2022/9/27 今井敬子さんに聴く @大阪 作成:佐藤敏宏
アーキフォーラム大阪について今井敬子さんに聞き語り合う 場所:中之島美術館1階 福島駅傍屋台
今井敬子さん(右)
林貞利さん(中央)

佐藤
:今井さんこんにちは。長年にわたり「アーキフォーラム大阪」の世話役・事務方を今井さんがされていてことは知っていたのです。けれども活動自体の全体を詳しく知らなかったので話しを伺いにきました。よろしくお願いします。

真新しい中之島美術館で話し合いを始めてます。中之島の南対岸傍に近世期紀末には適塾などの私塾もあり、全国各地から俊英たちが集って学んだ場所でもあります。身近な建築の学びに目を移すと、30年ほど前のことでも私が知っている私塾は渡辺豊和さんが開いていた「豊和塾」、大島哲蔵さんが世話していた「春秋塾」などがあり、時々議論に参加した記憶が蘇ってきます。
それら建築の私的な学びの場は、大阪に続いている精神と、商都らしい人々の自由を大切にする気質が満ち、実力主義で新しい価値を生み出そうとする力が溢れていた大地だから学びも盛んなんだという印象を受けました。加えて中央の権力者たち、あるいはアカデミズムとも距離をとった格好の建築的な活動・勉強会だったと思っています。今年になって川勝真一さんなどがアーキフォーラム大阪を再開したと耳にしたりしますと、現在もそういう私的学びの気質は脈々存在しひき継がれていてるように思いまして・・・ ─私の勘違いなのかも知れないけどね─ この機会にアーキフォラム大阪の源流や小さな歴史を調べてみたいと思い、今井さんにメッセージをしました。早速、応じていただきありがとうございます。

今井さんがアーキフォラム大阪に関わったのは何時頃からですか?





適塾 2階塾生たちの寝泊り部屋

適塾
 先生私室と学びの間にある中庭



今井:最初は2000年、コーディネーターで初めて入ったんです。それ以前はお手伝いで当時はICU(長田直之)で働いていたました。元々は1997年、遠藤秀平さん、楠本菊實さんが始めたんです。柳々堂さんが出されていた本『アーキフォーラムinOSAKA』を持ってきました。この本で建築家の皆さんなど、いろいろなことを書いたりしてます。楠本菊實さん新田正樹さんとか、遠藤秀平さんも入っていたり、いろいろな人が関わってました。
今日持って来た本は「1995年に発行した」と言われているVOL3です。今も柳々堂さんにあるかも知れません。調べたところによるとVOL1刊行は1993年らしいです。

佐藤:楠本さんは1997年に始めたのでアーキフォーラム大阪については詳しいと聞きました。

今井:そうですね。第一回目(1997年)は遠藤秀平さんと楠本菊實さんがコーディネーターで始まりまして、1998〜99年は、関西の若手と言われる世代でコーディネーターですね。長田直之さんと宮島照久さんです。私はまだ20代で、お手伝い兼スタッフで働きだした頃です。アーキフォーラムの手伝いをしたなかで、2000年は大島哲蔵さんと宮島照久さんと平昌子さんと共にコーディネーターをさせてもらいました。

佐藤:残念なことに、平さんは亡くなったと聞いてます。


『アーキフォーラムin大阪』

今井:そうなんですね。私は2000年にアーキフォーラムのコーディネーターをしてから、その後は裏方としてコーディネーター探し、ゲストのアポイントとか、ビデオ撮ったりしてました。それ以降、会場には全部、行ってました。1997年の時は観客参加ぐらいかな・・・・。

佐藤:第一回、1997年のアーキフォーラムは遠藤さんと楠本さんがコーディネーターして自分も発表してたんだね。
今井:そうですね。どういうことか不明ですが、想定ですけれど「関西では会が無かった」と聞いていました。最初の頃は、全員手弁当でフィーが発生しない方法で実行していたようです。
佐藤:運営資金がないので、お金を掛けないように手弁当で参加し運営したと。場所はどこで開催してたんですかね。

