ふりかえり 記録す(パラレルプロジェクションズの6年間) 作成:佐藤敏宏
2021年12月04日21:00〜
ゲスト:川勝真一さん
     辻琢磨さん

 佐藤敏宏

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■ 記録を残して

:ジェダーバランスの話は全然考えてなかったです!

佐藤:建築界のミーツー問題もありそうだ、いずれ明にする女性が現れることでしょう。性差別の問題は解決すべき課題の一つだからね。ネットを使って女性たちが世界的に連携しだしてた。ワーキングプアとか貧困の格差拡大などとも続いてるけれど、隠されていた上下関係における暴力が、ネットを介して広まり伝わるようになりました。
そういう問題はおいて、まず二人がかかわった2016年の活動の意味は、既存のメディア・紙媒体が衰弱して若い人達が情報を自分たちで作っていこうという、一つの現れだと受け止めていました。その辺りはどうですか、自分たちで評価するにしても良い建築とか良い情報や活動についてもたいへん難しいテーマだと思います。良いプロジェットってなんだったですか?

川勝:メディアの意識は無かった。

佐藤:川勝さんや辻さんはZ世代に近いので紙媒体がメインだとは思っていませでしょう。
川勝:我々はミレニアル世代と言われている世代ですよ。
佐藤:1995年当時は何歳でしたか?
川勝:僕は小学6年生ですね。

佐藤:高校生の時分からPC使ってましたでしょう。話がそれるけど、自分のPCを持ったのはいつですか?
川勝:僕は大学に入った時、18歳ですね。大学のお祝いのような感じで買ってもらいましたね。
:私も同じですね。

佐藤:10年前あたりから訪ねる家の幼児たちはiPadを使ってアニメを見るようになった。で、テレビ受像機が無い、情報の受け方が変われば育っていく子友達の価値観も変わっていくでしょう。

川勝:メディアの話とはちょっと違いますけど、辻さんは何かメディアの話ある?
:メディアね〜。
佐藤:スタート時に冊子を作ったじゃないですか。

:これ自体が複合的なメディアにならないかなーと、何となく思っていました。展覧会とか、ワークショップとか、シンポジュームとか既存のメディウムをどれか一つというよりは、全部使って議論を立ち上げるという意識はあったと思います。

佐藤:見せてくれた黄緑色の表紙の紙媒体は最初のプロジェクションズで発行した?
川勝:予算もありましたので、刊行しました。

佐藤:発行後の反応はどうでしたか?
川勝:どうかなー。

:反応を聞く余裕がなかったな〜。本を出したことには意味があって、書籍とWEBサイトにかなり力を入れましした。参加者の情報だとか、セッションの情報がとれたりとか、終った後に、山梨さんとか青木さんなど参加して下さったゲストの方に長文をいただいたり。そうして、webサイト、展示、議論、書籍の4つメディアを使って全体の運動体を立ち上げようという意識はあったんです。 

佐藤:現在、それら全てが完成して公開されているんですか?

:そうですね、それを2021年で全部ひとまとめに。5年間をまとめて、サイトにアーカイブするという流れがあって、今回はテキストを60組ぐらいに書いていただきました。さらにZOOMでインタビューを22組、おこなって公開しました。テキストも動画も建築学会のwebの特設サイトに残そうと思って頑張りました。ちゃんとイベントを終わらせようという意識がありましたね。

■ 多様な参加者 次の世代へ

佐藤:終了後は引継ぎは無しですか?次の若い人たちに繋ぐ意識はありますか?

:参加してくれた人の中では、意欲的に今回は春口君とか谷繁君とか、自分たちでもう少し掘り下げて議論を継続する人もいたし。
川勝:春口さんは大阪市立芸大を出て、その後、京都工芸繊維大学の岡田栄造先生がいるDラボでしばらく働いてました。最近は独立して編集者として、インデペンデント・エディターとして、僕より10才ぐらい下です。
2016年、1年目は特に縛りがあって割と不自由でしたけれど、2、3年目は年齢の縛りをなくしたので、佐藤さんにも参加してもらいました。当時学生だった谷繁君とか、僕の知り合いの学生も何人か参加してくれたりしていました。

佐藤:世代の縛りが取り払われて語り合うのは面白かったです。職業も多様だったし、行政の方も参加されていたと思いました。
:そうですね、何人か議論されていました。
川勝:ゼネコンやデベロッパーとか町づくり系の方々も参加されていました。

