鈴木達治郎先生「2000年代を語る」 作成:佐藤敏宏

2024・9・18 呼び出し音     (その2から読む)

佐藤:今夜は、2000年代かたり、よろしくお願いいたします。
鈴木:お久しぶりです。
佐藤パグウォッシュ会議参加でウィーンに行かれていたようで、お疲れのところよろしくお願いします。
鈴木:大雨で、隣の国のプラハで洪水になっちゃって。ウィーンは洪水まではいかなかったんですが、朝から晩まで大雨で、風が強くって、さらに気温は最高気温9℃でした。夜は霙っぽい雨が降っちゃって。天気予報を見てセーターとコートを持っていって大正解だったんです。
佐藤:寒いですね。世界中異常気象ですか、今日もよろしくお願いいたします。今回のパグウォッシュ会議の内容から進めますか。
鈴木:今回のパグウォッシュ会議では来年広島で世界大会を開くことが決定しました。

佐藤90年代語りは鈴木先生の論文が世に、マスメディアに登場して、論争を巻き起こしたり、高評価されてプルトニュウム研究が加速し、会議に呼ばれたり、いろんな事が起きました。鈴木先生が筋金入りの先生になったという印象的な10年でした。

1990年代語り もう一つの路もあった

鈴木:90年代にもう1個、私の人生の転機になったことがあります。96年に日本に帰ってきて97年に東京大学の客員助教授になったんです。そうなるという話があって、恩師の鈴木篤之先生に「よろしくお願いします」と返事をして、電力中央研究所にも挨拶をして、決まりかかったときに・・・経産省からIPCC、温暖化のIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change) 気候変動に関する政府間パネルと呼ばれる、デカイ組織なんです。
そのテクニカルサービスユニットといって実際にレポートを書く事務局のような仕事があるんです。日本政府が経産省のOBの方をIPCCの事務局長に推薦していて、そうなれば、TSUのコーディネーターに私を提案する、という話でした。


大学のポストは決まりかかっていたので、篤之先生に相談したら、それはいい話だから引き受けたらどうか、となって。分かりました、と。で次のIPCCの会合で決まるから、それまで待っていてください、と言われて。その時、インドネシアの会議場に私は行かなかったんだけど、決まったらすぐ連絡します、と言われたので待ってたんです。連絡がぜんぜん来ない。翌日になって、どうだったんですか、と聞いたら「あ、あれは駄目になりました」と。(大笑いしている)

佐藤:駄目になった原因は教えてくれないんですか。
鈴木:投票で負けちゃった。駄目になったら連絡してこいよ!と思った。
佐藤:人生変わりますからね、連絡するのは当然でしょう。

鈴木:本当になんの連絡もない。
佐藤:大変失礼な話ですね。
鈴木:失礼も甚だしい。東大も断りかけていたから、篤之先生に「断られちゃいました」、と伝えたら、そうしょうがないな・・もう一回来い、と言われた。
その時の役所の取り扱いをみて、役所の言うことは信用しないことにした。役所が悪いのか大臣が悪いのか分からないです。何の謝罪もなにもない。向こうにしてみたら確約した話ではないわけだから、状況が変わればダメになるのは当然で、あなたも分かっていたでしょう・・みたいな感じで言うんだよね。それは無いでしょう、こっちは人生賭けて返事しているんだから。もし、それが決まっていたら私の人生はガラッと変わってますよ。温暖化のプロになってますよ

佐藤:どちらが鈴木先生にとってよかったのか分からないですね。
鈴木:そう、分からない。


東大・ハーバード大との共同研究

佐藤:90年代はプルトニウム専門家となり、世界のプルトニウム専門家にも知られ活躍の場が広まり決まっていくので・・・。MITの先生もそうですけどハーバード大学との共同研究もおこなってます。2000年代語りはそのあたりから語っていただくのがいいのでしょうか。で、いただいた年表を見ると、2001年にはハーバード大学で、「使用済み燃料の中間貯蔵」とあります。

鈴木:東大と共同研究ですね。
佐藤:現在も解決されず続いている問題、というか多量にあるけど議論もおきない。
鈴木:おっしゃる通りです。解決してないよね。
佐藤:鈴木先生の警鐘がなぜ政府や関係者に聞こえないのか、聞かないのか。90年代から対応はなにも変わっていない。不思議な国だなと思います。もんじゅがだめで核燃サイクルと六ケ所村再処理問題も解決されずに30数年まえから現在に至っています。

