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  2017年10月03日 
石榑督和(いしぐれ まさかず)さんに聞く にて
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■ 青井哲人マジック公開

石榑:本の内容は台湾の話です。市区改正とは何かというと言うとですね。植民地の都市計画の話です。元々の市街地を無視して、ほぼ無視と言っていいと思います。無視してグリッド状の街路を通しちゃえ!!っていう。

でこの土地、道路にかぶった土地を、植民地なので寄付させるわけですよ。地主集めて判子を押させたりして、一応寄付というかたちで土地を得ていく。道路用地が確保されますよね。元々あった台湾的な市街地は無視して近代的な道路だけ通します。そうすると近代都市計画が実現されて、植民地的な権力における空間性みたいな近代空間が出来ていくわけですね。

何が起きるかと言うと、台湾というのはですね、短冊状の地割に町家が並んでいるわけですよ。(強引な)計画によって町家が切断されていくんですね。そうすると、切断面は縫合されていくわけですよ。新しいファサード(=強引切断面)が出来ていって。

この強引な都市計画は街区の内側に無関心なので、街区の内側は旧来の台湾型の街区が保存されるんですよ。台南もそうですけど近代的な大通りを歩いていくと、揃ったファサードが見えるんです。内側歩くと滅茶苦茶細い街路に、お寺とかが並んでる。植民地前の主要道路は裏側になるんです。



佐藤:石榑さんの卒業設計に似てるじゃない、様と二重性の内容は
石榑あ!近いかもしれないですね、確かにそうかもしれない。要は毛細血管状の道路が張り巡らされてたものが、グリッド状の街路を焼き付けられることによって、二重性の都市空間がうまれるんですね

佐藤
:柳ケ瀬市街は経済的疲弊でも、侵略者の強引な都市計画でもある・・かのような空き地や形態になり、そこに二重性が生まれ卒業設計

石榑:で、近代的な都市が生まれるけど内側にはかっての市街地がそのまま保存されるということが起きていて。都市経学が仮に外力だとすると、傷をつけられたものが縫合されて、近代的な都市もできている。けど、その裏側には元々の都市が在る。非常に面白い街が植民地であるがゆえに出来ていった。
佐藤:どちらから読んでも面白い都市構造が出来上がっていた

石榑そうです、基本的に(台湾における)町家というのはどういう原理かというと、隙間開けずに並ぶわけです。道路に垂直に。だからその立地を最大限に活かすためには、斜めに道が通った場合、

 本を開いてしめす

こういう事ですね、この図(上の絵)が一番分かり易い。毛細血管状の都市に近代計画が焼き付けられた訳です。



佐藤:図柄もめちゃくちゃだけど、暮らしぶりだって滅茶くちゃになるんじゃない
石榑:それが意外にうまく暮らしているのが面白いところだと思うんですよね。どういう事かと言うと、ここに路が通されますよね、無関係に在る市街地が、段々地割は町家状に割られていく。

元々の都市は間口5mぐらいで町家を建ち並べる、という論理は、近代都市計画を焼き付けられても生き続けるわけです。その路を正の道として、もう一回同じことを発動していくっていうことがあって。二重性を乗り越えていくことになるわけじゃないですか。これが非常に面白かったんですね。
青井先生に初めて話を聞きに行った時のこの話をしてくれて。当然その夏に台湾に一緒に行くわけですけど。そこで実際の都市を観るわけです。

佐藤:この絵をみると岐阜の空き家・店舗を転用した公園が縫合されてれる卒業設計の図柄と重なってみえちゃうなー。一緒に話を聞いたからそういう印象が強くなるのかもしれないけど
石榑:僕は今言われてそうかも知れないと思いました。
佐藤:台湾の街区の二重性を乗り越えた暮らしぶりを学んでから、卒業設計の発想を得たと言われても納得しちゃうもの
石榑:もちろん卒業設計の後で台湾の市区改正の話を知ったんですよ。この本は僕の卒業設計の3年前に出ていますけど、もちろん知るわけないです。卒業設計時に青井哲人なんか知らないですもの。言われるて繋がる部分はありますね。



台湾に調査に連れて行ってもらって、こういう都市空間を観たり。蛇足ですけれども、当時は青井先生は、そんぽうという、土間床だったところに束を立てて床板をはっていくんですよ。元々漢人なので、土間床にベットを置いたり、机を置いたり、椅子を置いたりして、家具の生活をしてたんですね。
植民地期に急激に人口が増えたというのもあって、床板が貼られて雑魚寝をするようになっていくんです。床座にかわっていくんです。それは植民地に影響もあるし、人口が増えたから雑魚寝で対応しなきゃいけないということもあるけど。
佐藤:日本人が多数入植したのかな、で土間にベットでは対応できなく
石榑:で、襖とかも入れていくわけですね。今でも台湾のマンションに行くと和室ってだいたいあるんです。台湾の田舎の村に行って「すみません寝室見せてください」と入っていって。寝室の実測を俺がするみたいな調査をしてて。それと一緒に彰化にも連れていってもらたんですけど。


■ 本当に興味があったことに

佐藤:店のママがくれた一升瓶の中の余り酒も 呑みましょう



石榑:ソンポウというのがあったんですけど。これが滅茶苦茶面白いと思った事と。
もう一つはこういう事を日本で考えたらどうなるんだろうという思いも生まれたわけですよ。日本の場合は市区改正じゃなくって区画整理されているし。
彰化の都市状況は植民地における都市計画という一種の都市史における外力が原因だった。けどそれがどのように都市が反応するかという、自然発生的というか、都市を主語にしたときの、自生的な動きみたいな、要は人がやったことじゃなくって、都市自体が動いているっていうような観方だったんです。

