「Fukushima Gofuku Remains」  各種WEB目次     (2023年5月7日〜       

メキシコ・遺跡巡り(1992年3月) チェチェン・イッア─マヤの華 影の龍蛇 

メキシコシティ テオティワカン01
陰陽の空間
テオティワカン02
壮大な宗教都市
モンテ・アルバン01
山上宗教センター
モンテ・アルバン02
雄大な造形
ミトラ・ヤグール  
哀しき廃墟 
パレンケ
墓陵になっていたピラミッド
ウシュマル・カバー
溢れだす浮き彫り
チェチェン・イッアー
マヤの華(影の龍蛇)
マヤパンから国立博物館

チェチェン・イッア─マヤの華 影の龍蛇
    

位置図 WEB地球儀より   


 チェチェン・イッアー主な配置 WEB地球儀より



カスティーヨ(城砦)ケツアルコアトル(マヤではアルルカン)の頭部。奥に戦士の神殿と 左奥に千柱の間が見える。



ククルカンの降臨


ククルカンの昇天寸前

手前「千柱の間」と奥「戦士の神殿」


南東にのびる「千柱の間」



カラコス天文台


カラコス天文台とカスティーヨ(城砦)


カラコス天文台内部に登り見下げる。

メキシコ遺跡巡り

1992年6月25日渡辺豊和著 (掲載媒体不明) 

チェチェン・イッアー─マヤの華(影の龍蛇)


チェチェン・イッアーはプーク丘陵ではなく、それよりも東100km以上の低地にあり、したがってほとんど起伏はない。辺り一面は低中木の樹海である。

この遺跡はマヤの華といわれ、建築もプーク様式のもので、その南とメキシコ中央高原に由来するといわれる、トルテカ様式の北に二分され、南の方が古く、北はトルテカの首都トーラから移住してきたイツアー族によって建立された神殿である。整然とした直行二軸構成をなす。

南のプーク様式のものは相変わらず秩序正しい配列にはよっていない。ただしイツアー族によっていない。ただしイツアー族により南も改築されている部分もあり、他のプーク様式よりは軸性が意識されている。

マヤの文明は紀元前1000年に遡り、はじめグアテマラ高地に興り、それが次第に北進しカリブ海側の低地ジャングル、ペテン地方に、最後はユカタン半島北部で古典期を迎えるに至る。ただし図式的に南から北へ文明の漸進が行われたわけではなく、メリダ北14kmの所にあるジャビルチャルトン遺跡はマヤの全盛期BC1000年ぐらいからAD1500年代までの都市跡であり、2500年もの長期滞在したとしはほかに発見されていない。また世界でもきわめて珍しいのではないか。この遺跡は未だ研究段階にあり、発掘はほとんど進んでおらず私たちも訪れはしなかった。

ともあれチェチェン・イッアー。この神殿群の中で、やはり一番目立つのは9段の階段型ピラミッド「カスティーヨ(城砦」。底辺54m西方正面で各階段が取り付いているが、その勾配はウシュマルよりわずかに緩いという程度。


カラコス天文台から入る光
頂上の神殿が基壇のほとんどを占め、残余のテラスは2m足らずであり、これを廻るのは怖かった。眼下に樹海が広がり崖から転落しそうな気分であって、神殿の壁伝いにこわごわと周廻するしかなかった。

ここからすぐ東にある正方形平面三段重ねの基壇がある神殿「戦死の神殿」とそれからL型に翼を伸ばす円柱と角柱が無数に立ち並ぶ「千柱の間」がよく見える。これこそが典型的なトウーラ様式である。

トウーラはメキシコシティの北80km。テオティワカンが衰退したあとにトルテカ族が築いた首都であり、AD900年代に築かれたというから平安京とほぼ同時にできた都市である。


このトウーラのトルチカ族の一部が川を越え、はるばるユカタン半島にやって来てチェチェン・イッアー(イッアーの泉)を都としてさかえたのがAD1000〜1200年。ちょうど平安時代の後半に当たる。

トーラには残念ながら時間がなく訪れなかったが、ここの建築の特徴は人像を抽象化した巨大な角柱である。角柱といっても建築の床を支えるわけではなく、単に林立する。したがってイースター島のモアイの林立に近い光景を呈しているらしい。

「千柱の間」の四柱・角柱は柱頭を省いているから床を支えていたのであり、この間は同寸大立方体石ブロックが積みあげられたもので、各ブロックには鮮やかな浮き彫りが施されている。ただしプーク様式の溢れ出るような掘りの深い繰り返し文様ではなく、明らかにトルテカ様式である。

私たちはがチェチェン・イッアーを訪れたのは3月23日の翌日だった。実はこの日は大変な日に当たっていたのである。カスティーヨは北東に29度ふれて配置されている。四方に階段があり、各階段の側桁登り口の先端にケツアル・コアトル(マヤではアルルカン)の頭部の彫刻が置かれている。

このピラミッドは9段の階段状をなし、かつ団が垂直に立ち上がるのではなく、内側に少し傾斜している。階段はピラミッド勾配より緩いので地上4mほど飛び出し、基壇で飛び出しはなくなる。したがって時間によっては階段の側桁の側面にピラミッド本体の9段の折面の影が蛇腹状に立ち現れるようになる。ただしこのピラミッドにあっては春分の日の4時から5時にかけて、その蛇腹影が北側階段の西側桁の側面に表れ、先端のケツアルコアトルの頭と連携し龍体を形成するのだという。



カラコス天文台内部見上げ
3時ごろからピラミッド周辺に人が集まり占網を張ってしまい、この周辺以外の立ち入りを禁じられてしまった。私たちは南の旧チェチェンから見始め、ここに時間を費やしてしまい、3時に新チエンにもどったらもう他の所には回れなくなっていた。「戦士の神殿」も「千柱の間」も近づくことはできなかった。致し方ない。影の蛇が現れるのを待つしかない。

ピラミッドの西前面広場に座っていた。と不思議なことが起こった。影が側桁の勾配に並行に一直線になるではないか。段状の壁面の影がである。こちらの方がよほど不思議なのである。誰もそのことには興味がないらしくざわざわしていたが、このピラミッドの建立の意図はここにあったのではないか。

時計を見ると午後3時半過ぎであった。それから徐々に蛇腹が現れ、4時半過ぎ5時近くになって、蛇腹はもっとも変化を見せ、側桁の上部線と蛇腹腹影の残余の日の当たっている部分も同様蛇腹であり、これと同じく日光を受けているケツアルコアトルの頭部とが連係してt龍蛇体が完成した。その瞬間おりしも万雷の拍手が脇起きた。私たちのような東洋人もいたが、ほとんどは白人観顧客である。

これを設計した建築家の天文知識には驚嘆するしかない。マヤは高度な天文学科学を発達させ、日食、月食を正確に予測できたのみならず、地球から見た金星の周期583.920日をも知っていて584日の金星暦すらつくっていた。また旧世界ではインドでゼロを発見するが、その500年も以前にゼロの概念を所有し精密な数学体系を完成させていた。

旧チチェンにはよく知られる円筒形頂部ドームの天文台があり、ここでは春分と秋分の日の日没方向が測定できるようになっている。さらに夏至の日没も同様。日の出よりも日没に注目するのは日本列島に隈なく夢通信を張り巡らせた縄文人たちと同じようであり、ここにも中米のインデオが縄文人と同様、古型のモンゴロイドであることを証明しているように思える。同質の空間感覚、宇宙観を所有していた。広大な太平洋によって遠く隔たった地に過剰に噴出の造形を含めて、なぜ共通の特徴を有する文明が文明が存在したのか、歴史の謎に違いない。