鈴木:変わってないですよね。
佐藤:MITから青森県六ケ所村を訪ね、村長さんにもブリーフィングされ、MITに村長さんが訪ね交流もなされていた。何て言ったらいいでしょうか、原子力発電所の事故後の対応もそうです、誰が意思決定しているのか、責任とるひとはだれか、全体を管理統括するのが誰なのか、それが分からない。ずぶずぶの癒着関係になっているように見えてしまいます。デブリの取り出しの事故と延期もそうです。

鈴木:取り出しの件も酷い話だね。順番間違えたとか。

佐藤:再度挑戦したらライトが灯らないとかでニュースになっていました。
鈴木:放射線が強いからなかなか難しい。
   
デブリ取り出しのニュース

多量に溜まったプルトニュウム問題を誰が解決させるか
  株主構成をみる

佐藤:プルトニウム問題に関しては90年代から論文で発信し続けてこられました。他方ピースプレッジ運動パグウォッシュ会議に参加されています。それらが2000年代の活動に活きて、二つの影響でしょうか、鈴木先生の学生時分からの興味の分野であるテクノロジーアセスメント(TA)に戻っている。そういう雰囲気を感じます。先生の選択もありますけれど、プルトニウム問題の限界を知るというか、突破口は見えず解決への拓かれないところで鈴木先生は努力され、模索し続けているのが分ります。この問題は鈴木先生一人では解決できない問題ですよね。

鈴木:もちろん。
佐藤:政治家、誰がどうなったら解決するのか、分かり難いんです。政治家がプルトニウム問題を熟知し、選択しないかぎりは長年の問題に挑むのは無茶ですよね。

鈴木:こないだも、伝えたんですけど、「何で止められないのか」、という話です。とにかく凄いお金が掛かってますから、造る時にいったん走りだしたら、途中で止まらないようにしておかないと、関わった人たちは損しますよね。だから長期のローンを組んだりして、一抜けた!、という人が出ないようにしなければならない。

だから六ケ所村の株主の構成を見ると、九電力はもちろん全て株主に入っている。東電、関電が大株主で他の電力会社はみんな株主だし、さらに東芝や日立や三菱のような、メーカーもみんな株主なんです。それはどう考えてもおかしい。子会社に仕事を頼んでいるわけだから、だったらコスト削減しよう、なんてことにならないですよね。言い値、下請けが言ってきたらそのままOKです、と応じてお金を払う仕組みになっている。抜けたら、抜けたで自分たちが損をすることになってしまうので、自分たちから止めるという人はいない。

海外の事例でみると、巨大プロジェクトを止めようと思ったら、三つぐらいしかないです。一つは市場原理に任せる。二つ目は事故とかクライシスとなって止めちゃう。三番目が一番まともなんですけど、民主主義、だれかが別の人が皆で議論して止める。 
佐藤:三番目も最近妖しくなってきました。
鈴木:妖しいでしょう、民主主義で止めるためには、第三者機関、公平な人がデータを分析して「こういうことですよ」、と。そういうシステムができないとだめなんだけど、日本に第三者機関が無い。とめるのはこの三つですね。

福島で原発事故が起きたがとまらなかった。市場原理で電力自由化で効かなきゃいけないんだけど、原子力を全部外そうとしていいます。民主主義も機能していない。

佐藤:これはなかなか酷い状況ですね、負の遺産を維持し続けるということになって、変わらないで続いていくんですね。


電力の自由化

鈴木:2000年の話しに戻ると95年ぐらいから電力自由化が始まっていたんですよ。電力会社はコストを気にしてたんです。我々が未来研究会で論文を書いているころは、東電の企画部の人たちは、原子力の人たちに「コスト危ないぞ!」と心配していたんです。実際に東電の人たちと話をしていても、原子力の人たちは「やりたい」と言っているけれど、企画部の人たちはちょっと待てと。で、経産省の中でもそういう人たちがいて、2004年「19兆円の請求書」という有名な怪文書が出回ったんです。(怪文書内容を見る

