長崎漫遊 2024  
作成:佐藤敏宏 2024年7月
01 どうして長崎 02 長崎まで 03 原爆資料館に向かう 04 原爆資料館
05 爆心地に立つ 06 鈴木達治郎先生に会う
 

5月29日07西坂公園・日本二十六聖人記念館  08出島  09 グラバー邸 10結び
長崎市を案内するサイト「ナガジン」

 正面 幕末の出島 


出島の家並 幕末




長崎 和船 撮影F・ベアト
08(史跡:出島和蘭商館跡) 出島へ向かう途中の思い 

西欧人の加害の一端

西坂公園にある記念館は教徒への弾圧、被害の記憶継承などの資料展示が主であった。人の世にあっては東西を問わず加害史はさほど知らされず、被害史を強調する傾向にあるようだ。加害の記憶は封印し、事態の記憶を半面だけ扱うのが人なのかもしれない。

大航海の時代にあって、冒険商人や宣教師が連携し活動をおこなっていたのだろうが、彼らが邦人に対し善良な行為のみにて、布教や交易をなしたとは想像しがたい。西坂の坂を下りながら想像してみた。そんなことを思い、前頁の末にスペイン・ポルトガル内での「聖ドミニクスの開いた異端審問」についての記事を抜粋することで、彼らの加害の様子も忘れないように参考資料をつけた。

そこで、出島漫遊に入る前に出島完成・1963年からさかのぼること93年前、種子島に鉄砲伝来、1543年当時の様子を調べてみた。赤瀬浩リンスホーテン著、2冊を手にし要点を抜粋しておく。

初めに、赤瀬浩著『「株式会社」長崎出島(2005年7月刊行)21頁

日本にやってきたポルトガル人が無害で善良な者たちであったかといえばその逆だった。日本に至るまでの彼らのやり方は未開と考えた土地や人々は暴力によって征服し、そこから奪えるものは奪い尽くすというのが常套手段だった
日本に漂着してから直ぐに日本を武力で征服することは不可能であることに気づいた。・・・・日本人は勇敢なだけでなく、商売のできる能力や資本がある人々であることに気づき、日本征服の野望はすて、貿易を目的として日本を目指すようになった。・・・・・・
イエズス会は宗教団体というよりも軍隊組織に近く布教の手法も強引だった。布教におよんだ地域の神社仏閣の破壊はもとより、同じキリスト教であっても他の修道会の布教にたいする妨害も露骨だった・・・・・・
戦闘性がこのころのイエズス会にはあり、ポルトガルの侵略とともに未開の地に進出した。ポルトガルと結んだイエズス会の布教は貿易と一体となり、貿易船の行くところ宣教師あり、宣教師のいるところに貿易船ありという状況だった。(抜粋終わり)

社会が変容するとき、新しい宗教が台頭する。新宗教が渡来することによって世が乱れることもある。明治維新期の国家神道を一つに掲げ、新政府による日本人への新宗教弾圧も周知のことだ。また新宗教者たちも、1995年の地下鉄サリン事件を持ち出すまでもなく、話し合いで解決せず暴力を行使する集団に変貌する。赤瀬さんの論を引用するまでもなく、現在の人々もそれらを知っている。


■次に『東方案内記』に目を移そう。

大航海時代の1594年10月8日に許可され、リンスホーテン著『東方案内記』が残されている。植民地のゴアでのポルトガル人たちの破廉恥な部分も、プロテスタント系であるオランダ人の手によって記録されて、世界に広まっている。ペンの力は時には、権力者よりも偉大で時間と地域も越え伝わり続け、そうして佐藤の机にも提示される。リンスホーテンの著はそのような著書の一つだ。

