髪飾りや腰飾りが特徴的な男性の石堀像
死者の顔を覆うための翡翠製のマスク
プーク様式、過剰な繰り返しと浮き彫り。
王の棺レプリカ |
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メキシコ遺跡巡り
渡辺豊和著 1992年6月26日(掲載媒体不明)
マヤパンから国立博物館へ─メキシコ・マヤ文明史のパノラマ
マヤパンは16世紀に初頭にスペイン人に征服され、70年前に放棄されたマヤ最後の首都である。ウシュマルの北東約40kmにある。
スペイン人がユカタン半島に姿を現した時にマヤは生前とした都市として存在していなくて、諸王家が都市に割拠して対立抗争を繰り返し、文明も完全なる衰退期にあった。
マヤパンが栄えたのは1200〜1400年まで、鎌倉時代に当たる。マヤメキシコの歴史は日本の歴史区分と実によく対応していて、あまりの符合に驚いてしまう。マヤンパのココム家がチェチェン・イッアーのイツアー家を滅ぼしたのがAD1200年前後ということらしい。
マヤンパは6平方キロメートルの面積に総計3500以上の建物の跡があるとされ、10km近い城壁をめぐらす。さらにその中心には内壁で囲んだ神殿郡があった。他の都市には城壁は見られないのに、マヤンパに限って二重に城壁を巡らしているのはここが城砦都市であったことをうかがわせる。この内壁に囲まれた神殿跡を私たちは訪れたことになる。
うっそうと草木が茂り、神殿らしきものは何一つみえないではないかといぶかしく思っていると、あった、あった、こんもりと土が盛り上がってその頂上には根が二肢に裂けたまま老樹が立っている。これがピラミッドだった。
土が盛り上がっていると見えたのは崩れた石積みを土が覆いその上にも、やはり老木としかいいようのない古木が立っているのである。二股に分かれた根は石に絡みついている。腰の曲がった老婆が捨てられそうになって必至にしがみついているといった風情である。
ここから100mほど奥に進と地面に大きな穴があいていて、それはかっての中庭であったのだろう。いまや地下回廊となった列柱が見えている私たちは建物の屋上に立っていたのだった。とするとこの屋上は大変な広さだったことになる。ピラミッドから100mちかくピラミッド以外に起伏はなかったのだから。
ともあれ、ここの遺跡こそ各遺跡発見の当時の姿を示しているに違いない。草木に覆われ、建築としての姿をほとんど確認することができない。
この遺跡からメリダへの帰り道アカンセーという小さな町に立ち寄ったが、高さ20mほどの正四角台形ピラミットが人家の真ん中に立っていた。これは完全形を見せたメキシコ型のピラミットである。現代の貧しい一般民家に挟まれていると、ピラミットの崇高さはほとんど失われてしまう。小さな岩山くらいの印象であった。
さて私たちは5日間にわたったユカタン半島を離れ、メキシコシティに舞戻った。国立人類学博物館が目当てである。ここにはメキシコ・マヤの発生から滅亡までの文明の物品が陳列され、歴史パノラマを見る思いであった。
ここには私たちが見ることのできなかった遺跡の復元や絵が多数展示されていて、建築家にはまことにありがたい。
時間があればぜひ行きたいと思っていたが、メキシコシティから遠すぎ、またユカタン半島までの東へ東へと移動する旅程からは外れてしまうので諦めたメキシコ湾岸のエル・タヒン。私がメキシコ・マヤでもっとも注目する「城籠(ニッチ)のピラミッド」の復元模型がある。他のものと違うのは格段に真四角の小窓が連続して穿たれていて、まさに城籠(ニッチ)の名にふさわしい。十数年前これを翻案して屋根に三段重ねの段状壁籠を有するコンクリート墓陵型住宅を造ったことがあり、この建築の有するエネルギーを実感できた。
もう一つはスペイン人に征服された時のアステカの都テノチティトランの神殿郡模型が圧巻。細部まで精緻に彩色してあり、その豪華さには目を瞠る。都市は一辺3kmの四辺形をなし、人口30万人を越えていて。ヨーロッパでは見ることができなかった偉観を誇っていた。
それほどの首都をつくり上げ繁栄していたアステカ国が総数数百人のスペイン人に征服されてしまったのも歴史の不思議というしかない。
南米ペルー、インカのクスコの繁栄もほぼ同時期に同様にしてうたたかの如く消え去ってしまった。クスコはペルーの首都ではなくアンデス高原地帯の主要都市に過ぎないが、一方、テノチティトランは現在のメキシコシティの中央部に位置する。アステカ族はもって、瞑すべきなのかどうか。
博物館の展示の中で、やはり他を圧倒しているのはマヤである。豪華絢爛たるマヤの文化の華がそのまま一堂に会しているのであるから、ただただ驚嘆と嘆声の連続になってしまうが、一つだけ真底から驚天動地の衝撃を受けたことがある。
ほぼ同時代の人像、石彫と焼物である。焼物は高さは20p程度の小さいものだが老人があぐらをかき、なにかの細工をしている。その表情と身体の曲げ具合など、極めて写実的であり、このようなものはインカでは見られなかった。石彫で原寸より一回り小さいもの、これはエジプト彫刻も似た動きの少ない硬質の表現であって、人体が相当単純化されかつ抽象化されている。これはメキシコ中央高原からの影響が濃厚なのであろう。
最後に高さ3m、幅2mぐらいの深い石浮彫であり、これはインドヒンズー美術、日本の縄文火炎土器を思わせるような過剰渦巻き噴出のなんともいえないエネルギッシュな表現。写実、抽象、過剰噴出というまったく違った表現様式が同時に開花していた。このような例は世界どこの美術にもない。
マヤ文明はほぼ2000年の歴史を有するが、その間、メキシコ中央高原のような統一国家は一度も立ち表れることはなく、最後まで都市国家が割拠する形態であった。したがって各都市国家が独自の文化を創造していった結果だともいえないことはない。しかし両様の都市国家文明であったギリシャの建築美術が一様であることを思うと、マヤは例外に違いない。ユカタン半島という小領域にこれほど様相の違った表現様式を完成させていったマヤは、世界でも類例を見ない多彩な文化だったことがうかがわれる。
プーク様式の無限繰り返しの浮き彫りタイル装飾の過剰表現からすれば「過剰、渦巻、噴出」が主流ともいえるが、しかし、その単一で終わっていないのがなんとも不思議である。
(おわり)
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