佐藤:「19兆円の請求書」、研究を中断、と年譜にありますね。

鈴木:そうです、今思えばなんですけれど。その頃は桜井よしことか、右寄りの人たちも「こんなお金を使うのはもったいない」と言っていて、六ケ所村について反対してくれていたんです。週刊誌などいろいろエッセーを書いてくれたりしていた。我々としてはこのまま行けば、自由化の流れでコストを考えれば、当然とまるんじゃないか、と思ってたら、19兆円の請求書が駆けまわって、電力業界が経産省と交渉しちゃうんです。

佐藤:即交渉。電力業界もしっかりしている。2003年9月号から連載再開し「時代遅れの国策の下では原子力に未来はない」、と過激な題、一般受けしそうなタイトルですね。「19兆円の請求書」には山地、鈴木の名前が掲載されたため著者ではないかと当たりを付けられてしまう。

鈴木:「19兆円の請求書」には私たちは絡んでいません。「電力eye」第一回連載のタイトルが「時代遅れの国策の下では原子力に未来はない」でした。中止になった第二回目の連載で、「六ヶ所再処理プロジェクト決断への選択肢ー出口なき前進か、再生への撤退」、そんなタイトルだったと思うんです。それが電事連の怒りをかって、日刊工業新聞社に連絡が行って、連載やめる、ということになってしまった。

佐藤:言論封じですね。連載が止まってしまうんだ!

鈴木:やめるのも酷いんですよ。原稿が出来ていて校正も終わって、いよいよ来週発行です、というときに突然山地さんのところに電話がかかってきて、「実はあの原稿は出版しないことになりました」、といわれ、「理由はどうですか」と尋ねたら「理由は言えませんガシャ、で終わってしまった。で、山地先生が怒っちゃって、「そんなことは許せない」と「じゃー我々で勝手にWEBで発表しよう」と。WEBサイトに載せた。

佐藤:鈴木先生のネット活用は2000年以前から使ってたんですか。

鈴木:ウエブサイトは既にありましたが、山地先生が東京大学のウエブサイトを利用して掲載したのです。今でも見れます。
https://www.iwafunelab.iis.u-tokyo.ac.jp/yamaji/atom/top_j.html

六ケ所再処理工場

佐藤:研究所のHPで発信しようと思えばできる環境は整っていたと。核燃サイクルの未来をシナリオプランニングで描くも報告は非公開、と年譜にあります。握り潰された、というんですかね、
鈴木:そうです、その連載とりやめになった、圧力でとめられた、というのを聞いて、電中研の佐藤理事長と日本エネルギー経済研究所の内藤さん、経産省のOBの二人が仲良くって、二人とも原子力反対派ではないんです。電力業界が言論の自由を奪うのはよくない、と言って研究会を電中研と共同で立ち上げてくださった。私は正式にエネ研の研究理事にもなっていた。エネ研と電中研で共同プロジェットで原子力の将来についての研究会を始めた。 

佐藤:2003〜4年あたりは、IPCCにいくか東大にいくか、電中研で鈴木先生の独自の論を展開しつづけるのか、選択肢が一杯あったようですね、揺らいじゃうんですかね。

鈴木:IPCCに行くかいかないかは96年で、東大に行く前です。

佐藤:東大、2004年から2010年までとあります。6年間講座をもたれていた。
鈴木:授業をやってました。
佐藤:加えて2005年の広島パグウォッシュ会議に参加する。現在と変わらない活動は始まった。

鈴木:さっきの話を続けると、電中研とエネ研で共同研究をやって、そこで核燃サイクルの話が出て来る。ちょうどその頃に政府の方で原子力政策大綱、昔の長期計画の議論がおこなわれていたんです。その委員長が近藤駿介さんです。近藤委員長に我々の研究報告書をもっていって、三つのシナリオを作って選択肢を評価するという報告書を見せて、原子力委員会でもこういう議論をしてください、とお願いした。電中研とエネ研の共同研究の成果ですね。公式に出したわけではなく個人的に。

佐藤:分かっているが突破口が見つからない、そういう時期が続きますね。






















 2004年の怪文書の内容を見る
 鈴木:その頃には実は電力会社は血判書を書いていて、六ケ所再処理工場はキャンセルしないと。その時のやりとりは我々は知らないんです。制度的に見ると何がおきたのか、それを言うと経産省は自由化をすすめたい、六ケ所はとめたくない。電力はそうすると六ケ所をやめない代わりに自由化でもちゃんとお金は回収できるようにしてほしい、という要求をしたに違いない。それまでは引当金制度だったんだけど、基金のようなものを作って、そこに六ケ所再処理工場の経費はそこに積み立てる。積み立てた分は電気料金に載せていいですよ、という制度にしてしまった。そうすると電力会社は資金は確保できたということで、六ケ所再処理工場のキャンセルは・・・。

