しいものだ 色々活動に参考にできるので参加許可はありがたかった。 のち25〜28日に行うの百年会の参加をいただくよう 呼びかける 道路部会、と港湾部会の役員の方に 25日午後学生を引率して現地を案内していだだけることになった。百年会の参加呼びかけに応じていただけたので、先見活動の役割は済んだ。 しかし 議題に上らないことの多くを議題にせねば・・鮪立港まちづくりは成功しないかもしれない。 同じ地域にある多様な活動とも緩やかに連なるよう情報を共有し 連携姿勢が肝要だが、それらが育っていないようなので 課題も明らかになってきたと思える 困難は多いが咀嚼し消化し力に変えないと 100年後によき町にならないだろうと考えて実践するのは 100年後に人々から見てみたら 傲慢不遜なことなのだろうか?とも考える ダラダラと流れてもそれはそれで何かが残る。どうなのか俺たちの活動って 迷惑千万じゃないのか?とも 先人の意志を記録し 記憶化してこなかった現在人の怠慢がここに来て効いていると思える |
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8月19日 日中小雨あるもほぼ よる冷え コオロギ鳴きだし 復興会議の議事録など読み続ける 。あのような事象と広い領域を言葉で語り尽くし手当てをしようというのは土台から無理なんだけど 人間は言葉を使ってしか連携出来ないので その無力さを思い行き続けるのは被災地の人々なら理解できるだろう この地でもセシウムについては沢山の言葉が生まれ消化されているのだが 我が家の庭にそれらがやってくることは無いように 多様な言葉たちが それぞれの被災者に届き 支援に役立つようにするのは 怒っている人を笑わすほどに難しい作業であると 思った ■直感的に考えたことを 実行すればいいのではないかと改めて思うのだった コオロギの音はセシウム以前と何も変わらない 秋の到来をつげるかのように 澄んだ闇夜を流れつづけている ■8月21日より鮪立入りするので 25日前にトロトロ歩き回って地べたを躰で覚えようと思う ネットは繋がるようになったので 暇な時間を使って絵入りでいろいろレポートが出来るといいのだが。夜は時間がありそうなので 日記を元の形式に戻すチャンスが到来したかもしれない。 ■蔵はなぜ流失しなかったのか 講演依頼あり 話す内容を大筋仕上げる(9月はじめに手術があるので入院前に原稿は作っておきたので) |
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8月18日 がちな1日だけど 蒸し暑すぎる 唐桑半島に在る鮪立湾で 311の災害によって被災している古建築の測量などを行っている。気仙沼市における鮪立地域は人口も被災量など少ないので、どうしても市街地や被災量が多い地域に復興の手が先に出たするのはやむをえないだろう。(鮪立地域は気仙沼市にって公開されている 津波被害状況についての被災報告さえ載っていない) まちづくりの支援をするために唐桑半島に入った訳ではないが 成り行きに沿っていたら、依頼があり俺が出来る範囲でまちづくりにも協力することになってしまった。 俺はまちづくりや人助けには それほど興味は無い人間だし、積極的にボランティアに出掛けるような人種ではないけど、311以降はmy長男の縁なども重なり 自分の予想外の活動を行っている。 だから色々なテクニックやノウハウを見付けているとか まちづくり学問や多様な地域のそれらを体験して得た知見など持ち合わせてはいない。ただ静かに呼びかけ 応じた人人の力を借りてできることだけ行っている。 協力に応じてくれる人が居なくなれば 活動はお終いにする予定だ。たった一人になっても、そこから個人で続けるかどうかは考えてはいない。余生を楽しくできるのであれば、何でも活動するつもりでもある。仕舞の作法は難しいのである ■311以降復興などによってまちづくりをする場合でも 特段変わったテクニックがあるとは思えない 少子高齢化と新自由主義の登場や失われた20年により産業基盤の流動化によって地域の経済や人々衰退し続けていた。日本の財政赤字は1000兆円に届かんとして 国の財布のどこを降っても311による被災地にお金がな出ねのは明かだ 。 