HOME 佐藤敏宏 2011年 07月の日記 |
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7月31日 早朝3時半ごろ大揺れ福島沖 震度4とラジオは告げるも震度5ぐらいの気分 真夜中叩き起こされると 疲れが残る 曇ったり小雨が降ったり と肌寒い |
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7月30日 曇り時々雨 選挙カー激しく行き交う 大学講義文字起こし をし続ける 宮城資料ネットより 唐桑町で活動の様子がニュースとして配信されていくる |
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7月29日 数ずつ前から大学講義文字起こし連続三コマ作業中 発音が籠もっているので やや頭がボンヤリしてくる 聞き取りにくいので スピードが落ちてしまう 8月月7日まで 文字起こし作業が続く |
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7月28日 昼上がり 夕方 強い土砂降りのセシューム雷雨 大学講義文字起こし をし続ける 東名高速で酩酊した大型トラックに追突されて幼い2たりのお子さんを亡くされ 酒酔い運転の厳罰化に尽力された井上夫妻の話 夜仕上げて電送する 夕方講義が 1コマ追加になり30日の土曜日に行われることになった 今年度の文字起こしも残り3コマとなる ■手の植物によるかぶれは順調に快復していて 手の甲の腫れも引き静脈が見えるようになって 顔だした新しい白い皮膚の面積が少し多くなってきた 来週には完治するかもしれない 植物にこんなにかぶれた記憶がないの 311以降の我が身に起こった事件として記しておこう |
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7月27日 晴れ のちセシューム雷雨あり よる も27度 ■手の甲の痒みは沈静化に向かいつつあるも見た目は酷い 赤ただれ斑点が出て 我ながら気持ちが悪い ■食材の買い出し 産地名がしっかり書かれてないのでセシューム入り商品が多そうだがそれしかないので買うい喰らうことになる ■飲酒運転により被害者の講演 2001年の法改正までのなはしなどいろいろ 呑む人は乗らない もあるが アルコールに依存じないで生きられることがよいが ■8月25〜28日までの鮪立計画後半で夜の部に行う 港まちづくり百年会のチラシを東大の石田さんにつくってもらう 300部ほど刷り 各戸に配る 日中は建築と景観の測量と庭の形状を測る仕事があるので 前半で残った測量を仕上げるにはちょうどよいバランスかもしれない 、まあ出来あがらなかったら また作業部隊とつのって続けることにしよう |
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7月26日 皮膚科からいただい薬に睡眠剤もはいっていたようでぐっすり寝た 午前中はシビ立ちでの雑整理をしたりして あっという間に過ぎてしまった 昼過ぎ 鮪立の区長さんに電話し お礼を申し上げたり チラシやポスターの配布のお願いをする |
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7月25日 晴れたり 曇ったり 雨だったり 梅雨のような天候 仙台my長男ハウスで目覚め 雑談し 仙台駅で大阪から手伝いにきていた大橋力さんと別れる。昼頃福島駅につき資料整理をする 体中痒くってしかたないのでいつもの 皮膚科に行き診てもらう 「ダニ・虫では説明できない 植物のかぶれじゃないか 飲み薬を出すよ」と混雑している医院を出てら夕方 皮膚科はなぜか行くたびに満員なので時間が掛かる インターネット予約可能なので次回からは予約してから行くことにしよう。 夕飯食べて皮膚科から頂いたら睡眠剤が一気に効いてしまい 寝床に倒れたら朝になっていた やれやれ 鮪立湾での4日間の活動の整理も出来ないじゃないか 痒いのは気が散って 考えをまとめることが出来ない 会計もしてたんだけど 単純な足し算も出来ず 痒みには悩まされた4日間であった 腫れあがった右手の絵を貼っておこう あんんがい堅い腫れ物なので指の動きがギブスにでも填められたようでぱんぱんな状態。 臍の廻りも真っ赤っかにかぶれている 漆の木を抱えて 腹の当たりにに何度も摺り付いたようだ 臍廻り痒いのも辛いのであります |
