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2017年10月03日 石榑督和(いしぐれ まさかず)さんに聞く |
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02 石榑:そんな言葉は当然知らなかったんですけど、ブリコラージュ的に作っていたんでしょうね。 佐藤:凄いね 石榑それに対する憧れは凄いあって。小さい頃はおじいちゃんに付いて車に乗せてもらって、山に行って小さい松のとか拾って来て盆栽をやっていたんで。針金で盆栽に育てていくのを家でやっているんですよ、僕も見よう見まねで盆栽作業をやって 佐藤:子供盆栽家、変わってたねー 石榑:おじいちゃんの道具小屋もめちゃ揃ってて。綺麗に整っているんですよそれも使いたくって。 隣が熊野神社なんです。木が凄い茂っている神社で、台風とかになると、木が倒れるんですよ。枝とか木が倒れているんで、おじいちゃんの道具小屋から鋸を持って行って鋸を引いて基地を作ったりするわけですよ。 じいちゃんは大正14年生まれ1924年ごろで、僕が戦後史の研究をするようになってから「もっと聞いておけば良かったなー」と思いましたけど。当時はそんなことは思わないので。 潜水艦だったかなー船だったか忘れましたけど、爆弾積んで突撃する特攻隊に選ばれていて、出撃する予定だったけど出撃せずに帰ってきたみたいな話は何回か聞いたことはあったんです。それもうちょい聞いておけばよかったなーと思いますね。 ■実家の母屋はRC 陸屋根 佐藤:おじいちゃん脱近代化しているよね。 石榑:なんでしょうね、家はけっこう変わっていて、建物が変わっているんです。地域の中で変わっているなーと思っていたんですよ。 どういう事かと言うと、おじいちゃんは現場の人だったので、家を空けることが若い頃は多かったらしいんですね。地震がそうとう怖い人らしくって、家が壊れて家族が死ぬのが嫌だから(濃尾地震1891年)岐阜の端っこに引っ越て家を建てていくわけですけども、一軒だけ今も残っていて、築100年ぐらいのボロボロの倉庫なんですけど。母屋の方を新しくしたRC造なんですよ。今ちょうど築50年ぐらいですけど、間取りは近所の家とほぼ一緒なんですよ。普通に6帖間が並んでいるような家で。廊下があって。 友達の家に行って間取りを見ても同じ間取りだなーと思うんです。で、陸屋根の2階建で。「爺ちゃんは現場に行くから壊れない家がよくって、それにした」って祖母が言っていたんです。 佐藤:木造民家の間取りをRCに置き換えた実家だと 石榑:なんか変な建物です 佐藤:ダム作っていて、RCに対する絶対の信頼感があったのかね 石榑:分からないですけどね。 佐藤:新耐震基準じゃないから帯筋少ないかもなー 石榑:改修したときに、ハウスメーカーの改修するおっさんが言ってましたけど。「筋金入りすぎていてぜんぜん壁に穴が開かねー」って、たぶん大丈夫。風呂改修しようとした時に壁に穴が開かなくってすげー苦労してました。特攻へ行った話はもう少し聞きたかったし、おばちゃんは昭和2年生まれ、昭和3年だったかな。 岐阜も駅前に戦後闇市がめちゃー出来たんですよ。長良川が流れていて舟運で栄えた地域性、楽市楽座やっていた織田信長が城下町持っていたエリアの中心市街地から、だいぶ離れた所に駅があって。ちょうどその間ぐらいに昭和の中心市街地が在るんです。 闇市は駅前に出来ていて。戦前からそれなりに工場があって戦争で燃えて駅前に引揚者が大量に入って来て。ハルピンから引き揚げて来た人たちでハルピン街と呼ばれていたんです。そこが巨大な繊維問屋街になっていて、今は完全なるシャッター通りなんです。地権集めてはタワーマンションに変わってきていて、名古屋まで電車で15〜6分なんですよ。名古屋に通勤する人の家にどんどん街の姿が変わりつつあるんです。 小学校の社会科見学で、岐阜の産業として、繊維産業って重要だっていうので工場と駅前の問屋街を見学に行くんですよ。小学校の当時は闇市とかよく分からなかったんですけど、引き揚げて来た人たちが作った町があってみたいな話は片隅であって。