今井:INAXの(展示場)会場です。1998〜99年、この時に佐藤さん来てますね。

佐藤:2度呼ばれてますね(笑)それらの切掛は1991年9月に渡辺豊和さんの自宅に泊めてもらって、その時に新田正樹さんや布野修司さんに北新地のクラブ・呑み屋で会いました。それが初めての関西圏の建築家などとの交流でした。で、1994年でしたが渡辺さんに「お前、『建築文化』へ写真を送れ」と言われ、送ったら編集長が飛んで来て1994年建築文化の特集扱いになり(笑)それから、大島さんが、宮島さん道家さん、幸家太郎さんや仲間を数度、連れて福島のmy建築を見にきたりして、我が家で開催していた「建築あそび」での交流が始まりました。

SNSやwebの無い社会でしたから、福島で暮すことは建築系雑誌やメディアとは無関係に生きてますね。で(笑)関西の人々との交流を切掛けに、建築関係者とは賑やな交流が始まりました。ですから、渡辺さんと大島さんに発掘された感じは強いですね。そうして渡辺豊和さん周辺の建築仲間たちと知り合いになってしまいました。関西の建築好きの知り合いが芋づる式に増え、海外旅行にも誘われるなどしつつ、大阪での交流も年に数回ほどはしていました。

今井
:大島さんはそういう方でしたよね。



1990年代末
大島哲蔵さん(右から2人目)は関西の建築仲間を連れ、佐藤の家に雑魚寝しながら福島県内に建っている佐藤が設計した建築を見学。

絵:コンクリートボックス11の前で集合写真

佐藤:若い人のめんどうもみてましたね。建築やアートの洋書などを主に販売していた本屋さん(スクウォッター)を営んでいたから、関西圏の若い建築に関する知り合いが多かった。ゼネコンの設計部員や大学の建築科にも本を車に積んで売りに行ってましたし、翻訳の勉強会を開いて、出版社に持ち込んで本も出していた。同時に人々をつなぎ語り合いの場をつくる媒介者でしたね。

大島さんが亡くなって「大阪は議論は一端、終わりかもしれないな・・」と思って、東京の建築系の人との交流が始まったのは、大島さんの葬式の帰り道です。東大の博士課程の人たちが会を開いていた、エディフィカーレの面々が集まってワイワイした場にまぎれこんでいました。そこには五十嵐太郎さんは南泰裕さん槻橋修さんなどの仲間がいたので、彼らと呑んで、翌朝は南さんのパークハウスの現場に案内してもらって、東京系の建築人たちとの交流の始りました。
アーキフォーラムは大島さんが亡くなってから有名な方を呼んでいるんだね。


パークハウス屋上にて2002年7月20日
南泰泰裕さん設計
パークハウス体験記

今井(資料を手にして)2001年、この当たりから収益がしっかりしだして(笑)参加者がたくさん来るようになったんです。この当たりで確立した感じでした。
佐藤:参加者が多くなり、旅費は出せるようになったと。謝礼も出していたんですか?
今井:謝礼も出してました。
佐藤:それは凄いや!

今井:この当たりからは ─ 値段的には手弁当程度なんですけれど ─ 交通費とお礼としてお金を支払いしてました。お客さんからも参加費をいただいて、学生は500円、一般の人からは1000円というかたちで、参加していただいてました。それでも賑わってきて、2008年当たりから、駆け出しの若い方や著名な方もお呼びしてたんです。独立したばかりでアーキフォーラムに登壇してから名前が出ていく方もけっこういらっしゃいました。わりと東京の人からもお呼びしたり。既に、亡くなられた方もいらっしゃいますね。会の名前が伝わり広まると、参加してくれる方も多くなったりしました。

佐藤:当時・雑誌の編集者だった山崎泰寛さんも語ってますね。
今井:この時は、コーディネーターが家成俊勝、香川貴範、米津正臣さんの3人だったので、3人が喋りたい人が主にゲストで、議論ですね。

佐藤:毎月!開催していたんだね。

今井:そうです!私が関わったアーキフォーラムは2013年で終わりました。2022年まで、休眠の理由は、正直・・・・毎月、個人で回していたので・・・柳々堂さんには運営とサポートをしていただいて。会場の机並べるのとかは、ボランティアの方にやっていただいていて。私は会場の手配や謝礼の用意とか、裏方をずっとしていました。そういう中で10年以上やらしてもらって、やり切った感と、何て言うんですかね・・・。私が閉じる役でもなく、私が始めた会でもなく、そういう場が、自分としてもあればいいなという中で、がむしゃらに続けてきたら、名前が凄く大きくなってしまって、凄い、かしこまった会になってしまった。そういうところもあって・・。