佐藤:建築家を目指した人・人に拘ったわけではないですよね。

:むしろそこには意識が無い。拘らないということを意識して、なるべくアトリエ以外の組織にいっている方や行政に行っている人とか、研究者の人とか、メディアの人とか。いろんな人に来ていただいて、議論して楽しいなーというのが最初の思いですね。

川勝:書いていますけれど、建築界、JIAじゃないので、いわゆる建築学。

:そうだね、それを最初議論していた。プラットフォームの価値をどうやって最大化出来るか?ということを議論していた。
川勝:それに意匠だけじゃなくって、構造とか、設備もそうです、歴史、まちづくりとか都市、そういう人が居るっていう事なので、そういう人たちが、なるべく混じり合うことを意識していました。
あと、丁度、僕らが独立したのは2010年以前です、2011年の東日本大震災の被災があって、比較的、建築界全体の考え方も、シフトした。オバマ大統領が2009年だったですよ。2017年がトランプなんです、その辺でソーシャルなものとか、小さなスケールで実践的にやっていくとか、協働していく。複数でコラボレーションしていく、そういう事が当たり前というか、事が大事なんじゃないかな。そういう雰囲気の中で建築を始めた。

 
川勝真一さん推し曲
Friday Night Plans - "Plastic Love" (Live at Studio Tanta)
■ 夜学校〜パラレルプロジェクションズ

:ちょっと前の話に戻るけど、ぱっと入って議論できるのは、今みたいな2008年にリーマンショックがあって、2011年に東日本大震災があって、学生とか独立直後ぐらいの世代で、割と、それまでは図式的な建築とか、形式的な分かり易い形をしている建築がシンボリックに生まれていって、いいな、みたいな。
例えば伊東豊雄さんがアルゴリズムで建築を造ったりとか、藤本壮介さんがダイアグラム的な建築を発明していたりとか、SANAAの森山邸とか、形式が強くって、それでイケルかなーと思っていたけど。2008年にリーマンショックで、その人たちの仕事がばーんと飛んで、就職先も無くなり、その後に2011年の大震災が来た。で、何かフラットになっちゃった。何をしたらいいんだろうかなーという処から、地でみんなやっている人は多くって。その中で、まちづくりに入ったり、いきなりデベロッパーで開発というよりも、もう少し地ならしして、ボトムアップでプロジェクトが生まれてきたり、とか。
川勝さんが言っていたみたいな、新しい枠組みのプロジェクトの作り方が、2016年、タイミングは震災の5年後なんで、5年ぐらい皆さんトライアンドエラーしてて。そこで皆さん集まった、しかもエントリーで集まったので、議論したいという人が集まった。だから、槇さんがみんな一人一人やってます、みたいなものも多少あるかもしれないけど、よく分からなかったと思うんです。手探りでやっているけど、どうなんかなーと。今までの建築のありかたと違うし、プロジェクトの作り方も違うので、なんとなく面白いと思っているけど、でも実際、ちょっとこれはどういう手応えになるのか、とういうのが分からないなー、という人たちが割と集まっていた。まずはそれを共有するという処が2016年のパラレルプロジェクションズへの入りとしては、かなりスムーズにいったのかな、と思います。そこの感覚は10才若かったら違うし、10才年上でも違うじゃないかなーと思いますね。

川勝:そのことが若干メディアのありかたとも関わっていて、いわゆる作品主義的なもの、作品をバンと出すんじゃなくって、プロセスだとか、もしくは作品の完成のありかたそのものが変わってきていた。これまでの竣工して、竣工写真を撮ってとは違う建築の価値があるんじゃないか、それに向けていろいろやる。そういう事が起こって来て、それが既存の紙メディアのフォーマットだと掬いきれない、建築の価値だったのかなーと。
そういうプロジェクトの在り方が変わって来て、それをどう掬いあげるのかといメディアの問題もあったのかも知れないですね。

:丁度、2008年とか2009年の時の夜学校を仕切っていた藤村さんで、ライブラウンドアバウトジャーナルもやっているし、夜学校にとってはアーキテックを呼んだり、当時出て来たコミュニティーデザインの山崎亮さんとか、彼らの動きは勇気づけられた。こういうやり方があるんだ、自分でメディアを作ったりするものそうだし。建築を造らなくっても、公園をどういうふうに運営するか?とか、コミュニティーデザインできるのか、と。セルフビルドでやっていいんだとか。それらを知ったうえで、震災が来たんだよ。当時は彼らの動きも凄く勇気づけられましたね。今の僕らぐらいの年だと思います。