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7月24日 鮪立計画最終日 理科大生二人帰る 太田先生が気仙沼までおくりながら 被災地の現況を視察案内 疲れが溜まっているようすなので 朝食を9時にズラしいただく 太田先生と大橋さんが戻る一緒に飯などワイワイ 昼飯は2時もにずらす 午前中はデーター化の仕上げと同時にアウトプット作業 食事作りなど多様にお世話になった唐桑ガガさまと娘さんと 鈴木さんにカンパを募り 28000円あつまったので適度に分け差し上げる。 昼過ぎに鈴木さんの家族がやって来て お礼を言われる また被災当日から鮪立湾を定点観測し記録を残しているアマチュアカメラマンの鈴木さんの訪問を受ける 写真の追加を発注する 三陸新聞を見たのだろう 河北新聞の取材を受ける 留学生の言葉を主に取材していただく データ整理の作業が押してしまい 足下の湾でおこなっていた蛎の養殖準備作業を参加者の皆さんと共に体験できずとても 地域の生活を一つ体験できないのはとても残念であった 3時30分ごろ、食事の面倒をみていただいた唐桑ガガ さまと唐桑ついこ様とみんなで集合写真を撮る 4時古舘さんの家に全員あつまり反省会とできたての図面、野帳のコピー、そして次回行うためのA4のチラシをみながらみなで語り合う 8月の活動の為にチラシ印刷は300部として 区全戸に配布することになる 一ノ関は7時半ごろ東北大のNPO事務局に借りた道具を返して my長男の家に戻り11:00 大橋力さんとダベリ1時に寝る |
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7月23日 7時朝食 みな眠そう 三陸新報社の社会面トップに活動の記事が載っていた 午前中のそれぞれの古舘地区での活動を行う 午後2時45分憩いの家をでて武藤清秀さんを気仙沼まで送り届ける 3:30分気仙沼駅で 理科大生の金田さんと石橋さんと合流し 憩いの家につき さっそく元馬小屋現物置の立面スケッチをしていただく 各自はそれぞれの古舘地域での測量をする 鮪立地区 鰹1本釣り大漁唄込み保存会の皆さんの 若々しく誇りに満ちた演技を観る タマのボーカリストが出演するので夜希望者は出掛けていった 他の者は測量したデータを入力作業を続ける 朝方の3時半までおこなったとのこと |
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7月22日 7時朝食 八時から古舘地区の建築などの測量を行う やや小雨混じるが測量作業日より 10時ぐらいから1時間ほど三陸新報社の取材を受ける 13:40分 震度5の地震がやってくる 津波は幸にして起きず 夕食後 食事 6:30地域の主立った人人を囲み 持ち込んだ模型や航空写真や世界各地の港湾都市の話を平岡さんにしていただく 8月活動時には夜 6:30から毎日話を聞く会を開くことになる |
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7月21日 晴れ後曇り 昨日は大荒れの福島で鮪立計画の準備をしたり しあっという間に1日が過ぎてしまう 7時ぐらいに高速バスにのり 資料ネットの平川先生などの打合せし my長女の家に真夜中泊まる ろくのねもせじ 起きて飯を作りくらい 仙台駅で 金沢から測量に来てくれもらっている 武藤さんを拾い一路 鮪立湾を目指す 準備は万端整い得て進行するも 盛りだくさんの内容にて 時間が足りず 測量と状況説明にて終わる 鮪立湾のお母さん達の底力に敬意を表し寝ますり |
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7月19日 台風の影響にて が出て雨も降り出しそう 台風の影響で午後すこ雨が降るも 夕方あがる 13日の蔵応急処置で草などを刈ったが かぶれて痒いがなかなか消えないし 広がっていくような気配があるので皮膚科で薬をもらう 何時もの皮膚科は超満員で待つこと2時間 ぐったりしてしまう 待合い室は狭いし、病院の規模に合った待合い室なのだが放射線の影響でもあるまいに 客が混みすぎていた 市会議員の選挙が近いのか 公報カーが放射線のことをあれこれ語っているが不安を煽るわけではないだろうが なんら解決の当てのない話の結末になるので 重苦しく不安が増殖してしまうのではないだろうか と時々聞きながら思うのであった |
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7月18日 晴れのち昼スコールあり 蒸し暑すぎる 傍にある俺が卒業した工業高校校庭の除染作業を動画に撮る 隣の小学校はまだ手つかず 表土を削る。削った量の穴を校庭に掘る。汚染された表土を埋めるそんな除染 校庭だけじゃなく側溝も道路も家々の庭も建物も除染して欲しくなるほどの迫力がでてしまう工事 酷い光景だ なんともいいえない多様に波及してしまう嫌な工事風景だぜ
放射能物質がまき散らされた被災地だが 被災後4ヶ月過ぎ 地震や津波災害を多く観たが別のセカイに暮らしているんだな〜と思う。何にも無いけど内部からジワジワと崩壊していく気配だけ。時間が経っても何んの手だてをこうじても解決出来ないことは分かった。水銀球を捕まえられないようなあの不快さ 散乱してもまだ ぎらぎら光る気持ち悪さ
