長崎漫遊 2024 5月29日 後半編 07 二十六聖人記念館へ 
作成:佐藤敏宏 2024年7月
01 どうして長崎 02 長崎まで 03 原爆資料館に向かう 04 原爆資料館
05 爆心地に立つ 06 鈴木達治郎先生に会う
 
(後半)07西坂公園・日本二十六聖人記念館  08出島 09 グラバー邸 10結び
 
07 日本二十六聖人記念館 


ヒルトンホテルの朝飯

朝8時まえにベットを抜けだす。my長女は「ホテル内の温泉にいく」、というが体力を奪われる温泉はさけ、部屋の風呂場でシャワーを浴びた。シャワー後、昨夜撮った画像データと音声データを整理し保存する。データを整理しおえた画像を見ているとmy長女が戻る。予約してた朝食を、2階の広い食道におり1時間かけて10時ごろまで食べる。バイキング形式だが品揃えが豊富、特に果物がいい。ライチ、マンゴー、パパイヤ、スイカ、パイナックル、オレンジなどが山と盛ってある。
はじめに新鮮な野菜サラダをてんこ盛りたべる。つぎに焼き魚と飯と味噌汁をもりもり。さらに焼きたてのパンを食べ、次に果物いろいろを食べる。しまいに牛乳とオレンジ・ジュースを飲む。なんだこの食欲は。

昨日は朝5時から夜の11時まで活動したので、体が食い物でエネルギーを補給せよと促しているのだろう。食欲ありすぎるが美味い。普段の朝飯は、野菜サラダとおじや、だが、今朝は自分の食欲にあきれた。とにかく食べ、今日も元気に長崎漫遊するよ。

ヒルトン・ホテル2階食堂は天井も高く窓もでかい。だから、朝日にはえる長崎駅西側の山々が美しく輝いて見える。お天道さまにも歓迎されていて幸運な長崎だ。朝飯を食いながらmy長女の帰国後、その日の漫遊計画を突き合わせる、些細なことを10日ほど続けていたので飯食いながらあれこれ調整することに慣れてしまった。昨夜の鈴木達次郎先生との語り合いの主要な点も再確認したりして、ゆったり時間をかけた朝飯だった。話に夢中になって、食った物の画像を撮リ忘れた。



絵はヒルトンホテルの部屋から見る朝の稲佐山。 手前の水面は浦上川で右から左へ流れ下る
その先に有料道路、女神大橋(ビーナスウィング)が架かっている。水面はるか40mほど上にあるので、巨大なクルーズ船が通り抜け、東アジアから主に観光客が大挙し乗り込んで来るそうだ。支柱は十字架のようにみえ、観光都市・長崎ならではの巨大な吊り橋だ。

一時間ほどの朝食を終え部屋に戻る。荷物を整理。2階でチェックアウト手続きを済ませる。1階に降りて夕刻まで荷物を預かってもらい、身軽になり長崎市街に飛び出し漫遊活動に入る。無計画で長崎にきた、今日はどんな出会いがあるのか、それは運まかせだ。


























浦上川が南へくだると三菱重工ドック。その向こうに見えるは、女神大橋






■ 二十六聖人記念館に向かう
 (館のHPへ

長崎駅1階を東に向かい突き抜けると、広場は工事途中。杭を打ち込む機械がならんでいる。階段を使わず、エレベーターを利用し陸橋にでろ、とmy長女から指示がでる。それもそうだ、体力の無駄遣いをせず、長崎漫遊2日目を大切に体験することにしよう。

陸橋を渡り新浦上街道に降る、すこし北上し、NHK長崎放送局の南側に沿っている、坂道の登り口に立つ。きつい坂道だ。放送局のビルを舐めるように左に曲がり、急上昇しつづける石畳の道で、今日も朝から足がガクガク鳴りだしそうだ。
昨日空港で手にした、「明治日本の産業遺産アクセスガイドマップ長崎」を観ると、西坂公園がしるされていない。しかたなくスマフォ地図でみると、この坂の途中に西坂公園があり、奥に二十六聖人記念館がある。頑張って登ろう。