佐藤:大震災が来なかったら、作品主義をそのまま続けていたわけだよね。ということは藤村さんも震災によってさらにスポットライトを浴びることになったんだと。時の流れを絡んで進展し建築に対する考え方も変化していくんだと。

:藤村さんがソーシャルと言ったのは確実に東日本大震災の後だなーって記憶があります。それまでは割とメディアを作るんだという印象の方が強かったですね。建築業界の中でのメディアを作るだと、今思うと活発だった。

佐藤:大震災が来て、天変地異に人々が影響されながら川勝さんと辻さん世代のように建築を造らなくってもいい事例を見て、お二人はどうしました?

川勝:造らなくてもいい、とは言わないんですけど。
:RADも結構はっきり言っていた「建築を造らない」と。

川勝:うち、RADね。藤村さんも当時、アーキテクチャー論、権力、勢力としてのアーキテクチャーみたいな、レッシグとか深層と表層とか、割と社会のシステムにどう建築を喰い込ませていくか、みたいな議論。つまりそにコミット出来ていないから、というとことで、もしかしたらソーシャルなカテゴリー論ですね。そこをどう繋ぐかみたいな処で何かヒントがあった。そこをどう拡張するか、道筋が見えたと、それで変わるという気がする。
逆に、パラレルプロジェクションズを今年2021年で終わらせたのも、コロナに遭ったのも大きいかなーと。もともと5年で終わりということでしたが。東日本大震災アフター3・11みたいな状況が徐々に薄らいできた。東京オリンピックが決まって全体的にオリンピック前夜みたいな社会になっていて、新型コロナがあって社会のモード自体が変わってきているなーという印象があったので。
そういう意味で改めて今年、過去の参加者に2016年と同じ問いを投げかけて、当時と今の距離感をちゃんと書いてもらった。意味があったんじゃないかなと思います。パラレルプロジェクションズはこのような時代観のなかで行われた一つの取組みだったと思います。

■ 造ること 説明すること

佐藤:確認しておきたんですけど、藤村さんは議論の場を自分で作って、造ることから重心をすこし移して政治的な活動を始めたと思うんです。一方で大震災に遭おうがコロナに遭おうが、何しようが、こてこてに建築を造っている人も、お二人は見えていると思うんです。辻さん川勝さんの世代から見るとそういう人たちは誰でしょうか?

:建築しかやっていない人ですね。
川勝:パット思い浮かんじゃったのは藤本壮介さんです(笑)伊東さんは言説を書いたり、分かり易すぎ、そんな感じがしました。

佐藤:被災地にみんなの家を造っちゃったし。
川勝:そうそう。平田さんもかなり作家性の強い人ですけど、太田市の図書館などでは割と他者を招き入れる動きというのはあった。藤本さんは造っているものも含めてブレない感じがします。

佐藤:藤本さんは2000年頃から「最後の建築家」と宣言していたので、一貫している。そして世界に出て成功しているから興味深いです。

:藤本さんと西澤立衛さんかなー。あんまりコミュニティーとかソーシャルとか、そういう言葉を使わずに建築を造っている。その二人ですかね。

佐藤:あまりいいとは思わないけど、プロポとか地域社会への貢献とか建築を造るための説明を求められて、市民を説明し納得させる建築家、そういう流れも出来ていたと思います。もちろん3・11大震災後、アトリエ系の難しい建築を請負わず落札不調により、困った行政がゼネコンの設計施工によって工費も竣工期日も守らせる、いわゆるデザインビルドに移ったのも大震災が切掛けだったと思います。その最悪な事例が新国立競技場の建築だったと思います。日本のマインドも施工技術も世界の潮流から堕ちてしまったな〜と、人々に印象付けると同時に世界に発信してしまった。

設計者が説明を求められる事態が前面に押し出されて、そちらの方に能力を使いすぎるのじゃないか?そう推測したりします。一人の人間が設計することも住民と対話することも、予算調整や工期管理するのは難しいなーと思います。

若い人はその当たりの潮流はどう受けとめていますか。税金で造るから説明を求められるのは、当然だと思います。納税者であるあらゆる人に納得していただく建築は可能でしょうか。単年度で結論を出せないと思います、長期に渡り議論し尽くしてから造るなら分かるけど。予算措置の問題があって予算期限の中で造らなければ、との縛りもある。

パラレルプロジェクションズを通して6年間議論してこられて、議論して合意を見つけ出すことはかなり難しいと体感されたと推測します。民主主義的なありかたでの建築造りの難しさについて考えることがありますか?