だか タダノ紙なんだから 日銀券をバンバン刷りまくって 被災地の人々に与えればよい と思うのだが 政治はそれを決断しないで 衰弱地域を見殺しにしかけている。なんとも馬鹿としか思えない ■ 気仙沼市の復興会議の議事録などを印刷して読み始める あんがい当たり前のことしか書いてない 当然だが セシウム降ってないので 俺の暮らす福島地域より復興はし易いと思う だが311以降失業保険ももうすぐ切れる時期がやってくる 単に生き続けることも難しくなる人は多いのでないかと推測する 困窮した者をバンバン救えばよいのだが ■太田先生など 鮪立入り 俺は事情が出来て 21日から28日まで鮪立でゴロゴロ暮らすことになった 海の傍は涼しいので 福島盆地より暮らしやすいだろう |
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8月17日 のち 夜も蒸し暑し データ整理と 今後の活動の調整をする 高校の先輩から桃をいただく。311以降の地震で半壊指定を受けたそうだ。解体費用も公的資金で出るとのこと 気の毒な事だ。 まだ補修すれば充分つかえる建築なのに 公的になにがしかの解体費用が出ることで一気に解体へとの決断が誘導されてしまう。 税の無駄使いなので そのような制度は 悪しき制度だと考えている。 がなにがしかの資金が出て目先が変われば 何の変化もないのに 変わったと思う人々が存在するのは度し難い事実でもだ。人間の世界というのは実に多様でよい と考えておこう。 それにも増して 嫌な事だなーと思うのは 解体費用が税金で出るぐらいで 解体を決断してしまう震災まで使い込んでいた 建物への愛着 実は無かったんだ!を思い知らされてしまうことだ。 作るということに真剣ではない、使うといことにも真剣では無いことが 受け継ぎ伝えていくことにも真剣ではない、その3点が公費解体によって曝かれるのである。 辛いではないか、その事実は 建築へ向かおうとしている俺の意志をどんどん建築から遠ざける、ああやっぱりエア建築家での活動の方が重要だなとますます思っててしまうのである こんなことでは公共の建築などという概念は育ちもしないのである。 ■唐桑の鈴木さんから新聞のコピーが送られてくる 復興会議のメンバーなど詳細にあった。 ■25〜28日の鮪立ち計画 後半の講師として、唐桑半島などを取材している地域紙のジャーナリストの方に講演の依頼をする 快諾いただく。 ■疲れが取れたか 鼻の薬が効いているのか やや鼻づまり快調の気配あり もうすこし 動かず体力温存しよう |
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8月16日 my長男も合流して my長女の家で泊まり 早朝飯をすませ といっても俺は検査があるので水しか呑めない 長女と一緒に仙石線にのるため 仙台駅までバス 高砂で別れて病院に行く お盆なので日頃よりは空いていると感じた 。 血液検査 薬検査 尿検査 肺活量 心電図 肺レントゲン撮影 歯科検査 を受たのち、 耳鼻科で治療 入院について あれこれ説明を受ける 10日ほど悪化していると感じたが 患部が悪化しているので 手術をこれ以上引き延ばして薬を飲んでも効果がないことが判明 9月8日から約2週間入院すること決めた 術後はPCもインターネットも持ち込んでよいそうで 起き上がれるようになったら ネットを使って鼻づまりの状況報告できそうだ ■検査など所要時間4時間で午後1時頃までかかる 福祉大正門で合流し my長男と311以降の活動で 現在の課題を色々話し合う なんとなく 第二次活動期をすぎ エア建築家は第三次活動期に入ってもよさそうな気配であった。蔵応急処置活動の中から出会った 蔵はまたまた 解体をのがれたとのこと ■ 夕方my長女が戻り 悩みなどいろいろ聞く 多き方針が決まったと思う ときどき家族会合を開かねばと 思うのであった 311以降お互い 忙しすぎるのは問題だと反省する ■ NHKに提供した動画データは届いたとのこと HDD壊れなかったようで安心する |