彼の著は374年後の1968年、日本語訳が刊行された。『東方案内記』はポルトガル領インディエへの旅行記と航海記で、1章から99章まであり、「第26章、ヤパン島(日本)について」もあり西欧人の日本認識の分かる。たくさんある章のなかで、1583年から5年間、ゴアに滞在し見たままのポルトガル領インド社会の腐敗した内実を、赤裸々に記しているので注目しておこう。
人間はここまで出来てしまう生き物なのかと思わせるに十分だ。キリスト教の戒めも放り投げ肉欲三昧。本当なの?と目をしばたかせてしまう。ポルトガル婦人の乱行を微に入り細を穿つような記述で、具体的不貞を312頁前後に記述している。作者が不貞のパートナーじゃないと、このような詳細は書けないだろうと、下衆の勘繰りを駆動させてしまうほどにエグい。エグさに興味関心がそそられたら本書を手にとってほしい。

植民地にやってきた副王たちが何をしていたか、そこに目を移そう。彼らは私服を肥やしに3年間任期でくる。だから蓄財に励むだけのようだ。(1583年は日本は秀吉が「賤ヶ岳の戦い」で勝利する戦国の世)、インドのゴアでの様子を『東方案内記』から抜粋しておこう。

(307頁)今日、インディエにおいては、かの先人たちに見られたような、熾烈な戦争もなければ、新しい土地を発見、征服もされない。先人らは、名誉と賞賛と賞賛を博してその名を永劫にとどめるために奮闘したのであったが、今日では副王、行政官、その他すべての者たち、いや聖職者に至るまで私利私欲の追求に明け暮れ、国家全般の繁栄とか国家への奉仕はほとんど顧みられず。おのおのの3年間そこに在職するに過ぎないことを計算して個人の利益だけにしがみついている


 (男性の絵)
323頁、副王は多数の領土を保持しようが処分、譲渡しようが勝手である。国王から委ねられた全権によって彼の意のままである、・・・各方面から驚くほどのたくさんの贈与がある。
325頁
副王は着任一年目は、邸宅すなわち宮殿の補修と、整備と現地の風俗、習慣を覚えることに追われて、他のことを手掛ける余裕がない。ニ年目は、財宝の収集と彼個人の利益を促進することで手一杯である。実のところ、それを目的に、彼らはインディエに来るのである。最後の三年目は、後任の副王に不意打ちを食わされないうちに、あらゆるものを整理し、かき集めた財産をもってポルトガルに帰る準備に終わってしまう。・・・国王は為政者らのごまかしの報告により、ほかに何も存知しないのである。それゆえ、時代の救済とか改善はほとんど期待できない現状だ。


 (女性の絵)



1594年10月8日に許可されたリンスホーテン著『東方案内記原書絵



リンスホーテン著 『東方案内記』翻訳本



長くなったが西坂公園の下り坂で想ったことを、資料さがし振り返った。古今東西問わず権力欲、金銭欲、性欲にさからわず、ルールがなければやりたい放題なのが人の本質のようだ。が観察者が存在しないと権力者の愚行は後世に伝わらない。一部でもあるがそういう人・現在のジャーナリストのような存在も確認できた。

さて、ここから出島漫遊にはいろう。

■ 出島漫遊


2024現在、388歳の出島) 
(史跡:出島和蘭商館跡1636年完成)

西坂公園をあとにし急な坂道をくだると、路面電車の長崎駅前だ。長崎電気軌道株式会社発行の1日券600円を買う。五島町、大波止と進み出島駅で下車。カンカン照りだ暑い。修学旅行にやってきた高校生群と何台もの観光バスが中島川沿いに群れをなしていた。

案内板を見ると、「出島は江戸町の岬の突端にある海中を埋め立てて、人工的につくられた島です。築造工事は1634年(寛永11年)に始まり、1636年(寛永13年)に完成しました。築造費用は、長崎の25名の町人が負担し、完成した島には、最初ポルトガル人、後にオランダ人が居住しました。島は扇形で、面積は1500uでしたが、現在は北側が削られ、約1300uに変わっています。とある。

入場時に配布されるA両面カラー刷り『出島散策マップ』には、1888年(明治21年)の「中島川変流工事により出島の北側を(18m)削除」、と出島を削りとった位置が破線で図示されていた。眼の前にある建築群は幕末の出島全体ではない、と知り気落ちした。出島が削りとられた原因や特徴的な外洋面は道路で囲まれてしまった経緯をしりたくなった。

