2003年8月8〜10日 高山建築学校体験記録等
HOMEへ
24時間コンペティションの作品 講評
課題 「
あなた と 私 と 菜園 と 」
出題者 佐藤敏宏
巻き込じゃったよ講評人
石川初さんの菜園考アップ9月1日・・ 石川初HP
建築学校に参加する前に
あなた と 私 と のこと を想った。高山建築学校に着いた。キョロキョロ、作品たちがゴミ化して在る・・。あぁ菜園・菜園!・・が欲しいー・・
菜園と を付け加え課題とした。課題を出して講評するなんて私は初体験だ。方法も分からないなんとかもがいてみるから、観客の方々にもメールなどを使い参加・付き合いいただけたら嬉しいんですね・・
8月29日より 専用 掲示板 ←石川初さんの仕事関係者並びに上司の立ち入りを禁ずる
9月11日 FI 図を作ろう!を アップ
2004年 8月12日 高山建築学校 伝説 +建築造型論ノートという本が 出版されました
提出された作品 (8月26日現在14作品 届いています。各頁を作り 次第アップします)
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
あれこれ F I 図例
講評方法など
● 講評は2003年8月9日より開始し 2〜3年かけて終了します
● 講評方法
イ) 学校では一部の作品をのぞき大方は説明がなされなかったので
そぞれの作品を私の所へ送っていただきました。
ロ)はじめに作品ごとに私の感想を加えたページをつくってしまいます。
そのごweb上で講評を始めたいと思います
ハ)制作者の名前は公開しません
●講評には石川初さんに協力を依頼し参加いただくことになりました。
よろしくお願いいたします。石川初さん!
●講評は飛
び入り参加を歓迎いたします。
メール・掲示板にお願いします
●作品の制作者にはできるだけ、提案について説明していただきたいので、時間を見つけて、連絡してください。ソレゾレの作品説明がありしだい追加していきます
●講評を続けながら方法も変えていくことになるとおもいます
●作品を成長させたり変更可・ 作品の作りかえ可とします
●飛び入り参加作品を歓迎いたします
03−08−29
石川初さん 菜園考 書き始める
03−09−01
菜園考 完成
菜園考 石川初 著
■「自然」と向き合うということ
「菜」は訓読みでは「な」ですけど、「食用になる植物」という意味があります。日本の野草の伝統的な名前で「ナ」がついているやつは、その植物が「食える」と見なされてきたことを示しています。「アブラナ」「ヨメナ」「ニガナ」。あと、「一汁一菜」というように、「おかず」という意味もありますよね。「菜」はあくまで「飯」じゃなくて、主食に「添えるもの」。
「菜園」はだから、「農場」と違って「生産しなきゃ」という切実さや、自給自足の意気込みのような熱さ、があまりない。楽しみのために作られるような響きがあります。
それと、規模的にもささやかな感じがする。つい「家庭菜園」をイメージしてしまうからかも知れませんが。社会的な意味合いや、生態学的な意味合いよりも、個人的な事情が動機になって出てくるような感じがします。
「菜園」に限ったことではないですが、「庭」はその土地の自然環境に大きく依存し、かつ制約されています。同じ気候区でも、ちょっと地域が違ったりすると、越冬できる植物や、花や実のつきかたに違いが出ます。園芸愛好家の間では、「ウチではこの季節、こういう花が咲きます」「ウチではこの種類の冬越しは無理です」というような話題がけっこうな割合を占めます。
また、土地はどれほど囲われていても、その周囲の生態的な相に「同調」しようとします。都市部でも、放っておけば都市なりの雑草が生えてくるし。
仮に、完全に外部を遮断した、「閉鎖系菜園」というものを作っても、そこで「菜」が生育するためには、その植物の生育する環境を「再現」するために、その自然環境条件に取材するよりほかない、という意味で、菜園を持つことは必然的に「その土地の自然と向き合う」ことになります。
■場所のユニークさと時間のユニークさ
こうしてあらわれてくるのは、その菜園が占めている土地の「固有性」です。むろん、あらゆる土地は原理としては代替不能で、それぞれ固有な場所であるわけですが、そこにしかない状況に晒されていて、他との違いが浮かび上がってくるという意味で、菜園はその場所のユニークさを実感させてくれる、いい媒体だと思います。
同様な作用で、菜園はその占めている「時間」の固有性をよくあらわします。野菜や草花をちょっとでも育ててみたことのある人ならわかるでしょうが、植物は一日として同じ様子をしていない。ある種のハーブのように1年中植えっぱなしにしてあるものでも、去年と今年では大きさも調子も味もぜんぜん違う。今朝、雑草を抜いて水やりをした菜園の様子は、二度と再現できない一回きりのものです。もちろんこういう「一期一会」性は菜園に特有の事象ではないけれども、その「時間的かけがえのなさ」にどっぷり浸れるという点で、菜園はなかなかすぐれた媒体だと思います。
こういう、地理的/空間的、時間的な「固有さ」、それが「いわゆる『自然』」の大きな特徴であるわけですが、これが「菜園」という事態を際だたせている、と思います。