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8月15日 夕方一時雷雨 来月8日から鼻の手術をするため2週間ほど入院予定。入院前の各種検査予約を16日の午前中にすることになっているので 持参書類を整えたり 家人と入院時の心構えなど話し合う。 昼過ぎ食材を買い置くためにスーパーなどへ 暑いさなかの食材買い出しは 店の温度と外気温の差がおおきく 鼻の持病には辛い PM5時半過ぎに宮城大学の竹内泰先生と情報交換をするために 仙台駅で集合する。 近くの店でビールを飲みながら まず初めに私が行っている311以降の活動を説明する。のち番屋プロジェクトを宮城県内の沿岸地域で活動中の竹内先生の内容をおかがいする。 とくに鮪立湾での番屋プロジェクトは お互いの活動が不効率に重ならないかどうかを確認し合えた。幸かさなっておらず お互いに現況のまま活動を展開続けても問題なさそうであった。 先生は京都大学の布野研出身者だった。布野研の一部の人々にはことば悦覧を実施しているので 先生はそのメンバーの多くを知っていた。だから311以降の建築系活動にたいしても 忌憚の無い意見を聞かせていただいた。 差し障りがある人が多いので 内容は記述は日記では省略する が口頭では伝えたい 今後 時々お会いするために 話し合う機会など設けるなどし 互いの 活動報告をしつつ地域建築系の人々との連携をはかるのがよいだろうと一致する 竹内先生の活動は大変だと想像していた。俺には若さも体力も無いは知っていたので 竹内先生のように実建築家活動はしないことにしている エア建築家と実建築家の考えの違いが鮮明になって良い呑み会でもあった。 鮪立地域でも竹内先生の活動ないようを報告できるような 機会を設ける予定だ 竹内先生が呼んだ代行車でmy長女の家に送り届けていただき ありがたし。そうかこのようになっているのかと |
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8月13日 カンカン照り 早朝から鮪立の鈴木さんと連絡をとり 今後の調整や こちらの希望や 現在御コテ要ることなどを話し合う 8月25〜28日の合宿活動は少し早めに 21日の夕方あたりから現地入りして 各種調整をしてみる予定 まだ調整中 宮城大学の竹内泰先生も鮪立で番屋を建設されることになったようなので 渡辺菊眞さんや魚谷繁礼さんに連絡し いろいろ話を聞かせていただき、竹内先生とケイタイ連絡をし 15日当たりに仙台で意見交換をする予定になった ■午後共同選果場にいき桃を買う。安価で新鮮な農家直販の桃は行列が出来て、農家の人が並べるとあっという間になくなる。次に並ぶまで30分ぐらい待ち時間あり カンカン照りなので たまらない その間贈答ようの桃品を観る 2割ほど値引きしてあった。セシウム効果なんだろうが気の毒である カンカン照りの下自転車漕いだので 家に戻って ぐったりし 昼寝というか夕寝をしてしまう。 |
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8月12日 10年ぶりの実施設計のため 打合せに出掛ける 作りおかれた昼食をいただきながら 彼女(共同設計者)の自己紹介を済ませる。 お茶のあと共同で設計する彼女に敷地や既存建物 町の構成をみてもらう 。 のち構成図を説明しつくりべき建築の大きな構成などを話し合う 音楽を中心にくらすらめの別荘 (敷地が連続してるだけ)といい言い方がもっとも面倒ではないと思った。 既存の増築というのは違和感があったので 打合せしててそう思った 屋敷の歴史を調査していると 前日 構成で考えたような内容だ 元の屋敷を一部再現するかのような設計活動内容であることも分かり 古い町を再生したかのような 構成で かつ 25年ほど前に設計した隣に敷地に 同一発注者による別荘の設計を依頼されたことになる。 共同で設計をしようと考えていたが 彼女が嫌がれば一人で設計してしまおうと思ってもいたが 彼女も乗り気だったので 共同で町のごくごくに 一角を再生させるかのような 設計作業としてとらえ 別荘用途を建築を新築設計してみたい 前回設計時から 25年来の知り合いだし、建築後23年経っているので 既存のRC建築の使い方を共に体験し続け居ているので あまり話し合うこともない。 