パンフレットを見ると、1904年(明治37年)「第2期長崎港湾改良工事により出島が内陸化した・・・」とある。明治の政変により、長崎港の一部の海は居留地という造成された陸になる。さらに、少し時を経ると河川改修で出島は18mほど崩し削られ、中島川の川幅にかわる。
これらを復元するにはややこしい手続きと時間と工事費など要るが、国や世界の人々の資金支援を得るなどして、元来の出島に復元してほしい、出島上陸まえにそう思った。それが達成できたら、世界の共有すべき日本の宝となるだろう。難しいのかもしれない。

1858(安政5)年、アメリカとの「日米修好通商条約」、に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結んだことで、日本の5港(函館、神戸、横浜、長崎、新潟)が開かれた。いわゆる鎖国時は日本で唯一無二の貿易港・長崎は役割の主座を終えた。反動なのだろうか、出島はじょじょに陸地化された。現地に立ち、「お、もったいない!」が最初の感想だった。

明治新政府が46年間かけ長崎の内陸へと縫合した。その136年後、2024年の出島を傍観すると、昭和築造のビル群に囲まれ、「ビルの谷底に遺跡」のさまで、まったく寂しい。そこで、長崎市がつくった保存計画書に目を通すことにしよう。

「築造当時の出島を復元し2050年完成を目指している。」と保存計画にはある。けれど中島川に沿って18m出島を拡張し復元する・・との計画はされてはいない。保存計画の始まりは昭和26年だから、73歳の私がうまれた年だ。

その年から発掘調査が始まる。南側の護岸を造り、建物の復元なども不断で丹念な実施が行われている。内陸化した出島と周囲の状況を、江戸期の湾に浮かぶ出島に戻すとなると、電車の軌道、道路、河川、民間のビル群などに阻まれる。やはり、江戸期における出島からの見晴らしを、再び人々が手に入れることは、平坦な地のすくない長崎では不可能な行為に想える。が、人口減少にともなって人の活動が縮小した世には、戻してもらおう、そんなことを思った。東アジアの良き港町だから、観光客が大勢押し寄せてくるので、観光都市に一層磨き、何度も来てもらえるよう整えるのがよさそうだ。

寝言だが、出島をまるごと長崎水辺の森林公園の突端にでも、移築造を実施すれが外形はかのうだろうが、保存復元ではなく新築工事のテーマパークになりさがる。現在の地に出島があることが肝要だ。


絵:寛永年間長崎港図 保存計画85ペイジより 右欄に外町と内町の範囲を示す 2ヘクタールほど
寛文長崎大火後に外町街区が整えられ近世都市へ変貌した。


 2024年玉江橋からの眺望



川原慶賀の長崎屏風図を紹介する動画








絵:博物館販売ポスターより
白塗りの範囲が内町で長崎の名、由来になった岬の形状 朱塗り部が外町


石坂融思作 唐館蘭館図絵巻1801年
出島水門の様子小舟で搬入(砂糖・絹などか)搬出(銅インゴット)の様子


『国指定史跡「出島和蘭商館跡」保存計画』平成28年3月長崎市発行


2024年出島鳥瞰:グーグルアースより




徳川三代目将軍・家光、島原の乱(1637年10月25日〜1638年2月28日)、によって幕府はキリシタンを嫌うようになり、寛永16年(1639)にいわゆる鎖国令が出され、旧教ポルトガル人は追放される。平戸を中心に対日貿易をおこなっていた新教の国、オランダ人を住まわせることになったという出島。ここでの交易の利益はアジア各地の商館の中で最もおおきかったそうだ。
オランダ国王も一流の学者を出島に滞在させ、日本文化に大きな足跡をのこした。(ケンペル、ツンベルグ、シーボルトなど)

幕府から利益の一部を「かまど銀」という制度によって配布された一方、シーボルトとお滝さん、愛人にロマンスも語られ、寂しさを慰めるため、オランダ人をひきとめるため幕府は丸山の遊女たちは相手にさせ、「江戸の気前に京都の器量、それに着せたや丸山衣装」と歌われるほど彼女たちはきらびやかだったようだ。
 「出島図」ライデイン国立民族博物館蔵