それからNHKが九州大学の吉岡斉先生、亡くなられたんですけど、ドキュメンタリー番組を作った。その中で、2005年の議論は結論ありきで行われて、吉岡先生のようなまともな議論をする意見が通らなかった、そういうドキュメンタリー番組を制作した。そこに、私も出てくるんです。私も秘密の勉強会に出ていたでしょう、などと言われ、でてくるんです。要は六ケ所再処理工場についてはそこが最大のポイントだったんです。そこでとめれば良かったんだけど、やめられなかった。どうして、とめられなかったのかは未だに真相は闇なんだけど、全部類推なんですけれど、電力と政府の間で話がついてしまった。
   
吉岡斉さん講演動画

国家巨大プロジェクトのやめかた 三つの路

佐藤:米国ではゴミとして処分する、フランス、ソビエトはモックス燃料にする。高額すぎてモックス燃料は使えない、そのことは分かっていた。

鈴木:その頃は分っていましたね。 
佐藤:分かっていても突き進む、国ですね。六ケ所村再処理工場は一度動かしてしまったので核汚染した。で稼働をとめても解体はむずかしそう。けど、なんとかしなければいけない。突破口が無い、解決の糸口が見つからないように感じるのはマスメディアの劣化ということですかね。

鈴木:マスメディアではない。こういうケースは他にもあるんです。巨大なプロジェクトはなかなかやめられないんですよ。実はイギリスも六ケ所再処理工場と同じような、デカイ再処理工場を90年代に完成しているんです。その時も動かすかどうかで議論しているんです。イギリスと日本の違いは、イギリスは国会で議論をしている。だから記録が全部残っている。日本で表でやっている議論は答えありき、そういう議論なので、まともな議論になっていないです。イギリス議会の議論は表できちっと議論している。結局イギリスもドイツとか日本から契約をもらっているわけです。
再処理をやめちゃうとキャンセル料を支払わなければいけない。だから再処理事業者は絶対やめたくないわけです。実は当時イギリスにとって貿易収支黒字の大半が日本との再処理事業だったので、国としてもなかなかやめたくない。それで我々はキャンペーンを張った。日本側もやりたくないのであれば、やめたほうがいいんじゃないの、と言いにいったんだけど。日本がキャンセルしたら日本はキャンセル料を払わなきゃいけない。だから推進派の人たち、イギリスと日本の人たちはおたがい、「絶対これは必要だよね」という論陣を張ったわけです。それでやめられず結局動き始めちゃった。

イギリスはちゃんとその議論が残っている。経済性が無い、ということも分かっていたので、ドイツと日本の契約が終わったらおしまい。イギリスは電力の自由化をしたので、国有電力会社が民間電力会社になったときに、再処理は経済性がないから我々はやりません、と言って、やらなかった。

佐藤:ため息がでますね、お互いペナルティー料なしで、痛み分けでとめる道はなかったと。

鈴木:やめている国はそれなりのプロセスを経てやめている。やめてない国は先に言ったような三つの条件が揃ってないので、やめられない。


核燃サイクルの研究からエネルギー政策決定過程の研究へ移る

佐藤:鈴木先生は電力業界に愛を注いで、進言し続けてきた。
鈴木:はははははは。
佐藤:鈴木先生の意見を受け入れないんだから、しょうがないですね。まともな報告書をだし、進言しつづけているのに聞き入れ検討もしてくれないのでは、ご縁が無いので、自滅するしかないだろう、しょうがないとしか思えない。どこかで修正する仕組みがあればいいけれど、今の制度と仕組みでは止められないですね。

鈴木:無いしとめられないですね、彼らは損してないですからね。変えた方が損する。
佐藤:でも、後々こまりますよね。
鈴木:電力は困らないですよ。財政的には困らない、電気料金に加算するから。問題なのはプルトニウムが溜まり続ける。それと六ケ所再処理工場の廃止措置をやろうと思ったら大変な作業です。使用済み燃料が一杯でてくる、そのなかには再処理に適さない使用済み燃料も当然ある。だけど今は法律上は捨てられないので、そこは困りますよきっと。