門と塀がある公園

2024年5月末my長女の帰国後、文京区大塚の宿住居を拠点に、区内の公園や神社、庭園を、優先し観察してきた。中山間地で育ったので木々の繁る公園が好きだ。20代は渋谷区恵比寿で暮らし始めたので、明治神宮と代々木公園は身近で暇さえあればいく、よい公園だった。明治神宮の森は人工林であるが100年後なので木々も茂り、よい待ち合わせ場でもあった。代々木の2つの体育館は全国大会のバスケやバレーボールの競技会があったので、観戦にいき身近で親密な場だった。だが、今は門塀があるので夜の待ち合わせに適した場所でなくなった。

そういう体験を持っていたので、西坂公園は門や塀があるか、それが気になる。代々木公園に門塀が設置されたのは、中東からの外国人が代々木公園に押し寄せ、彼らが情報交換し、呑んだり、騒いだり焚き火したり、天狗熱の発生源だとも騒がれたことで、門塀が設置されてしまった。夜間は門のゲートが閉じられる地域になった。代々木公園のベンチから渋谷や青山方面の夜景を楽しみながら語り合う楽しみと権利は、東京都の都民は奪われた。が「抗議運動をおこなった」、とは聞いていない。

都民は、仕事帰りに公園にたちより談笑する、その権利がなければ都市生活者の楽しみの一つはなく、それを行政が奪って事なかれ主義では寂しかろう。夜間、人のいない公園は単に暗くて不気味なだけだと思い込ませる。そうして、都民でも近寄る人もいなくなった。1970年代と比べると、都心の公園は管理が強化され、人間排除ベンチがしつらえられたりして、気づかぬ間に冷たい場所になって久しい。


西坂公園

長崎市の爆心地と平和公園にはゲートはなかった。西坂公園はどうだろうか。門塀は無かった。息をハアハアさせ坂の上の記念碑を上目で眺めた。それらの構築群をひと目見て、早稲田大学建築学科の今井兼次先生の設計による記念館であることを思いだした。道を挟んだ東側にはガウディの建築に似た、2本の尖塔が天を突くような、西坂教会建築も見えている。群でだろうが建築学会賞受賞建築であるそうだ。

佐藤が20代に働いていた恵比寿駅の目と鼻の先に、東京支店の7階建のビルがあった。その4階に東京支店設計部があり、上司をふくめ早稲田大学卒生が3人いた。途中、最高裁判所の営繕課長が天下ってきて、設計部長も早稲田になった。総勢10人の中の4人が早稲田卒だった。そういう環境だったから、今井兼次建築についてはいろいろ聞かされてた。

40年ほど経って、今井兼次建築を西坂公園で実見していると、なんだか物足りない。そう言っては失礼なのかもしれないが、近代建築と表現主義建築が、ぼんやり融合しているような印象を受けてしまった。目の前の今井建築群は建設1962年で、東京オリンピック施設や高速道路、新幹線工事が盛んな時期だ。品不足、人で不足も長崎に押し寄せていたかもしれない。外壁や尖塔にモザイク・ラッピングが施されていて斬新、そのご苦労も審査員に届いたのだろうか。全体の平面図と配置図も知らず、記念館の隅々まで丹念に見ず、軽率なもの言いであるけれど、ぼんやりした日本的融合で構成されているような印象をもった。

バブル経済を経て建築も変容し、それらを見てきたので俺の建築観も変化したのだろう。すこし眺めたり写真をとったりしていると、背景の長崎市民の家々の群が、びっしりと詰まり押し寄せるので、資料館の印象を著しく削ぐ。だから、背景がそういう役割を果たしているような気もする。平坦で広々とした土地が少ない長崎市にあっては、お互いが肩を寄せ合い生きている、その様もわるくはない。
でも西坂公園に建てるより、今井建築は広々とした草原に配置してあげたいような気がした。が、殉教の地を離脱する建築配置になるので、受け入れられないのは当然のことだ。