建築知や体験を共有することは可能か

:やっぱり日本で建築を造るスタートラインがキツイというか。何でそんなことをやるですか?・・・というのがデフォールトだと思うんですね。建築の力を実感する機会が無いというか、ヨーロッパだと文化で根付いていて。建築の数も日本より少ないし、土俵に立ちやすさ、力を実感し易い環境が脈々とあるような気がして。日本には大工が居るし、建築家のエゴで、何でこういう変な形にしているんですか?となっちゃいがちだ、と思うんです。
だから、そこに真正面からぶつかって、コストを掛けるというやり方だと、どうしても軋轢が生まれるし、説明責任を必要以上に果たさないといけない。デフォルトがマイナスからスタートしている。そういう印象があって、もうちょっと日本的な合意形成とかプロセスというのが、ないかなー?と考えているところです。

佐藤:二つ思うんだけど。寺田真理子さんが我が家に来て話した事です。オランダで行われている例です。日時を決めて他者を招き入れる、オープンハウスが行われているそうです。日常の中に建築を体験して語り合う機会が設けられているそうです。
もう一つは、県の現職の方のインタビューをし始めているんです。応急仮設について民間借り借り上げ住宅制度をつくって、民間の空き家を東日本大震災の被災者の住宅に当てた。で良い建築は何かなども聞き始めました。分からないんだよね。新しい建築には福島県建築文化賞を与えたり、古建築は登録有形文化財に申請したりしている。でも分からない。
プロポで県の求める文化の香りが高い建築を選んで造っているんだけど、審査員含め外注している、この点はまだ調べ切ってないので、途中の感想です。建築文化賞は審査委員長は東京の大学先生に外注しちゃっていて職員が自分で選んでいない。「いい建築」とか「地域にとって必要な建築」とは何か、そこが抽象化と共有化がなされていない。
だから聞いているんだけど。良い建築について議論し記録を残して議論のための資料も作ってない、ようなんですよ。

ですからいろいろ資料を集めて資料を作りもしているだけど、建築文化賞の良い建築の理由につては受賞者が、自ら設計した建築の意図や意義を整然と住民に伝えることができていない。それは建築を少し知っている俺が講演のまま、文字化しても確認しても意味が不明、何を言ってるのか分からない。ですから建築士の言葉が納税者に通じていくんだろうか?そういう疑問も湧いています。

二つ、建築を市民に開き市民が建築に触れ知識を増やす、そして設計・造るサイドが市民に説明する言葉を持つように鍛える。その二つが必要だと思います。

3・11後の10年で思い語り合う、そういう取材途中の感想ですけれど。良い建築とは何か、その議論がなされていない。さらに古建築と新建築も分かれたままで、ありました。古と新を取り除いて「建築」で評価するようにそして、議論の場をつくる必要がありますねと、誰かれなく伝えています。


川勝:行政のプロジェクトはいろんな意味で、難しさはありますよね。例えば国の補助金の期限が決まっているから、それまでに契約を結ばないといけない。それによって単年度ではなくて、国の補助金のスケジュールで建築のスケジュールが決まってくる。設計とか、行政の何かと関係ない理由で物事を決めていかないといけない。 
そうすると市民がいろんなことを言っても、スケジュールに載せることを担当者が最優先するから、なるべく問題が無いようにスケジュール通りに進むようにする。それはあるなーと凄い感じます。
お金の期限、地方自治体が主体的に決定できない。建築の大きさ、や工期など決められない。

佐藤:さらに加えると、議論がまとまらないときは議論したという形式だけがアリバイ取りとして行われる可能性も高いね。まとまらない議論に付き合うのは設計者は虚しいのではないかと思って観ております。民主主義に慣れていない、民主的に決める技術が未成熟である、そう言い換える方が現状認識としては好ましい。

:今、2020年、明治維新に建築が入ってきて、まだ140年ぐら、それしか経っていない時に建築に携わっているという、時点で、日本ではそのジレンマはずーっと抱えることになる。100年後に建築を造っていたら今の皆の努力が浸透して、多少やりやすくなっていると思うんです。今の話、古建築と新建築の垣根を取り払うことには共感しています。

