2022/9/28 笹岡周平さんに聞く@大阪
作成:佐藤敏宏



笹岡周平さん
ノートによる自己紹介 
 01  02  03    HOME

15年ぶりに聞く。 リーマンショックくらいました

佐藤:2008年から15年が経ち大阪まで聞き取りにきました。5年ごとの予定でしたが東日本大震災も起きてしまい、間が空き15年目になってしまいました。15年前は、原田佑馬さんと二人でシェアオフィスでしたし、所員はいませんでした。
笹岡:そうですよね。
佐藤:笹岡さんは一人でしたし、事務所は以前と比べると3倍以上も広くなり屋上にベランダも付いてます。場所は古来から宮殿があった上町台地の上ですね。

笹岡:当時の事務所の規模は、今、語り合っている場の広さぐらいでしたね。
佐藤:シェアしていたから広さは半分だった。
笹岡:そうですよ。
佐藤:あの事務所は並べてある個性的な物も、どちらの所有か分らない(笑)。

笹岡:あれから3人で、広い北浜に移転して借り直してすぐ東日本大震災がきました。
佐藤:原田佑馬さんと笹岡さんは柳原照弘さんに紹介していただきまして、一緒に靭公園そばの事務所を訪ねました、あれは2008年5月12日の夜でした。

笹岡
:その次の年ぐらいに北浜に引っ越ししまして・・。
佐藤:あの当時にも仕事はあったんですか?
笹岡:あったんです。僕は独立したのは早くって、最初に大きなクライアントをとってました。仕事はあったんです。で、すこし経って北浜に引っ越しして。
その後リーマンショック(2008年9月15日)が来て、影響がありました。今回の新型コロナも一緒なんですけれど、事象があってから、仕事にじわじわ影響が来きますから。で、やっていたプロジェクトはほとんど頓挫してしまい、お金が無くなって。



佐藤
:設計料ももらえずに・・・。
笹岡:そうです、貸し倒れも一杯ありまして。今、物件表をみてたら、当時の没物件が凄い数です。一杯ありました。

佐藤:社会がITバブルなどで、経済バブル破綻後でも、住宅投資でアメリカ様はいけいけ状態で浮かれてましたしね。
笹岡:大手企業さん相手でも契約書もらってないしな、でお金もらえなかったり。
佐藤:大手からも踏み倒されたんだ!なりふり構わないので、小さな事務所にシワ寄せするよね、酷いね。

笹岡:踏み倒しに遭いました。担当者に「ぼく、それ頼んでないよ」と言われたりして、無茶苦茶ですよ。こっちもまだ20代だから、対応のしかた、あまり分っなくって。そのことで、事務所に居られなくなって、僕だけ引っ越したんです。シェアオフィス解消になって。でも彼らとは、今も仲はいいですけどね。

佐藤:原田さんはグラフィックデザインでしたからね。



2008年 5月12日 pm10時頃記録



 右、柳原照弘さん
 その記録を読む 



笹岡:行かれましたか?
佐藤:まだです、予定が合わず今回の大阪聞き取りでは、一番最後に会うことになっています。
笹岡:そうですか。

佐藤:時間ありますか、と問い合わせたら、10月6日にお会いすることになりました。
佐々岡:彼は抜群に忙しいからね。ずっと忙しいんですよ。




2022年10月6日原田さんの事務所にて
柳原照弘さんの事務所に集合するよ

佐藤:10月6日に原田さんの事務所に行ってみます。10月6日に今回の聞き取りは終ろうと思うので、柳原さんと岡田栄造先生と対談しようと提案してまして、誰も来ない、というか段取りが面倒なので声かけてないです。

笹岡:私は行きますよ
佐藤:そうですか
笹岡:柳原事務所でやるんですか
佐藤:古いビルの3階だったかな。
笹岡:あそこのビルの1階に昔、レストランですけれど、前に勤めていた事務所が設計したものです。

