長崎漫遊 2024  その4
作成:佐藤敏宏 2024年6月
01 どうして長崎  02 長崎まで 03 原爆資料館に向かう 04 原爆資料館
05 爆心地に立つ 06 鈴木達治郎先生に会う
  07日本二十六聖人記念館へ

■04 原爆資料館

原爆資料館に着くと、大勢の小学生・中学生、高校生の団体客で溢れかえっていた。「どこから来たの・・」と小学生に訪ねたら「大分県・中津から・・」高校生は「東京から・・」と応えてくれた。小学生たちは4〜5名のグループになって行動している。各人の首からはA4番のボードがさがっている。予習してきたのだろう、その内容と眼の前の資料館内部の展示品を見ながら思いついたことを盛んに書き入れている。再び問うと、「学校に戻ってメモをもとに、みんなの前で発表する・・」というのだ。

予習せずに資料館を訪ねた佐藤とは、知識欲、この場で観察し知ろうとする態度がまるでちがって驚いた。一部いた大人の観光客とも違う態度だった。資料館の資料から何を学び、生きていくためどのような道を選び、今日の体験を生かす行動を伴った成人になっていくのか、それは見当はつかないけれど、少子化世代と言われる彼・彼女ら、日本の若者はたいへん勉強熱心なのだと資料室に入った途端に思った。


 展示室内部の人の多さ

それにしてもホウボウは人が鮨詰なのである。資料館は熱気で暑い。だからのんびり漫遊とは行かないのだ。で、my長女と修学旅行、学習旅行の若者たちをやり過ごすことにし最初の展示室で突っ立っていた。

しばらくすると一塊は行き去った。 入口付近を見ると次の若者たちが待機しているではないか。客を詰め込めばいいとは思えないし、各人がゆったりと鑑賞し学ぶためには、館に一工夫は要るのではないだろうかと思った。同時に展示建築計画の一方の方向に流し体験させる、流し素麺の樋でもあるような、一筆書きだけの体験しか生まれない。だから、展示部屋の配置計画に問題があるように思った。



長崎原爆資料館の入場券と共に配布される資料を見て、いろいろ考えてみよう。資料館が一つの体験しか生み出さないように計画しているのは、人それぞれ原爆についても感じ方が違うのだから、それぞれの興味の赴くまま、途中で資料を調べたり、前にもどったり、先にとばしたり、資料館の体験方法を個人に委ねるような配置がよいと思った。
では体験してみよう。








資料館内部について) 
地上から下り地下2階に鑑賞券売り場はある。自動販売機で大人200円。

 Aゾーン(赤)へ 

赤塗の丸Aゾーンは導入部なので、1945年8月9日11時2分の物証である、投下時に壊れた掛け時計、被爆前の長崎市街の写真、原爆撮影のキノコ雲、導入部にふさわしい展示品があった。怖さの演出とはいえ、Aゾーンに立つと、老人の佐藤には暗すぎるうえ狭いのだろう、焦点が定まらず見づらいし、暑いので時計を撮り、抜けた。

展示を計画を請け負う人たちは「入口は狭く暗くする」、この手法が常態化しているのかもしれない。福島の原子力災害伝承館も、入った途端に暗い。が、知り伝承するための施設なのだからは、明い、広い、見やすい、展示は照度が高く、広さのある手法をもちいてほしい。
















 Bゾーン(緑) へ

ここ冒頭の展示は、大きな浦上天主堂の被災した外壁と、壁にあっただろう彫刻の数々が、原爆被害実態を伝えるために配列されていた。次のコーナーには丸く囲われた長崎の白い地形模型がおかれ、天井から原爆の投下様子が投影されていて、小学生にも分かり得る展示になっていた。だから下図のように全ての方向から見ることがかのうなので、幾重にも人垣が出来ては消えを繰り返していた。モニターによる表示は火の玉、熱線の広がり、火災の範囲、放射線の広がりなどが投影され続ける。


次に
投下されたファットマンを模した小ぶりの模型が突っ立っていた。裏面は内部の構造に加え、起爆の爆縮が誘導される仕組みが理解しやすくなるよう、断面模型になっていた。(実物は直径1.52全長3.25)黄色いそれは目を引く。他には溶けた瓶や表面が泡立った瓦など核爆発の威力を示す多数の物証が陳列されている。小学生には見るのが辛い写真などもあるように思った。

Bゾーンの仕舞は永井隆・博士に関する資料や被爆者の訴えが展示されていて、これも読むのが辛い人もいるのではないだろうかと、思った。








Cゾーン (紫色)
Cゾーンは核兵器投下後に生きる、小中学生にはもっとも記憶継承すべき貴重な資料が展示されている。日中戦争と太平洋戦争のこと、現代の核兵器の課題が分かりやすく並んでいる。ラッセル・アインシュタイン宣言に関するパネルも展示されていた。核兵器開発実験で被爆した地域と人々のことも詳しく展示していた。

さらに非核宣言都市を議決している、市町村の分布と名が、分かりやすく展示されていた。残念ながら、私が暮らす福島市はそれを議会で議決し宣言していない。

全体について

全体の展示にはいろいろな考え方があるだろう、けれど構成の順序が逆だったなら多くの人に注目されている、されるべきCコーナーは、資料館の現状は被爆物の印象が強いので、Cコーナーを通り過ぎてしまう見学者は多かった。
繰り返す。被爆した物や被爆の様子を伝える絵を見たあとで、Cゾーンに展示してある。投下後の核の歴史と反核や核廃絶運動の事実をを伝えられても素通りしてしまう・・鑑賞者や小学生も多い。物のインパクトは情報量が多いのだが、原爆投下から79年の時を経ているのだから、当時体験できない鑑賞による被爆の記憶継承には、工夫がさらに求められ要るだろう。

やはり現在の小学生や若い方々には核廃絶と戦争をしない、そのプロセスや課題を、先に強く伝えるべきなのではないだろうか。



Dゾーン (水色)
このゾーンは長崎市と長崎県が共同で制作したアニメーション、「8月9日長崎」が放映されていた。簡潔な内容だった。

■C〜Dゾーンの間には企画展示室があり、「ナガサキ「あの日」からの私」という企画展が開催されていた。

入場した。ここだけは無料とあったがさほど人はおおくなかった。個人それぞれの「あの日」とそれを住めす物証が展示されていた。品々は寄贈とあり、どれも個人の身におきた悲劇が具体的で、鑑賞者の心をうつし、肉親の悲しみが具体的に記述されている。タイトルだけ列記しておこう。

・再建した自宅の屋根に取り付けた被爆瓦
・父が残した財布と手帳
・きょうだい想いで優しかった兄の水筒
・体内から取り出されたガラス片とコンクリート片
・生徒の安否を記録したノート
・亡き息子の罹災証明と転出証明書


メモ

 資料館のダイアグラムアイディア図 
これを複層化することで成っている資料館がいいのではないだろうか。

入場券とともにいただいた資料より
1945年8月9日長崎市人口
 240、000人

原子爆弾による
1945年12月末まで被害者数
 死者  73.884人
 負傷者 74,909人

爆心地と平和公園をたずねるにつづく