だが共同でする彼女に暮らしぶりなどを観ていただいた方がよいと考えての 打合せだ 俺はこの1回限りで発注者とは設計内容を詰めた打合せが必要はないと思っている。、時々会って酒呑んだりしこし作業進捗を語り合えばよいし、 飯喰ったりしていれば 良い設計に出来上がるのだ。 前回より少し進歩したのは発注者の話を聞いている点だ 以前は敷地を観て出来てしまった、 一度打合せしただけで 建てたが 何も問題が起きなかった。建築の設計とはそのようなもななので ぐだぐだ打ち合わせることは必要ない。俺も年取ったと思ったりもするし まいいさ 色々多義的な結末にさせることを考えての設計活動開始なのだ。 多義的な内容を説明するのは省略 |
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8月11日 10年ぶりに建築の設計を依頼された。女性の建築家と共同で設計することにしたので、彼女や発注者に説明するための 資料を整え 構成図をつくる ■ NHKのデレクターの方から外付けHDDが送られてきた。 映像使用のご快諾、本当にありがとうございます。写真も見させて頂きましたが、今回の出来事を後世に語り継いでいかねばならないという思いを更に強く致しました そのような思いに俺も同意するので快諾した 記録を作って記憶の継続かを思うことだ。そんなことで必要だと依頼のmy撮影動画データを整理して コピー移動する。数ヶ月前の動画で編集が済んでしまったいるので、依頼要件にそった全ての動画を探し出すのは意外に手間がかかるものなんだなーと知る。写真と違って見付けにくいのだった。 動画を何時も扱って編集しているわけではないので 効率の良いフォルダの仕分け分かってないんだ よるコンビニに持って行き宅配便にて発送する |
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8月10日 カンカン照り 夕立無し 3月11日に返却日だった県立図書館から借りた本を返しにいく ようやく玄関の一部を仕切った緊急的な開館ではあるが 図書館が開かれたことは 幸なことだ 図書館の前は美しい芝生になっているが セシウムが降り積もっているで子供も犬も遊ばせてる者は見あたらなかった ■鼻づまりの調子が一気に悪くなったので 何もセズ 昼寝などしつつ 国会の審議を観る 2重ローンの問題をどのように処理対応しようとしているのか知りたかったので金融財政委員会と今日審議のエネルギー再生法案などの合同委員会の審議をみる 買い取り価格と買い取り期間を明示しない法律になったのでそれほど 再生エネルギーへの転換は進まないだろうと思う 乱れた気流に合うんだそうな 風力レンズなるもの実験などもネットで観てみる |
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8月09日 今日は夕立は来なかったけど 真夜中にビールを買ってきて仕事場で呑んだ 雑用を整理したり 画像データをまとめたりし 岡田先生に長電話して付き合ってもらったりと しなくてもいいようなことばかりしてしまって迷惑を振りまいたような1日であった 311以降の活動のことはひとまずまとめるつもりだけでまとめないで だらだら数日過ごす予定にした 午後 食材を買い 家人と 以前のように普通にタベル 不思議な時間が戻ってきているのか ふたたび崩壊してしまうのかを 予想できないんだけど まあいいでしょう 刹那を楽しんでいれば |
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8月08日 PM6時過ぎ雷雨来る 雷今日は北の山麓に直角に落ち続けていた 雨はそれほど強くなし ■ 報道が社会を変える の講義によって作れ11月初旬に発行される 表紙の絵を提案する 表彰式には4年目なので 絵を描いている寺尾さんと出席する予定で 寺尾さんに11月の授業の日時調整をお願いする 絵のテーマは偶然に本のテーマと一致していた 指示したわけでもないんだけど 時の流れがそのようなテーマになって合流するのは良いと想う 俺の議題はやや違っていたけど それらの気分が充分絵面になっているので あまり問題はない 採用されるかどうかは 俺の問題ではないので あとは静観 ■滞っていた 色々な雑事を済ませる。