「Fukushima Gofuku Remains」  各種WEB目次     (2023年5月7日〜 

メキシコ・遺跡巡り(1992年3月) モンテ・アルバン─山岳宗教センター 

メキシコシティ ティオティワカン01
陰陽の空間
テオティワカン03
壮大な宗教都市
モンテ・アルバン01
山上宗教センター
モンテ・アルバン02
雄大な造形
ミトラ・ヤグール  
哀しき廃墟 
パレンケ
墓陵になっていたピラミッド
ウシュマル・カバー
溢れだす浮き彫り
チェチェン・イッアー
マヤの華(影の龍蛇)
マヤパンから国立博物館

モンテ・アルバン─山岳宗教センター 

■モンテ・アルバン 位置




■この頁について1992年3月末 渡辺豊和さんに誘われた佐藤は総勢4人でメキシコシティからユカタン半島をめぐるメソアメリカを旅しました。この頁はそのときの簡略記録です。


 モンテアルバン 紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄(モンテ・アルバン - Wikipedia)

(注wの絵はWEBより)
採取し加工し掲載しています


■モンテアルバンとオアハカの位置関係

メモ・佐藤使用・ホルダ名。    

システムM(北棟)を東側から西に見る。(薬研堀)と(基壇になって高い)の複雑な構成をもつ。起伏を巧み使い分けた空間構成。
  
                        モノクロ絵* システムMの空間構成案内図。左が東絵:このサイトより

中央広場西側の北に鎮座する システムM



球戯場 (薬研堀) 東西階段状の観客席
左写真 佐藤撮影。南南西を見る。
中央 建物L 



説明図 球戯場を上空から 上が北



写真:佐藤。南西方向を見る

手前は中央広場

建物Lを南北にシステムMが挟みこむ構成 

写真:佐藤

中央広場 真ん中最北にある建て物G

中央奥  システムM 

中央から右 建物 L


■撮影佐藤。

中央広場

左 建物I 天文台 奥南端 ピラミッド

右奥 南端は
システムM(左と右の基壇がセットで空間構成)

右 建物 L




撮影:佐藤。

西側北端のシステムMに登り 南東を見る

中央 天文台

右 南のピラミッド




撮影:佐藤。 奥 システムM の高基壇を見る 右 建物 L 。 



撮影:佐藤。システムM の低い方の基壇の階段 




撮影:佐藤。一部壁が抜かれているが、システムMの構成がよくわかる。左の小高いテラス陽から陰である広場に降り、再度右の高い神殿に登る。
中央奥には 南端にある段上ピラミッドを北西から見る。  インデオたちの高度な思考と造形術を理解することができる。 



メキシコ遺跡巡り C

モンテアルバン─山上宗教センター

渡辺豊和著 1992年6月18日
掲載媒体不明

メキシコシティから東南350km、標高1600mの位置にオアハカ市がある。ここは湿度も高く樹木も太く大きくほぼ日本の風景に近い。メキシコシティ周辺の上空は樹木も少なく、山肌がそのまま剥き出しになっているが、オアハカに近づくに従って樹木は増し山肌はほとんど表れることがなくなる。ただしこの地までは山岳地帯であり、人跡のまったくなくない岩山をいくつもいくつも通り過ぎ、道らしき道もまったく見えなかった。上空から見下しているのだから詳細はわからないにしても、ともかく不毛の乾燥地帯がメキシコシティとオアハカの間に横たわっているのは事実である。

オアハカはインデオが多数住む都市であり、メキシコシティの初代大統領もこの市出身のインデオとのことであった。この町は確かに白人が少ない。中心のソカロ(中央広場)に出て行って初めて上流人士であろう、いかにも紳士然とした白人たちが食事をしている食堂があり、私たちもそこに入った。町の規模もそれほどではなく、たぶん人口も10万人に満たないであろう。ただし各通りに面する家屋はスペイン風で堂々としてはいるがほこりをかぶり、美しいとはいえない。スペインふうとはいってもパティオ形式であるから威圧感はなく、きわめて親しみやすく、そこに住む人々もインデオであるから風貌は私たちとほとんど変わらず、外国に居るという感じはない。白人主義社会のメキシコシティとはまるで違う。