西坂公園を登り切り記念碑の前にたつと、日本各地のカトリック教徒にとって427年の積み重ねのある、最重要聖地、唯一無二の地であることが分かった。大きな記念碑は、高さ5.5メートル、幅17メートルの台座だ。その西側を通り抜け、右に折れ南東へくだると、地下室でもあるかのような入口、あるいは谷底のように設えた資料館入口の扉があった。









NHK長崎放送局の南面を北に曲がり登る
建物だと7,8階ほど登るんだから息が切れる。坂の途中で2度休む。
 




















グーグルアースで見る全体図
記念館についてのウィキペディア


二十六聖人記念館 内部

資料館にはいり500円のチケットを買う。写真撮影可能であることを確認し、資料館の展示室に一歩踏み入れた。窓からの光はない。空気の流れもすくなく、地底空間、あるいはマリア様の体内にでもいるような感じなのだ。薄暗い館内には、ところどころに弱いライトアップがほどこされ、キリスタンたちへ加えられた迫害を、具体的に示す磔刑の実物大のものなど、主要な歴史資料が整然と壁にかけられている。
長崎におけるキリスト教徒たちの受難の様が、信者でなくても理解できるよう、そっと館内に誘われる。解説も丁寧にあり、理解しやすく簡潔な展示空間だと分かる。

磔刑の実像木彫も資料館の奥壁にある。フランシスコの木彫もあり、2つは見た目に写実的で丹念に掘り出されているので強い印象を残す。

近年作、想像の絵画だと思ったが、処刑場のさまを描いた油絵もあった。1597年2月5日、秀吉の命令により京都や大阪、堺から集められた26人は、浦上川と長崎港を見下ろすこの地で十字架にはりつけられ、公開処刑(磔刑)を描いている油絵だ。酷い図柄だ。(聴衆4000人とあったが出典を忘れた)

近世初頭の統治のためとはいえ、日本人が異教を信仰する日本人を、公開処刑するために選ばれた西坂の地。近世初期の公開処刑はその場、あるいは河原と決まっているのだと思い込んでいた。が、西坂の小高い丘に26人を十字架につるしならべ、一斉に槍で突き刺す磔刑の絵はあまりある残虐さだ。処刑前段には、片耳を切り落とした異教徒たちを、長時間かけ京都、大阪、堺から、西坂の処刑場まで護送したとある。「いたぶり街道」とでもいえる道の長さは、距離にして900キロほどだろう。十分に計算尽くされ、手の込んだ見せしめと処刑方法だ。水に流さず血糊を長崎の台地に吸い込ませることで、多数の長崎の信者たちを震えあがらせたのだろうか。聖なる土として持ち帰ることになったのだろうか、記されてはいない。

過剰な演出に思われるが、人間は他者に残酷な生き物なのだろうか、あるいは異教徒たちが日本人を奴隷のように売りさばくなどし、秀吉が怒りをあらわにしこのような処刑方法が選ばれたのだろうか、資料調査してみたいと思った。静かに見ていると人が人を殺す、そのことを考えさせる26聖人磔刑の図だ。(末尾に火あぶりの刑をおこなったキリスト教徒たちの資料をつけておく)

信長・秀吉が一向一揆の制圧に苦しんだすえ、異教徒への見せしめも考えていたような気もする。同時に外国人たちへ、異文化を持ち込むと晒し処刑すると示した効果は絶大であったろう。大航海の世にあって、世界に布教にちった教徒たちに、西坂の悲劇は配信され、26聖人は記憶され信仰の対象となる。処刑の地には記念館が建立され、今でも、津々浦々から人々が訪れる、まぎれもない聖地となっている。