■掛け合い漫才としての「菜園」
一方でこれは、すぐれて人工的な営みでもあります。菜園が「菜園であり続ける」ために、「菜園者」は、恒常的な「人為的介入」を行うことになります。意図せざる植物を排除し、意図した植物だけを生育させる。かつ、意図した植物が意図したように生育するために、施肥や水やりや霜よけやら薬剤散布やら何やら、きめ細かいタイミングで養生を行わないといけないし、食虫や鳥から防御しないといけない。
「菜」は往々にして植物の栄養貯蔵器官を極端に肥大させたような、野生状態からすると奇形としか言いようがないような品種改良がされていて、人の力を借りないととても自力では生存できない(少なくとも日本の雑草と競争しては勝てない)連中がほとんどです。でも、かといって完全に人工的に造形されたモノではなくて、相変わらず野生性も持った植物でもあります。
たとえば、ダイコンとかキャベツなんて、手をかけるのをやめると、途端にするすると塔を立てて花を咲かせて不味くなってしまいます。一般的に植物は個体の生存の危機を感じると、子孫を残そうとするので。だから菜園では、おまえの生存は保証されている、と騙し騙し、野菜を太らせるテクニックが要求されます。もちろん実を食べる類の「菜」に対しては、いかに効率よく花を咲かせ、結実させ、太らせるかというテクニックになるわけですが。
自然環境に依拠しつつ制約を受け、人工的に介入し撹乱しながら「頃合い」をはかり続ける。これは、いわば掛け合い漫才みたいなものだと思います。「自然」と「人為」との、ボケとツッコミの連鎖です。
■菜園の「切実さ」
僕らが「菜園」に感じる、ある種のリアリティは、菜園の「切実さ」に支えられている、と思います。食べるものを作ってるんだから、伊達や酔狂でこういう様子をしているんじゃねえよ、というような、「真剣」な感じ。これがおそらく、「菜園」と、たとえば「花壇」との差だと思います。
食料の生産は、昔も今も(少なくとも農耕が始まって以降)、人類にとってもっとも切実な課題です。たぶん、あらゆる時代を通じて、最先端の技術が投入されている分野のひとつだろうと思います。僕らが実際の食料の生産現場で目撃するのは、「人と自然との調和」なんぞという牧歌的で脳天気な図像ではなくて、きわめて人為的なテクノロジーと、いわゆる「自然」との、緊張感に満ちた、けっこうテンションの高い風景なんじゃないでしょうか。
これは建築よりもおそらく土木に似た、「エンジニアリングの風景」です。造園ではよく「用」と「景」という言い方をしますが、「用」の土地にリアリティを感じ、風景として鑑賞する、というメンタリティを、今の時代の僕らは持っているのだろうと思います。
近年、農村的な景観が、しばしばノスタルジックな響きをもって「愛でる」ものとして語られるようになったのは、決して「農業」が古くなったわけではなくて(このあたりを区別しないと混乱する)、食料の生産に最適化した社会的システムとしての「農村」がその役割を終えたからだと思います。
かつて、日本全土の「藩」のGDPが米の収穫高で計算されていた時代、農村はその土地で可能な限り最大限の米を生産するために最適なチューニングをされたシステムだったわけです。棚田や茅地や雑木林や茅葺きの集落や、現代の僕らが「里山」と呼ぶ風景は、そのシステムの様態の、ある「あらわれかた」なのではないでしょうか。
いや、もちろん、農本主義的封建制度こそが日本の農村社会の維持のために編み出されたシステムなんだ、という言い方も出来るでしょうが。こういうのは実際は相互関係的なものでしょうから。でも、いずれにもせよ、農業の風景=農村の牧歌的風景=人や自然が仲良く美しく暮らしている幸福なパラダイス、というイメージはいささか、安易に過ぎるようにも思います。
■菜園の「美しさ」
最近は日本でもよく見かけるようになりましたが、イギリスのガーデンショウなどには必ず「キッチンガーデン」や「ハーブガーデン」というテーマの庭が出品されます。そういうガーデンには、葉の赤い菜っぱとか、「見た目美しい」野菜が植えられていたりする。「菜園」は、庭の「スタイル」のひとつとして定着しています。鑑賞の対象としての地位も確立しているわけです。
日本で言ういわゆる「イングリッシュガーデン」というのは、イギリスの「コテージガーデン」というスタイルですが、事実上その「聖地」となっているバーンズリー・ハウスという庭園にも、キッチンガーデンがあります。コテージガーデンはもともと、イギリスの田舎家の庭先の、飾らない素朴な感じが一部のデザイナーに注目され、それを模した「スタイル」が中流階級の庭のデザインとして浸透した、「英国流民芸運動」みたいなものでした。ハーブガーデンも、もともとは中世の修道院の、薬草を栽培している庭が起源だと言われています。
つまり、「菜園」はすでに、実用的でありつつ、その「実用っぽさ」を鑑賞するものとしても作られているわけです。
畑でもあり庭でもある。「菜園」は「野生」と「人為」の中間にあり、「農場的様態」と「庭園的様態」との中間にあって、さまざまな解釈をゆるす、なかなか面白い「事態」である。と思います。
高山建築学校は こんな 感じでしたよ あいにくの曇り空 写真