 国指定史跡「出島和蘭商館跡」保存計画170頁より

案内板
出島は1636年(寛永13年)ポルトガル人を収容するために造られた扇形をした人口の島で、1641年(寛永18年)以降はオランダ商館が置かれていました。島内には高さ30mの旗竿が建てられ、オランダ国旗が掲げられていました。一方、出島正面に位置する江戸町の護岸沿いには商家が建ち並び、活気あふれ、その背後の岡には出島の監視役を担った長崎奉行西役所がおかれ、幕末には長崎海軍伝習所なども設置されていました。


出島表橋を渡る

2017年に御茶ノ水にあった友人の設計事務所内で、橋の構造計算をおこなったと思われる日本人から、レクチャーをうけたことがあった。全体の姿や橋を渡るときの揺れなどを、体験し確認することができた。橋の案内板には以下のような説明が記されていた。

(橋の案内板)
出島に向かって海を渡る、かつての動線を再現するため、旧出島橋と同じ位置に新たな出島表門橋を2017年に架橋しました。国指定史跡である出島を削り、橋の基礎を作ることができなかったため、片方の岸から橋を支える、世界でも稀な構造を採用しました。まるでテコの原理でバランスをとったような特徴的な構造の橋は、欧州の橋梁技術者ローライン・ネイ氏の設計によるもので、最先端の構造解析技術と長崎の造船技術によって、この場所ならではの橋が実現しました。この橋は、長崎市民をはじめ広く国内外の皆様からの寄付による出島史跡整備基金を活用し、つくられました。(長さ38.5m




長さ38.5mの橋の中央を渡りきると、チケット売り場がある。大人520円を支払い入場することができる。長崎市の保存計画書280頁には出島を描いた古図などが13枚とある。

下に国立国会図書館蔵の古図を埋めておく。が、出島は1636年に完成し、1859年のオランダ商館を廃止し、領事館開設までの223年、長きにわたり使われつづけたので、出島内の土地の使われかたも変遷したろう。13枚の絵図は変遷の証のそのものだ。







 国立国会図書館蔵 長崎諸御役場絵図  同解説へ

388歳の出島に上陸

出島のなかにコスプレし、口早で語る出島案内人が数人いた。

出島散策マップ」に年表がある。出島が完成(1636)時は、ポルトガル人が収容された。3年後にポルトガル船の来航が禁止され、オランダ商館が出島に移転する。幕末になると(出島完成から223年後)オランダ商館は廃止され、領事館を開設、長崎開港となった

出島内の配置図、図面は現在実再現施中の「保存計画書」によると、13種の出島が掲載されている。出島のどんな時代の復元をするのか、激しい議論が起きただろう、そのことは容易に想像できる。

散策マップには、出島で活躍した人々も紹介されている。157人の商館長(カピタン)150名の商館医が着任し、ほとんど1年の滞在。ヘンドリック・ドゥーフさんは最長の19年の滞在。カピタンは平均1.38年の滞在だった。赤瀬浩さんの講演によると、オランダ船は年に一度長崎にやってきて2〜3ヶ月、沖で滞在し長崎を離れた、と語っている。母国の生活に戻りたい、そう思うのは万国共通の人情だろう。

出島内の様子は157名のカピタンの意を反映し、建築物も耕作地も家畜の飼育とその動物も、様々に変わっていったのであろう。絵があるからといって固定して語るべきではないと思う。

現在の一帯は、あら物だらけ

出島に一歩踏み入れると、どうもピント来ない。それは周囲の木造建築の屋根の上から近代建築が見えるからだろう。舗装道でもある。改修して間もない。などによって新物観に襲われてしまった。だから写真はほとんど撮らなかった。巡回観察は明治期にできた、旧出島神学校、旧長崎内外クラブは外した。
観たのは、蔵(考古蔵)、銅蔵、2階建のカピタン部屋、一番船頭部屋、ヘトル部屋、料理部屋、乙名部屋、筆者欄人部屋だ、駆け足で順にみた。

