HOME  作成 佐藤敏宏 
2018年3月12日晴れ 13時〜仙台駅傍の通路上      
聞き語り記録 
SDL2018出品者 須藤悠果さんに聞き語る
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04 漫画で意図を表す
   アルゴリズム建築の前に 
   宗教建築じゃない道
   練りが足りない
   

04

漫画で意図を表す

須藤宗教の儀式とかもいろいろあるので、言葉で言うと長くなっちゃうなと思って。 例えば信徒じゃない少年が公園で遊んでいて、いつもの信徒塾みたいなところに行って。

佐藤:人物に描かれている無駄な線が建物のトライポフォビア的表現と重なるので無い方がいいね 人物の身体の入れ墨なぐちゃぐちゃな感じ無いのがいいな
須藤ふふふふ
佐藤:決意せずにぐちゃぐちゃ描きいれた感が出ちゃうので、シンプルな人体の方が建築の不気味感が強調されるはず、被っているなー
須藤:もっとシンプルな方が、そうですね、たしかに
佐藤:でもこれが、今の時点の須藤さんの個性だからなー、余計な事でした
須藤怖くない方から少年が入って。集合の向きとかが、先ほど話した空間の五原則の空間性が減った理由操作を、凄いしてるんですけど。
 トイレとかに行く時に中のホールに入ると、壁材とか階段の隙間から、信徒しか入れない礼拝空間が見えて、畏怖度合いの欠片を感じる。

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(参照動画)
小原克博 講義 動画
「近代日本における政教分離の形成と構造」


(参照動画)
中島岳志 島薗進 対談動画
「「ナショナリズムと宗教を問いなおす」







アルゴリズム建築の前に

佐藤:弾圧された宗教的ディズニーランド施設の説明を聞いているような気分になってきたよ。畏怖感じゃなくって。ご免ね
須藤ふふふふ。そうですか
佐藤:無理やり感と、未整理と、仕掛けが多すぎて。シミジミ来ないような・・
須藤模型を観るとそんなじゃない同じ言語で解いているつもりなんです。こちらが信徒になると、信徒側から見るとエントランスから恐怖度が大きいんです。そこを入って行くと、礼拝空間に
 「ひのもと救霊会」という宗教が大切にしてる、四界っていうのがあるんです。それを表すが開いていて、非常に信仰度合いを高めるようになっている空間。
 そういう感じで病気なったときに、この人たちが行う、儀式をする場所はもっと粒度を高めたり。
 司祭になるときに、しなければいけない修行をする場所というのが在るんです、そこが一番恐怖度合いが大きくなっていて。
 そうするとこっちから入って来るんですけど、振り返って修行する目線になると、一番恐怖度合いが大きくなるように成っていて。
 そういう作り方で、全体を考えました。
 それで何がしたかったかと言うと、ずーっと私の悩みだった集合体恐怖症が。今。アルゴリズムで建築を考える人が多くって
佐藤:モダニズムの行き詰まりをアルゴリズムで突き拓く者達への反動で、宗教施設へ退行行為なのかな
須藤アルゴリズム建築って、バーを変えると、部材一個一個が直ぐ変えられて、例えば光の入る量とかかあるんです。それの美的な一番いい位置、というのを操作する人の感覚でやっているんだけど。凹凸世界から観て、敏感な人が居るっていうことが・・・須藤的五原則があるということが、今だから大事なんじゃないかなと想って、アルゴリズム建築をやっているうえで。
 勝手に自分のためにやったんです、この卒業設計がいままでの建築史上で、構造を見せる見せないとか。凹凸を見せる、見せない理由、動きが有ったなかで、前に進めるものであったらいいなーと想って、卒業設計を仕上げました。


宗教建築、じゃない道

佐藤:聞いて思ったことは、須藤さん症状を脱するために、この宗教施設でなければいけないんだという理由が理解できないです。
 現代は大学教育とか、日本の国もそうだけど、宗教というのはなるべく触れないでしょう。個人の内面の問題に分離し、近代的合理性で社会システムを進めて来ているんで。
 絶対権力者をたたえるだろう宗教と、権力者を監視する立憲主義を基盤に発展してきた民主主義はベクトルが真逆ですよ。で祭政一致を目指していた宗教建築って聞いた瞬間に戸惑うな俺は

 現政権の実態は国家神道ナショナリズムが融合した(日本会議系)形ですよね。それで70年ほど前に敗戦したという体験もある・・復活している。その政権下で国民国家が暴走して社会や暮らしが破滅したという記憶が生々しいからね、政教分離の建前だが人間は宗教やナショナリズムを切り分けて生きるのは難しそうだ
 そういう現況の下、宗教を建築に持ち込んで、卒業設計をする行為は、最初の入口で嫌われるちゃうんじゃないかなーと。
 無理があったとは言え、キリスト教を受け入れて国際標準の近代国家の運営のため、無理やり明治初期に宗教の中にあった、政治と教育、芸術、医療などを分離・分解することで日本の近代は発展して破滅して来たからね。
 須藤さんに宗教施設へ進もうという直感が浮上する心理は解るんですが・・卒業制作でこれは・・まずその疑問が上がるので案の良し悪しなどより。で、審査員が判断したり、理解できないんじゃないですか