絵:磔刑から365年後、1962年に完成し、日本二十六聖人殉教(1597年2月5日)記念碑と日本のキリスタン史を紹介する資料館の内部。












日本二十六聖人記念館内にある略図
上が東 北側西の2つ小さな展示室は印象に残る

















ザビエルが生まれた土地



■ フランシスコ・ザビエルについて

イベリア半島、フランス領、境界のそばのザビエルの地で生まれたフランシスコ(1506年4月7日〜1552年12月3日)は、やがてイエズス会の宣教師となる。1547年12月8日マラッカ海峡をみおろす「丘の聖母教会」で、誕生の地・鹿児島で殺害事件をおこし、逃亡中のヤジロウ(アンジロウ)と出会う(52ページ)。そして二人は日本にキリスト教をもたらすことになった。キリスト教における被害の歴史に端緒が開かれたとも言える。

宣教師ザビエルと被差別民』P62には、ザビエルはヤジロウの真面目な人柄と才知に惹かれた、とある。東洋への布教を成功させるためには、すぐれた信徒を育成せねばならないと考えていたザビエルは、ヤジロウをゴアにある聖パウロ教会で学ばせようと考えた。・・・ゴアに在住していたイエズス会士たちは、初めてみる日本人を受け入れ、熱心に指導してくれた・・・・アンジロウを案内役として日本に行くことを決意した、とある。

フランシスコとヤジロウは1549年、鹿児島に上陸。場所は大隅半島の根占(ねじめ)らしい。鹿児島や根占を拠点に殺害犯・冒険商人だった、ヤジロウ(池之端弥次郎重尚)は、ザビエルを伴っていた。(参照:『ザビエルとヤジロウの旅』1999年刊行98ページ)

イエズス会の教えは、日本のどのような人々の精神を捉え、信徒が広がったのだろうか。沖浦和光著(2016年刊行)宣教師ザビエルと被差別民には、てがかりが書いてある。目次をしるしておく。貴族仏教、武力で行使し天下を操る者の救済に資した仏教は、下層民、特に癩者は救済せずだった。ザビエルたちは癩者をふくむ下層民の心をとらえたようで、一気にイエズス会の教えは広まっていく。目次だけ記しておくので近くの図書館で手にとって見ていただきたい。

第一章 宗教改革と大航海時代の申し子ザビエル
第二章 ザビエルを日本へと導いた出会い
第三章 ゴアを(沖浦和光さん)が訪れて
 注:ゴアには現在も、フランシスコのミイラが保存
第四章 ザビエルが訪れた香料列島
第五章 戦後時代の世情と仏教
第六章 ザビエルの上陸とキリスト教の広がり
第七章 
戦国期キリシタンの渡来と「救癩」運動
第八章 オランダの台頭
第九章 賤民制の推移
第十章 「宗門人別改」制と「キリシタン類族改」制。

西坂の地の磔刑だけではなかったようで、210頁には1622年長崎では55人のキリシタンが処刑されたとあるその際、刑吏役を課せられた穢多に、奉行が処刑の準備をするように命じたが、彼らはこれを拒否した。「かかる仕事は、日本においては通常最も卑賤の階層になる皮剥人のおこなうところなり。されどかれらはこれを拒否せり、その大半がキリスト教徒なしためなりき」とある。また火あぶりの刑を執行するためにすぐ近くの癩者の小屋で火種をさがしたが見つからなかった。彼もキリスト教徒であって、刑の執行を妨害するために火種をかくしたのである。(「パゼス日本耶蘇教史『大日本史料第12編の45』所収)

仏教もキリスト教と同様、外来宗教だが、皇族・貴族など権力者を救済するための宗教となった。鎌倉初期には多数の新宗教がうまれ、法然、親鸞によって女性や非人たちも救われることになったが、癩者の救済はなかった。イエズス会のみとあるようだ。

