長崎漫遊 2024  06 鈴木達次郎先生に会う
作成:佐藤敏宏 2024年6月
01 どうして長崎 02 長崎まで 03 原爆資料館に向かう 04 原爆資料館
05 爆心地に立つ 06 鈴木達治郎先生に会う
  07日本二十六聖人記念館へ
2024年5月28日
長崎大医学核廃絶研究センター
鈴木達治郎教授と2ショット
アミュプラザ長崎本館4F「朝次郎」にて

その06 鈴木達次郎先生に会う

長崎漫遊、2024年5月28日の御仕舞は、10年前から長崎大学に着任されている鈴木達治郎先生と夕飯を食べることだ。先生に予約いただいた場所は、長崎駅広場に面したアミュプラザ長崎本館4Fの「朝次郎」であった。その店に入って分かったことだが、4,5階の窓に面していて見晴らしもよい。二層を使った店の設えで総客席数180席と、大きな居酒屋だった。

鈴木達治郎先生と佐藤の出会い

 鈴木先生と佐藤が知り合ったのは、2011年3月11日・東日本大震災が起き、同時に東京電力の福島原子力発電所の過酷事故が起きたことで、「ふくしま会議」が開催された。誰でも参加できる会合で福大の構内で行われた。内容は各セッションと全体の討論会、そして懇親があって、それらの会場で鈴木先生の存在を知った。それ以後、鈴木先生の活動と発言をフェースブックを介し注目していた。約12年間の交流ともいえる。

今年度に入り、鈴木先生が生きてきた各時代の活動を記録するために、1950年代の生いたちから、今、2020年代までを10年ごとに分け、時代ごとの鈴木先生の身におきた主なることを聞き取りし記録を作り始めた。
また、爆実験によって制作された1954年版、映画『ゴジラ』、今年3月に公開になった『オッペンハイマー』については花田達郎先生に参加いただき、オンラインで語り合い記録も公開していて、鈴木先生との交流の深さは増してきている。

鈴木先生の活動は多彩なので、網羅してはいない、でも各年代語りの内容も記録しようとしているが内容も多量なので、はじめに目次だけ作り、2020年代までの聞き取りが済んだら、表に仕上げ、サイト内の情報について一覧性を高めるつもりだ。今は表だけアップしている(鈴木達治郎博士の部屋)(急いで記録を読みたいかたは、佐藤のサイト内を検索で。)


居酒屋、朝次郎へ

1時間ほどまえに注文しておいた、ズボンの裾合わせ。試着室で履き替えて、破けたズボンを捨ててもらうことにした。伸び縮みする生地なので歩きやすく、着心地はく快適ですいすい指定された居酒屋をめざした。

朝次郎には予約の席があったが、鈴木先生の到着を店の入口付近で待った。ほどなくして先生はやってこられ、挨拶を交わして店内に入る。階段をあがり指定された席に座ると、長崎駅周辺の東側の町並や山並みの新緑が美しく見える良い席だった。サラリーマン同士なのか、観光客たちなのか不明だが店内はたいへん賑わっていた。雑音もたくさん入るのだが、肉声を録音機器を設置して、挨拶と乾杯をすませた。

語り合った時間は3時間ほど、内容が多様なので項目だけでも並べることにしよう。そうそう、まず先に長崎ならではの美味しい食べ物(右欄の絵)を記録しておこう。

ハトシ(初物) 、パンの中にエビ入りすり身を入れて揚げている
すり身揚げ 新鮮なすり身を揚げたもので美味しい
刺身盛り合わせ 新鮮でうまい
鯨の刺身 部位各種
長崎サラダ 皿うどんふうサラダ・麺が細いのでお菓子のようだ美味しい
山芋のお好み焼き健康的
海鮮巻き寿司(恵方巻と呼ばれる寿司に似ている)
ゆずアイス
・わからん和華蘭)長崎特有の料理も紹介されたが・・・食べず

「ハトシ」はサンドイッチでもハンバーグでもないが発想は似てる。「すり身揚げ」それは東北の地では薩摩揚げという、揚げたてなので美味い。鈴木先生の口からは聞き慣れない料理名が出てくるでてくる。店員が運んでくる長崎の味、姿も名も初物ばかり!美味い、で食うことに夢中で写真は撮り忘れて一枚もない。これらの絵は、サイトや観光パンフに載っているそれを載せている。
「わからん(和華蘭)」料理の混在した面白さと、混在のさせかたは突き抜けている。

