HOME 作成 佐藤敏宏 |
聞き語り記録 | ||||
エスキス塾講師 堀井義博さんに聞き語る 01 02 03 04 05 06 |
|||||
05 出品までの経費 追加しておきたいこと 文字記録を残すとは 抗弁してみる |
05 ■出品までの経費 佐藤:「日本一きめて〜」の、その甘えから脱するためにまずは、オフ会で今年の審査員一位を決めるための呑み会をする(笑) 審査員はそれを最も恐れるでしょうね 堀井:今の大学はまさにそうなっているから。学生からの評価があるんでしょう。それと同じ、おなじ。 佐藤:学生の首をしめ自由奪うなら、学生も同じ行動に出る。末期的な姿になるな。遊び、それを本気だと受け止める学生がいると、さらに困るんだけどな 堀井:あんまりいい案じゃないな。それやると審査員やってくれる人が居なくなっちゃう。 佐藤:審査は今のまま続けるって事でもいいし、身近な人を審査員にするのもいいね。京都でやっているような。建築外から審査員を呼んできてみるとどうなるんだろうね 堀井:それはねー上手くいかないんだよねー。建築の話にならないんだよね。 佐藤:SDL日本一戦って、学生時代最後の遊戯じゃないんですかね、あそびは続けた方がいいと思う。あの場があって初めて喋りだす人もいるだろうし。まずは、祭りの場があるだけでいいように思うね。仙台で大きな建築祭りを体験して、地元に戻ってSDL2018について、悪口を放って盛り上げる奴だっているだろうし。お神輿の上は空蝉のような状態でずーっと続いていけばいい。SDLはやめない方がいいね。 しょうがないから世界一決定戦をめざすとか、その前にアジア一決定戦の実現かな (2018年3月5日SDLエスキス塾の様子) 堀井:アジアにはすでに波及していて。台湾から毎年、SDL日本一に40人とか、50人とか団体で聞きに来るんだ 佐藤:台湾、熱〜いいね。派遣費は誰が拠出しているんですかね 堀井:俺は分からん。 佐藤:気になったけど、SDLに出品するのに学生は幾ら資金が掛かって。お金はことを誰にも聞かなかった。知りたいですね 堀井:それは知らん、自主リサーチしてやって。多い奴は15万円ぐらい掛かっているか、もっと掛かっている。 佐藤:模型作りは後輩のマンパワーに頼るしかないでしょう。作業後に飯食わしてと。飯代だけでも、3人に頼んで、一月掛かってたとしたら、一食500円として、自分の分も含めて6万円かかるよ。輸送量が3万から5万ぐらいかな。材料費や印刷代も要る。親の脛をかじるか、バイトで資金を集めるのか、はたまた別の方法なのか。 堀井:親の脛かじっているか、もしくは偏差値の高い学生が凄いバイト代の出るバイトの家庭教師とかなんとか。バイトで稼いだ金を注ぎこんでるんだろうけど。分からん。人によって色々だと思う。 ■ 追加しておきたいこと 佐藤:こんなところで、いいでかね。エスキス塾に関して追加しておきたいことないですか。 堀井:俺はね今のエスキス塾はね、まあまあ好いと思っているの。行き掛りじょう付き合った割には。俺もしんどいけど、それなりに面白い、楽しんでいるですよ。でも、こんなものも10年んもやったらねー、もう古い。 要はそれ以上は続かないっていうか、ルーチンになるだけだから。5年だね、それでもう古いよ。 佐藤:SDLも既に伝統的な祭りでいいじゃないですか。ナマハゲが出て来ることに、皆で喝采するで、いいのでは 堀井:いやいや、ゲリラ活動っていうのは常時動き続けないといけないから。五十嵐君がどこまで、真面目になるつもりでいるのか、知らないけど。俺がそれについて積極的に言う権限もないんだ。 俺が直感的に言えることは、3回目終わったでしょう。来年、再来年ぐらいで、いい加減満期ですわ。その先は別のことをやる方がいい。絶対に。エスキス塾の意義が満期になる。 佐藤:どういう意味ですか 堀井:うーん。 佐藤:しゃべりたいという学生が居なくなるっていう予感ですか 堀井:そうじゃなくって、順番に話さなきゃいけない。仙台日本一、自体、そもそも、日本一が仮に幻想だとしても、「よう〜し俺が卒業設計で日本一になるんだ」っていう幻想を掲げることによって、全国の学生たちのエンジンを掛けた。卒業設計のレベルを上げた。プレゼンの方法を洗練させた。そういう瞬間がきっとあったと思う。「ああ、こういうのが全国一位か〜」っていう。ある種の嘘だけど。そういう瞬間がさ。最初の2、3回ぐらいはあったかも知れない。 でもマンネリ化していくなかで、もうそうじゃないことは、誰の目にも明白で。参加している学生自体そう思っている。で、その脇で始まったエスキス塾も形骸化していく。 俺の意見はこうなんだけど、「そもそも、本番では自分が話したい人が来ている場所」なのに、話す機会が無いじゃん。」 