それにしても 経済生活が改善されないのは 俺が働いて賃金を得ようとしないことによって 生じたことなので 甘んじて受けておく お金を得ることより 先にすべきことが有りすぎて そこに辿り着く暇がないのが実情である ■衆議院TV 7月27日の厚生労働委員会の残りを観る 平常時の放射線被曝量は年間1mSV(福島のお母さんたちが頑張ったことを思いだした)で 緊急時・非常時は 年間 5msv 福島市内で俺の暮らす場所は2〜2.5μsv/hなので 数年で1mSVに内部被曝と合算で押さえることは可能なのだろうか? 放射線の除染作業は方方で見受け痛々しく思うんだけど 持って行き場がない 持って行く場を決めないで 作業を進めるのは愚の骨頂だし 福島市では黙って秘密基地にストックしている。 分かっているけど気休め作業をして 無駄使いとしか思えない こんな無益な作業の為に税金をとりあえずでも使うなんてのはばかげている もうすこし科学的に専門家が議論して指示して政治家も従うべきだし税金も投入すべきだ。それを棚上げにしているのは怒りさえ覚えるんだけど静かにしていよう 汚染地域を除染するため放射性物資によって汚染物が生じたいわゆる核汚染廃棄物をあつめ 現代の不毛なピラミッドを造るがごとき 場を指定してえにゃこらと 集めて保存するしかない。 膨大な容積を集めて積み置くことにになる積み置くとやがて川に出て 海に流れ出たりする方策を考えたりする 積み置くことも簡単でない 原発を誘致した地域の人々は安全を信じ切っていて 自分の古里が原発事故によって汚染された廃土廃物 置き場にされてしまうのは耐え難いことだろうが 誘致した始末を負う覚悟はしなくてはならない 原発を誘致した県民として受け入れるべきであると思う その後 東電の存在によって暮らしている潤沢な都民税や周縁の受益者全て そして他地域の国民が 廃棄物置き場に決められるだろう 彼らの救済の為に永年負うべき責務は当然生じる実行してもらいた そういうことを そろそろ互いに覚悟を決めて実行した方がよいと思う だらだらと 福島原発事故低被曝放置による 真のヒバクシャを増やし続けることから脱して欲しい ■昨日の夜セシュームが集まる河川地域で花火大会を催しているバカモノが居る土地なんだから お手上げって気分の方が強いので 既に諦めがちなんだけど ときどき発言して 地域の人おも 苛立たせるしかない |
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8月07日 PM3時頃雷雨来る ふくしま歴史資料ネットの打合せ、総会なのかながあったので 参加し 宮城資料ネット建築班の活動の一部を報告しにいったのだが 放射線の扱いについて 会場がまとまらず 世代間対立のようなことになってしまい ごだごたになり〜 解散となる で 何も伝えることはできなかった。機会を改めて挑戦してみるつもり。 建築班の資料ネット関わってある問題は山積しているのだけど、ごく一部のことしかニュースでも流れていないので よくやっているようにしか受けとめられてないのは 問題なのである が問題が可視化されてないと誰も解決しようとしないし、手もさしのべてくれない 問題はココにありを明確に伝える建築てきジャーナリストも居ないし 諦めて 自分でやるしかないよ 会報で行っている 会員・身内へのニュースなので耳障り目障りのよいことしか書かないわけで、ジャーナリトが発するニュースと全然別質なんだけどな〜 ニュ自身で発行しているのでPR性が高くってしまうのは会員制で維持されてる組織が持つ問題なんだよ。。ニュースより 身内通信のほうがPRなんだよということで誤解されないように思う。 読み手の読解力の問題だとは思うが その当たりは厳しく検証されたほうがいいように思うんだ。 ずっと携わっている建築班は俺一人なので 俺が書く厳しい文章は採用されはずもない。 なんとも仕方がないので 自分が責任をとれる 情報発信方法を他の機会を活かして考えねばならない時期に来ているとも思った |