豊中市の井口勝文さんが公募論文で賞を受賞したようだ おめでとうございました |
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7月16日 今日も33℃ぐらいか 紛らわしい記事が新聞にあったので福島市役所に電話し確かめる 福島市内でも放射線量が高い 大波や渡利の地域の人々を移住させるために 比較的放射線量の低い盆地西側に共同住宅を作って 希望者を住まわせるといった内容 まあこれから陳情し国の支援をえてということだし 調整区域なので簡単に開発はできないので 何年も先になってしまうだろう やはり金持ち喧嘩せず逃げるが真実実態だと受けとめた 俺は3月に表明したように強制移住になってもこの地を離れるつもりはない がいつものように各地を転々として建築系の人々に会い話を聞き記録する作業も続ける ■ 大学授業のDVDが届いたので NHKの藤木達弘さんの講義内容の文字起こしを整えて 電送する ■いよいよ 来週は唐桑半島での古建築測量などの合宿活動が始まる あまり暑くない日が続くとよいのだが どうもカンカン照りになりそうだ 熱中症対策万全にせねばならない |
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7月15日 今夜も30度を切らないのか カンカンに暑い日中だった コツコツ文字起こしをする 京都の満田さんからメールにて追加の支援金を振り込んだとのこと。トマトやスイカを買って 熱中症対策の水分補給用に当てるので大助かりである 21日からの活動をするためには飯を食わなければならない。で食事係りのお母さん2人を雇ったので その日当は別の人が活動資金を送って来てくれたのでいたので支払える。 色々な人が資金を送ってくれるので なんとか活動を続けることが出来る 有り難いことだ 交通費を負担して 活動する 現地に来ていただける全国各地の人々には何とお礼を申し上げたらよいのやら分からない きちんとした記録を作りあげて報告する義務を負ったようにも感じたりしている まあ老後の活動なので 時間は掛かるとおもうがなんとか 最後までやりとげる覚悟である |
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7月14日 昼頃にわか雨あり 蒸し暑い1日 pm8:30 気温30℃ 午前中は昨日まで得た画像や動画のデータを整理する 午後 大学講義文字起こしを30分ぶんぐらいの少し起こす 蒸し暑い夜 仕事場の隣に福島原子力発電所事故による避難民のお婆さんが来ていて大きな声で話している内容が聞こえてきている 寝る準備をはじめたおうだ |
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7月13日 仙台晴れ 夕立来る 午前中文字起こしの仕上げをして 自転車のパンクを修理し仙台に向かう 仙台市内の大きな家屋敷と蔵、文書などを博物館の方2名と先遣隊活動する応急処置と文書調査して仕事場に戻ったのはPM8時頃。400年ほど前なのかもしれない 伊達政宗の手紙があったと博物館の方が語る。
蔵は32年前の宮城沖地震の被災時に応急処置せず放置だったが 331に遭っても(全壊判定と?)だそうだが「骨組み無傷」構造体バンバンなのだが 柱の間には板が全面に差し込んであるんだけど 倒れそうもないよ 落ちた土が一部大地化してしまっている早急に袋詰めしておきたいな〜 屋敷の蔵の周囲の夏草でぼうぼうになっていた、夏草を刈り込む 蔵を被っている雑木を7m程を2本切り倒す 剥落し土壁と小舞竹を仕分けし保存する。 蔵+味噌蔵」の立面図などスケッチし寸法を入れる。 足長蜂とヤブ蚊に攻撃され痒いたらないが時が経つほどに冷えた忘れた。 2.2m程の下屋から落ちたが見事借地に成功した 高校生の時分 器械体操でとったなんとやらだろう
別れ際に御当主さん「残すよ」と語っていた。これらの活動を総称する言葉を発明したい それは(まだダサイ名なんですが 改良します) 家師=建築士+建築家+造園家+家史家 という概念を作り その領域に人生の終盤は挑戦したり多くの人々とを誘い込みたいと思ったからです 家師じゃなくお坊さんのように お家さんでもいいな〜単純で多様な行為をしてしまう お家さん 数時間の内に魔法にでも掛た?人々の心が変化して仕舞う。少しの技術と実行動が市民の方々をある種の「建築スフィアに」誘い込んでしまう。奮い立たせる。311以降そこのことを実感し続ける。責任は重くなったが俺が始めたことなので遣り切る。苛酷で収入を保障できないので 仲間無しは続きそう だよ |
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7月12日 カンカン暑い 文字起こしをするもあまりかいちょうにすすまず 夕方夕立に遭いながら食材の買い出しをする シビ立ち計画 学生さんの動きを聞き 参加人数など基本データを送るように指示をする 今年の夏も 暑いようなので 熱射病にさせないように しなければとならない |