 繰り返しますが、過去を振り返ると、神仏習合のもとで宗教と医療と政治と芸術も生活も、全て建築と一体で運営されていたんだけど。明治期になると近代の合理主義で、国家神道は宗教じゃないことにして、国家の運営がなされて進みました。国家神道以外の宗教的な精神世界の自由は分離し閉じ込め、規制される中で、反動で邪宗門にあるような新宗教弾圧が起きてしまったのでしょう。
 戦後の宗教を軽視した社会で起きた学生運動もオウム教も、内面のよりどころを放置して進んで生まれた。宗教をどう扱いくらすのか、その問題が放置されたことで、警察も宗教に触らなくなることでサリン事件が起きたんですよね。
 須藤さんの提案は、私には近代主義に逆行し、古来にあった宗教と社会が一体になった形に戻す提案に見ますが・・。反近代・反現代の卒業設計のように見えてしまうんですよ。なぜ宗教、そこに光を当てて進めなければいけないのか、その理由に戻ると、どういう応答でしょうか。今考えておくことはとても意義深いことです、宗教対立が国家の運営まで揺るがす現代だから、とても大きな意味があると思うんです。が、漫画などでは、そこが充分に理解できないです。

須藤:ここになるかですよね、
佐藤:須藤さんの思いを実現するためには、なぜ宗教施設でなければならなかったのか、その理由です
須藤:そのために設計したといいうのは、今後、色々な設計をするうえで、これがどこかっていう事を意識したいんですよ。気づかないうちに、こっちになっていることが怖いから、その分析をしたんですけど。今回どこかの地点を狙うんじゃなくって、全部作ってみたかったんです。

佐藤:てんこ盛り未整理だから、分かり難くなるのかもね
須藤:違うプログラムを全部作るのではなくって、一個でシームレスに、ここが動く建築物として、可能なプログラムは何か・・と考えた時に宗教しか思いつかなかった

佐藤:全部可能なっていう欲望が詰まりすぎて、自爆感あるね。ライトコンストラクション+ミニマリズム大好きな時代だからね。てんこ盛り建築に見えると現在の他者には伝わりにくくなるよね
須藤確かに、わかりずらそう〜。それも実験として幅を持たせたかったんです。この凄い恐怖の谷の境目の空間から好感度が高い空間まで、どっちも同じ建築として入れられるのが、一番いいのが宗教建築っていう答えでした。

佐藤:行きと帰りの効果が反転したり、原始社会に戻ってしまう。、宗教建築は人間のあらゆる創造と表現と医療など、人々との交流の場づくり。なんでもできちゃうからね。そこに戻ってしまったと。
 今だから、この考え方を宗教施設にせず、他の展開を想っていない、その点が須藤さんの作品の問題かな。自分が病から救済されたいから、突き詰めていき、宗教建築で解決したわけでもないよね

須藤ぜんぜん違いますね
佐藤:だから、自分の病と宗教を付けて建築で解決しているように見える、そこは誤解され易いよね。アイデアと分析から、宗教施設へとジャンプしたのは、もったいなかったなーと。自分が克服しようとしてる事態を解析してみたら、宗教とくっけて解くと行けると安直に進んでしまいったかのような。その判断が他者には逆に分かりにくくなってしまっていると思うね。
 アイデアがまとまった!そう想った瞬間、そこで一息いれて、宗教建築を脱して現代的な、あるいはまだ見ぬ出会いの場として要る建築として解決してみようとか、考えてみる余裕が無かったかも。それに詰め込み過ぎが重なってしまうと。
 一発芸で決めようとした安直さが墓穴を掘った感あるよ。建築への展開の仕方はもったいない感あるあるね。多義的につくろうとして建築の要素をどんどん繋いで重ねて行く、言葉で理解できた事態に、空間を割り当て過ぎてね。
 そこから外れて人が単に移動することで、そこに関わった者が想像を加えることで、違う体験が観えてくるような、ミニマリズムを目指して作る方が、今風で受けたんじゃないかな。脱宗教建築は超ミニマリズム体験型建築なのだ、としてみようか

須藤確かに
佐藤:建築の中に、大仏さまみたいに中心が強調されている形態で、壁にトライポフォビア的装飾だから、宗教建築だって言い張るのは古いんじゃないか。
 ミニマムでなんでもないような建築体験が急に転倒して、須藤さんの目指す五原則を体験したかような感覚に目覚める場であれば、いいと想うけどね。
 国家神道(生長の家)と創価学会の連立が今の日本の政治を動かしていて、仮想敵を捏造して軍備へとリードしようとする政治的な態度と言動は、醜いので。
 須藤的卒業設計は脱・宗教施設してた案の方が、小洒落た審査員にだって受け易かったんじゃないかな。アレルギー有りすぎます俺には。

 アイデアを紡ぎ出す切っ掛けは好いとして、建築に引き込む時に、宗教建築でどやーねーって突っ込だのは・・・これで行けるって思う感覚の方に問題があるよ。未来を自ら閉じてる判断だって気付いてない、そこは拙いね、勝手な意見だけど。