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8月06日 てたが南方に雷が落ちおどろく 雨などもあり 寝冷えしたようで 朝からあたまぐらぐらの中 大学講義文字起こし を行い 午後仕上げて 電送する 4年間続いた 文字起こしようやく終了した 「対話」のジャーナリストとなりそうだ 表紙絵など 考えてみる これがいいと決めた 絵あり |
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8月5日 快晴昨日から夏が戻ってきて 昨日は凄い夕立もあり 温暖化の激しさを体験しているし セシュウムを流してくれる天の怒りのようでもあり 激しさに みいる 昨日今日と 朝日新聞の板橋記者の文字起こしをしているも 鮪立で撮った動画の外付けハードデスクに移動などしてたら とんでもなく時間がかかり、予定より進まず 明日中には大学講義最終文字起こしを仕上げて電送いしたものだが 暑さのなかで文字起こししてるんだがじっと座っているので尻にあせもが出来そうでなかなか厳しい暑さである |
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8月3日 ヤノマミという作品を作った公共放送の国分デーレクターの講義を 朝から晩まで文字起こしをし 午後からDVDをみながら仕上げ、夜データを電送する。4年間続いた講義の文字起こしは 明日で最後の講義となる 報道が社会を変えるの講義あけで延べ60人の話を聞いたことになる。 日本の各地のマスメディアや独立系で活躍する 第一線のジャーナリストによって間接的にでジャーナリズム教育受けたしまったことになった。ジャーナリストの基本的な態度を知ったことはとても 大きな出来事で日々役立っていると感じている。 具体的に一例をあげれば 311によって起きた被災地で写真や映像を撮るときの基本的な 態度に大きな影響を与えた、そのことによってあまりぶれずに被写体にレンズをむけることが出来た ジャーナリズム活動は誰にでも出来るのだが 各種困難がある 先人達がそのこんなんをどのように乗り越えてきたかをしるために ジャーナリズム教育は必要不可欠なのだと思う。しかし日々起きる人々の営為の現場は同じ事が起きない多様性に満ちているので 先人の立ちの事例に応用を加えないと突破して腰の据わった態度で 取材することは出来ないように考える ■昼すぎに 食事を買いにスーパーに自転車で行ったがチェーンが外れたので自転車サンに持って行ったが ギアがすり減って修理できないよと言われ 800円置いて ママちゃりんこ自転車を廃棄処分にしていただいた 大して手入れもセズ18年乗ったので寿命とあきらめた ■ 夜 衆議院の 7月27日の厚生労働委員会 参考人質疑を観る ゲンパツジコに関しての対応について 大変参考になる 3時間39分と長いが 原発語の放射性物質の影響など心配している人は必見でしょうね そして自分で判断して行動することが レベル七の原発事故が起きていまだに事故の収束の見通しが立ってない 今は大切なのだと 再確認する 児玉先生の意見陳述はツイッターで話題になったら変な憶測が流れているんだけど 全て観てから 発言した方がよいのだが やはり 不安な人々が不安を増殖させるかのような動きになってしまっていると 感じる それもこれもこの状況に適切な指示を与えられる信頼されたリーダーをつくらなかった 俺たち一人一人の問題でもあるし 同時に最悪な政治状況に起きた不幸も重なってしまって なんとも見通しの立たない状況がこれからも続きそうだ おれは覚悟は決めてしまったので 迷うことなく日々行動、活動していくだけだ。さぞかし小さな子供を抱えている人々は 不安なことだろう 政治しか解決できないのだが 頼るべき政治を持たない主権者の不幸と怠慢が明らかになるだけで なんともむなしいのではないかな 自分で行動し解決する道しかないのだ |
