HOME   佐藤敏宏が作成しました     2013年  
 
福島第一原子力発電所の事故によって起きている様々な問題を勉強し始めました 勉強過程の記録をつくってみますご活用ください
ジャーナリストから見た震災復興の課題 (2013/07/18)
01  02  03  04   05 

 01
大勢 おこしいただきましたありがとうございます。いつもは勉強させていただく立場で、毎回参加させていただいたところ、先生方からのお話。 中に私が入っていいのかなーという ちょとした というか 大きなためらいはありますけれども。

こういった立場でジャーナリストという立場でお話させていただきたいと、今の震災後の「福島の場合いは必要なんだ」というのがあるのでしょうという感じで、色々な場面でお話させていただく機会があります。

 後半は質疑応答のお時間があるということですので、是非皆様のご意見とか、そういったものをお寄せいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします

早速パワーポイントというかスライドの方を作ってきましたけれどもこれ使いますので ご覧いただきたいと思います

F島市に生まれました。今 フF島Tレサの近くに M治病院と言う所がありますが、そのM治病院で産まれまして。F★新聞社に大学を卒業してから。高校はF女子高校で。女子高校を卒業した後 □葉大学の文学部というところに入りまして。Uターン就職してそのままF★新聞社に勤めました。

★新聞社に勤めて翌年ですけれども、一つ 1年下の後輩ですけれども。同じ年の男性記者が入って来てですね。その人が偶然にもM治病院で、隣の部屋で生まれた人だったということです。1日違いで生まれた人だったということで。

本当にこれはF島ならとういうか何というかローカルな職場でした。民友新聞の在職中にですね。2度に渡って海外に留学さしてもらいました。

さしてもらいましたと言うのは最近話題になっている、堀順さんとか。NHKの方おられますね。私も聞いてびっくりしたんですけれども。NHKの方って会社で全額払ってもらえるということのようで、退職する時にお金を返さなきゃいけないというような事があって、お金も二〇〇何万だか返したという話ですけれども。

私の場合にはジャーナリストを対象にした奨学金を二度受けました。1回目はフルブライトというですね、日米教育委員会というところが事務局やっておりますけれども そのフルブライトのジャーナリストプログラム。2回目は日本財団、APIフェローシップという。アジアの今7カ国ぐらいになってますけれども。そこの ジャーナリストが参加するというような二つのフェローシップ。

でマイアミ大学の医学部のですね、ところで臓器移植を勉強しました。その時の教授、行け入れ教官がですね、加藤トモアキ先生と言いまして。何て言うんでしょうか。臓器移植を中心にやっておられる先生で。当時年間200件ぐらい。臓器移植をやっている。日本人ですけれども。ほとんど考え方はアメリカ人という人で。その人の研究室に入りまして。大学の医局の中で、1年間臓器移植の手術を勉強しました。

実際にアメリカのですね、5ヶ所ぐらいですか、6ヶ所か7ヶ所ぐらいの大学に短期間ですけれども滞在しまして。亡くなられた方のお看取りですね。終末期のこと、インフォームドコンセント。 臓器提供のサインといますか、そういったものを 頂くまでの手続きですとか。あと実際に臓器、提供された臓器を御遺体を運ぶ時、運ぶというか。そこまでしかトレーニングというような形でしたので、まだ免許が有りませんので、そういったことをやらせて頂いた。

その後2005年 4,5年ですね。臓器移植法改正前にそういうことを経験しまして。

その後フィリピン大学の方に留学してました。フィリピン大学 両方ともフィリピンのマニラに在る、ケンソウ市に在る大学なんですけれども。そこにそこに二つの大学に在籍しまして。ここでは臓器売買の方(法)を勉強しました。倫理学、哲学の方に在籍しまして、なぜフィリピン人は臓器を売るのであろうかと。いうような処で貧困問題、経済問題、倫理的な問題、業務(医療)の問題、それから法制化の問題。を勉強していたのですけれども。