佐藤:梁の掛かってないスラブなので天井が高く見える事務所ですよ。羽振りがいいのかも知れないけど屋上も使っていましたよ。
笹岡:500坪くらいかな。
佐藤:そんなには広くないですよ、あっても20坪ぐらいかもですよ。でも、屋上があってプロ仕様の厨房が備わっていて、いい感じですよ。手作り飯つくりながらワイワイやるといいと思うんだけど。柳原さんは人集めてワイワイやるの好きじゃなくなって「作品を制作することに邁進したい」と言うので。
でも、デザインイーストは10年間はやっているから、また気が変わるかもしれません。俺が福島の田舎から出てきて「柳原さんお前やれよと背中を押し過ぎた・・・」だからか派手にやり過ぎちゃったからね、コツコツ続けることがいいのに。
2022年10月6日
柳原照弘さんの事務所に集合し呑み語り合う

左端から
笹岡周平さん 柳原照弘さん、岡田栄造さん、幸家太郎さん、今井敬子さん

アーキフォーラム大阪について

佐藤:建築系ですが、アーキフォーラム大阪は参加してなかったでしょう?
笹岡:最近復活しましたね。
佐藤:そうです、アーキフォーラム大阪のスタートから16年間続いて、10年間中断して2022年から再開したんです。再させた一人が、昔から知り合いの川勝真一さんなので、あれこれ聞いているところです。
俺の妄想は大阪人の自由を楽しむ気質が健在で、東京の流行りに侵されない、そういう中で物をつくり出すのが大阪魂だと思っているんです。で、自由に勉強し語り合い喧嘩しあって、影響し合う。それが大阪根性の源泉だと思っていたんだけど・・・最近アーキフォラムの話題が無いので、大阪若者力尽きちゃったのかなと思ったりしてました。

笹岡:大阪でものをつくるっていう機会がないかも。店舗の仕事も少ないです。

佐藤:大阪若者は安藤忠雄さんの事例を持ち出すまでも、若者は駆け出しのうちは違法で、も構暴力的にみえてもかまわず、新しい自体を生み出してきた人たちがたくさん蠢いていた、というイメージがこびりついている。で集まっては謀議とは言わないけれど、集まっては互いにエネルギーを与えあって更新つづけていた。若い人達が元気がなくなってくるのは大阪らしくない。日本全体の若者がそういう傾向なんだろうか?けど、で大阪の人々はどうしたの?と聞いて歩いてることです。
アーキフォーラム大阪は1997年遠藤秀平さんと楠本菊實さんが始めたそうです今井敬子さん記録へその歴史も調べるために大阪にきたんです。昨夜お会いしていろいろ分りました。主な点は、大林組の設計部の林貞利さんが京都工芸繊維大学の社会人博士課程に入学して、博士論文のテーマにしていること。研究では全てのビデオ動画もDVD化して博士論文も2年後は完成するそうなので、俺が調べる必要はなくなり、安心しました。



2022年
再開なったアーキフォーラム大阪の様子
笹岡周平さんの生い立ちを聞く


佐藤:今回の笹岡さん聞き取りは2回目です。最初の聞き取りは俺が未熟であったし、手法もキチンとしてなかったので笹岡さんの生い立ちをキチンと聞いて記録してないんですよ。
笹岡:笑)業界的にもちょっと違うからじゃないですか。お店の設計をするタイプの人間なんです。
佐藤:その後ですが、旅館も設計してましたよね。
笹岡:やっています。

佐藤:笹岡さんは建築家ですよ、そうじゃないんですか?
笹岡:建築家じゃないですね。

佐藤:建築家という言葉には誰を含めるのか問題はあります。俺はパース描く人、基礎を造る人、現場で働く人も含めて、鉄筋加工屋さんも設備・電気屋さんも建築家でいいんじゃないかと・・俺は言っているんです。

笹岡それで言ったら私も建築家だと思います(笑)
佐藤:建築設計する人は他人のお金を使って作るので後ろめたいですよね、でそれから脱したいのが深層だと思いますで、建築家と名乗る人たちの集団がいて、俺たち建築家だぞーと暗に優越感を演じながら、差別感を撒き散らしているように思います。
雑誌に載ってもどってとないのに、載ると偉ぶるし、雑誌に載ると論文一本の価値だとか言う。そういう人はいるようだ。狭い枠に狭めないであらゆる建築関係者を建築家と呼ぶのがいいんじゃないかと・・・。そうして仲間を増やしていくほうが後々いいんじゃないのと。笹岡さんは旅館を設計して繁昌しちゃっているようだし建築家で胸張っていいですよ。