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8月02日 朝から晩まで 大学講義の文字起こしをする ■ 仙台市内での古民家のレスキュー依頼がある、今までの活動をまとめる時間がないし 大学講義も文字起こしは今週末で完了予定だがまだ出来てない すこし先に延ばして21日に調査することにしてもらう ■ 公共放送から my動画を使いたいとの連絡があり 承諾メールを出す 俺のデータは全て誰にでも共有可能をもっとうとして作っているので 違和感はない たのメディアの方々に使っていただけるほうが嬉しい 他媒体で使えるような質のあるデータにしたいのだが 最近は色々撮りすぎていて まったくまとめることが出来ない 動画編集をしてくれた動画編集バイトの方に再度依頼したいが 資金がないのでただ動画データを貯めてるだけで 活用ができないので 力不足を思う 毎日同じ空様 曇ってふったりやんだりの天候なか 文字起こし続けているんだけど 昨日が今日だったか今日が今日が昨日だったか分からなくなってい ・・だったなんて思うことがしょっしゅうで 呆けは進行中である これをセシューム呆けといい 案外便利 posted at 12:10:34 ヤノマミを制作した NHKの国分さんの講義 2時間30分文字化中 多義多重多様な内容が渾然一体と成って進行していく 変わり方が突然なんでとても文字に起こしにくいけど共感できる |
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8月01日 あいかわらず梅雨のような天気 真夏なのに気温上がらす肌寒いね my長女と長電話 ■ 大学講義番外編文字起こし 公共放送「ヤノマミ」制作者の国分散の講義 2時間半と長いのだがしこしこ 起こし始める 3日は掛かるだろな ■東京在住の女性デザイナーの方 (まったくであった事もない知らない人)仲間と共に集めた活動資金提供したいと 申出がある。 資金を送っていだく皆さんの前で被災地からの報告会をすることを条件にし受けることにした ■仕事場の隣の家のかたから食べ物をいただく ジジイの役割と書いたけど タイトにそれを遂行するつもりはない あれよあれと目的外に地域領域に入ってしまっているのが よいと想う311以降 分かりよくしてしまい 暮らしている領域をつまらなくなている人が多くなっていると感じるタダの田舎の呆けけジジイの感度落ちの勘違いであって欲しい posted at 16:24:26 見知らぬ女性からの活動資金支援申出は多様な事を想わせる。ここで記しておく。活動資金の活用は直接には被災地の人々と被災建築などの調査に使っているのだが それは建築家系の職能の拡張の為や 建築家系の職域拡張の道を拓くためにすこしでも役立つようにと行為だ。そこがジジイの役割と考える posted at 14:02:39 建築家系の古里は言葉、技術、一時的案集団のそれだったりして 土地とは無関係に生きられる者だ 浮遊し続け技術などが必要とされるトポスをを仮の住まいとし暮らすのであって一つ所にどどまって都合の良いことを発信し続ける者などではでない。まさにリアルな対話力が無いと死滅して仕舞う生き物 posted at 13:50:11 建築家は放射線除去作業をする職能家ではないと俺は考えているので放射線とは最初から闘う気など無い、逃げるが一番だと言って来た。建築家系は渡り職人や坊さん作業の末裔なので、定住する事は予め禁じられている職能人なので技術集団の保全にを計らうが土地、土壌や古里に執着心はない人々だと考える posted at 13:43:51 国会では福島県丸洗いなんてこと論じている 賽の河原を洗濯するかのようなことがテーマになっている これを待っていたら若者の身体in福島の安全確保する日は2〜30年後になる。福島市から離れて活動拠点を持った方が311以降の活動を多様な人々と共同し持続継続できるなと考え初めてしまう posted at 13:37:28 3月末に関西の人々から活動資金が送られてきてから ささやかに露払い的な活動をし、それらの領域の横綱へとバトンタッチさと考え活動開始したのだが、専門領域や地域それぞれの横綱いまだ現れずに活動量がふえている 最新情報もまともに発信できてない。放射線が多いので若い人を集める訳にもいかず posted at 13:31:28 東京都内に暮らしている 女性デザイナー(見知ってない女性)の方から311以降の俺の活動に対して義援金を送りたいとの申し出があった。要件が整ったので申出を受ける事にした。8月の鮪立湾傍での活動資金にも。建築家系やデザイナーの社会性獲得の為に多くを当てるが建築の修繕保全費はお手上げ posted at 13:12:06 |