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  2017年10月03日 
石榑督和(いしぐれ まさかず)さんに聞く にて
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2004年 明治大学に入る

石榑:長良高校でサッカーしてましたね。そんなにうまくなかったんですけどキャラ枠で岐阜県選抜にはっていたんです。1、2年一生懸命練習して、3年生になったぐらいにレギラー落ちたんです。その後もそれなりに楽しくやってましたけど。サッカーしかしてない高校生ですね
佐藤:青春時代はサッカーで明け暮れていたと
石榑:明け暮れてましたねー、もっと遊べばよかったのにーなーと後で思いましたけど。

佐藤:青春時代に体力つけまくって〜大学は明治大学、聞き取りしてると大学ごとに塊になっているようで、個性もそこで養われる、縦割り村化しているように感じるんですけど。
石榑:佐藤さん明治大学出身の人間に初めて聞き取りですよね、絶対そうだと思いますよ
佐藤:明治大学はビートたけしとか、勉強したくない人が行く大学なのかなーと思っていたんだけど
石榑そうです、そうです
佐藤:大学も榑系に入っちゃったのね〜
石榑ははは、一応、「明治は野人」って言われていて、誰かに言われましたよ。その通りで、私立大学の中でも正統じゃない。全体の中ではそれなりのレベルだとは思いますけど。私大で東京だったら、早稲田・慶応みたいなのありますよね。
佐藤:建築系は東大、東工大、早稲田、工学院、横国卒の人々には会いますが、明治大卒は初めての出会いですね。俺の聞き取り活動(ことば悦覧)は他薦された人を聞き取るので、どうしても大学系に収まる傾向が強いです
石榑:ネットワーク的にもね
佐藤:そこで、石榑さんの聞き取りを切っ掛けに明治大学系の野人たちも開拓してみたいと
石榑:なるほど。難しいですねーそれは難しいははははは、今あまり推薦できる人を想像できないですもの
佐藤:独立系建築家は喰えないって知っているようで、東京大学卒だと役人さんか大学の先生が多くって、
石榑:明治もぜんぜんいなくって。でも40歳代の人たちが、建築家としてけっこう仕事するようになったぐらいで、それより上で独立してガンガン仕事している人って少ないと思います聞かないですよ。40歳代で有名な人だと、中村拓志さんが一番有名なんじゃないかなー、リボンチャペルとかですかね。

佐藤:聞き取り後スター街道進む方もいますが、雑誌みて聞き取るスタイルの活動でないんです。30歳前後で独立している人も少ないし、人伝いで推薦されたら聞き取りに出向く形なんです。明治大学にどうして入ろうと思ったんですか、成績がいまいちだったから
石榑僕はそうです。明治に失礼になるので。明治大学が第一志望ではなかったので、浪人してないんです、一般入試で現役で受かったのが、明治のみ
佐藤:ドンピシャ明治大学に招かれたね
石榑:センター試験利用で受かったのが柳沢究先生がいた名城大学。その二つです。一般入試で受かったのが明治しかなかったので、浪人するか入ってやるかの選択肢だった。浪人したくねーなーと思って。
兄弟二人ですけど、僕が長男で二歳下の弟がいるんです。父親も母親も働いているので、幸いにも東京に行ってもいいって言われたので。お願いしますということで、川崎市に行きますと。明治大学にはいりましたよね。

佐藤:大学・キャンパスの所在はどこですか
石榑小田急線の生田、川崎市内です
佐藤:京王線の明大前じゃないのか〜

石榑:明大前じゃないですよ。本部キャンパスの1年生、2年生のキャンパスが明大前なんです。3年生4年生のキャンパスが御茶ノ水の駿河台キャンパスなんです。
今の佐藤さんのリアクションがそのまんま僕のリアクションで。一般入試、明大前で受けたんですよ。受験当日も超ラッシュなわけですよ。井の頭線めちゃくちゃ混むから、平日の朝なのに。井の頭線降りて、京王線だったかなー、覚えたないんですけど。2004年ですね。

駅を降りたら、混んでいるのに人が除けていくスペースが在ったんですよ。なんだろうなーと思って歩いて大学の方に向かうじゃないですか。ひざまづいているおっさんがいて、二日酔いでゲロ吐いていたんですよ。で、誰もそのおっさんに声か掛けず除けながら通り過ぎていくんですよ東京ってこういう感じなんだーって田舎の高校生は思ったわけですよ。
明大前のキャンパスで受験し、けっこう出来たんです。受かるかなーと思っていたんですね。他のテストの結果見たら、全部落ちていて、ジャー明治かーと思って。試験受けた所に通うのかーと思って書類書いていたら、理工学部は川崎市って書いてあって、生田ってどこ??って、さっきの佐藤さんと同じリアクション。

佐藤:現場があったんで、70年代に生田駅には何度も通ったけど明大理工学キャンパス知らなかったなー
石榑生田駅から10分ぐらい在ります。小田急線の線路のすぐ南側なんですけども、旧陸軍の実験場で、動物実験とか化学兵器を造っていたところなんです。明治に理工学部がそこに移ったのは1960年代ですね。