この市から西へ南へと流れる、アドヤック川を渡ると、すぐに車は山道に入り30分ほどぐるぐる旋廻して山上に達するとモンテ・アルバンの遺跡に到達する。山の高さは市より5〜600mはあろうか。オアハカの標高は16000mというから2300mぐらいだろうか。









モンテ・アルバンはテオティワカンのような平地にあるのではなく、山の頂上を削りとって平坦にして建設建設されたにしては規模が大きい。南北に長さ700m、東西に幅250mほどを平坦にし、その家に神殿宮殿が建立されている。メキシコの遺跡は入口が小さい博物館となり、それを潜り抜けて入場できるようになっていて、ここも同様。観光客のいないと、開場同時の9時に入場した。

テオティワカンはAD450年ごろ、突然見捨てられ、アステカ族がメキシコシティ近傍に姿を表したときにはすでに廃墟となって久しく、この壮大な遺跡を見たアステカ族は「神々の座」を意味するテオティワカンと名づけたが、モンテ・アルバンとは「白い山」の意味であるという。白い山とわざわざいわれるように、この山は緑が少なく、麓のオアハカの緑濃い風景からすれば不毛の地といった印象を受ける。

なぜこのような場所にわざわざ巨大な宗教センターをつくったのか。麓に広大な緑が開けているのに。日本にも高野山があるが、ここは濃い緑の只中あり、森閑としたたたずまいである。規模は高野山の方がはるかに広大であるが、森の中にあるため全貌を一挙に眺めることができないため、それほど広大とも思えない。ところがモンテ・アルバンはせいぜい人の背丈くらいの低木のみであり、この施設の全容が望めるから巨大神殿、宮殿群が異様な迫力をもって見る者を圧倒する。

入口からなだらかな登り小道を300mほど行くと、突然、建築群が姿を表す。

まず私たちは広大な広場に立つ。テオティワカンで見た小段状ピラミッドが広場の東側に一直線にいくつか並列しているが、よく見るとそれはピラミッドではなく、広場から直通階段で上がるようになっているテラス群であった。広場の中心長軸方向にはどっしりと重厚な長方台形の神殿がすわり、その後方にそれよりずいぶん規模の小さい神殿がある。西側には前後に段状ピラミッド(これは基壇)、そして広場の南奥には高さ30mはあろうか、巨大なピラミッド状の基壇がでんと控えている。








振り返ると広場北側にも高さ30m、幅35mを越す階段が広大な基壇に向かっている。もちろん下からはその階段が基壇であるとはわからない。登ってみて初めて気づくことである。要するに広場の四方に高低さまざまな基壇が巡り、無数の階段が上下をつないでいる。

テオティワカンの「城砦」をさらに大規模にした様相を呈する。ただし「城砦」はロ型の完全は中庭囲み型のテラスだったが、ここはいくつかの、建物が基壇を成し、それが視覚的に連続して見えるように構成されているから、明らかにことちらの方が建築空間構成法としては複雑高度であろう。

このモンテ・アルバンの建設時期はテオティワカンとまったく同じであるといわれている。南北に一軸構成する方法は、さらにテラス、すなわち基壇をモチーフにすることなど、共通の特徴を備えている。

モンテ・アルバンでは太陽・月のピラミッドのような四角錘台形ピラミッドがあるにはあるけれど、目立ったところに配置されず、北基壇の奥に四つの群をなして建っているにすぎない。したがって全施設上におけるピラミッドの扱いがまったくちがっているといっていい。

テオティワカンでは明らかに主眼であったものが、ここでは従となっている。しかも基壇の上にそれほど大きくもないものがほぼ同大で四つ群を成しているのだから、設計思想には大いに相違があることは否めない。中央高原のテオティワカン、ユカタン半島のマヤのちょうど中間点に位置するモンテ・アルバンが東西の両文化の交流点にあった。とはいっても東西の混淆文化であったのではなく、それはきわめて独自性が強かったようである。

建築群の構成にもよく表れている。テオティワカンもマヤの神殿・都市でも平地に築かれるのに、ここではわざわざ山上が選ばれる。現在のオアハカのある場所など、格好の平地のはずなのにそこは避けられている。この宗教センターをつくったサポティカ族はよほど山に眼が向いた種族であったのに違いない。