先日、伊勢神宮に行って来たんです。抽象的に見て面白い。モノも面白いんですし、式年遷宮で動いていて、形が動き続けている。それも日本的な建築としてちゃんと、概念として現代建築に消化できると思うんです。それが今、形が変わらない話とか、屋根の話とかでしたか転換できていないから、もっとコンセプチャルに消化して、それを分かり易い形で、市民に伝えたりとか。という経路を、新建築とかではなくてもいいですけど。

絵:東北工業大学高橋恒夫先生の最終講義資料より

西澤立衛さんとか、一周回って日本建築だとか万葉集の話を最近したり。日本の文化に戻って来てる感じもあります。ひっくり返して、現代建築の側から日本のエコ建築を評価する、形ではなくってコンセプチャルに評価する機会がこれから出てくるんじゃないかと思います。 磯崎さんは一杯やってきたかもしれない。

佐藤:3ヶ月まえ、のZOOMで語り合いました。以前、藤村さんと一緒に設計をして別れたベラ・ジュン(漢那潤)さん、彼は今沖縄で新民家を造ってます。イヌマキという沖縄の木材の苗木を植えて、民家を作り続けるために苗木を育てる、森をつくり水をつくり、そこから始めています。遠大な計画なんだけど。辻さんから式年遷宮の話が出しましたので伝えておきます。式年遷宮の背景には山を管理して檜を育てる、もちろん20年ごとに各種の技術を絶やさないように形式も守るために遷宮を実施している。

:そうそう、山に入るお祭りとかありますからね。

佐藤:山の管理と技術者の暮らしと、人々の信仰が一体になって生き続けている、エコ事態だからね、それが古来からの日本の伝統的建築の暮らしの良さだからね。

辻:そうそう、建築だけ、と切り分けられないんですよ。

佐藤:温暖化による災害多発や不作・不漁を目の当たりにして、ようやく暮らし方や経済の在り方を見直そうという動きは出て来たのが3・11以降の動きだと思います。ようやく、木材を産出していた森が荒れ放題でして、2021年・ウッドバブルが来て、少しは国産材や森林の管理に目が行くかどうかです。日本の山々が後続林思想に基づいた多彩な森と木材に変わるかどうかです。

自然環境と一体である建築・その暮しいう意味では 渡辺豊和さんの最後の建築は巨大な石が二本立っているだけのとてもシンプルな建築でした。石工たちが10年掛けて造った。完成していたので、作図をした渡辺菊眞さんと11月20日に体験しました。施工は地域の石工たちです、石は数千万年経って出来て、10年前に現地から掘り出されたんだそうです。高さが5メートルぐらいでした。

川勝:そうなるとコスモロジーですね  






絵:琉球犬槇 の苗木を育てる。中央が漢那潤さん







佐藤:偶然山から出て来た巨大な石を石工たちは神様と呼び合い、10年間掛けてこつこつ、現代イワクラを造っていた。完成したその場は人の生きる力を蘇らせる場になっていましたが、建築と呼べるかどうか不明です。一旦後ろに時を回す感じでありますけれど、私は現代建築や造り方への批判性の高い良い建築だと思いました。

少し話を変えますが今年の始めに種田元晴さんから『立原道造の夢みた建築』という本を頂きました。種田さんとZOOMや、メッセージで交流してたんです。立原道造は建築実作が一つも無いんだけど、建築家と呼ばれていました。(『建築の一九三0年代━系譜と脈絡』磯崎新対談、参照)

:ヒヤシンスハウス

佐藤:あれは後の人が最近造った。立原道造が監理したわけではない。磯崎さんも生田敏先生も、丹下健三も建築家と言っている。

川勝:設計活動してましたよね。

佐藤:設計事務所に勤めて、事務所のタイピストと結婚する予定だったけど、彼自身の実作はなく亡くなってしまいました。種田さんの本を読んで思ったんだけど、川勝さんも設計していないんだけど建築家と言えるし建築家と呼ぶべきだと思います。JIAの関係者には嫌われるだろうけどね。
建築家の活動範囲を狭くする言動や勝ち上がりゲームにすると、権威主義者とエリート主義者が溢れでて、自分たちの世界を自分で狭める行為にしているんだと思う。当然勝ちあげり意識が強い、同時に上から目線を持ってしまうと思います。で、市民からも遠くになる。建築の事を考えている研究者も、出来た建築を美しく保つために保全している人も、庭を掃いて綺麗に、建築の周りの景観を保全する人たちも、建築材料を育てている、材を造っている人々をも建築家と呼んで広く仲間を集い活動すべきだと思いました。


 その4へ続く