「Fukushima Gofuku Remains」  各種WEB目次     (2023年5月7日〜       

メキシコ・遺跡巡り(1992年3月) パレンケ─墓陵になっていたピラミッド 

メキシコシティ テオティワカン02
陰陽の空間
テオティワカン03
壮大な宗教都市
モンテ・アルバン01
山上宗教センター
モンテ・アルバン02
雄大な造形
ミトラ・ヤグール  
哀しき廃墟 
パレンケ
墓陵になっていたピラミッド
ウシュマル・カバー
溢れだす浮き彫り
チェチェン・イッアー
マヤの華(影の龍蛇)
マヤパンから国立博物館

■ パレンケ─墓陵になっていたピラミッド
           


WEB頁作成佐藤敏宏  注無き絵は佐藤撮影 



地図・上空からの絵 WEBより


各所内外にある王の浮き彫り部分



右奥:パレンケ碑文の神殿 右手前 パレンケ赤い女王の神殿  正面 マレンケ神殿



パレンケ碑文の神殿 頂上部





パレンケ宮殿 中庭



パレンケ碑文の神殿から パレンケ宮殿を見る 




パレンケ宮殿より パレンケ古代遺跡を見る



宮殿中庭よりパレンケ十字架の神殿を見る














パレンケ宮殿内回廊

パレンケ碑文の神殿 玄室へおりつ階段
パレンケ─暮陵になっていたピラミッド

メキシコ遺跡巡り 1992年3月
渡辺豊和著 (掲載媒体不明)

オアハカからさらに直線にして距離400kmのビリャエルモッサ、タバスコ州都がある。

東といってもわずか北にあるから、東北東とも呼ぶべきか。この都市はメキシコの中でもっとも裕福であり、フランスとじかに繋がっていて富裕階級の子弟はほとんどフランスに留学するという。

オアハカから東に向かうに従って、緑は濃くなり、ジャングルの様相を帯びてくる。ビリャエルモッサに近づくと湿原がやたら目だすようになり、この都市は広大な湿原の真っただ中にでき上った新興都市らしい。湿原を埋め立ててつくったのではないか。

私たちの宿泊したハイアットホテル高級住宅街の真ん中にあり、この周辺の住宅敷地は300〜1000坪ほどもあり、大樹が生え茂り、住人のほとんとは白人だった。

パレンケはこれより東南143km、車が2時間の所にある。たまたまスピード狂の運転手で車も新しく、ときには時速200kmにもなることもあり、1時間ちょっとで着いたが、車に乗り慣れてない私にはあまりのスピードに途中の風景は記憶に残っていない。

到着した場所は起伏のある地形ではあるが、大樹が密生し、まさにジャングルであり、そのジャングルを伐り取るようにして石造建築の姿があちこちに散在する。

ピラミッドのみならず散在する諸建築は、テオテワカンやモンテ・アルバンと明らかに違った造形である。建物の屋根は角錐台形をなし、それを壁や恐ろしく太い角柱で支えている。ピラミッドにもそのような形の建築が乗っていて、全体として柔らかい印象を受ける。

テオテワカンやモンテ・アルバンと同様、日差しは強いが濃緑の樹林を背景後に控えているせいか、全体としては穏やかであり、気のせいか日影もそれほど鮮明ではない。というよりも、日影を想定した掘りの深い造形になっていない。空気湿潤なのだろう、どことなく陽炎がたっているように見える。

その陽炎の中から立ち上がった塔が一きわ目立つ大宮殿はいままで見た三つの遺跡にはまったく見られないものであった。強いていえばミトラ宮殿ではあるが、築造年ははるかにこちらの方が古い。7世紀は下らないといわれる。

このパレンケ遺跡から東はマヤ文明圏であり、オアハカのモンテ・アルバンとは一線を画す。そのマヤ文化の中でも古い方である。メキシコシティからオアハカまでの遺跡はBC0〜450年ぐらいまでといわれるから、パレンケはこれより200年ほど新しい。