笹岡:あれはリノベーションですね。新築物件はほとんどやってないですね。
佐藤:改修の方が難しいですし、面白いですよ。だから、建築家でいいわけですよ。外国でも建築を造ってましたよね。
笹岡インドネシアでビジネスホテルの基本設計だけやりました。他はあまりやってない・・・新築はほとんどやってないです。

佐藤:最近はグーグルアースに連動あせて笹岡仕事を地図にプロットして公開していますよね。一杯仕事してますね、東北でも仕事してます。

笹岡:仙台ですね、札幌と函館でも仕事あるんです。今は大分に行ってますね。熊本で仕事あるか・・・ないかみたいな話があったりしてて。











笹岡修平さん 








笹岡さんの作品マップ 

笹岡周平さん 生い立ち

佐藤:ここからは生い立ちにつて語っていただきます。どこで生まれたんですか。

笹岡:僕は高知県の高知市内の生まれです。生まれて1歳にならないぐらいで転勤しているんですよ。高知市はあまり知らないです。あまり記憶にないんですけれど、祖父母、両親の家も高知なんです。夏には高知に帰りますね。田舎は高知、そのぐらいの感覚です。

佐藤:今年の3月に高知市に行き学生さんたちとワイワイしました。空海さんが開眼したという室戸岬、パワースポットだと感心したほど、いいですね。高知市の面白い特徴は高知県人口の半分が集まってる都市ですね。高知城は津波に遭っても生き残れそうな高い台に建ってまして見晴らしはいい。県全体で人口は70数万人だけど36万ほど人高知市に暮らすという偏りが興味深い。
笹岡:地形的にそうですね。
佐藤:高知県全体形状は両手を広げて太平洋を抱き抱えてしまうようにおおらかだからね。津波来ると、奥ほど高く高く押し寄せちゃう。
笹岡:婆ちゃんの家も水に浸かる所だと思います。
佐藤:太平洋が美しく、温暖なので、棕櫚の並木があっていい感じなんですよ。

室戸岬に立つ 2019年12月

笹岡:高知は心の故郷というか。行ってないけどいまだに好きですね。高知から、大分に行き、三重県に転勤して、その次が広島県福山市に行って。次に福岡県に行って、鹿児島県に行って、小学校6年の時に大阪に来て・・。父親が保険会社のサラリーマンでして、後で聞いたら、転勤したかったらしくって(笑)人間関係ずっとやっているの、嫌な人で(笑)「ストレス貯まる前に転勤したいから転勤願いを出していた・・」。

佐藤:奥さんや子供たち、地域に馴染んだと思ったら転勤だと。
笹岡:僕は転勤しても、当たり前だったから、友達つくるの上手い・・のかもしれない。
佐藤:何時も笑っているね。笑顔の笹岡さんはそこから来ているのかもしれないね。
笹岡:(笑)それで中2で広島県の福山市に戻るんですけど、それはオヤジが土地を気に入ってて買ったんです。福山には今でも実家があるんです。中2だったので撲も物心がついているから。オヤジ、福山からは単身赴任になり、各地に転勤しているんです。僕は高校卒業まで広島の福山市に暮してて、大学入学から大阪に来ました。大学は大阪工業大学に入りました。前田先生が教えていた大学です。

佐藤:前田先生は奥さまの家が我が家の近くといっていました(笑)設計が忙しすぎて「大学で教えるのは辞めた」と聞きました。FBで見ていると仕事一杯こなしてますよね。

笹岡:前田さんは仕事とるほうがいいと思うな。
佐藤:原田佑馬さんの事務所の上階に前田さんの事務所はあると聞きました。
笹岡:そうですね。

佐藤:青森にも出かけていくし、活動範囲が広いですね、俺は前田さんとFB繋がりあるんですけれど、おいしそうな食べもの多く、たべてますね(笑)