佐藤:有名人を漁るように呼ぶと、虚脱感、何してるのだろう??と、そういうことになるよね。有名人はメディアによって作られ誕生しているので、大阪ふう味、身近な会が、東京化しちゃうと。いうか、金太郎あめ的、甘いネタになり均質化は逃れられなくなるよね。ごつごつした地方の食えない感じはなくなる(笑)

今井:そうですね。

佐藤:既存建築媒体がそういう惑わす空気をつくりし、登壇する本人もその空気に合わせてしまいますので、大阪色は抜けやすくなっていきますよね。聴衆もそういう事を求めたりするし、流れに合わせる、喜ばせようとする、コーディネータ〜が客の顔を見て編集して呼んでしまうと言うと、わかり易いかな。
そうなると、発足当時の大阪の地は消え易くなるよね。呼ぶ方も語る方も加工し、聴衆に受ける言葉を語り合うのが前提になるよね。エンタメ化で、一層、大阪で生きている人が必要な言葉は少なくなって、大阪人建築家でも東京でたっぷり加工された建築家や言論人に変容していき、「大阪で私は何しているんだろう・・・」と疑問は湧いてきちゃうよね。

   
2010年7月31日 俺クチャー in アーキフォラム大阪 集合写真  参加者との2ショット集へ   佐藤レクチャーに対する牧野研造さんの評価文を読む 

アーキフォーラム大阪の面白さ

今井:最初は、関西に居て何かを発信するというものがなかったから、頑張れた。だからそういうものを作りたいと。そういう思いと同時に講演会やってました。当時は『住宅建築』が毎月のレビューを掲載さしていただいてました。雑誌に掲載できる記事も関西から書ける。そういう機会が与えられた、それが凄く新鮮でした
まず、批評するという文化、そういうメディア無くって。記事を掲載してもらう機会がなかったんだけど、チャンスが生まれました。それはコーディネーターが関西から得られる、こちらからテーマを決めて雑誌にも発信できるのは、魅力的でした。

ビール一本片手に、アカデミズム、大学などの学校を出ていない人が参加でき誰でも自由に議論が出来るし。

アーキフォーラムに参加したら建築家の人はもちろん、いろいろな人が集まっていて、そこからいろいろなモノが生まれる。会がだんだん、かしこまってしまい、私個人でやっていることから、あまりにもかけ離れたものになり過ぎて、でも止めるというのは・・・─誰かに強要されてやっているわけじゃないし─ 私が止めるという決断も無かったんです。もし誰かがやってくれるんだったら、それでいいかな、と思ってたんです。

佐藤:今井さんは、設計事務所に勤務されながらボランティア活動で続けていたわけで、怪しげな建築野郎どもを集めて会を続けるのはしんどくなるでしょうね。女性の登壇者は圧倒的に少ないですよね。女性の思いは共有しにくい場であるし。建築家界隈のジェンダーバランスの悪さは、アーキフォーラム登壇者の名を見るまでもない、酷い。まれにみる偏った男性社会そのもの状況ですから、女性で裏方続けるのは辛いですよね。

今井:(笑っている) その中で「この会自体は、私のものじゃない・・・」という思いがあったんです。たまたま私にまわってきて、たまたまやってみたい事とかあって、だから裏方に徹したところがあって。2013年から休んでいたら、10年後に、突然電話が掛かってきて「アーキフォーラムという名前を引き継いで会をやりたい」と。
私がアーキフォーラムを作っているわけではないから、「柳々堂さんがルーツなので、そこから了承を得れれば・・・」誰のものでもないし、だた「アーキフォーラムの存在理由は誰もが参加できる気軽な議論の場、という雰囲気だけは壊して欲しくない」という思い、それ以外は自由だと思っていて。