須藤行けると思っちゃったんですよ
佐藤:直観が悪かったのであると、今判ったから良い。現実をくまなく知り尽くした先に直感が湧くので、現場に行く努力したり、深く考えようとしたりすると、須藤さん自身の才能の扉が開かれるかも知れないね。今の説明を聞いてての勝手な感想ですけどね。
 現代の他者との対話には、宗教施設では共有しにくいのではないかということですかね。逆転する芽はずーっとあるんだけど、わかるけど、こんなに長く聞いたり話し合ったりしないと、解り合えないのでは、SDL決戦の場では理解できないんじゃない

須藤それ、よくないですよね
佐藤:SDL2018、コンテストの尺に合わないだけだから。須藤さんは考え方を手に入れたのでコツコツやり続いると。卒業設計でやり切ったので、生きている場に合った表現の仕方が身について来て、須藤建築の開花が早まるかもしれませんね。逆に理解されるほどに嫌がられるかも知れないし。なかなか自分の泉を掘り続けるのは、たいへんな行為だとは思います。
 自分の病を克服するため現状を分析し、建築を学んだ者として、卒業設計でそれらを組み立てることが可能だなーって気付いただけでも、気付き学びが定着したんので、卒業制作大きい成果じゃない。

須藤そうですね
佐藤:他者による宗教建築はなぜ・何を救済するために、このような建築になったのだろう。それを逆に読んでいき宗教建築専門家への道も開かれることもあるでしょうし。
 昔の宗教建築を創った人々と、想像上で対話し続けることもできるようになったし。いろいろ解って来たでしょうから、大切な一里塚だった。建築を始めるに当たって、いい卒業設計をつくったなーということで、とりあえず他者承認は捨て去ってしまい自己承認の満足で、よーし。そこから次に進めばいい
須藤ははははは、本当にそです。


練りが足りない 

佐藤:この体験を突き抜けて、みんなと共有する方法を編み出して,、論しつづければ、好き空間・建築なりを、獲得できる準備が整っていくと。悩んで考え続けて行く、スタートだと。
 卒業制作のアイデアへ至った道、それを捨てると、今まで作り上げたものの意味も消えちゃう。もったいない、そこからしか始められないはずだね。
 自分は理解しているのだから、分からない人の位置まで移動して、共有できる道を、もういちど練りなしてみる。練り直して進むを繰り返してみると。発狂まじかの変なおばさんに見えてもいいいいや・・・っていうことであれば、この路線で行くのも、好いでしょう。

須藤;たしかにそこの練りが足りなかったなーと思います

佐藤:プランや構成は、何かの中心に向かって、突き刺さっていて。さらに積み重なっているような構成。余計な建築的操作をし過ぎているのでは。他者が理解しようとしても、その煩雑〜さによって、理解を妨げることになている。

 単純に床があるだけで、そこを行き来すると須藤さんの思いが伝わったり、病が解消してしまう、そういう仕掛けの方が、共感を得やすいのじゃないかなー。
 ぐしゃぐしゃの重なりを観ると、ポストモダンを通過しているので、短絡的にそちらに引きずれて、マイナス効果が生まれちゃうよね。形だけつくりたかったんじゃないの、って誤解を先に受けてしまう。

 球体で表面トライポフォビア的な素材で、用途も単純きわめてしまうと。お化け屋敷の出し物じゃないんだから。他者を引き付けるために、単純にして、哲学を育み、思想を記述させてしまう状況を、つくるのがいいんじゃないかな。

 この案だだと まず建築のぐちゃぐちゃ形態を理解しなければなないし、須藤さんの提案も理解しなければならないし、建築の歴史も、宗教と国家の歴史も理解してないと、評価できないでしょう。 こりゃ〜、工学的脳ではちょいと難ししぎるよ。パス・パスってことになるんじゃなかな。今回はそこが未熟でいいんじゃないかな。

須藤伝える努力が足りないって凄い言われました
佐藤:伝える努力なのか、他者を理解して伝える能力なのか。天才の言動は天才の方が凡人の地平までおりてきて語ってくれないと、ほぼ理解できない。
 最初に例をだしたゴッホ生き様で言えば、一枚も売れない絵描きの絵を、家族が美術館を建てて伝えた、そのことによって彼の人生が後世に伝えられた。建築も支援者がいないと、孤立してしまって知られることはない。
 孤立化をいとわない生き方もあるけれども、建築を追及して生きるわ!っていうのと、理解されてから進むよ、その分かれ目に、今立ちゃっているので、際どい扉の前に立っているね。

 須藤さん自身の問題は理解したんだけど、今後の展開については、分からなないです。人生の先が長い須藤さん、どんな展開があるのでしょうか、ご期待くださいっていことかな。

 色々できそうだけど、今回の卒業設計は、盛りだくさん過ぎて、他者へ伝えるためには造形のまずさが、発想の豊かさの足を引っ張ってしまった、そう見えますね。どうなんでしょうね

 その05へ続く