笹岡:
八戸市美術館ですよね。FBって互いの活動がなんとなく分るもの、すごいな。

佐藤
:八戸市美術館を観にいったんです。偶然!設計者の一人、森純平さんに会って話を記録したり、松戸市のパラダイスエアー(アーテストインレジデンス)を観に行ってワイワイしました。世界中のアーテストに宿を提供して松戸市民と交流させる、レジデンスをつくっていて、3週間滞在は年間60人ほどで、延べ600人ほどのアーテストが滞在しているそうです。建築家だけど町の人を元気にする活動していました。空間があれば、周囲の人が元気になり、活動しだす、それは建築の底力と使う人に幸いをプロデュースする役割の人が要る、でそのことをしていました。

前田茂樹さん FBより



八戸市美術館訪問記

ところで、笹岡さんは現在何歳ですか?

笹岡:44才です。
佐藤:森さんも40才ぐらいだと思いました。40代のみなさん、活動する姿勢と考え方とどちらも無理なく自然に行動している感じ、そこが、俺さま世代とは違うんだね(笑)
設計業界はブラックな点も多かったんだけど、今の若者たちはブラックを抱える事務所に行かなくなっているから、いずれブラック体質は消えてなくなるでしょうね。いい感じに成ってきていると思います。笹岡さんの事務所も女性が多いというか・・・女性だけ働いているじゃないですか。

笹岡:もう一人男性がいるんです。今日は、非常勤講師で教えに行ってるんです。
佐藤:柳原照弘さんの事務所も、出来る女性ばかり雇っているそうです。彼は世界中に事務所を持っているそうです。
笹岡:彼はフランスに事務所あるんですよ。
佐藤:「フランス人は初任給、高いですよ」と言ってました。「日本は人件費安いからいいですね」とも言っている。(笑)お前、何人や(笑)

笹岡:彼は突出しているんですよ。デザインだけやっているんじゃないですよね。
佐藤:10月6日夕方から、柳原さんの事務所でワイワイしますので、時間があれば参加してください。酒呑まない記憶があるんですが。
笹岡:僕はめちゃ飲みますよ。記憶なくなるまで飲みますね(笑)

佐藤:
それでは、仕事に差しさわりがなければ参加ください。柳原照弘さんに紹介していただいた、大阪の若い人を聞き取っていたんです。反応してこない人も居るし、大阪から出ていった人も多く、今は半分以下と少なくなっています。



笹岡さんの事務所「ワサビ」が入っているビル

大学に行き、建築を選んだ理由

佐藤:話しを戻しますね。笹岡さんは広島県福山市に高校卒業するまで暮らしていたと。大阪工業大学に入学して何学科だったんですか。


笹岡:建築学科です。選んだ理由は、オヤジが建築家になりたかったタイプの人で、関西に住んでいる時は寺社仏閣視察というか、土日は奈良とか京都の寺を観てたんですよ。ちっちゃい時だから「なんじゃこれは」と思ってました(笑)。今観ると面白いんですけど。

佐藤:今回は奈良にも聞き取りに行ったので、ついでに法隆寺に観てきました。1400年前にして凄い木造建築ですね。変な欲望も雑念もなく、コンセプトを純粋なまま保ちつづけている点は気持ちいいです。

笹岡:伽藍の配置シンプルですものね。
佐藤:初期のシンプルさを1400年間、そのまま守り伝え続けるって難しいと思うんですよね。人は何か加えたくならないのか?・・・と。

笹岡:民家だとすぐ付けちゃいますよね。古民家の改修よくやっているんですよ。すぐ増築の場所って上から観ると分る。人間はあれやりがちなんですね

佐藤:社会の変化に合わせて、加えたくなるよね、木造だと変な増築しちゃいそうだよね、でも法隆寺1400年増築せず続いている。お父さん社寺仏閣好きでしたか。

法隆寺五重の塔

笹岡少年、建築に目覚める

笹岡
:古建築観に、オヤジに付いて行ってました。建築への切っ掛けは、福山の実家はオヤジが自分の家の平面図を方眼紙に引いていたんです。それ見てて、面白くって、落書きしてたのが建築設計にかかわった最初の切掛ですね。