空港でもらったパンフレット(旅・ムック2024長崎版)には、鯨の部位名があり、鯨食文化の面白さを教えてくれる。「長崎と鯨」の冒頭には次のような紹介がある。

「江戸時代長崎地方は、古式捕鯨が盛んな地域でした。壱岐、対馬 五島、戸の各地に漁場が点在し、多くの捕鯨組が創業していました。鯨一頭で七浦潤うと言われており、捕鯨により沿岸地域は多くの雇用と経済効果を生んで、鯨は豊漁の象徴、福を運んでくれる恵比寿様のように扱われていたのです・・・」と。

中山間地で育った佐藤には、昔の捕鯨の賑いを想像できないのだが、鯨につけられた、部位の名を見ると納得する。


食べ物の名称が細かについているのは土地の文化の厚さを査証する物差しの一つだと思う。

長崎名物 上右からハトシ すり身揚げ
卓袱料理の例 鯨の刺身
 長崎市の案内から

語り合った主なことを羅列 (3時間語り合った主な内容。非公開)

・長崎に来て10年 
・福島市内で出会う
・娘の暮らしあれこれ
・ウイーン出張とそこでの議題
・今日の原爆資料館
・鈴木達次郎先生、各時代を語る(1980年代語りまで済)
・ヒロタのシュークリーム
・長崎移住について
・東京の住まいあれこれ
・長崎でのご飯
・長崎での足、車とバスと電車
・映画『ゴジラ』について
・鈴木先生の手料理各種
・アマゾン人間同士
・大村湾の中にある長崎空港
・長崎はサンフランシスコに似ている
・外国人観光客がやってくる
・原稿依頼あれこれ
・2011年の福島原子力発電所の事故 原子力委員会・委員長代理時代
・2024年5月31日委員会の参考人に呼ばれた
  衆議院TV参照 https://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL.
・一貫した姿勢 科学者は一貫している
・パグオッシュ会議に与えられたノーベル平和賞のメダル
・長崎原爆資料館について
・科学者の理論と実践
・ゴジラ・マイナス・ワン
・鈴木先生の一日
・難聴と人工内耳
・年間の被ばく線量、1,5,20,50ミリシーベルト
・フクシマ汚染水の話、原発事故の話
・災害伝承館の問題
・グランドゼロにある博物館の様子、入場料50ドル
・サンチャイルド像
・ポラロイドを復活させた男
・ジュークボックス
・サッカーの練習メニュー
・長崎の坂道と26聖人記念館
・長崎大学での一日
・本の原稿 と2025年刊行する本
・27日に鳴ったJアラートは酷かった
・紙媒体、デジタル媒体

22時前に居酒屋・朝次郎を出た。鈴木先生と別れてヒルトンホテルにむかった。アミュープラザ長崎からホテルへの歩道橋は直結していないので、一端1階に降りて長崎駅を東西に貫通しなければならない。
当たりには酔った客がおらず、静かな駅ホールだった。線路が貫通している駅の東西をどのように結び、町を使いやすくするのかは全国的な課題だと思うが、長崎駅は終点でもあるからか、駅のホームは地上にあって1階部分は通り抜けが可能だった。駅ビルが何時まで通行可能なのかは調べなかった。

ヒルトンホテルに着いて、電子データを追加保存したりしてたのち、眼の前に広がる稲佐山方面の夜景を窓いっぱい楽しんで眺めながら寝た。

2024年5月28日は濃密な初体験を重ね続けた1日だった

07日本二十六聖人記念館へ 5月29日長崎漫遊に続く・・・書いてる途中です

長崎漫遊、後半へ続く



参照:
長崎の豊かさの重なりのこと

長崎が天領であり、独占貿易港という特殊な性格から、町は非常に裕福であった。長崎会所は、貿易の取り引を一手に引き受けており、一定の利益を幕府に納め、残りの貿易利潤は会所の監督官である長崎奉行が、特別のわけまえにあずかった。目付けや地役人も同様であった。
 また、一般町民もそのおこぼれを、家持たちは「箇所銀」、借家人は「かまど銀」のかたちで分配していた。ちょうど長崎の町全体が、一つの株式会社のようなものであった。行政費も町民の分配金の中から、あらかじめ天引きしておくので、税金の負担もなかった。全国でも例のない制度である。従って、長崎人は裕福で、宵越しの金はつかわないという気風は江戸っ子と似ており、祭り好き、遊び好きで、料理が発達してうまいものを造る、ということになった。

以上抜き書は、『評伝 上野彦馬─日本最初のプロカメラマン』八幡正男著1993年8月31日刊行、21ペイジより。


長崎漫遊、後半へ続く