日本での救癩(ハンセン病)の全解決は2001年6月まで要した。ニュースで首相が患者に頭をさげる動画が流れたので記憶している。








歴史から学ぶハンセン病 以下その内容。
古くは「日本書紀」や「今昔物語集」にも「らい」の記述があるといわれています。
 この病気にかかった者は、仕事ができなくなり、商家の奥座敷や、農家の離れ小屋で、ひっそりと世の中から隠れて暮らしたのです。ある者は家族への迷惑を心配し、放浪の旅に出る、いわゆる「放浪癩」と呼ばれる人がたくさんいました。
 明治になり、諸外国から文明国として患者を放置しているとの非難をあびると、政府は1907年(明治40年)、「癩予防に関する件」という法律を制定し、「放浪癩」を療養所に入所させ、一般社会から隔離してしまいました。この法律は患者救済も図ろうとするものでしたが、これによりハンセン病は伝染力が強いという間違った考えが広まり、偏見を大きくしたといわれています。
 1929年 (昭和4年)には、各県が競ってハンセン病患者を見つけだし、強制的に入所させるという「無らい県運動」が全国的に進められました。さらに、1931年(昭和6年)には従来の法律を改正して「癩予防法」を成立させ、強制隔離によるハンセン病絶滅政策という考えのもと、在宅の患者も療養所へ強制的に入所させるようにしました。こうして全国に国立療養所を配置し、全ての患者を入所させる体制が作られました。





長崎漫遊で、「西坂の地は外すな


長崎漫遊2024は重い連続した体験となった。繰り返しになるが、西坂公園へ至るには勾配30度ほどの坂道を登ることになる。老人にとっては心臓破りの坂だが、自分の足で登るしかない。坂の途中、何度でも休憩してもよいので西坂公園は推す。戦争の殺戮とはことなる、人知・宗教の相違による悲劇を、永い時間と合わせ確認できるからだ。
リアルな高低差を知らせるために広場と西坂公園の断面図を採取しておく。


 絵:グーグルアースより採取


 浦上川から西坂公園までの断面図 西から東・断面図  さらに東へ進むと海抜120mほどの立山がある












絵:長崎漫遊・経路記憶図 。

西坂公園総合案内板の内容も記しておく。「西坂公園は、1597年26人のキリスト教徒が殉教した記念の場所として、1956年に長崎県史跡、また2012年には公式巡礼地「日本カトリック長崎・西坂巡礼所」に指定されました。公園には日本二十六聖人殉教記念碑及び日本二十六聖人記念館がある」26聖人の詳細あり、webペイジ






■ フランシスコ・ザビエル像と 舟越桂の木彫

西坂公園に立つと殉教記念碑が正面にあらわれる。そう思わせるほど記念碑はおおきく、資料館は碑の陰に構築されているので目につかない。だから、館の印象は著しく削がれる。26聖人の存在を忘れない、という強い意思があらわれた配置計画であろう。
碑を見ておこう。1962年制作、舟越保武さんの彫刻が埋め込まれた、横長のモダンでシンプルな碑だ。碑には横に倒された十字架の中に、京都、大阪から護送され、磔刑にしょされた26人が、ブロンズ浮き彫り像となり埋め込まれている。

西坂を登り体内は酸素不足で低血圧になっていたからだろうが、舟越保武さんの息子さん、舟越さんの作品を思いだしていた。この碑の前にたち、桂さんの現代木彫作品を思い出すのは横ずれも甚だしい。だが、桂さんの人物像(表象)は、現代に暮らす人々の世を映す鏡であるかのようだ。不安定で空虚でうつろい続ける心を、木造彫刻に定着させる的確さがある。今を生きている者は、仏像には共感しにくいのだが、船越桂さんの作品なら感情を移入しやすい、そういう貴重な作品だから、ここで思い出しても許されるだろう。