佐藤:お父さんの描く図面に導かれて建築に開眼したと。一人っ子とか長男とか?
笹岡:長男で弟の二人兄弟です。年子です。オヤジの平面図それが切掛で、今となっては呪縛ではないけれど「建築家になる」目標があるから楽じゃないですか。だから高校も中学も「俺、建築家になるから」と言っていて、やることはシンプルなんで。

佐藤:お父さんの方眼紙平面図を見て、真似して描いて上手に描けましたか。

笹岡:描けてなかったと思いますね。今、実家に行ってみると変な間取りなんですよ。(笑)オヤジの設計が独特すぎて(笑)
佐藤:素人じゃ〜自宅設計といえど、上手にできないでしょうね。でも、素人でも俺の家は設計できるんだと・・・思えちゃう点が建築の奥深さと広さのある面白いところだよね。

笹岡:そうなんですよ。(笑)最たるものは浴室の3/4が浴槽なんですよ(笑)「大きい浴槽がいい」と言うが、浴槽が大き過ぎて洗い場が狭くって(笑)
佐藤:ごしごし洗ったら、泡が浴槽に入っちゃう(笑)
笹岡:嫁さんと実家に行って大爆笑してしまいました。実家のお風呂狭いな!洗いずらい。

佐藤:
お父さんの設計で家を造っている時も見てたんですか
笹岡:見てましたね。面白かったですね。上棟すると餅を蒔く時期でしたから、こういう仕事なんだなと。区別は何もついてないんですけど、何となく分り。

佐藤
:広島とか福山と聞くと水軍・海賊の末裔かと思ってしまってたんですよ。
笹岡:鞆の浦の方は、そういうですよね。
佐藤:潮の流れと海底の地形が複雑だから、瀬戸内海を行き来する舟の水先案内人がたくさんいたと聞くし、風待ち湊もたくさんあったと、読み聞きしてたので、あんたは元・海賊なのねとすぐ思う。
笹岡:鞆の浦は風待ち潮町の湊なので、いいですよ。 
佐藤:鞆の浦にも伝統建築群がありましたよね。

笹岡:
うちの事務所も一軒、旅館に改装をやってますよ。昔、舟を造っていた家を改装して旅館にしました。市長がへんな計画を立て海沿いに景観を壊すデカイ橋架けるというのを住民運動で計画が無くなってよかったです。

佐藤:
それはよかったね。建築の道へ入った。それはお父さんの設計図を見た事を切掛けにして大阪工業大学へ入学したと。


鞆の浦 伝統的建築群保存地域図
上絵:浅野さん撮影 鞆の浦内にある潮待ちホテル

インテリアデザイン事務所にインターンに行く そこに就職

笹岡:卒業して、事務所に入ってないんですよ。大学は行ったんですけど、遊びに走った方の人間です(笑)
佐藤:ギターに、はまったとか?
笹岡:ドラムやったり、クラブにいったり(笑)面白くって。一方グラフィックにはまっていて、二次元のDMとかフライヤーとかデザインが格好いいと。そういうのを勉強していたんですよ。
で、マッキントッシュも早く使っていて、自分で勉強してたんです。その影響で就活したくなくって。原田佑馬君も行ってたんですけど、専門学校、インターメディア研究所というアーティストの学校が出来て、万博公園の所ですよ。「そこに行きたい」と親に泣きついて行ったんです。けど、大学を卒業してから、就職もせずにふらふらしているのも嫌だから、学校へ行こうとしてて、院に行っても同じだなと思って。
大学院ではなくって専門学校へ入りました。椿さんとか森村さんなど、高名なかたが講師に来るような学校だったんです。出来る奴が多かったいうものあるんだけど、大学の時に遊んで来た感覚と違う、同じ世代の学生なんだけど、美大から来ている学生も多かったんで、ちょっと違うんだなと。馴染めなかったんですよ。

その時に柳原照弘君が、引っ越す予定の事務所の下のお店を造った設計事務所へ。インテリアのデザイン事務所ですね。そこの事務所がインターンを募集していて、僕の友達がインターに行ってたんです。その友達が辞めたいから、交換で人を入れないと辞められない。で、私は専門学校に行ってたんで時間もあったので、紹介されてふらふら行った。そうして働きだしたら、お店を造る仕事って社会にあるんだと初めて知ったんです。建築しか知らなかったから、店づくりの仕事知らなかったんです。店舗デザインっていう業界があるんだ、と知って。
お店を見ているとお洒落な店とか、若者からしたら「キラキラしてて、面白いな」と思って。そこで、そっちにシフトして行き、専門学校は辞めて、就職したんです