だからそれを話す場所が要るんだっていうことだから。そもそもこれはなんだったのか。卒業設計日本一戦がなんだったのかを考えることによって、生み出されるで。これを5年も10年もやっていくと、二つはセットになっていくんですよ。 5年が満期というのは、この新鮮さ、この意義と役割を感を直すためには、ずーっと続けては駄目で。本体がマンネリなったのに、付いて行ったらエスキス塾もマンネリになるんですよ。たとえメンバーが入れ替わってもですよ。 だから俺は5年も経てば、来年でもいいかも知らない。分からん。同じゲリラなら違う事をやるべき。 (2018年3月5日SDLエスキス塾後の呑み会) 佐藤:すでに原野はどこにも無いので、ゲリラである必要はないと思うけど 堀井:俺たちがこんなことを言ってること自体が、そもそも間違いなの。大人が言う必要がない。 佐藤:同意します。エスキス塾がゲリラ・イベントだとも思わないんだけど。学生に建築をあれこれ考える時間をあたえたり、建築の道を再考させる動機を与えるための場だと思います。建築の語り場は小さくていいのだが、語り場をマス化したり、見世物にしたいと、策を弄する輩が出てきちゃい、マス化を進めることで多様性への道をドンドン蒸発させてしまうね 堀井:なくなっていくよねー 佐藤:一部の建築青年の態度の中にある、動機が不思議でならない。自分がカリスマに成っていくことで建築の事態を作り出せるんだという、その幻想が。多様さを求めている社会と多数の他者に迷惑を与えることを気付いてない。祭りは何処でも誰でもできるんだから、気張らず、さっさと、小さな語り場をつくり実践する、でいい 堀井:わかるわかる。 ■文字記録を残すとは 佐藤:小さな語り場つくりだけど。下宿をちょっと片付けて、割り勘でゲストを招いて、安酒を手に入れて、一晩語りあかせばいい。 読書会を開き続けるでも、SDL日本一展に対抗できる場は出来きちゃう。安直な路を若者に提供し、勘違いさせる罪は重いかな。 建築を歩む者にとっては、若いうちに他者に承認され表彰されたところで、現在の日本の建築界の状況下では、さほどの意義はない。 さらに付け加えるけど、エスキス塾での講評の先生の貴重な語りの文字記録を残さないのか。記録係が見えなかったので、学生はどう記録するのかと。エスキス塾を体験して思いました。 歴史家に聞いてみたい。記録を残さないのはめんどくさいからなのかなー。 松尾芭蕉より優れた紀行文の書き手と評されている人が、映画監督・小津安二郎さんの先祖にいて、小津久足(ひさたり)さん。仲間内で研究してるようですけど、文字記録を残す人と残さない人の差異はなんだんだろう 歴史君:分らない。 堀井:分らん 歴史君:小津安二郎の先祖の人は旅の記録。当時は写真は無いし、絵だって誰でも描けるわけじゃないから、見たものを言葉で伝えたいというか。 小津久足さんたちは、松島にみんな行くんで。こんな所って書いて、それでみんなで共有して、松島に行けない人は「こんな所かなー」と想像は出来るようにするし。だから文章の表現はむしろ緻密なわけです。今よりも緻密なんです。 佐藤:松尾芭蕉のような練りにねったフィクションでなく、近代に似た主体で感じままを記した。今は、携帯で撮ってSNSにさっと写真アップし、ちょろっと文章書いて伝える、気分になれる。伝達手法は色々あるんだけど、今は何も残らないような気もする 堀井:俺は上手く言えないんだけど、記録を残す人と残さない人の違いの話でしょう。それで言うと俺もけっこういい加減で、佐藤さんは全部文字起しするとか、俺からすると独特なんだけど。ある種の気ちがい沙汰だし。なんで採った音をそのまま流さないんだとも思うし。で、俺も記録はあんまり残さないように思う。でも別の残し方をしていると思うっていて。 話が横に行くんだけど、これを理解しない人がいるんだ。楽譜ってあるじゃない。あれは録音・技術だよね。今は音の波形をそのまま拾って、記録する方法が開発されたから、楽譜を必要としなくなったけど。音はどうやったら聞いた音が鳴るか、その方法を命令記譜法にして「こうやったら、あなたがあの時に聞いた音が鳴りますよ」という記述の仕方なんですよ。だから楽譜とは録音技術なんですよ。 ところが、その後に3人のピアニストがやって来て、楽譜を見て弾くと、俺の音と歴史君の音と、佐藤さんの音は、みんな違っていて。これ録音になってないじゃんという話になる。 その後にやっとこさ、クラシックの世界で本来これが正確な録音で、誰が演奏しても同じになるはずなのに、楽譜を読む人によって解釈の幅がどうも生まれちゃうらしいってことになって。記録と再生の間には読むとか読まれるみたいな関係が、表現の幅を産み、誤解につながっているだけど。