佐藤:原発から出た核廃棄物は、発電所構内から持ちだせないのでしょうか、法律があるとか。
鈴木:無いですよ、今は持ちだせます。地元との約束があるだけです。地元との約束は早く発電所から持っていってくれ。
佐藤:とは言っても、再処理できない使用済み燃料は乾式でどこかに置くしかない。
鈴木:本来は再処理工場へもって行きます、という約束をしていたので、地元には置いておかないですよ、と言っていた。地元には置きたくない、だけど再処理工場は動いていないので溜まり続けている。

佐藤:乾式貯蔵が認められ発電所構内に溜め置く。880トン・デブリも同様に溜めておくしかないのでしょうか。
鈴木:取り出せればいいんだけど、デブリ、取り出せないです。
佐藤:取り出せたらという仮定の話でニュース流してます。鈴木先生はそこで違う道を歩み始めながら・・。
鈴木:それで電力会社から19兆円の請求書、お前書いているのだろう、と疑いが掛かったときに、電力会社から電中研の理事長に連絡が入って「鈴木を首にしないとお金ださないぞ・・」みたいな脅しが掛かったんです、それでは困るので「鈴木、おまえどうするんだ?・・」と言われて。「では核燃サイクルの話は当分やめます」と言って。それで東大にいったとき、地球環境問題だとか公募研究に申し込んでエネルギー政策決定過程の研究に移った。

佐藤:同名で本が刊行されていますね。鈴木先生はテクノロジーアセスメント(TA)の研究へ戻った、路を変えたように見えます。禍転じて初心に戻ったので好かったのではないですか。
鈴木:そうですね。おっしゃる通りです。そっちの方も非常に関心が強かったので、私自身はそれでハッピーだった。
佐藤:原子力に関わる前、TAから入ったので鈴木先生は好かった。が、日本国策の先を想うとどうなるのだろう?という疑問は放置されてしまいます。誰も解決できない問題は残っている。
鈴木:再処理工場が動き始めちゃったら、とめられないです。山地さんも結局ホットテストといって、実際に使用済み燃料を使ってテストを始めるんですけれど、そうすると再処理工場は全体が汚れてしまいます、もう戻れない。山地先生もそれはしょうがないよね、と諦めちゃった。私はいまだにとめようと思ってます

佐藤:そこが鈴木先生の魅力です、期待大です。諦めず両方に関わり発言しているところが興味深いです。一方で、パグウォッシュ会議の評議員にも就かれている。内部分裂起こしそうな感じだけれども微妙にバランスをとり、いき詰まらない。鈴木先生が発言しつづけないと、誰も知らないでまま再処理工場は動いていますので、そちらの方が恐ろしいです。

鈴木:みなさん知らないですよね。
佐藤:鈴木先生の人間性が前面にでているところです、ピースプレッジ運動もそうです。推進派からはある種マンガ、と言われるかもしれないけど、言い出して宣言し押印すれば変わりますからね、黙ってやり過ごすと変わらないです。

鈴木:変わりますよ。私自身も意識が変わりましたから。
佐藤:思っているだけでは意識も変わらない。運動にしてしまう点は興味深いです。パグウォッシュ会議の席で発表し好評をはくすることで可視化され、他者と共にする運動へも導く入口にもなった。再処理研究に無茶な圧力掛かり過ぎて、議論がとまってしまい、TAの研究にシフトしたのは、またとめようとも思っているし、鈴木先生にとってよかったのではないか、そう想ったりします。

鈴木:ははははは。


サイエンス・アドバイザーの設置を

佐藤:愛情を注いでも、1990年代から警鐘を鳴らし続けているのに、聞かない、聞けない。科学者の意見を有功に活かせない点は問題で、政治家が科学者の話を聞いて議論し政治的決断をし、社会を変えていく、そういう姿勢が見受けられないのは残念です。