1980年代中頃だったが、桂さんの作品は幾らするのか知らないけれど、買おうと思ったことがある。買っても我が家に置く場所がないので諦め、斎藤隆さんの平面日本画、2対を買った。40年後、手に入れた1対は県立美術館に寄贈した。

国内の古刹には仏像がかならずある。制作時代の願いや統治者の思い・心象をとらえた、現代人の心を魅了する名作に出会うことも多い。そのことによって時代の精神のあり処をおしえられたりする。1974年に刊行された、梅原猛+岡部伊都子著『仏像に想う』を手に取り「仏像萌!」に感染した人々はおおかったろう。仏像の情報は身の回りにおおい。日本古来と言われている神道には、太陽や山や岩などの自然崇拝なので像がない。キリスト教に関する像の書籍を知らない。それほどに、木彫といえば仏教にきまってら!と記せば、叱りを受けそうな気もする。

昨年の7月5日、この日は毎年、東大寺の重源像の参観が許される、「生きて一度はご尊顔をはいさなければ・・・」、と思い、奈良に行った。重源像のような鎌倉初期の仏像は現代に通じるリアルさをもつものが多い。けれど、薄暗いお堂内の重源さんは出入り口から入る光のゆらめきによって、生きている仏僧そのものであった。眼の前に生きていて、同じ堂内の空気をすい、すくっと立ち上がり歩きだすのではないか、と想うほどのリアルさであった。写真などで仏像を観るものではなく、お堂に蝋燭を灯し対面する、それが本来の仏像の鑑賞のしかた、対面の作法だと知らされる。

1974年刊行


絵:奈良国立博物館サイトより

カンカン照りの西坂公園に立って、目の前にならぶ二十六聖人の像は、陽の光が強いほど悲劇性をまして動き出すかのようなリアルさがある。けれど近代の定型化された価値に裏打ちされた表情のようにも感じる。それは数が多く、じゅっくり対面することを省いたことで生じた誤りかもしれない。さらに信徒ではない俺は、これらの像にリアルな身体感覚、共感も体感も持つことがなく、服装も着たことがない衣装なので、理解し合えない別の世界に生きている、そういう相互関係なのだろうとも思った。


上;桂さんの父である舟越保武さんの作品が埋め込まれている記念碑、後ろが記念館。

舟越桂さんの作品を思い出していた。その影響なのかもしれないが、薄暗い記念館内にあるフランシスコ・ザビエル木彫像は、彼の内面をも表し、今にも歩き語りだすような、生きた現代人のままの姿だと思った。

記念館のHPの宝物を紹介すweペイジには以下のように、ザビエル像を紹介しているので掲載しておく。記念館を体験する機会を得たかたは、ぜひ、ザビエルの像・容貌に接していただきたい。

この17世紀の木彫りでザビエルがスペインの「サンチアゴへの道」巡礼者の姿を示す。作者が神に向かって歩んだザビエルの「旅人」の心構えを表そうと したであろう。 また、手に持っている本は人々に「イエスの道」(福音)を示す方法を最後まで探し求めたザビエルの姿が描かれているようである。

2階の展示室には、教科書に掲載されているザビエル像のようなステンドグラスもあったので撮影した。けれど、どうも息遣いが感じられない絵柄だった。それは絵の部分一つひとつに意味を当てがった画像の集積だからだろうか。ステンドグラスの色彩がうるさくって俺は感情移入できないと言っておこう。

   
左:舟越桂作品     右絵 フランシスコ・ザビエル像 表情拡大 撮影:佐藤


絵:検索エンジンより採取

ザビエルの顔

ザビエルはどんな顔をしていたのであろうか。キリスト教のイエズス会に一生を捧げ、帆船に揺られ、台風や凪に遭い、ユーラシア大陸の東端に浮かぶ日本列島まで布教しにやってきた人物なのだ。そういう人だから心の強さと逞しさが全身からにじみでていて、衆目をあびても、虐げられた弱者たちと同一目線を保った、そういう人物だったように想う。本当の顔を知りたくなるのは俺だけではないだろう。