もともとは楽譜がなんのためにあるか、録音だと思う。 その後に物理録音が発生した。音の波形を物理的に記録する。針が拾った音を円盤に焼き込んだら、同じものを同じトラックを走らせれば、その波形を再現できるっていうのが、アナログレコード盤じゃないですか。 さらに、磁気を並べ替えたのがテープだったし。音を物理的に録音するっていう技術が出来たときに、記譜法、記号によって記録するよりも、正確に録音できるようになってきた。そうすると、解釈が下手でもなくなって、もはや聞いたそのまま。聞いたそのままなんだけども、話がどんどん厳密になって行って、アナログレコードは余計な音を加えてしまうし、再生しているうちに、段々削れていって音がなめて行くから、有限であると。 テープはテープで別のノイズを生成するらしいというので、その次にやって来たのはノイズを全て論理的に排除したはずのデジタル。 佐藤:人は忘れるから記譜法を創りつづけるんじゃない 堀井:一つにはね。強烈に覚えていて、強烈に記憶していて、 佐藤:日高見おいしいから、もう一杯呑んで終わりにしよう 美味しいからね 堀井:美味しい 佐藤:全部記憶している人間がいたとして、それはそれで窮屈で嫌な存在ですよね 堀井:その話、意見が出て来る流れは俺なんとなく判ったんだけど。強烈に覚えている記憶、強烈な経験。その経験そのものを取り戻そうとして、人間は一生懸命再現しようとするわけですよ。それが表現になるわけ。 例えばもの凄い風景を見たと。自分が観ただけだったら、人に伝えられないじゃん。「それってこういう事なんだって」再現しようとするのが表現。 佐藤:考えるから哲学じゃない。伝えるために行う記録が表現なの。 堀井:伝えようとして表現が生まれる。だけど、表現されたものと、経験そのものはいつもズレているから。本人の中では上手いっていることもあるかもしれな。そこに表現があって、記録とは違うっていうか。 今日では、記録が容赦ないレベルで残されている。誰もその記録したものを反芻しないでしょう。佐藤さんは文字起しするために聞き直すかもしんないけど。会議をレコーダーで採って、聞き直す人は書き起こす人だけだよ。みんな聞き直さないんだから。 佐藤:おれは「全てが今・現在だ」と思うから文字起しているんだ。聞き起こしたりしない人たちは、全て過去の出来事だと思ってるんじゃないかな。「過去を反芻するのは、意味はない」と思っているのではないかな。俺は牛なんだな。 記録無しでは記憶は保全できないし。俺には門脇さんのように即答で、制作者のための鏡の役割を果たすかのような、淀まぬ応答能力がない。正誤はわからないけど即答できる力は一種の異能者。俺は凡人だし、その場で理解できないし、その事について2年後に分かるような鈍重・鈍感な人間だからね。記録にしているだけなんだ。 ■抗弁してみる 堀井:門脇君の能力はありがたい。今、佐藤さんが言ったのと近いのか、ズレているのか分からないんだけど。便利という言い方は本人には失礼だけど便利。学生の訳の分からない説明を聞いてるよりも、作品状況を整理して、分か易くしてくれる分だけ便利なんだけど。俺は門脇君には失礼だけど便利という以外の言葉をもってないので、申し訳ない。 正確な記録でもないし、再現でもないし、解像度の低い、ぼんゃりした物を、それってこういう線ですよねーって、長方形に直しちゃうわけですよ。あるいは三角に直してしまう。それまでは「ぼへーってした姿になっている」が「それはこういう形ですねー」みたいな説明をする。 でも彼がそうすることによって、それだったらこういう話ですよねって、話の入口になるから、像が結んでないものに対して像を作る (絵:ツイッターより) 佐藤:効率はよさそうだけど、近代教育の手法じゃないですかね。「ムダ毛もっと残してた方が、いいのではない」と思うんだけど。 堀井:学生は綺麗にまとめられたときに「いやそうじゃなくって」言えばいいのに、と俺は思うわけ。「今おっしゃってくれたことは凄くよく整理さえれてました、でも僕はその間をしゃべってます」と言えばいい。 佐藤:なるほど。ミスリード気味にされるのを防止しちゃう 堀井:若い人によくあることなんだよね。 佐藤:きちんと整理して、これだと示すことより、ムダ毛のままにして見守り、学生の能力って建築外で芽吹く可能性の方が高いように思うんだ 堀井:綺麗にまとめていただいてありがとうございます。でも。でもを差しはさめば、全然いいと思うんだけど。 佐藤:講師の話を素直に聞くだけで、学生は抗弁しない、よい学生しているかのように見える。学生も演じているのかな 居酒屋が賑やかになり雑音で聞き取れない 深夜までもりもり話は続くのでありましたと お仕舞に ならず続いています おまけ その06へ |
||||