佐藤:店舗づくりは設計施工で、一体チームでしょうか?
笹岡:施工はしてないんですよ、デザインだけです。
佐藤:店舗専用の専属チームと仕事するんじゃないんですか。
笹岡:時期は、2000年ぐらいで、店舗デザインという業界が潤いだしたころです。
佐藤:日本の経済バブルが弾けて10年後だから、勢い良さそうな感じはしないんだけど、関西の店主たちは気分が高揚してたんだろうね。

笹岡:資料ありますので、ちょっとお待ちください。今ではあまり考えられないんですけど、当時はタウン誌というか関西の雑誌がデザイナーを特集してたんです。間宮先生ですね。今は大阪芸大の先生やってはります。
タウン誌がデザイナー特集するんだと思って。
佐藤:勤めて笹岡さんの仕事がこの雑誌に載ったんだ。

笹岡:そうです。1冊目の時はまだ載ってなくって、町の中に担当しているお店が一杯あるんですよ。堀江とか南船場とか町がお洒落になっていく時代、いろいろなお店が出来ている時代にデザイン事務所に入って。この雑誌は2002年とかですね。奥付に書いてますね2001年ですね。
僕はインターンとしてご飯食べているところだけ、ちょろっと載ってます。これが撲です。

佐藤:これ撲と言われても面影ないね。何を喰っているのかしらないけれど、髪の毛花咲いているね。
笹岡:ちゃらかったんですよ。
佐藤:スタッフたくさんいたんだね。
笹岡:大勢、居ましたね。東京にも事務所があったんで。

佐藤:店舗デザインの設計料は2割ぐらいは通常値ですか。
笹岡:2割もないと思います。
佐藤:工事監理もするんでしょう。工事金額が小さいからたくさん頂かないと運営がたいへんそうだよね。
笹岡:10%以上はいただいてたと思います。

佐藤:全国チエーン店とかデザインしてたんですか?
笹岡:一店舗ごとで、毎回工務店さんもかわってましたね。
佐藤:その方式だと、施工管理はたいへんだね。
笹岡:この時に建築士事務所じゃないのに、11人、と先生。
佐藤:大勢ですね。

笹岡:建築士の資格が要らない仕事があるんだと、この事務所に入って知りましたね。改装ですからね。
佐藤:請負金500万円以下だと施工の資格も要らないんじゃないかな。内装を改装するに場合、用途変更届出さないですよね。

笹岡:
こんな感じで入りました。事務所で一番若かったですけど、いろいろ任せてもらいました。今思うと、そんなこと、よう任せたな・・と思うんです。僕なら若い者に任せるのはまだ無理ですね。
佐藤:上が仕事しちゃうと下が育たないよね、上司は失敗も織り込み済みでスタッフを使っているんだろうね。
笹岡:そうですね。
佐藤:所員を自分流にしようと思ったら、所員は育たないでしょう。
笹岡:いま、身に染みってそうしようと思ってます(笑)  難しい。

佐藤:どんなスーパーデザイナーでも死は免れないので継続性を思うと、中心になる芯をつくってそれを継承してもらう形にならざるを得ないのではないかな。100%統率しようとして口出し、しだすと、切りがないし、人を雇う意味もなくなりますよね。
笹岡:そうですよね。
佐藤:AIが性能向上すると「笹岡AIロボット」が出来て100%仕事さOKだとしても、自分に駄目を出しちゃうんじゃないかな。それはたぶん面白くないと思う。

笹岡:面白くないでしょうね。

絵:雑紙に掲載された若き日に浅岡さん(右)

佐藤
:2001年、インターンで事務所に入ったまま就職しちゃったと。私が2008年の靭公園そばの事務所での聞き取りは独立の直後の時期だったんだね?