おばあちゃんも「戦時中期は軽工業の工場で働いていた」って聞いたことがあって。『戦後東京と闇市』をつなげるとそういう感じでしたね ■小学校の頃 佐藤:幼年期の石榑さんは、身の回りの物づくりに明け暮れる、じいちゃんの後ろ姿に憧れる子供で、小学校に入ってもおじいちゃんの背中に憧れ続けてたんですか、野球やるとか運動系に行くんじゃないかな 石榑:小学校の時は絵を習ってましたね。でもずーっとサッカーやりたかったんですよ。今の体形からは想像できないですけど。 小3か小4の時に小学校にスポーツ少年団が出来て、サッカー部に入ったんです。絵を習うのはやめたんです。 そのチームも弱小でした。小学校のサッカーって20分ハーフなんですよ。一試合40分ですね。弱くって、全然練習もしてなくって。野球が強かったのでグランドは野球部が使っちゃっていて、サッカ部は使えなかったんですよ。月に2回か3回しか練習がなくって。いきなり試合するんです。僕の記憶では最大で、40分間の一試合なんだけど20対0とかで負けましたね〜。とういう試合がざらでしたね。20対0とか18対ゼロとかでしたね。 小学校の時はまだ、おじいちゃんお婆ちゃん健在でしたし、おじいちゃんとの関係は小学校までは強かったと思います。 佐藤:2分おきに1点とられるたチームすね。絵を描いたって具象画ですか、何を描いてたんですか 石榑:記憶にないですけど、売れているのかどうか分からないですけど、画家の人が教える教室に行っていて、基本的には具象画ですよね。スケッチとかをしたりです。 佐藤:おじいちゃんの手伝いはしなかったの 石榑:盆栽の真似事みたいなのは、山に一緒に行ってましたよ。 佐藤:山で虫採りして遊ばなかったんですか 石榑:虫も採りましたよ。田舎なので溜池があるんですよ。山に入ってはカブトムシ探したり、家の隣の神社が多かったですね。鎮守の森的なんで木が一杯はえていて。境内の本殿がある辺が小山になっていたんですよ。だから地形的にも楽しくって。小学校の中学年ぐらいの時にちょっとマウンテンバイクっぽい自転車を買ってもらって、その小山に登っては駆け下りるみたいことやりまくってましたね。 ■高校選抜サッカー選手 佐藤:今の体形からは想像できない機敏な少年だった 石榑:小学校のときもぽっちゃりしてましたね。中学校になって部活を毎日するようになって、高校まで本気でサッカーしてましたね。僕は補欠ですけど岐阜県選抜の高校サッカー選手です 佐藤:ポジションは 石榑:僕は横が多かったですね。サイドハーフとか、サイドバックとか。ウィングとかそのへんでしたね。 佐藤:ワールドカップ観ると興奮するでしょう、ワールドカップの時期は仕事にならないね 石榑:興奮しますねー、やるほうが楽しいですけど。ロシア大会ですね、 佐藤:時差がないといいけど、4年に一度は集中して観ちゃうほうですか、常日頃観ているんですか 石榑:今はたまに友達とフットサルするぐらいですね。観に行くよりは。 中学はサッカーづけですよ。月曜日が部活休みだったのかなー。火曜日から日曜日までは部活をやって、月曜日は岐阜の中の黒野っていう地区なんですよ。黒野小学校から岐北の岐北中に行ったんですけど。 黒野は城下町で、めちゃくちゃ小さくって、城跡が在ったんですね。城はもちろんなかったんですけど、堀が在って土手が回っていて、中にグランドが在ったんですよ。月曜日はサッカー部の友達と城跡に行ってそこでサッカーして。城跡の外側の堀は水が溜まっていてザリガニが一杯いて。小学校の時にはザリガニ捕りまくってましたね。 佐藤:おやつに、ゆでて食った 石榑:食わないですよ。食ったことないです。スルメで釣ってましたね。中学校はほぼサッカーしてましたね 佐藤:高校はどうしたんですか 石榑:高校は長良川の横に在る長良高校なんですけど。一応進学する学校ですね。勉強はあんまりしなかったですね。大学に進学する人が多い高校の一番下ぐらいの高校で。サッカーがそれなりに強かったので、そこに入って。 その03へ |
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