2004年9月18日建築家堀井義博さんと建築あそび講演記録 HOME
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★★1999年  サイバー メトリック始動 ★★

h:1999年の私はこういう感じだったんですけど・6月26日この数分後に髪は短くなっているんですけど・・

会場 笑い

当時の僕は だからといって どうということも なかった。 まだこんな感じでした

佐藤  全体が ボンヤリしていた・・

h:そうそう・・なんか それが 見えつつあるんだけど、それがパッキリしたわけでもないんだけど、それが分かっていたわけではない

佐藤 なるほど 分かってきた ゾー
 
h:俺のプレゼン いいでしょう

会場 笑う

h: まさにこんな感じ・・

佐藤 おれと動機は逆だな・・アプローチ ・パソコンの方からか・・まい いです。はいどうぞ・・

h:1999年の初夏ですけど・・夏から秋にかけ こんな感じだったんですけど。

松田 サバーメトリック始まったの何年だったっけ

h: 1999年・・自分のなかで「webサイトを作ろうかナー」と思って、一応 当時親し かった槻橋君とか五十嵐君とか、最初に送ったのは・・・今回このプレゼン作るのに、自分のメールを漁っていて見つけた・・・このメールですけど。

ちょっとテスト」・・と書いてあります。これが1999年8月27日に送信されたもの。僕のメールアドレスから・・「toで僕」になっいるのは、BCCでみんなのアドレスを隠して送っているから、こう成っいるんですけど。これ数人に送ってます。しかも「一寸作ったので見てもらえないでしょうか」と送ったのが、当時こんなアドレスです。

フォーチュン スチール ドットコム・・今では存在しないですけど。当時の悪名高き・・・骸骨とか・・・ヤフーとかグー・・・とか無料のHP・10MGサービスとかあるじゃないですか。そこを使わせる代わりに強制的に広告入っている って有るじゃないですか。それをやっていたイギリスの会社があって、僕は偶然見つけて、ここを使ったんです

WWW・・・に行くともしかすると 今でも当時のスタイルが残っているかもしれない・

会場 笑い

僕も後で調べてみよう。この時点では今の完成形・・完成してるとは言わないけど・・ああいう状態が有ったわけではなくて、これをそのまま体現したような感じだった。

何を考えていたかと言うと、実はさっきのオープン・ソース・ソフト・ウエアーの一連の活動から自分はメンタルな・・精神的に影響を受けた部分と・・それとは別に建築学科を出て建築をやっているという 日常・掛け合わせる自分の考え・・

 あそうだ、コレを言わなきゃいけないだけど・・・・1999年のこの頃個人の設計者というのは 圧倒的!に落ち目だったんですよ。今もすごくメージャーじゃないけど。今は逆に実体と一致しているか別にして、カーサブルータスとか変に個人建築家とか、テレビ番組で個人の建築家がフューチャーしたり、色んな雑誌で建築家のコーナーを無理矢理取ったりするじゃないですか。ペンとか・・ああいう雑誌のお陰で変に認知度が上がっていて、「建築は実は個人が作っているモノなんだ」ということを最近 段々世の中が知りつつあると思う

それは20年の前から 本人からしたら、「あなた馬鹿いうんじゃないよ」というかもしれない・・ 感じかも しんないけど、1999年とか2000年頃とか建築基準法がチョロと変わったりとか・・ 建築 大手の生産業務による 建築 +ゼネコン汚職 による建築業界の腐敗 というのが世の中に 一杯暴露されつつあって。そのなかで・・俺たち関係 無かったんだけれど、・・・・目立つ存在として、ターゲットに発見されました。

ちなみに あの流のなかで「SDの海外建築情報」ですが、最初に見せたときにも言いましたけど、あの時点でもう既に海外の情報を提供するやり方としては死んでいたんだけど、この1999年、ぐらいの頃には100%死んでいた。何でかというとwebが有ったからです。ようするに海外の最新情報はwebの方が早かったです。さっきの94年の頃 はまだ一部の人しか・・

SD海外建築情報は94年の段階で参加しましたが、97年のときにチーフにさせられて・・・僕は代表でした。困ったこと(笑い)に72年から20年以上脈々と続いたコーナーを僕の代で壊してしまいました(笑い)・・

佐藤 おおわらい

僕の代を最後に 続かなくなりました・・理由は僕のせいかも しんないけど。
要するに既に意味の無くなった死体をみんなで立ちあげて 喋らせ まるで 元気であるかのように見せかけていたのを、「そうじゃないよ」と。ヤット認識したと

松田 : 堀井さん・・世代交代というか ぼく この時から以前は知らないですよ。その前ってどういう人がやってたんですか。

h:世代交代だよ

松田 若い人が急に入ったんですか

h:俺たち自体が、今井とか塚本さん達の世代の次の世代だもの。96年は塚本由晴と今井公太朗・貝島桃代・・山本想太郎・・曽我部昌史があのコーナーを・・「次の世代」といっわれて、僕が息の根を止めてしまったんだけど・・当時からそのコーナーは死んでいることは知っていたんだけど・・そういうバックグランドがあって、頭のなかがモヤモヤして・・この段階で何を考えていたかというと、落ち目の建築業界を・・業界をどうしようかというよりは・・

佐藤 わらう

「俺たちどうしたらいいの」ということなんですけど。・・実は素朴な例があって・・


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