銅部屋は東アジアの貨幣経済を支えたと語られ、日本製造の銅が木箱に詰められて展示してあり迫力があった。カピタン部屋はオランダ人の暮らしぶりが・・・暇を持て余して、食う飲む女性をはべらせる、など赤裸々な様を想像しやすい作りと展示だった。旧石倉も歴史的宝物が展示されているので推しておく。入場すると貿易品を知ることにもなるから。

出島におけるオランダ人の暮らしぶりは「唐欄館絵巻」 「長崎唐館図及欄館図巻」に描かれていて、当時の暮らしぶりに興味のあるかたには推しておこう。

主なものとメモをつけておく。
水門と家畜の様子がわかる。出島内の通路は石畳が描かれていないので、現在の仕上げとは異なり、たたきのままだったと思われる。

左カピタン部屋 二階がオランダ人の社交の場 建物の足元に側溝がめぐっているのも見ておきたい。この絵は旗の位置から想うに、明治期に削りとられた場所だろう。
カピタン部屋は東西に長い。これは北から東を観た絵
次に畑や家畜の様がわかる絵を2点

クジャクも放し飼いのようだ

2階ではご婦人が飲み、1階ビリヤード場の周りには畑があり、に野菜が整然と植えてある

次に厨房、床板が貼ってあり、大きなテーブル、煮炊きのかまどは土間を高くしている。換気のため押し出し板戸がさわやかだ。解体した豚が壁につるしてある。

豚の血を抜いて、たらいに集めているが、血はとのように処分したのだろう、ソーセージか。川原慶賀が見たオランダ人たちの調理室 はオランダ人の肉へ欲がわかって面白い。

赤瀬浩さんによる出島に関する講義動画
47分頃から、出島内などの講義を粗要約










・出島で活躍した人を年代
・1651〜1716年 エンゲルベルト・ケンペルさん、ドイツ生まれの商館長つき医師
・1743〜1828年 カールペーテル・ツュンペリさん、スエーデン生まれ、日本植物誌、ン本動物誌を帰国後発表。
・1777〜1835年 ヘンドリック・ドフーさんはフェートン号事件の解決、オランダ語辞書も編纂。
・1796〜1866年 フィリップ・ランツ・フォン・シーボルトさんは蘭学の鳴滝塾を開





出島の貿易品
羅紗、ビードロ、胡椒、砂糖、ガラスセ品をを輸入
銅、樟脳、陶磁器漆製品を輸出


動物はラクダ象、ダチョウが上陸した、と出島散策マップに記載されている
















わが書棚にある幕末写真集に出島を沿い流れる中島川上流に豚を発見したので貼っておく。
川で水遊びするほと豚は飼われていて、オランダ人の胃を満たし、唐人のそれも満たし、日本人もみたしたのだろう。

■出島に上陸した感想

出島が築造され230年後、明治になる。その後156年ほど出島がどのように扱われてきたのか、詳細は分からなかった。県立図書館にある保存計画を借り、目を通した。出島のうえでどのような暮らしが行われていたのか、長崎の人々とオランダ人の交流はどのようなものだったのか、分からない。日本人絵師によって残された図像を眺め想像するしか、いまはできない。

出島に出入りしていた長崎の人々の思い、丸山町の女性たちの思いなど今後しらべ、血の通った具体的な彼ら彼女として語れるようになりたいと思う。それにはまだ資料が少なすぎるので今後の課題とする。

出島を離れる

出島を離れ、路面電車に乗り、新中華街で乗り換え、大浦天主堂駅で下車した。大きなクルーズ船が巨大なマンションでもあるかのように目に入り、福島にはない風景なので新鮮でもあった。
左に折れグラバー通りという坂道の先には大浦天主堂の尖塔がみえる。道の両側には店が並んでいて、客を呼び込むための声が賑やかであった。この地は西坂公園に比べると老若男女が均等に観光客だらけった。

グラバー園内はグラバー坂より修学旅行の学生がたくさんいて、賑やかであった。園内は広く文化財建築も多数あるが、グラバー邸に関してだけ記録しておく。

 
 グラバー邸へ続く