ザビエルは1506年4月7日生まれ、1552年12月3日上海で没した。遺体は現在、インド、ゴアにあるボン・ジェズ教会にミイラ保存されwebサイで棺のさまに接することができる。(沖浦和光著『宣教師ザビエルと被差別民』78ページ。)(フランシスコの遺体保存と公開の様子を伝えるwebサイへ)。

現在の3Dスキャンの技術を使い、ミイラから顔や身体のデータを得て、再度CGで立体再現したザビエル神父に会える日がやってくるかもしれない、そう想いながらザビエル木彫を眺めていた。

俺は建築物の詳細な隅々より人に興味があるようだ。





記念碑中央部詳細














佐藤と同年の舟越桂(1951〜2024)さん
県立図書館にある『美術手帖』、舟越桂の変貌 2003年5月号表紙。




舟越桂さん作品 :webサイトより


2024年3月29日亡くなった舟越桂さん。
絵:サイトより
箱根の彫刻の森美術館で「舟越桂 森へ行く日」が開催される。会期は2024年7月26日〜11月4日。







■ 聖フィリッポ教会西坂教会 日本二十六聖人記念聖堂)

西坂公園に入り見回すと、記念碑の次に特徴ある塔をもつ西坂教会が目にはいる。初夏の木々の葉の美しさと、塔のモザイクの華やかな彩りは響き合うように、天を指し示している。
有機的な上部と下部の箱に格子のついたような構造物は、上部と統一された構築物と思えないほどに乖離していいる。家に戻りグーグル・アースで確認したが、西坂教会と融合した一体の施設なのであるだろう。近代的な箱と有機的な双塔は相性がいいのだろうか、俺には腑に落ちない。

西坂教会の玄関で配布している、チラシをひらくとこのような紹介がある。「アントニオ・ガウディ研究の第一人者であり、高名な建築家である今井兼次氏により設計された。サグラダ・ファミリアの建築スタイルを明確に意識した特徴のある双塔は、長崎市のランドマークの一つとなっている。」と。さらに、「双塔は高さが16mあります。左の塔は祈りと賛美の塔で聖母マリアを表し、避雷針には地上の勝利の王冠がついています。向かって右の塔は、お恵みが下ってくる塔で、聖霊の賜物を象徴し、燃える炎を示す赤色がたようされています。避雷針にはハトと光の環がついています。」

現地に立ち、双塔部に付いている避雷針とその先端形状を肉眼で確認することは、老眼が進む俺にはかなわなかった。枯れた木の枝の先端に多彩な色彩が宿っている、そういう印象を受けた。

西坂教会へ入るには一端記念館を出て逆戻りするように、西坂公園を出て曲がりくねった坂道を20mほど登ることになる。坂道を右に折れ、10mほど登り入口の階段を登ると、西坂教会の殺風景な玄関に入ることになる。殺風景に感じるのは記念館の濃密さが残像としてあるから、そう感じてしまうのだろう。

玄関の右奥にある階段を3mほど登りきり、右に折れると西坂教会の礼拝堂の後部に立つことになる。ゴシック建築のような高い高い天井ではなかった。記念館と西坂教会を地下堂で結び、現・殺風景な入口を感じたあのホールを省略してしまえば、礼拝堂の天井の高さは10mほど高く造ることができたのではないだろうか、そんなことを考えた。これは建築を生業としていた佐藤の悪癖だとも思うのだが、天井の高さへの希求が薄く、その低さが気になった。

チラシでは内部について、このように紹介している。「・・・・祭壇に向かって左側に『殉教者の元后』聖母マリア像、右側に教会の保護者である聖フェリペ・デ・ヘススの御像が立っています。・・・教会を取り囲む窓には、聖霊を象徴する鳩の姿が象られています。

