「Fukushima Gofuku Remains」  各種WEB目次     (2023年5月5日〜 

メキシコ・遺跡巡り(1992年3月) ティオティワカン  2023年5月10日佐藤敏宏作成

メキシコシティ ティオティワカン01
陰陽の空間
ティオティワカン02
壮大な宗教都市
モンテ・アルバン01
山上宗教センター
モンテ・アルバン02
雄大な造形
ミトラ・ヤグール  
哀しき廃墟 
パレンケ
墓陵になっていたピラミッド
シュマル・カバー
溢れだす浮き彫り
チェチェン・イッアー
マヤの華(影の龍蛇)
マヤパンから国立博物館



■メキシコシティ



真夜中メキシコシティのホテルに着く 



高層ビルと夜明けまじかのメキシコシティ


タクシーのなかから見る車だらけの道

佐藤撮影。ティオティワカン月のピラミッドに登りメキシコシティ(右山裾奥)の方を見る1992年3月末


メキシコシティ内にある建築物のメキシコ絵図に埋め尽くされたメキシコらしさがあふれる外観 車中より佐藤撮影


レンズで寄り撮る。髑髏、鷲、神官たちの姿などククルカン信仰のかマヤ文字のような絵柄で埋め尽くされている外壁は興味深いものの一つ

1992年6月15日渡辺豊和(1938年角館生まれ)
メキシコ遺跡巡り」@寄稿媒体不明

旅立ちからメキシコシティまで」

一昨年の11月に南米ペルーのインカ遺跡、城砦サクサワマンや天上の都市マチュピチュなどを訪れ、私の世界の古代遺跡巡りも中米のマヤ、アステカを残すのみとなっていた。ここ10年間エジプトからインド、中国など古代遺跡を巡りどうしても見ておきたいと思うものは訪ねたし、昨年上梓した『発行するアトランティス』(人文書院刊)は、その達の結果、私の脳裏に結像された超古代世界の文明イメージであった。

この本以外にも遺跡巡りを描いた断章はいままでの私の著書には散乱はしていがた、一つの論まで統合するまでには90年3月末に稿了したこの本を待つしかなかった。しかしそれでも中南米のマヤ、アステカ、インカを来訪するまでには至っていなかった。

中南米のインデオ文明は紀元前1000年以上に遡り、中国とほぼ当時に曙を迎えるのであるから、ギリシャを先駆とするヨーロッパより遥かに古いにもかかわらず、16世紀の前半には少数のスペイン人に征服されてしまった。中米のマヤ、アステカと、南米のインカは遠く隔絶した地域なに滅び方は酷似していた。スペインの奸計に引っ掛かり、王を奪取され、それが原因で少数の征服者に屈してしまうことになる。

それというものもアステカ、マヤ、インカのインデオは共通して救世主は西の大海からやてくる白い神と信じていた。その神とスペイン人征服者を間違ってしまったことが、そもそもの奸計にひっかかる原因となった。ただし中米と南米インディオの神の名はもちろん違うし、この両地域の直接の交流があった証拠はない。また南米の方が中米よりは古くから高度な文明が発達し、BC1000年には相当のレベルに達していた。中国の同時代と同レベルと考えていい。ということは大変なことであるが、不思議なことに南米のインデオは文字を持たず、キープ(結び縄)による複雑精緻な記号体系は有していた。キープは数を表すから高度な数学体系はあった。それなりに文字を持たなかったというのも奇妙なことではある。中米のマヤ、アステカは文字を持ち、精緻な数学体系もつくりあげ、さらには天文にも精通していた。






中南米のインデオは古いタイプのモンゴロイドであり、日本の先住民とは同系統に属する。実はこのインデオのみならず、BC3000年のエジプと古王国文明をつくったのもモヘンジョダロやハラツパーのインダス文明を完成させたのも、すべて古いタイプのモンゴロイドなのだ。メソポタミアもたぶんそうだった。となると、この地球上に高度な文明をもたらしたのは古モンゴロイドということになる。白人は後れてやってきた連中なのである。いずれにしても世界の高度古代文明を研究するには、中南米のインデオ文明を忘れるわけにはいかない。

数年前から中米メキシコの遺跡巡りを企画するのだが治安状態が不安定だと聞かされ一人旅は危険らしく、同行する人が見つからず延び延びになっていた。ところが1989年夏、私の『アトランティス発見』のためのインドネシア旅行は同行した建築家の歌一洋と新田正樹の両君が今度も同行できるということになり急遽メキシコ行を決意した。

結果は歌君が準備をすべて整え、大阪空港を私たちとともに出ようとした時にパスポートが切れていたことが係員に指摘され、すったもんだの末やむなく断念することになったが、最終的には福島県の佐藤敏宏君、大阪の永田一男君と新田君の四人の建築家一行となった。有態にいえば若い三人に助けられての旅である。歌君に気の毒なことになったが、メキシコに行って四人一行がいかに便利かを痛感することなる。あにせどこに出かけるのもタクシーであったから、4人乗りでワンパックとなった。したがってつねに1台のタクシーで間に合った。インドネシアもインドもその他大概の途上国ではタクシーにメータが無く、その都度料金の交渉。煩わしいことおびただしい。メキシコも例外ではなかった。

メキシコの遺跡でもっとも知られ、小説などにも頻繁に資料されるのがティオティワカンである。この遺跡は規模も巨大なこともあるが、主都メキシコシティから北東50kmの近傍に位置ししていることが有名にした。





メキシコシティは人口2000万人、世界最大の都市であり、高層ビルも林立する。メキシコ全体で8000万人、国土は日本の3倍もあるのに、首都に2000万人も集中しているのは異常とも思える。年中濃いスモッグが垂れ込め、50キロ程度しか離れていないティオティワカンからシティ方向を眺めてもスモッグが都市全体をすっぽり覆い林立する超高層の姿も一切見えない。ここも車社会で、年がら年中車が渋滞している。事実、市中に入るノロノロとしか進まなかった。スモッグは濃厚は、ちょっと前の東京や大阪の姿である。

最初に訪れる遺跡がティオティワカンである。これを見てしまうと他の遺跡が劣って見えてしまうのではないかとも思ったが、日程上、致し方ない。

メキシコシティやティオティワカンの位置する中央高原は標高2300mの乾燥地帯で、ティオティワカンには背丈の高い樹木が余り見られない。日差しの強さは予想をはるかに超え、エジプトのキザの砂漠を超える暑さである。まさに炎天であった。

北緯20度北回帰線より南であるから熱帯の真っただ中、暑くて当たり前ではあるが、標高23000mの高原と聞いていたのかから少しは涼しいかと思いきや、その熱暑には驚いてしまった。

古代遺跡を訪れると必ず思うことだが、なぜかくも暑い場所に、しかも乾燥地帯にわざわざ高度文明を築き上げる必要があったのか。その当時の人々の地理感覚が不思議なのである。いまから3〜5000年前は地球の気温が高く、いま熱帯地域が温帯程度に住みやすかったのではないかとも言われるが、それも確実な証拠はあるわけではなく、エジプトの壁画を見ると王や貴族でも現在の熱帯の人々の洋服に近いからこの節も妖しい。




ティオティワカン全体略図 引用 渡辺豊和著『空間の深層─物語としての建築』入れ子構造の解体p241より


■渡辺豊和さん著、古代文明に関する書籍の一部

渡辺豊和さんは岩座(イワクラ)学会の会長である。一部の論はPDFで公開されている。