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2017年10月03日 石榑督和(いしぐれまさかず)さんに聞く 新宿思い出横丁にて |
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01 佐藤:この店内、賑やかすぎるので録音できるかなー、反応しているようなので始めます、初めての聞き取りです、よろしくお願いします 石榑:よろしくお願いします 佐藤:初回なので生い立ちからお願いします生まれはどこですか 石榑:岐阜県の岐阜市です、1986年の3月です。31歳ですね 佐藤:若い!研究者ですね 石榑:若いですか、ふふふふ 佐藤:石榑さんの榑(ぐれ)と読む漢字に反応してしまって 石榑:やっぱりその話ですか、僕もその話かなーと思って 佐藤:その漢字が妙に世界をゆがめるんですよ、で石榑さんの研究が榑研究に想えちゃって、メーインストリート歩かない雰囲気を持つ石榑という若者は一体どういう生い立ちを持って俺の前に現れたんだろう。義務教育では近現代史をほぼ教えない、タブーに近い領域になっている。そのなかで敗戦直後の日本の都市の息遣いなど全く誰も教えない。敗戦したことだって義務教育では終戦と誤変換して対応している。敗戦直後のことなど教わる場もない、ましてや「闇市」なんて言葉があったことすら知らない若者が多いじゃないのか。 石榑:僕も ないですよ 佐藤:敗戦になって大陸からどどーっと引揚者が戻って来て、住む場所も物も足らず大混乱。生活物資が必要でも物がないので統制経済のなか都会で暮らす。ヤクザ系が町中や市場を仕切たりしてたわけですよね。防火建築帯なる建物は福島市では新町といわれる場所に在る(店舗付き住宅)。一階が店舗でRC3階建を各地につくり、闇市の人々を移り住まわせたようだ。敗戦しなかったらそういう建築は建たなかっただろうし、闇市なんかも生まれなかっただろうし。 こんなに若い者が、何で「闇市」を知って研究までしていた。なぜ闇市の生成に興味をもって研究し本まで刊行しちゃったんだろうと不思議でしょうがないんですよ。俺は昭和26年生まれだから、ばーちゃんに「闇市にいくぞー」と言われて連れられて、傷痍軍人が白装束で物乞いしる神社の祭りや昭和30年ごろ闇市なる場所をウロチョロしてた記憶が蘇ってしまいました。 石榑:闇市だった場所ってバラックみたいな物があて 佐藤:そうそう、闇市を追い払って福島市内は国道13号の一部道路にしちゃた。なんで若い人が、闇市を知り研究しているんだろう・・・と 石榑:不思議ですよね。最初の「榑(ぐれ)」の話にいくと、やたら榑に反応していただいてて。 佐藤:最初にお会いしあときに、「榑」っていう漢字、人生初体験で読めなかったですよ! 石榑:それはそうでしょう、普通読めないですよ。日本建築史の先生だと読める人がたま〜に居るんです。 丸太から柱とか梁を切出す際に、矩形の断面で切り出すと縁が残ります、これを榑材と言って、非常に薄いんだけども繊維が沢山通っていて屋根材とか縁側の材料に非常に重宝される材料です。古建築に訪ねるとたまに榑材というのを説明に書いてあったりもするんです。それで日本建築史の人たちはたまに読めたりするんです。 佐藤:日常の建築現場では榑材っては言わないね 石榑:言わないですね。それで石榑なので石の縁みたいな意味なんじゃないかと佐藤さんにめちゃくちゃ反応いただいて 佐藤:その漢字を知って俺は「人榑」だなと納得。人系の端っこ人だなと 石榑:そう人間の端っこ! 佐藤:時代にとって有効な人間と端の方の人間と、中心の豊かさの幻想はマスメディアやワイドショーも垂れ流すので、誰でも見て分かっている気になるんだろうけど、端っこの豊かさの概念を知らずに、真ん中目指す者ばっかりかな、それを価値としてしまって生きているような空気が強いじゃない。 石榑:だから人榑的な、中心ではない者が佐藤さんのセンサーの中で闇市につながって、なんじゃ此奴っていうことですよね。そう言われると大学時代はそうだったかなーという気もしますけど。 石榑という苗字は岐阜市の一地域に、これはネット情報ですけれど。300世帯ぐらいいるらしくって。僕の家はその石榑さんが一杯いる地域ではなくって、岐阜市の端っこの方に一軒だけ在るんです。 もともと、おじいちゃんが、何人兄弟だったか忘れましたけど、多い兄弟の下の方で分家して。岐阜市の田舎の方に土地を買って、家を建てて引っ越した。その家に僕は生まれたんです 石榑さん自体は岐阜市のあるエリアに300世帯ぐらい住んでいて。地名としては三重県にあるらしくって、石榑峠。