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7月11日 強い雷と夕立がくる 梅雨明けたとか 仙台から 昼過ぎに仕事場に戻り 整理をする。家の側溝に落ち葉が詰まって溢れていたので掃除をする 夏草が勢いよく側溝をふさぐこの時期は掃除が欠かせない 暑すぎて どうにもならない ぐらい暑い 何て夏の訪れが早いのだろう かと驚くほど 例年より2週間ぐらい早く夏がきた気分 文字起こしの作業は明日からにしよう |
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7月10日 それぞれ分宿だったので道に迷い 9時頃現地に入り作業を開始する 10時15分ごろ震度4の地震が来て 作業を中断する。一次避難 津波予想は50pだったが 1mぐらい陥没している土地が多いので 侮れないのだ 幸大きな津波もなく40分後ぐらいに作業を再開するも 地域のラッパ放送は津波の情報を流し続けていた 歴史班は午前中で帰る 建築と庭の測量班は午後5時ぐらいまで色々作業をし終わる 終了後 唐桑半島に行き 21〜の合宿測量の為の最終確認と予定と地元の人々の協力要請をすし合意に居たる。一ノ関で京都の武廣さんと飯を食い 分かれる 9時過ぎ 仙台に11時過ぎに戻る 大学で雑事を済ませたら 1時ぐらいになる ぐったりねる |
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7月9日 8時50分仙台駅で京都の武廣さんと合流 歴史系の人々も10人ぐらいあつまり 大船渡の古建築測量などに向かう 金沢から来ている 中村綾彩さん橋本浩司さん 野田直希さん武藤清秀さんは 予定より2時間も早くついたので 普門寺で集合することにした 無事集合し 目的の砂子浜の御屋敷へ いきそれぞれ手分けして 仕事をはじめる夕方集合写真をとり 風呂 飯を地元の方々と交流しつつ それぞれの宿に分宿 写真背景は屋敷内にある持仏堂 (平面と断面をの寸法を記録する) |
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7月08日 だが 夕方日が射すも 1日中蒸し暑い 早朝 真夜中の3:30分震度4の揺れが来て飛び起きる やれやれ ぐっすり寝た気がしなく 1日中おかしい 午前中 文字起こしをするもいつものようにスピードが上がらず 予定の半分んしかできなかった 来週にしよう ■午後 伊藤健先生から放射線測定器と支援金がどどいた。ありがとうございました 鮪立での夏休みの合宿活動資金が足りなかったのでとてもありがたい。計測してみたが数値の出方が 公式発表の値より半分んぐらいになっているので計測方法を間違えているのかもしれない 来週勉強し計測する予定 |
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7月07日 だけど雨も降らず 蒸し暑い 還暦も過ぎ 原発事故があり家の廻りが 放射線たっぷりの環境になったので、年金受給申請をする。 年金申請したんだけど、子供たちの手伝ってもらいだいぶ前に家のローンは払ってしまった。急いでお金が要ることは何もない。 出歩きたくもない。311後の活動で 色々データ貯まりすぎている。ででどこに出掛けて行きたくない整理したい。でもまだ活動はおしまえに なりそうもない 311以降の活動以外に 他の活動はしたくないので お金は飯代と酒代だけ要るだけだ。、洋服なんてのは古着が沢山あるのでそれで間に合う。家は自前であるが30年ぐらいになるのだろうけど 安普請の部材は腐っているが まあ住みこなせばなんとか10年は使える 311以降の活動の資金が枯れちゃったのでそれに使えばいいなと思っての申請した。割引きが3割だけど 何時水素再爆発して 死んでしまうかも知れないので。福島県内にて 今後 5年間まったく安全に暮らせる保障はだれもできないだろうし 不確実なので死ぬ前にも うちょっと活動しておきたいのだ。資金要るのだよ ■ 近くの支所に行って要件を済ませる。仕事場傍の公園 今日も放射線量 2.5μsv/h やれやれ ■夕方から 早稲田大学の文字起こし 9コマ目だ 北海道警察の裏金問題を書いた高田さん 今月からフリーランスとのこと 起こしやすいテーマなので スイスイ起こしていける どうしてなのか と考えてみると 解決出来る問題のように思えるからだ しかし古来同じ様な根の話は延々とあるので 本当は解決出来ないとも思うけど 人間らしくって 憎めない点も含まれているので 複雑だが重くはない |