パレンケの建築群は軸に沿って整然と配列されているということになっていなくて、バラバラ、向きも一定せず、まずもって無秩序であり、特に大宮殿の平面は直方形になっていない。歪んた矩形なのである。

この大宮殿は南北92m、東西73mの矩形を奥行き3mぐらいの回廊がぐるりと囲み、その中をさらに分割し、十字形に回廊によって田の字形に四分割される。こうして四分割された部分は、全て違った様相の空間構成となる。

ピラミッドに面した西側部分の北は、中庭を有したパティオ、南はそのパティオに底面10m強の正方形、高さ30mの塔が立つ。東側の北は広い中庭であるが、その北側の外部回廊はこの中庭部分で突然低くなる。したがって北に開いた形の庭となる。

南は居住部分であったのだろう、いくつもの小部屋に細分割されている。いずれにしてもプランニングは極めて複雑であり、かつ整然とした軸性は有さないヤグールの迷路とはまた違った不整形の迷路である。

しかし、なんといってもこの遺跡を有名にしたのは、入口すぐ側の右手にあり丘に抱かれたピラミッド「碑銘の神殿」と呼ばれているものである。

段状ピラミッド、すなわち基壇の高さ25m、上部神殿が10m強、地上から計35〜6mの高さであり大宮殿の塔より少し高い。ピラミッド勾配は50度近く階段を昇降するのは大変である。

神殿の中に入ると部屋の真ん中に幅1m、長さ2m位の直方形の穴があいていて、はじめは暗くってよくわからなかったから、床面から突然人の頭がにゅっと表れたのだから驚いた。そこから急勾配の階段で下に繋がっている。私も新田君たちを呼び一緒にここをそろりそろりと降りる。

中間で踊り場があって折り返して、さらに下に降りる。ギザの大ピラミッドの基壇(ただし女王の方)に降りるような気分であった。最後は階段から直角方向、ピラミッドの階段と同じ方向に玄室が表れ、そこに数人のドイツ人先客があぐらをかいて瞑想していた。

これがこのピラミッドを有名にした玄室であり、この玄室から、正棺、死骸、副葬品、宝石など、ちうどエジプトのツタンカーメンのように無数の宝物が発見された。1952年のことである。
それまで中米のアステカ・マヤのピラミッドには埋葬例がまったくない、エジプトと違ってこれは墓陵ではないとされていた。古代世界に通例のピラミッドのほとんどは墓陵であり、日本の古墳もピラミッド形墓陵の一つであるが、中米だけは例外だとされていたのである。ところがツタンカーメンにも匹敵する大墓陵ということになった。

これ以降、南部マヤ(グァテマラやホンジュラス)遺跡からもピラミッド墓陵は発見され、マヤが例外とはいえなくなているが、それ例は数少ない。

この王棺を覆っていた長さ3m、幅2mの石蓋(重量6トン)に刻まれたいた図柄が後に変なことで有名になる。それは宇宙船とその中で運転する宇宙飛行士ではないか。すなわちパレンケの王は異星人ではないかといいうのである。それほど、この浮き彫りは奇妙であった。メキシコ国立博物館で私たちも実物を見学した。今から1500年も昔のものとは思えない光沢をなし、堀も真新しく感じられる。

ここで特異な建築は「太陽の神殿」「十字架の神殿」と呼ばれている、底面5×3m程度の角錐台形の屋根の建物である。その屋根の棟飾りが建物とほぼ同大の面があり、二重になってそれが透き彫りであるから、なんとも不思議な造形である。私もある建物の屋上に二枚重ねのコンクリート大パネルを、棟飾りをかねた文字浮彫り広告板として考案実施したことがあるが、それとまるで同じ造形意図によってつくられている。だだしこちらの方がはるかに芸術的であり、さすが古代マヤ人と感心した。

この遺跡は南1.5k、東西0.8k内に建物がひしめいているが、これでも全体の10%しか発掘されず、遠くに見える密林に覆われた丘々の下に建築が埋もれているのだろう。
配置関係図 WEBより