佐藤敏宏が作成しました 201306 |
2013年6月29日 | ||
滋賀県立大学 DANNWASITU 俺クチャー資料 元・エア建築家佐藤敏宏 セシウム都市福島市内で アクチャルな俺(生物)で生きるって何? 06仙台藩の災害と藩主・ まとめ ( 01 02 03 04 05 06 ) |
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できるだけ事実を知りたいと関心を抱いています。 ■4 建築・都市の一部としての原子力発電所 (他のどの建築にも無い、モノの影響力のすざまじさを感じ、恐ろしく思います。) ■5 政治とのしがらみ (今日の国会答弁で、安部政権「原発に絶対安全は無い、絶対に事故があってはいけない、 安全を確認出来次第、原発を再稼働する」と矛盾に満ちた方針はいったいなぜ、どうして。。) |
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その研究をするなかで東北大学に残されている仙台藩下級藩主の別所万右衛門という人物の記録に知る機会を得ました。それから村の研究ですので庶民が残した天保飢饉の記録というのが、これは仙台藩に多数ございます。その中に共通しているのは屋形様、実は斉邦ですけども、斉邦の色んな活動に対する非常に高い評価。それから高い期待、というものが、ありした。 藩主だけじゃなくって領民にもそのように捉えられている、この斉邦という人物は一体どういう人物だろうということで私が最初に関心を持った訳です。 斉邦が実は日本三賢君。 日本の殿様の中で最も優れた人物の3人の内の1人である。いう史料を知ることが出来ました 水戸の徳川斉昭 岡山県津山藩 松平斉民 江戸末期の仙台藩における複合災害に対する対応を見て現在の政治状況と比較してみよう ■ 12代藩主 伊達斉邦 (なりくに)1817年9月28日生まれ 没 1841年7月24日 25歳 文化14年 天保12年 在任期間 1827年〜 1841年 数え11歳から25歳 少年藩主の政治を見よう 文政10年〜 天保12年 14年間 仙台城に戻った斉邦はですね、家臣たちにですね、このような訓示を出している。養子である自分は先ほど申し上げましたように、彼は登米伊達からの家督を継いだ養子の藩主ですけれども。先君からお預かりしてた民を飢えや寒さから寒さから守るためなら、命を縮めてもかまわない。とにかく家を継ぐというですね、藩を守るということですけれども、それのためなら自分の命はかまわない そのうえで民を憐れむ心なき者は、その役職に一日たりともとどまる資格がない。その藩主たちに飢饉に苦しむ民を守れということですね。そういう強い意志をですね、示すことになった。もう自分の命はかまわない、それで民を守る、だからお前達も心して職務に当たれ。そういうような訓示をしたという記録が残っております もちろんその事に対して、領内に非常に高い評価があります。これは今の古川、大崎市古川の当たりの飢饉記録ですけれども。屋形様はことし17歳、先ほど私は命 縮めても構わない 憂いた、あれは17歳の藩主がそう言っているわけです。17歳になって苦労た。非常に藩主や領民のことで苦労された。 国元に戻になるや下々の私たちには手当が行き届いて本当に、民の父母とも言うような賢君である。、素晴らしい殿様だという評判になって 天保7年8月にですね伊達斉邦は次のようなリーダーの直書。これも企画展に展示してされている史料であります。 世の中の洪水やその災害やその事も踏まえた世の中の人の心の揺らぎ乱れというのは私が不徳不才。私が至らないからだと。いうですね、そのような文章で始まる史料。とにかく自分 潔く自分の力不足ですということを認めた。それを前提にして今後の対応というものを言うんですけれども それから下賎の者 このとき領民も含んだと思うのですけれども、そういう者でも、もし「国家万民」のために仙台藩や人々の為に役立つ意見がある者は遠慮なむ申し出なさいという。活発な議論を奨励するという。そういう対応をおこないました。とにかくみんなで知恵を出し合って、この苦境を乗り切っていこう。そういうかたちを直書を発することになりました。 その様子なんですけれども、斉邦を養子という 斉義の子どもの、伊達慶邦が次のように回想しています。 役職にない無役な藩主はちろん藩主はもちろん、家督にない次男や三男、医者たちを仙台城二の丸の御座の間、これは東北大学の川内の学食の在る当たりであると思うのですけれども、そこに呼んで、意見を聞いているのを私は横で座って見てましたと。 斉邦がこの時、慶邦は12歳、斉邦が21歳。小学校高学年ぐらいの男の子が、ちょこんと座って話聞いていた。何言っているのか分からないけども一緒にその場に座らされていた。そういう記録が、そういう回想が残っています 飢饉対応細かいことは今回省略しますが、1番大きな政策というのは、米を採れている西日本、とかあるいは新潟方面から米をお金で買って来て、それを救済に当てるという、他領米購入でありましたけれども。その成果を出しまして、天明飢饉の死者になりませんでした。これは非常に大きな成果であると思います。 が、その代償として、お金で買いましたので領内の現金、正貨がほとんどなくなって、大インフレが発生します。そのインフレ対策というのが最大の政策課題になっていくことになりました。 つまり、どういう事が起こるかと言うと、富か教えかという。こんどはそういう問題に斉邦は直面するわけです そのインフレのことを民はどう思ったか?という記事ですけれどもこの塩竃町の記録ではインフレは領民を救うために米を買っために借金をして、そのためで、それを借金で買った米を半分で売り渡した。本当にありがたくって、報じても報じ尽くせないご恩だ。 でこの物価高は御上様 斉邦が私たち下々を恵ますために あらゆる金銀がでちゃったたけだと。本当に、涙が出る。 まあ「斉邦の心はいつか通じるとだろう」という 宗充、お父さんの手紙がありましたが。どうやらそれは、本当だったのではないかというふうに思います。 |