鈴木:福島の事故の直後に科学アドバイザーを日本もちゃんと作るべきだ、という議論があったんです。で、我々が参考にしたのはイギリスの科学アドバイザーなんです。
イギリスは狂牛病がありました。BSE、あの時に科学者が間違ったことを発言してしまって、それが悪い方向に行ってしまった。人間にも感染する、という話になって大変なことになっちゃった。その教訓を踏まえて、科学行政に対する信頼を回復しなければいけない、ということでイギリスはガラッと変えたんです。それで、危機管理、Scientific Advisory Group for Emergencies (SAGE)みたいなものを作ったんです。事故が起きたときはそこが中心になって科学アドバイスをする。そういう制度をイギリスはいれた、それを参考に日本も導入したらどうだ、という議論が起きた。日本には総合科学技術会議というのがある。昔は科学技術庁にあったのを、内閣府に移し首相のしたに置いた。そこで科学技術の研究開発戦略をつくることになった。それがあるから科学アドバイザーは要らないとなっちゃった。
我々は違う、違うと、科学技術の研究開発戦略会議というのは行政組織だから、行政組織からちょっと離れた立場で、ちゃんと科学者の意見を伝える組織が必要だ、と。それが出来なかった。

結局、日本学術会議もあるから、と当時も言われたんですよ。

佐藤:学術会議は安倍〜菅政権では、潰そうとしてました。
鈴木:そのときに、じゃ日本学術会議の意見を尊重しろよ、と思うけど、今は潰そうとしてますよね。酷い話なんです。
佐藤:今、総裁選挙まっただなかですが誰が自民党総裁かで、学術会議の位置づけもそうとう影響を受けてしまいそうです。
鈴木:受けますね。いまは話が進んでしまっていますから。



原子力委員会に入る 悔い残る転換点


 絵:webより

佐藤:鈴木先生はパグウォッシュ会議の評議員活動をし、フクシマ問題にも関わりつづけ事故現地に立っています。加えて長崎大学では若い人達にも伝える活動もされています。もちろんマスメディアにも登場し、専門家の話し合いにも参加されています。バランスよく活動されている、と私は思います。どこか上手くいくと全部が好転し動き出すような想いもあります。みなさん日本を悪くしようとは思っていませんよね。

鈴木:原子力に話を絞るとすれば、福島原発事故は大きな転換点で、転換するチャンスだったんです。民主党政権だったから私も原子力委員会に入ったと思う。そうでなければ声は掛からなかったと想う。一応、民主党もがちがちの原子力推進だった、だけど意思決定過程の民主化というのは、前面に掲げていたんです。
オバマ大統領がオープン・ガバメント・イニシアティブというのを始めて、政府に誰でもEメールを投げ込んでもいいよ、と。WEBサイトを使い易くして、誰でもサイトにアクセスできるようにしたり、市民の意見を採りいれるような仕組みを作ったりして、アメリカの民主党は一所懸命やっていた。
それを日本の民主党も採りいれて、原子力だけではなくって、政策決定の民主化を一応すすめていた。そこはすごい好かったと思う。福島原発事故が起きた後の2年間、2011年12年のあたりです。原子力政策ゼロから見直しと言ってかなり民主的なプロセスになった。それまで経産省に集中していたエネルギー政策を引きはがして、首相のもとにエネルギー・環境会議をつくって、そこが最終決定しますと。審議会のメンバーも原子力推進派と反対派とバランスをとってやる。タウンミーティングを開いたり、討論会型世論調査をやったり、今思えば信じられないぐらい一所懸命やった。

だけど官僚が慣れてないですから、完璧じゃない。いろいろ欠点はあるんだけど、少なくても今よりは民主的な意見をとり入れることを頑張ってやった。本当は政府は原発15%ぐらいで維持しようと思っていたんだけど、国民の意見を聞いていると、皆ゼロを望むことが分った。それでエネルギー環境会議の決定は日本は2030年代に原発をゼロにするという政策にした。
その時に核燃サイクルの話はどうなったか、それを言うと、六ケ所再処理工場はなかなかとめられないかもしれないので、六ケ所は動かしてもいいけど、使用済み燃料の直接処分は可能にしましょう、いわゆる併存と言って再処理と直接処分はどっちでもいいですよ、そういう政策に転換しよう、という話まではすすんでいた。

ところが原発ゼロにすると言ったとたんに原子力委員会の提言は、原発ゼロなら再処理はやめるという提言だったので、電力会社と青森県が大反対をして。結局、全量再処理は残ってしまった。そこでの大失敗が私としては、いまだに非常に悔いが残る。あのときもうちょっと頑張っていれば、全量再処理はなくなっていた。
当時の国家戦略担当大臣は私のよく知っている大臣だったんです。彼と直接話をして、これで行きましょうと。