佐藤:人生・初生田駅は、勤めていた建設会社の設計部の上司の家を訪ねた時に降りた駅でした。会社のお得意さんである農家の人が多数賃貸平屋も持っていて、その家も平屋の木賃で6帖4帖半で玄関から便所に入る形でしたね。玄関開けるといきなり汲み取り便所の香りがするので強烈に覚えている。その後、俺も調布市でそういう家に住むことになるんだけど、都会の人は臭い家に住んでいたんだよ〜!!
石榑はははは
佐藤:俺は実家農家で母屋に便所ついてない分棟でした。就職したときは建築会社のビルの6階が寮で、目の前が東京タワーが見えてる恵比寿駅前でしたから水洗トイレだった。東京で働いている人は臭い家に住んでるんだーってびっくり仰天

石榑:生田は東京じゃないです。明大は60年代に生田に引っ越していて、農学部だけ最初いて、あとで駿河台に在った建築学科理工学部が移転して来て。だいぶ建て替わってしまいましたけど堀口捨己が全部校舎を作っていて。

佐藤:すこし話を戻しますけど、明治大学の建築学科に入ったんですよね どうして建築学科だったですか
石榑:建築ってよく分からないですけど。建物には興味があったです。おじいちゃんが作った住まいとか。建築って何かなんって分からないですよ。僕は建築学科しか受験してないので、住まいとか建物みたいなのとかを作りたいなーと思って、たぶん受験して入ったんだと思います、漠然と。建築というレベルは当時は分からないし。
岐阜って梶原拓(ひろむ、岐阜市出身、元建設省官僚)っていう県知事が建築行政をしていて、建築家に公共施設を依頼しているんですよ。
市内に安藤忠雄のホールとか、坂倉準三が岐阜の隣の羽島市の出身で岐阜市・市民会館とかは彼の設計なんですよ。高校当然は知るわけもないんです。市民会館が坂倉順三って知ったのは大学に入って3年生になってからです。
でも、小さい頃母親の趣味なのか、演劇を観に行く機会が多くって。市民会館はかなり行ってたんです。普通にホールがあって、ホールの外側のホワイエの空間が斜路で回ってて、その斜路を下りながらトイレに行くプランニングになっていて、その下っている感じがカッコいいなーと。入口はピロティーじゃないんですけど、ボリュームが二階が浮いていて、内側にコルビュジェ的な円錐を切ったようなのがあって、下がガラス張りで抜けているデザインなんですけど、格好いいなーと思っていたんですよ。安藤忠雄の名前ぐらいは知ってました


 (絵:グーグルより)

佐藤:コルビュジェ系建築を体験してて、安藤さん恐・強しだ、田舎の高校生だった名前をしっている
石榑:そう、安藤忠雄の名前を知った
佐藤:で大学に入るじゃない


明治大学 学生時代 

石榑明治に入るんですけど。
佐藤:入学時には研究者になるなんて思ってなかったんでしょう、研究者の存在知らなかったんじゃないかな
石榑思っているわけないじゃないですか思っていたら馬鹿ですよ。
佐藤:そういう岐阜出の若者が時を経て今日、俺の前に建築系研究者として座って酒を呑交わしているんです。そこに至る経過、一体どうなんて博士になっちゃったのか〜、大学に入ると設計の授業あるわけですよね
石榑:あります、あります
佐藤:明治大学の建築科を卒業すると施行現場で監督する人になるんですか
石榑:もちろん現場に行く人もいっぱいですけど、設計事務所とかゼネコンの設計部に行く先輩も多かったですアトリエに行く人は少なかったと思います。研究者になるなんて!思ってない。僕も頭おかしい学生の一人だったと思うんですけど。
岐阜から出て来たから、それなりに気合は入っているわけですよふふふふ
佐藤:気合入ってもどうにもならないでしょうけど一応、気合は入りきってた

石榑:どうにもならない。とりあえず気合だけ入って大学へ行くわけですよ。どうやら新建築とかいう雑誌があるらしい。毎月出ているらしい。
佐藤:高校時分に新建築を見たことないわけだ
石榑とうぜん、見たことないですよ。とりあえず気合だけはあったんですけど。
佐藤:大学入学直後までは気合で入れて!生きた
石榑気合はあったんだけども、大学の授業に行ってその後はサッカー・サークルでサッカーは夜して、そのまま友達とサッカーゲームしてたんですね。朝までゲームするじゃないですか。朝起きられないじゃないですか。授業行かないじゃないですか。 気合はあるんですけど、朝起きられない。非常に両親には申し訳ないですけど。
佐藤:授業に出席しないで寝ていた、その下宿はどこに在ったんですか

石榑:道挟んで隣、隣なのに大学に行かないっていう。1年生の頃にはそれなりに、授業には行ってたんですよ。

その04