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長期の冷害と重なる 災害 実質93万石のうち 損耗高 17歳 天保04年 (1833) 76万石とれず (81%) 19歳 天保06年 (1835) 74万石とれず (81%) 6月25日 宮城沖地震M7 大洪水の複合災害 20歳 天保07年 (1836) 91.5石とれず (98%) 22歳 天保09年 (1838) 82万石とれず (88%) 25歳 天保12年 (1841) 36万石とれず (39%) |
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まとめ 課題 | |||
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■ 菊池湧夫(いさお)著 清文堂 2012年6月20日発行 『東北から考える 近世史』 環境史・災害史・食べものの歴史に関わる内容と 東北という像の作られ史 環境と災害 第一章 飢饉と向き合う思想 安藤昌益の場合 1 災害は天災にあらず人災ー 飢饉体験の思想的反映 1−1昌益研究の現在 2 昌益の思想転換と飢饉体験 1−3妄欲・邪気がつくりだす餓死 疫病 2 山・里・浜の循環社会ー 八戸の風土的環境 3 金銭通用の世ー変容する地域社会 3−1 金は万欲・万悪の大本 3−2猪飢饉の背景にあるもの 書かれた時代背景などしらべその中で書くことの意味を考え 現代の関心をそのまま持ち込む読むことは注意しよう |
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■『21世紀の資本論』 岩井克人著 2000年 3月3日 筑摩書房発行 アダムスミスの語る 「見えざる手Invisible Hand 」『富国論』 1776年 第4編 第二章 みえざる手がますます力を失っている時代である。 (分業論から書き出されている) ・太古から投機家という存在を禍々しい者だと見なして来た。投機とは安く買い高くうることである ・貨幣とは世の全ての人々が商品と交換に受け入れている一般的な交換手段である ・貨幣の貨幣としての価値は「予想の無限連鎖」 ・ミルトン・フリードマン ・ジョン・メナード・ケインズ『雇用・利子・および貨幣の一般論』 1936年第 12章 パラグラフ美人コンテストについて ・人は歴史の中で自由なるものを知ってしまったのである。そしていかに危機に満ちていようとも、人が自由をもとめ続けるかぎりグローバル経済は必然である。自由とは共同体の干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とはまさにその自由を経済活動に行使することにほかならない・・・・・・・ ・21世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そしてこの「宿命」を認識しないかぎり、21世紀の危機に対する処方箋も、21世紀の繁栄に向けての設計図も書くことは不可能である |
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まとめ 課題 |
公共圏とは 国民国家という捉えかたから グローバル企業の為の日本国の政治に変容したのかもしれない ■ 建築スフィアーに暮らそうとする者は 被災現場の当事者的立場に巻き込まれず、常に客観的に事実を観察し 記録しその内容を分析し他者に語り伝える 報告者としてありる続ける者であるとの 覚悟と姿勢と継続性を身につけることが肝要である。 どのような大災害に遭っても、悲劇の中に希望を見つけ可視化し他者に伝えるようなジャーナリストとしての術を磨き、被災地で威力を発揮出来るよう努め人々に指し示すことが仕事である。 未知の悲劇の渦中の事態にあっても トライ・アンド・エラーを恐れず、自らの技術や考え方を日々修正し、次の時代を拓く者として 周囲の人々の福祉にも努めながら 歴史的過去の人々やまだ生まれ来ぬ未来の人々を含め 異なる他者との交流し 新しい希望を紡ぎ出す姿勢を持ち暮らし続け続けなければならない。 演出家であり マネージシャーであり 主役にはならない渡り歩くプロとして 他領域の人々に愛されるよう イケメンを備え多様な知識。知見を身につけるよう努め、異なる知見を持つ他者と協調し 他者にとって必要な、時には嫌われ厄介者となり、時には幸いを与える者となる。それらを使命とする専門家になるよう 連携し日々努め生きようではないか 学生諸君 ご静聴ありがとうございました またお会いし それぞれの活動を報告しあいましょう 元・エア建築家 佐藤敏宏 (セシウム敏ちゃん=セシウム都市フクシマの住人) 2013/06/28 |
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