そういった中身を連載したりということもありました。

2010年に3月で★新聞を退社しました。その後国会議員の公設秘書になりまして、永田町におりました。これは本当に凄い短い期間でしたけれども。法律のどういうふうにやって作っていくかというようなこと。、参議院とうの法制局なんかと交渉したりとか、交渉というのかふふふ。交渉したりとか政治家、自公、自民党とか公明党とか、あとその時の国会議員は民主党の国会議員でしたけれども。他の党とどういうふうにネゴシエーションしたりとかですね。民主党の一つの党のですね、考え方をですね、法案として出しますけれども、結果としてそれ 与党であっても四角い物が丸くなったり三角になったりというようなことがあります。そういうふうな交渉事 交渉というのでしょうか議論をどういうふうに積み重ねていって、結果としてどういうな書きぶりにしていくのかっていうような事をやっておりまして。

この時期がですね、人生の中で最も大変な ふふふ 毎日でして。ほとんど夜とかちゃんと寝れないというような感じがあってですね。

そんなことがあったからではありませんが、その後震災がありまして。永田町の中で、いいことやら 悪いことやら、生々しい事やら、等を経験し、やはり長年自分がやって来たジャーナリストとしての仕事に戻った方が、自分も活きる場があるのではないかと。


いうことで、フリーランスのジャーナリストに戻りました。で今会社を設立して、1人で。

今の仕事ですけれども、今年の4月に終了しましたけれども、日経ビジネスオンラインのフクシマの視点というのもございまして。そちらの方で先ほど入り口で確か資料をお配りさして頂きましたけれども。

 原発の、フクシマの視点っていうこういうがございまして、こちらの方に、1年半ぐらい連載してました。それからビデオニュース、これはインターネットのチャンネルで後でご覧いただきたいと思いますけれども福島報告といって、映像を撮って記事を書いて、自分で喋るというような事。言葉で報告するということです。

あとビックイシューに 雑誌がございまして。これが最新号なですけれども。ホームレスの方が売っている。街頭で。都内を中心に売っているんですけれども。福島でも実は駅前のですね、NPO福島 NPO法人ジャニックさんという所がやっているNPOの拠点のセンターが在るんですけれども。そこでも取り扱って頂いて。おります。

これで被災地からというシリーズを震災後ずーっと続けています。ビックイシューに 本番の仕事は本当にスタッフの方もいい方揃いでですね。本当に気持ちよく、快く最近は仕事をさしてもらってます。

単発というか朝日新聞web論座っていうシノドスというインターネットのサイト。復興タイムスというのに、原稿を書いております。その他 単発で河北新報、河北新報は子供新聞毎週日曜日 ・・ 新聞というのがあるのですが。そこで子ども達の様子を横顔をレポートするということで、原稿を週 1回ないし二回。週刊朝日とか週刊金曜日などに出稿しております。そんなことです

これがフリーランスの仕事なんですね。媒体というのを決めないで、今の処原稿を書くというような仕事です。


レジメの方といいますか小さい文字で本当に済みません。こちらの方にスライドを準備しておりますのでこちらをご覧頂いてもいいですし、お手元のペーパーご覧になっても結構ですので。


震災が起きたときに一体2011年3月の情報とかメディアの動向は一体どうなっていたのか?というと。いうことなんですけれども。当時ですね、丁度 地デジへの移行化が進んでおりまして。浜通りの方にインタビューなんかいたしますと。当時既に地デジのテレビを購入済みで、そのまま自宅の方に地デジのテレビを置いて避難した処、後で戻ってみたら地デジTVがすっかりなくなって。ドロボウに入られてとられたっていうような。ことをもある通りですね。地デジへの移行途上であって。テレビが地デジ移行してるっていうことは、その前にインターネットなど、情報伝送路と言われますけれども。インターネットですとか、ソーシャルネットワークなんかも含めてですね。そういったものが多様化しているような時代、時期にこの震災が起きた。ということが言えると思います。