日本の木造の都市が燃えた時にどう再生していくか、みたいな事で考えるとしたら、どうするか?それが僕の研究なんです。僕が考えたという事ではなくって、当然、青井先生の著書があって、かつ日本の都市自体が自然的にどう動くのか。そういうことを青井先生は僕が修士頃に凄く考えていて。
研究室で学生は僕を中心に都市発生学研究会という研究会をつくったんですよ。都市がいかに発生するか。生物学における発生ってどういう事かと言うと、受精卵が出来てから、どういう風に細胞分裂をして、特に哺乳類って生まれるまでに哺乳類までの進化の過程をなぞり、個体発生は系統発生を繰り返すという事を言われるわけですけど。そういう発生段階みたいな、生成の局面みたいなのを観るのが面白いんじゃないかと、研究会でみようと思った

僕は東京の新宿でそれをやればいいんじゃないかっていうことがあって。考えたんですね とは言え僕は研究者になるつもりはなかったので、
        (右絵:ネットより)
佐藤;青井先生に台湾を連れまわされた後でもまだ研究者になるつもりがない
石榑まだない。M1は当然設計の授業をとってますし、設計で就職するのかなーと思いながら。でも青井先生面白いからとりあえず、面白いこと全部盗んでやろうと思って。当然青井先生は個人の仕事があるから大学の外に行くわけじゃないですか。僕は何処へでも全部付いて行ったんです。
佐藤:先生のカバン持ち 

石榑:そういう感じで。話を色々聞いたりして、都市発生学研究会でやっていくうちに、外部の研究者を呼んだりしてたいんですね。そういう事も今までの環境ではなかったので、 面白くって。研究を進めてるけどまだ論文は書いてないんですよ。お前文章書いたことないからブログを書けと言われて、真面目に建築の事や都市の事を書き始めたんです。

青井研のブログがあって、研究室のゼミの事とか、調査に行ったこととか。あるいは一人で調査に行ったレポートとかをガンガン上げていたんですよ。ブログで人に読まれる文章を書く練習をみたいなものを。それをやっていたら設計よりも面白くなってきちゃって。しかも留年しているのに根拠の無い自信はありますから俺、こっちの方が向いているわ〜って思って。

さすがに、修士まで来るとどうやって飯を食うか真剣に考え始めるので。ようやく考え始めたんですよ。
博士課程まで行って研究者になるか設計で食っていくか考えたら。明らかに俺は研究者の方が才能が有ると思ったんですね。また根拠の無い自信です。かつ明治大学は幸いにも博士課程に進学すると助手制度というのがあって、学費を払わなければいけないんですけど、担当の授業を手伝うと給料もらえたんです。金めちゃ無かったんですけどね。授業料を百万ちょい払って、年間の給料が二百何十万とかで、だから家賃払えますよね。

経堂に友達と一軒家みたいなのを借りて、家賃3万ちょいだったので、何とか生き抜いて。経堂から生田へバイクで通っていたんです。20分掛からないんですよ。

佐藤:バイク通勤、多摩川渡るの冬は寒そうだね
石榑:その頃には体重が付いて来てまいしたから
佐藤:脂肪の断熱服を常備着用してね〜
石榑そうで。記憶が薄れましたけど、博士課程に行こうと思ったんですよ。で、青井先生に相談
佐藤:修士は2年で終了、学部生時代より超スムーズに終了
石榑そう!もう凄い真面目になっていますから。修士の時は勉強する学生に大変身してます。

佐藤:人に出会うってのは恐ろしいね、人間性を変える影響を受けるってことだ
石榑:僕は本当に青井先生に出会わなければ、僕は今日ここに居ない。それは間違えなく言えます。、で、青井先生に博士課程に入りますって言ったんですけど、青井先生は博士課程の学生をとったこと無かったんですよ。最初に言われたのは東京大学に行った方がいいですよ

佐藤:ハードル超上がってる、で博士課程受験したんですか
石榑しないですよ。するわけないじゃないですか。僕は青井研に入ったから博士課程に行こうと思ったので青井研じゃないと入学する意味がないんです。
佐藤:青井先生は研究者になるんだったら東大出ないと喰いぱぐれる可能性が高いと、そのような親心からの発言でしょうが
石榑そう、でも話したんですよね。今思い出してきたんですけど。もう一個の研究者としては、生きていくために。

お前、博士号とっても生活できないからなー!」みたいなことを散々言われて。「本当に教員になりたいんだったら、留学しないと駄目だよ」みたいな話をされたんですよ。
何でかというと陣内秀信研究室がモデル。陣内研はみんなイタリアとかアジアに留学をして、帰って来て、陣内先生と連名で本を刊行してデビューして、大学教員、研究者になっていく。そのモデルがあって、そういう感じでやんなきゃ喰ってけねーよ!みたいに言われて。
佐藤:青井先生は弟子に苦労かけまいと思い、研究者の成功ロールモデル、そのロードを話して聞かせてくれたんだ
石榑:でも僕は新宿の研究してるんです!、別に海外に行きたくないし

佐藤:青井先生は、そなん言うならやってみーや、と背中を押してくれたのかな

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