そこよりも岐阜市にまとまっているので、そこから来たのかどうかは分からないです。いずれにしても石榑っていう苗字は岐阜市の中でも少ないですね。岐阜市のちょっと南側ですね。 岐阜市は真ん中に長良川が流れているんですけど、そこに金華山が在って織田信長が一時期いた所ですけど。そのちょっと南の方に駅が在って。さらに南の方に石榑さんは塊ってるんですけど。僕の家ははだいぶ北の方に 佐藤:一人だけ石榑地域からも外されちゃったのか〜 石榑:外されちゃったのかも 佐藤:それなら榑の中の榑家だ! 石榑:確かに、そうですね。 佐藤:石材屋さんが多いですよね。関ケ原石材を観にいったことがあって。岐阜市内で個人美術館を営んでいる人と関ケ原石材でアーテストを抱えてて、その方を紹介されたんで、頭の隅に残っているんです。もしかすると石榑さんは石材関係の人なのかなーと思ったの。 石榑:関ケ原とか大垣の辺は石の加工が多いですね。それとは我が家は関係ないですね〜。飯食いながら話していいんですよね 佐藤:俺がそのまま文字にするから。食いながらどんどんしゃべってください!家で子供の時に彫刻してたとか芸術活動は無いの ■おじいちゃんの姿に めちゃ憧れた 石榑:子供の時は、彫刻はしてなかったですけど、父親と母親は共働きだったんです。サラリーマンですね、父親は郵便局で、母親は岐南町という隣の町で図書館司書をやったのち今は町役場で働いています。公務員に近い両親なんです。父親は小さい特定郵便局で窓口業務ですよ。父親の両親、おじいちゃん・おばあちゃんと6人で住んでいたんですね。 佐藤:三世代同居って珍しいですね 石榑:そうですかね。田舎なんで三世代同居は多かったですよ。両親は働いていたので、僕が早く帰ってきたら保育園の頃はおじいちゃんおばあちゃんに日中育ててももらってたんですね。 彫刻はやってないですけど、一番おおきいのはおじいちゃんは滅茶苦茶、僕の中では格好いい存在で。おじいちゃんは中部電力の現場の人だったんですけど、僕が生まれた段階で、辞めて。両親が働いているので孫守に専念するみたいな感じで、孫守しながら盆栽やりみたいなおじいちゃんなんです。現場の人だったので電気もやれるし、日曜大工がんがん出来る人だったんですよ。 我が屋の中に道具小屋が在って、キューイの棚を造ったり盆栽の作業小屋を作ったり。ホームセンターで買って来る材料と、当時は粗大ごみが凄かったんですよ。今はチケット買って申請しなきゃ捨てらないじゃないですか。 実家の辺は小さい頃は定期的な日に粗大ごみを出すんです。僕の家のすぐ裏が地域の共有地だったんですけど、そこに山の様に粗大ごみが積まれるんですね。使える物があったりするんですよ。 おじいちゃんは使いそうないい物を拾って来て直したり、その材料とホームセンターの材料を組み合わせて小屋作ったり。何でも手で出来る人だったんですよ。 それに対する憧れが小さいときはかなりあって。 ずーっと家に居るからっていうものありますけど。おじいちゃんは変な人だったでしょうね。毎日水道とか電気とかメーターを見て、今日はどんだけ使われたかを全部帳面に付けてて。 佐藤:暮らしの記録魔、それは変わっている人だね 石榑:変わっている!建築という感じではないですけど、建物とか住まいみたいなことを自分で家の事を全部把握して、しかも作ったり直したりし、日々の変化を計測したり。帳面に手書きで表を作って、ずーっと数値を入れて。 僕は小学校の時におじいちゃんの数値を使って、統計データを使って自由研究したんです 佐藤:じいちゃん孫の役にたつ、ナイスな人だったんだ 石榑:何か膨大な記録とか、暮らす事に対する凄い積極的な人で。僕はじいちゃんにの姿にめちゃくちゃ憧れて、大好きで。家の増改築とかもした。俺らが大きくなって増改築したり、キッチン直したりする。大工さんは雇いましたけど、おじいちゃんはもちろん人工の一人でした。小さい頃はそれが楽しくって、作業現場に一緒にいたんです、記憶にはほぼ無いんですけど、写真を見ると作業やっているみたいな感じで。 おじいちゃん彫刻はやってないですけど、おじいちゃんの影響はめちゃ大いと思います。変わったおじいちゃんで。 佐藤:暮らしの全ても自給自足ですか 石榑:自給自足まではいってない。 佐藤:ホームセンターから買ってきた材料とゴミとして捨てられた素材を、均等に扱う人、扱える人って、暮らしぶりの正しい姿を知っている人だと思うんだけどね 石榑:凄い節約してる感じだと思います 佐藤:節約とは思わないんだけど その2へ |
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