佐藤:民主党政権になり、記者クラブの壁も取りはらって、健全になってフリーランスの記者も質問できて、好かったですよ。
鈴木:好かった。そうそう、すごいよかったですよ。本当に情報公開もすごいやったし、ぜんぶWEBに載っているんですよね。今は全然読めないです。

佐藤:政権交代がおきないと、健全な政治環境にならないようです。
鈴木:おっしゃる通り政権交代があると、海外でも政権交代は大きいですよ。政権交代したら前の政策は見直しますので。







 絵:2点 webより

■イギリス、野党に交付金

佐藤
:日本で、今年中に総選挙があるといわれていますが、どうなるのか分かりません。
鈴木:今のままでは勝てない。・・・現在の政治状況語り・・こないだ話したかな、イギリスは凄いんだよ。英国では、与野党問わず支給される政策開発補助金と野党に対してのみに支給される「ショートマネー」と呼ばれる助成金がある。ショートマネーは、政府の官僚機構を十分に活用できない野党の議会活動を支援する目的でつくられた。

佐藤:イギリスやりますね、知らなかったです。
鈴木:知らなかったでしょう、政党交付金、与党はほっといてもお金が集まる。パーティー券じゃないけど、企業の人たちは与党に払う。野党に政党交付金を与えるのはなぜかというと、政権交代を促進するための制度なんです。さすがイギリスだなと。

佐藤:議席数によって金額が増える、日本は政権交代できないようにします。イギリスと逆ですね。
鈴木:しないようにしている。
佐藤:マスメディアも与党のニュースを多くしますし、記者は首相の誕生日祝ったりしちゃう、与党が大好きです。与党の一部は野党潰しにSNS要員を配置して潰しにいそしんでます。健全な議論の芽をつむ恐ろしさです。

鈴木:困ったもんです。野党をもうちょっと強くするような仕組みにしておかないと、与党が勝つ仕組みになっちゃってますから、なかなか政策転換はできないですね。





一人250円、政党交付金の推移2点 webより

  ■パグウォッシュ会議について

佐藤:核燃サイクルとプルトニウム問題の話は置いて、パグウォッシュ会議の広島世界大会開催にうつりたいと思います。このときは評議員でしたか。

鈴木:2005年ではなく、広島世界大会が終わって2007年から評議員です。
佐藤:広島世界大会は小沼さんが主に運営されていたんですか。

鈴木:これは、小沼さんの次で大西先生、東北大学の副学長。実は彼とは因縁があって、学生時代に私がヨーロッパへ行った団体の話、ワールド・フレンドアップ・アソシェーション。その学生団体の先輩なんです。私が学生のときに事務局長やっていて、その時に公開質問状を突き付けられた人なんです。お前はなんでこの伝統あるものを潰すのか、説明しろ、と。彼は安保闘争のときの闘士なんです。公開質問状が出たので、ちゃんと応えたんです。時代は変わった、お金が集まらない、しかも海外に行く機会はほかにも一杯ある、昔とは違うんだ、という話をして、誰かがお金をちゃんと集める仕組みを作ってくれるならいいけど、今の仕組みでは続けられません、といってやめた。で、その時に公開の場で大討論。嫌われてはいないけど、理屈っぽい人なんです。で、パグウォッシュ会議の先輩なんです。実は2005年の時の組織委員長は彼だった。

佐藤
:人を動かせないですね。

鈴木:動かなくって大変だったんです。で、前の組織委員長の小沼先生と私は、けっこう頑張って、明治学院大学の高原孝先生と頑張ってやった。そのこともあって、2007年に大西先生が評議員だったのを、私に引き継いでくださった。

佐藤:政府からも資金支援はあるんですか。
鈴木:政府からは出てないです。我々は政府から資金提供受けないような方向でいきましょう、という方針だったんです。もらってしまうといろいろ口出しされてしまうのは嫌だから。だけど、外務大臣には来てもらって話してもらったり、首相から挨拶してもらったりとかはしていました。

佐藤:広島大会の時は地元・岸田さん参加でしたか。
鈴木:広島市長と、広島県知事は、市と県は大スポンサーなので市長と県知事には話してもらいました。外務大臣にも。

佐藤:パグウォッシュ会議は隔年開催ですか。
鈴木:実は毎年開催してたんです。来年2025年開催で63回なんです。1957年に出来てるので毎年開催していれば67回になる。が、2001年の9・11テロのせいで一度キャンセル。


 2000年代を語る その2へつづく