建築家ガウディ(1852〜1926)6月10日、路面電車にはねられ73歳11ヶ月半の命を閉じたと言われる。1506年生だからザビエルよりも、346年後のヨーロッパ近代の世に生まれたことになる。ガウディは、奇っ怪で有機的な外装を纏う構築物をたくさん設計し、世に残したことで著名である。けれども、特に有名なバルセロナの地に、1882年着工のサグラダ・ファミリアの聖堂の平面図と資料をみると、バジリカ形式を踏襲し立ち上がった有機的な表象をもつ得意な教会である。日本ではガウディ建築がTVコマーシャルに登場し、日本人石彫作家の外尾悦郎さんが長年聖堂つくりに参加されていることでも、日本人の衆目をあつめた時期がある。ガウディ(建築)ファンが急増した、稀な建築物のひとつだろう。

しかし今井兼次の建築はガウディの建築とはことなる。十字架・平面をもちゴシックのような高い断面をそなえた西坂教会ではないようだ。記念碑、資料館、西坂教会、ともに近代の合理性を身にまとった構築物である。モザイク・ラッピングが似ているとはやしたて、ガウディ建築の第一人者とし、レッテルを冠することで今井建築を伝えることに、佐藤は違和感を持つ。今井の建築はガウディ建築とはことなる、よき思想が内包し成り建っているからだ。

西坂にある今井の建築群と配置を丹念に紐解き、新たな今井建築群として解説する人が現れることを望みながら、西坂公園に連なる坂道を下り長崎駅広場に戻った。

念をおすが、西坂公園には日本人の加害の姿と、被害の姿が同時にある。稀なる地点なので、長崎を訪ねる人がおったら、一推しする。


次は出島漫遊だ。

出島へに続く













以下2枚の絵は『ガウディの建築』より
上平面図のようなもの 下完成予想図



(参考資料)カトリック教徒による加害の事例

スペイン内の異端者火あぶり

『世界の歴史と文化 スペイン』1992年新潮社29ペイジには、アロンソ・ベルゲーテ(1488〜1561)が、描いた「聖ドミニクスの開いた異端審問」の油絵がある。同ペイジから抜粋する。(絵は右欄)

異端審問所はイスラム教徒、ユダヤ教徒の異教徒を取り締まったが、実は本当の敵は新教徒などを取り締まった、・・・本当の敵は新キリスト教徒、すなわちキリスト教徒に改宗した元ユダヤ教徒であった・・・・・真面目な改宗者にとっては大きな問題となり、彼らは不誠実な新キリスト教徒のため、自分たちの地位や財産が危機にさらされることを恐れた。カスティリアで異端審問をかけるように国王に圧力をかけたのは、王室や教会で重要な地位を占める改宗者たちであった。・・・異端審問所は多くの異端者を火刑に処したと言われる・・とある。

考えの些細な差異が、身内の内ゲバを起動させることは、古今東西悲劇の生む人間模様なのだろうか、火炙り公開処刑とはなんという中世的な残酷さだ。新教、旧教、イスラム教、ユダヤ教が入組みだれ、公開処刑として火あぶりの刑がおこなわれたという。

佐藤の身近では、新宗教であるオーム真理教の人々が、坂本弁護士一家を殺害した。次に、長野県松本市の共同住宅にサリンを撒く、そして東京の地下鉄車両内にもサリンをまき、市井の人々を殺害した。新宗教によるサリン殺害事件は1995年に起きている。犯人たちは戦後社会受験競争を勝ち抜いた、エリートたちだったこともあり、世界を震撼させた。しかし彼らの動機や深層はさほど解明されず、突然、一斉処刑され受刑者たちのこころは解明されず人々の記憶から消えていた。今世紀に生まれた人々は地下鉄サリン事件を知らないかもしれない。


 出島へに続く






加害の資料館は少なく各国、被害の資料館に偏りがちか?を体験し考えよう。