絵アーキフォーラム大阪サイトより
2022年再開されたアーキフォーラムの様子

2022年7月 川勝真一さん 聞き取り記録

佐藤:今井さんの思いは川勝真一さんには伝わっていましたよ。再開した話し合いの形式はご存知ですか、参加してないでしょう?川勝さんは今井さんが今、語ったことは守ってやろうとしてました。
難しいのは今井さんもジレンマに陥ったことと同じで、スポンサー付きで会を重ねると、関西・地元の人の気軽で切実な議論の場じゃなくなってしまう点が生まれてくる。地元で煮詰まっていく、煮詰めて行くのは禁止なんだけど、どうしても対価的他者承認をもとめたり、誘客に走るとそうなります。メディア有名人の名の尻馬に乗る傾向がでてしまう。その点の対策が見どころでもあります。既成の建築媒体に寄り添ってしまうのか、関西から見つけだし、価値を耕す場に育てていくのか、見ていきたいですね。
でも人は、遠くの方で面白そうな事やてるなーと気になりだす。で、引きずられ似たような事をしだしてしまう。そこをどう自制し、仲間をふやしながら続けるのか。SNS全盛の社会にあっては、関西的我流で通すのも難しいんだろうね。

7月に偶然、八戸市美術館を設計したお一人の森純平さんにお会いし、語り合った(その記録を読む)ことがあります。ああいう森的手法もあるよね、一気に地球上のあらゆる地域・世界に開いてしまう。あれは日本の建築メディアが作りだす、例のジレンマに陥らない手法の一つだろうね。東アジアを地元と捉えるとか、アフリカとかに窓を開いていくのがいいんだろうね。森さんは文化庁と地元行政から財政支援を得てるから賢いいんだけど。大阪に暮らしながら、手弁当で海外から人を呼ぶのは難問ですよね。

でも、311ではっきりしたのは建築家は発災当時、被災地・行政からほどんど相手にされていなかった、そのことね。南海トラフ地震をいうまでもなく、関西で生きている人たちも、あの時の惨状を忘れてはだめだよね。仲間内で閉じてしまった活動を続けると、311以前と同じように建築家たちは災害時にも社会性を持てず自閉的な会を続けることになる。

大島さんのような部外者で建築応援団のような人が居てエネルギーと辛口批評を与え続ける、そういう人がいなくなったので、大阪もじり貧になり休止になったのかと思ってました。関西の情報は大島さん経由だったので特にそう感じましたね。

あるいは、東日本大震災以降から今はSNSが盛んになって、世界中の情報も入ってきやすいんだけど、ゴミ溜め、自己自慢と広告合戦の場になってしまってもいる。SNSはメモ代わりに使いやすいよね。だからといって紙媒体をつくり続けるのは割高だからね。
アーキフォーラム大阪は1997年から16年続いて、2013年から10年、休憩したのち、川勝さんたちが再開した。それは、web時代に合った内容と記録を残す態度がどのように変容するか、前と後を比べるのを楽しみにして観にきたいですよ。

大阪は商業都市だからお金も持っているはずだし、経済に裏打ちされ一人一人の自由も多くもって活動もしてたはずよね。資金援助は建築系じゃなく、会員になってもらうなどし、経済的にも、語り合いの会場として、使う場は市民会館とか共有できる場所は大阪市内には一杯あるでしょう。公共施設だと飲み食いはできないだろうけど店もたくさんあるし。公的で安価で使い勝手いい場を使って、自立を図りながら運営するのがいいと思うよ。これから、大阪に合った自由な場、気付きの場をつくり継続できるのか、観てる方は楽しみです。

今井:途中の一時期は関西の人でしたが東京で活躍する人を呼んだり、今まで無かったことなので、やってみたいと。やったら、凄い受けが良かった。

佐藤:
メディアが東京発信だから、そこに露出している人を珍しがる、面白がるってことだ。関西で欠落しているものを埋めるために、珍しい人や話しを聞いてみる。そのようなことは、これからは重視しなくっていいでしょう。

今井:ただ。関西の建築家の集まる場のようなものが月に一回あった。で、普段はバラバラ、個人で活動されている方がこの場に集まって、議論することによって、アーキフォーラム以外の場でも活動することが発生していたり。新しい活動になったり、そういうことがおきました。

佐藤:人々に合う起点があって、そこから分裂をしていくのはいいよね。

今井:で、この10年間はアーキフォーラムが無かったことによって、失われたものもあると思うから・・・。「復活してほしい」とたくさん声を頂いて、川勝さんまで届いて。無かったらなかったで、何も、が無いと何も生まれないのも変な話です。関西は、人々は近くって身近なんですけれど ─そういう側面もあって─ アーキフォーラムのような一個の議論する場が一回あるだけで、そこからネットワークがずっと脈々と生まれて、10年以上続いたという点が大きいところでした。