アメリカなんか、海外。特にアメリカは象徴的だと思いますけれども。500チャンネルぐらいTVが在って。それがもうTV局によって専門化していると。一つのTVで政治もやれば経済もやりればバラエティーもやって。というような日本のTVの方式ではなくって。スポーツならスポーツ専門チャンネル。御存知の通り政治ならずーっと政治のチャンネル、バラエティーならバラエティーずーっと、歌なら歌番組ずーっとというふうな感じで。

そういうふうなアメリカ的なものに、すこしずつ移行しつつあるような処。多チャンネル化ですね。

そして、視聴者の方も多様化していた。ということで、マス、大きいテレビ局、大きな伝送路のチャンネルと平行して、非常に小さいインターネットのミニコミとかを マイクロ・インフォメーションのようなものが展開されていた時期でした。そういった時に今回の震災が起きた。

でそして同時にスマート・フォンというのが出ていた時期でした。実は私が公設秘書になる前にですね。選挙に出た人が、私が秘書をやった人が東京大学の医療政策人材養成講座という所の同級性でして。そこのメンバーと一緒にですね、ネット選挙というようなものを「どこまで出来るか?」もちろん法の縛りはありましたので、なんでもかんでも上げるということが出来なかったんですけれども。どこまでなら、法律に大丈夫で、どこからだったら、駄目なのか?と。いうような事を取り組んだ経緯がございます。

その中でツイッターとかフェースブック、ブログ等を使って。色々やったんですけれども。本当に震災の前からですね。フェースブック、数年前からフェースブック、ツイッターとかですね。個人から個人、個人からマスへの発信というようなものが、始まっていたということです。本当にスマートフォンの普及というのが爆発的な切っ掛けに一つはなっているとは思います。

ソーシャルネットワークのメリットというのは、初期投資が非常に少なくって済む。個人がサイン・インといいまして、メールアドレスとパスワードというのを入れると自分のチャンネルというかサイトが開ける。というようなものになっておりまして。だいぶ今日御参加の方もフェースブックの頁だとか、ツイッターの頁とか開設されておられているので、どういう状況かっていうのは日常に体験的にもお持ちだとも思いますけれども。

非常に初期投資が少なくって済むというような発信情報ですね。があります。

そんな形で普及していたと。いうことですね。

私はずーっと新聞社の記者をしておりまして。その時にデスクとかですね、上の人から 「これは読者は読まないと思う」、「よまねーだろう」みたいな。読まないだろうというような、記事があった訳です。「これはニュースじゃない」というような記事があった訳です。で、そのいわゆる、新聞的なニュースとか、沢山の人が様々な人が読む方向に向けて発信するニュースというものと。インターネットをステージとして仕事をする。まったく考え方というか、発想がまったく違うのですね。

つまり、私の記事を読む人は私の記事を気にしていて、私と言う個人の書くものに、いつも焦点を当てている人というのが居てですね。であるからして、私 Aが書くものというのは自分も本当にこれは問題なんだと。あるいは非常にニュースであると。

自分の今人的な問題意識によって、発信することが非常に重要なんだということですね。つまり、万人受けする記事っていうようなものを探るというような、取材ならびに報道というのはインターネットでは、あまりそういうやり方は必要ではない。っていう。そうですね。そういうふうな中身であります。

それと、例えばそういった記事に対して、様々な意見が出て来ることになります
。いいという人も居れば、気に入らないという人も居る。これは駄目だという、いわゆる炎上などと言われることですけれども。それはまさにインターネットの特徴であって。そういった炎上しないような、つまり新聞記者の時代は炎上したりですね ふふふふ、クレームが付いたりとか、そういうこと凄く会社としても、恐れていた処です。

けれどもインターネットならびにソーシャルメデイアで仕事をしてくということになると、そういう炎上ですとか議論っていうものを時には受け入れるとか。ウェルカムしていく。そういう議論をすることによって一つに議論の土台が出来上がると。あるいは意見の集約がはかれる、一つに過程であると捉えることも出来ますし、状況によってはそういった批判とかですね。そういったクレームというようなものをスルーしていく。  15:46

 その02へ