笹岡:そうです。デザイン事務所には5年ちょっと居ました。2008年は独立したてでしたね。疲れちゃってデザイン事務所は辞めたんです。仕事が無茶苦茶、多かったんです。徹夜レベルの仕事じゃない仕事量なんで。
佐藤:店舗はオープンする日も決まっている上に、日々タイトだろうしね。
笹岡:店舗デザインは回転が早いんですよ。直ぐつぶれるのもあって忙しい。もともと建築学科を出て、ずっと残るものを造ろうと思って仕事してきたにに、店舗すぐなくなるから。やだなと思ったのもありますね。なので、店舗系の仕事はするんだけど長く続く店、造りたいと、思ってワビ・サビの味がでる空間をつくるという意味でワサビにしているんですけど。

佐藤:刺身につける山葵じゃないのね。食べる山葵じゃなく。

笹岡:喰うわさびの意味もあるんですよ。ネタがお客さんでシャリが工務店、そこでモノはつくれるんですけど、山葵を入れたらもっと美味いでしょう。
佐藤:ワサビがないと喰えないよ。
笹岡:食べれる人もいるけど、ワサビがあるとより美味いぞと。両者をくっけり役割もあります。
佐藤:ネタとシャリ両方美味しくなるね。
笹岡:そういう意味です。

佐藤:会社の名前「ワサビ」変えちゃったかと思ったけど変えてないね。
笹岡:変えないです。馴染んじゃった。
佐藤:媒介しつつ両者を引き立てる、ワサビが要るんだぞと。
笹岡:今も言っていることが変わってないで、このままでいいという感じです。

絵:山葵 ネットより

社名の由来/コンセプト
組織名称の「ワサビ」は日本古来の美意識とされる「侘び」「寂び」という言葉からとっています。語尾の「び」を共通項として一字とし、語感と単語の意味にあやかって「ワサビ」としました・・・
ワサビのサイトで読む


すぐ潰れる店、つぶれない店

佐藤:店舗が短命であるという話しですが、建築も短命だと思います。紙に書いて絵で残したり、言葉で残すほうが生き残るんじゃないかな。造ってしまうと説得力はあるし、ここにある雑誌もそうですけど、出来上がったものに対して光を当てて、メディアに載せて流すから、新に気をとられる。出来たもの、出来上がったものを考えたデザイナーの勝ちなのか。
しかし実際は依頼者と語り合ったり、紙に描いて情報交換したり、構想を練り上げる、使われて時間の中でデザインは文化としてどうなっていくのか?そこを見届けるのはデザイナーにとっても建築家にとっても重要なんだけど・・・雑誌は出来たときだけ切り取ることが多いので、どうしても新的な表層に影響受けてしまう。デザインの本質的な点まで理解され難く消費されやすいですね。

笹岡:僕が想っているのは、建物の良し悪しというよりもお店、事業者がいて、その方の生業で店やりてぇ!・・・と言って始める。それがすぐ潰れるということは、その人の事業計画がよくないし、仕事のやり方がよくないわけです。デザインと一緒によくしたいという思いもあって。本気でやろうぜ!みたいな。

佐藤:経営コンサルまで踏み込んで仕事しているということですか?
笹岡:おこがましいですけれど、一緒に仕事するっていう感じですね。逆に提案もそうなります。
佐藤:小さいお店だと、パターンが決まっていればいいけど、分析しなければいけないですよね。仕入れがあって、人件費、必要経費もいろいろあります、売り上げがあって、各種税金があって、粗利でいくら上げれば、経営は続くという見通しを立て計画するわけですよね。銀行借り入れの手伝いもしているんですか?

笹岡:融資用の見積もりを作ってあげるだけです。何て言うんですかね、空間をせっかく作るので、これも一つの商財になるから、使い倒してもらう。ご飯や食べ物をつくるお店だったら、作るものが美味しいのはもちろんなだけど、それに付随している空間も、お客さんと仲良くするコミュニケーションツールの一つになったら、仕組みがあっても、損じゃない。そういうのも盛り込もうじゃないかと。そんな話をしながら、一緒に造るっていうのが一番楽しい。
佐藤:全部成功するのは、さらにいいけど、失敗したことはないですか?
その02 へ
笹岡さん推し曲
Lucky Kilimanjaro「踊りの合図」
その02 へ