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7月06日 のち 午前中大学抗議文字起こしをDVDを観ながら仕上げる 午後 食材買い出し 放射線測定器を送るので住所を教えろとの連絡があり、いよいよ我が屋敷の放射線マップをつくる時がきたか? ■my長男この3ヶ月の活動にて 宮城県内の新聞に多数でるようになる 目立つのだろう ニュースにしやすいのかも |
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7月05日 午後から村田町に出掛け 町の人々のその後に触れてみた。 とくに感想としてとにくきすこともない そういうことのようだと思う 真夜中に仕事場に帰ってきて 週末の活動の準備をする |
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7月04日 曇りのち夕方 土砂降りとなり 午前中 早稲田大学 の講義文字起こし 普天間問題のと民主主義の成熟について 制度的差別県民の方々はかんがえているなど 文字にしているが重たいなないようだと 文字起こしも苦痛になってきて速度が落ちてしまうのである 夜の8時ぐらいで粗文字起こし終了する ■夕方土砂降りの夕立がある、仕事場から家までの200mほどの間に突然ふりだし 放射線に汚染されている雨に 濡れ鼠にされてしまう 金玉に来たかもしれないな ■my次男農家の手伝いに行っているが採れたての果樹を沢山もらてくるので、近所の人々に配ってもあまってしまうのだが ■午後長女と長電話 21日からの鮪立合宿に通訳で参加してもらうよていなので 色々準備をしてもらいたい そのかん仕事が忙しそうで合流できないかもしれない ■よるmy長男と長電話 色々手伝うことにした 還暦になった日に子供たちからあれこれ仕事などを頼んだり、頼まれるのは幸なり |
7月03日 昼ごろ少し雨がふり蒸し暑い 1日2日の各種データを整理し早稲田大学の講義文字起こしを行う1日 動画などのデタ整理は 文字起こし終えて明後日行う予定 今夜は蒸すので シャツを脱ぎ捨てたら 風邪引きそうになり着直す 少々汗をかくぐらいが 老体にはよさそう だ 日記に画像を入れたりして 後で観て楽しいものに仕上げたのが311以降なかなか元に戻らない 生活に余裕がないので良くない暮らし方だな〜とシミジミ思うのだよ 仕事場の小さな赤ちゃんを抱えたお母さん ようやく仙台に引っ越すことにしましたと 謝られた 早く引っ越せ疎開せよと言い続けていたからだろうかこの当たりは毎時2.3μsvなので放射線量が多い 土や植木を取り除き建物を洗い流し セシュームを取り除く作業をさっさと千回と むかついてくるのである |
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7月02日 小雨のち 昨夜は遅くまで 塩竈の人々と交流した。森田一弥さんと共にmy長男の家で目覚める。素麺があったので簡単な食事をつくり喰らう 9時30分 仙台駅東口で学院大の斎藤善之先生と合流し 蒲生の津波被災状況を観る 11時半に仙台駅に戻り 2時間ほど森田さんとランチしながら話す。京都の静原にくらしている森田一弥さんは俺よりひったり20才下なのだが 経歴も生き方も世界の歩き方も圧倒的に老練である。 が 無理もしないし無駄がないのだろう 肩に力を入れない 空気のように在るので一緒に居ても疲れる事がない、いやはや 希な人であまりすと思うのであった。 京大でて京都にいる人はそのようにある人が多いな〜 東京に出てきてるひとはぎらぎらしてて案外単調なように思えて 建築的能力がどうかは分からないが 付き合っても人間としては面白くないかもしれない ボニャリと思う ■1時に仙台駅でmy長男と合流し南鍛治町の金物屋さんだった古建築を測量する 秋田から社会保険事務所の勤めている 野村一史さん学院大学の岡山卓矢さんの手伝ってもらい 測量をする平面の測量は俺がした 今後の事もあるので 歴史系の人々がどれだけ古建築を測れるのか 展開図の測量をしつつ図面をかいてもらった 皆それなりにできるので 今後大きな力になりそうだと 思う キャドデータにするには多少時間がかかるだろうが 填る人が多いのではないだろうかと 推測してみた 測量を終えて 6時頃仙台駅前の焼き鳥屋で呑んで解散する |
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7月01日 塩竈快晴 仙台駅で森田一弥さんに会い 塩竈の有名物件の被災状況を調べ 時間があったので 桂島から朴の島を巡った 島々の津波の被災状況を体験しながらそこに 被災後その島々に生きている人々の笑顔にふれ 職人さんと語り なかなか 島々の港の津波の被害は全体に的には3割、程度で地船着き場の盤沈下が1mぐらいなので満潮になると 水没していた。動画を撮って いずれ繋いで公開する |
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