2013年以降はそれが完全に失われた10年って感じです。待望する声に応えて川勝さんがやってみたいと思われたのかな、と。それが自然発生的に生まれたという所は凄いなと思います。


佐藤:復活の背景には、使い出したSNSがゴミ溜め場化してきたこともあるし、新型コロナの影響で人に会うことが憚られる時間が2,3年も続いたこともありますよね。そうして語り合う場を持とうとうごきだしたんだと思います。
目の前で会って生身の人間とくだらない話、まともな意味ある議論まで、いろいろ交流してるのがいいと気付いた、再確認かな。他者から行動するエネルギーをもらってたと気付いた。モニターで文字情報をたくさん受け取っても、活動を起こすエネルギーまでは湧かないよね。「ZOOMでだべってるだけでは人間らしくないぞ」と、感染のリスクはあっても会って語り合うぞ・・・と思う人が多くなったかな。

今井
:感染しても亡くなるリスクも少なくなってきていますし、今は。

佐藤:そうだろうね。よく食べて寝て、ストレス体内に残さなければ免疫力を磨いて何万年も人は生きたてきた。その底力を信じて活動して(笑) 3大感染症の一つ結核菌に侵されても生き延びてきた人たちの末裔ですし。
結核は日本の近代化の仕業がおおきい、女工さんたちと徴兵制で日本の津々浦々に蔓延しちゃって、100年ぐらい薬、出来るまで掛かったからね。(右絵・参照本)
新型コロナは薬ができるの早いよね。無駄な心配をせず、手洗いうがい、飯食って寝る。それをしていれば生き延びるでしょう(笑)たぶん皆口には出さないけど、それは分っていて、アーキフォーラム活動し始めたんだと思うね。


 参照:『結核の歴史』目次などへ
二次会の方がおもしろい!と言われた

今井:若い人を支援してくれる経済人もいそうですよね。
佐藤:さすが大阪!粋な大人は多くいると思うね。
今井:分らないですけれど、新コーディネーターたちがどういう会にしていくか、その判断が、雰囲気づくりが大切。

佐藤:建築家は綺麗ごと言うのが、好きな人種だからね。建築的な事実は依頼されている人とぐじゃぐしゃに揉めていたりしても、そこは言わない、語らないでしょう。綺麗に編集されている雑誌に騙されてはいけませんよ。
今井:そこは言いたいが言わないですよね。

佐藤
:(笑)好い事しか言わない、で、建築の本質とズレてる幻想を語り聞かされていることになる。自ら聞いて、嘘かどうか判断できない人を育て売りつけるのだから、騙されるよね。喰えない「アトリエ系の建築家達が大学で教えている、その害をまき散らしている」と言う大学人もいるよ。「先生は喰えてないぞ!」とね。
さらに行政からは建築家だって図面納品業者扱いだから。まだまだ粉飾したいという思いが続くからね。
建築家は僧や渡り職人の末裔だから、日本史上でどう扱われてきたのか、知らないで活動し始めるとギャップを思い知らされるでしょうね。日本社会での実態設計士の様から遊離して鼻つまみ者扱いされるよ。行政や発注者から社会的価値を持つ人間として認証され共有されるようにならないと、リア充ほしいよ、それは満たされないでしょう。雑誌に載り綺麗な写真で紹介れたりすると・・・嬉しと思う若者は多いのかな。依頼者も、ことなかれ主義で有名人に発注する体質はずっと続いている。いまさら感はないですよね。よいしょしてくれる媒体を愛でる相互依存関係は断てないね。

今井:ある意味、人間の欲望しとしては当然、持ってもおかしくない。

佐藤:ベースがキチンとした処にないから、ベース作ってそこに載らないと。
今井:そういう事も含めて、言い合える、そういう人も居て、そうじゃない人も居る。そういうバランスのいい議論の場として関西にアーキフォーラムはあったんじゃないかなと思っていて。

佐藤:そうね。そういう気分は確かにあったよ。ど田舎の福島市から俺を呼ぶんだから(笑)
今井:こういう人だけが集まるとかではなく、いろんな人、思想が違っても、アーキフォーラムに入っていくと議論する場があった。月一回の建築を通した議論の会でも、講演会の中身は興味ない人が来てて、正直に言うと二次会の方が面白いと言われてたんです。二次会から来る人が居たりして(笑)今、考えると、毎月熱い語り合いの場があり、駆け出しの人とか、大島さんの世代であったり、こういう会話がわーっとあって。

ああいう場が急に無くなった。あれは、けっこう大きかったんだなと思うんです。自分のなかでは、それ以上続けられるという感じはなくって、誰かがやってくれたらいい・・と。

佐藤:アーキフォーラムの運営システムが出来て、どのように伝承されていたのか分らないんです。世代交代を上手に継続しないと終わってしまうね。

今井:そうですね。

佐藤:個人による手弁当での行動は、活動したい場を見つけたり、作ったりして自分探しと他者承認が得られたら、終わる。社会は義務教育の場でないから、能動的に交流するのがいいよね。他者に刺激をあたえたり、伝えたりし、自分の活動が他者にまで波及していく ─その様子まで見渡せる余裕はないとする、生きているということなんだと強い意思が働かないと─ 面白いけど手弁当活動は消えやすい。

活動の場からエネルギーをもらうことに視点が定まって、相互に波及し継続しにくいんだろうね。情報の発信のしかたと受け止め方双方に課題があるように思います。価値が相互交通することで、異なる発見と研磨が同時に促進されて、自分も楽しくなったりする。その気付きがあると、人が集まってくる。そうして継続しやすいんだろうね。立派なことやっているから参加しろ、好い記事書いてあるから見ろ、それでは、若い人には魅力的に映らない。

例えば建築家は誰だ?問題が、大きく影響しているだと思うんだけども、施工に関わっている人々すべて、博士課程で研究してる人も、設計の下請けしている建築士も建築家と呼んで仲間を広めるのがいいんじゃないの・・・と言っているけれど。
博士号取得者は妖しい建築家などと呼ばれたくないという思いあるように感じます。全体で豊かになっていくための建築スフィアーを豊かにするための活動へ展開するという発想は少ないよ。

今井:「建築家とは自分が言うものではないんだ」と言う人は多いですよね。

佐藤
:で俺は建築に係わる人を全てを建築家と呼ぶことにしている。「アンタは建築家だよ」と、呼ばれると怪訝な顔をする(笑)
今井:建築家という言葉は、何かに縛られていますよね。

佐藤:建築媒体がつくり続けて来た言葉だ。で、ある歪みを含んだ言葉だと思いますね。スーパーゼネコンや下請け企業の余剰金に支えられていきた建築媒体が多かったから。個人だけでは足腰も発言力も脆弱だ。自立できる建築媒体って、いまだ生まれ・育ってないのでないかな?

今井:大島さんのような人が少ないですよね。洋書店ひらいて翻訳会開いてましたよね。

佐藤:大島さんは建築士でもなかった。今回再開なったアーキフォーラムの川勝さんは博士号も建築士でもないと思う。で、建築家コンプレックスあるようにも見えない、そういう人が今後どうのようにアーキフォーラム大阪を運営し、育てていくのか?そこは注目に値しますよね。また、ジェンダーのことになるけど、再開アーキフォーラムには女性建築構造専門家が一人参加しているそうで、その方の与える影響も楽しみにしています。弾かれちゃうかな。

今井:大島哲蔵さんみたいな人が居たけど、唯一無二しすぎて。結局だれも引き継げなかったのが大きいですね。
佐藤:お金持ちだったし、左翼てき、反権力主義者だった。学者たちには評判悪かった、けど、やる気だけある若い未成熟な者を、馬鹿にしないし、教養も人望、人徳もあったので人が集まって来ていたよね。
家族持ちでもなかった点は効いているね。で、自由な活動と若者対応ができたんだよね。博士論文は書いてなかったけど、建築を教えるのも好きだったし、若い人を世話するのも好きでしたよね。心も余裕のある黒子的老人、高齢者は、若者の活動を起動させるためには今こそ要るよね。

 そろそろ林貞利さんに会いにいきましょうか?

今井:いきましょう。

 林貞利さんとの語り合いに続く    
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川勝真一さんの他 2022年より
アーキフォーラム大阪を再開した方々



荒木美香さん(構造家)絵:webより)


橋本健史(建築家)絵:Twitterより


吉岡優一(コンストラクション・マネージャー)絵:webより 

左絵 参照:アーキフォーラムin大阪
VOL3編集後記