漢那潤さん
花田達朗さん
坂巻陽平さん
木村茂さん
漢那潤さんと語る 01      02 03  記録作成:文責:佐藤敏宏
ZOOM準備中 2021年9月4日21時15分〜


佐藤:こんばんは。まだベラさんは来ていません。連絡はついているから大丈夫です。花田先生、お元気そうですね。
花田:元気、元気。
佐藤:先日、福武ホールに関する記事を公開しましたが、関係者によると安藤忠雄さんは設計を無償、ただでやるのは常套手段だそうです。
花田:あ、そうなの。
佐藤:業界のルール破りで。


坂巻
:今晩は。お久しぶりです。
花田:おー!はい。
佐藤:この人、誰だろう。
坂巻:坂巻陽平と言います。初めまして。
佐藤:花田先生、誰だか知ってますか?
花田:私が招待しました。
坂巻:すみません、今日は。
花田:坂巻さんは私の教え子。教え子というと偉そうだけど、昔、彼は花田ゼミの学生だったの。早稲田大学を卒業後、高知新聞で新聞記者を10年やった。いろいろ良い記事も書いた。室戸岬から出港した漁船がビキニ環礁で水爆実験の死の灰を浴びて帰って来て、その漁船員たちがどれだけ酷い目に遭ったかとか、いい記事を書いて。

佐藤
:映画にもなりましたよね、確か観てます。
坂巻:南海放送の方が制作した。
花田:よく知ってますね、佐藤さん。


佐藤
:福島に放射能が降ってから、1954年3月1日のビキニ環礁での水爆実験に関する記事を図書館でいろいろ調べました。『マンハッタン計画』や『放射能を浴びたX年後』などの本も少し集めて調べている最中なんです。
2019年12月初旬に高知市から室戸岬まで行って、空海さんの修行したという洞窟にも行きました。その時、花田先生が「坂巻さんが脱サラして、田舎で木こりやっているから会ってみたら」と言われ、高知新聞に電話しましたら、「休職中、辞めた」と言われまして、笹島康仁さんと婚約者の森田千壽さんと楠瀬健太さんと4人で高知の街で呑みました。

花田:そうそう、脱サラしちゃったのよ。
坂巻:ちょうど漢那さんが入られました。 
花田:漢那さん、どうも。
漢那:今晩は。
佐藤:今日は花田先生が坂巻陽平さんという教え子の方をお招きされました。
坂巻:すみません、突然。
佐藤:いやいや、問題ないです。花田先生のお話ですと、高知新聞で10年記者をされていて、脱サラして、新聞社の人からは百姓していると、聞いたような気がする。
花田:違う違う、百姓じゃない。木こりだよ。
坂巻:木こり見習いです。

花田:新聞記者を10年やって、それから四万十川の奥の森に木こりとして入ったのよ。新聞社を休職して。結局、新聞社に惜しまれつつ、彼は会社を辞めてしまって、本格的に樵(きこり)になったわけ。
坂巻:まだ本格的でもないですね。

佐藤:サラリーマン生活に疲れ切って会社を辞めたという印象を持ってたんですが、逞しいですね。(早稲田大でのラガーだったらしい)
坂巻:健康的に辞めました。
花田:見るからに樵みたいな体格でしょう。
佐藤:早稲田でジャーナリズム教育を受けたでしょうか。
坂巻:花田先生から教わってました。





坂巻陽平さんのサイト


1954年3月16日の読売新聞紙面 県立図書館所蔵




絵:ネットより 坂巻陽平さん

漢那潤さんのこの10年

佐藤:では、始めます。ベラさん、始めていいですか。行き当たりばったりで進めましょう。今日のタイトルは「建築あそびと無名の可能性について」と付けておきました。坂巻さんにお伝えしなければいけないですけど、「建築あそび」というのは私の家を解放して他者を招いて行なう個人のイベントなんです。私の家を解放して呼びかけて他者を集めて、酒呑む会というのは誰でもそこでもやっていると思うんですが、私がやってきましたのは講師をお招きして講義をお聞きして、その後に呑み食いし、お喋りして朝まで喋ってしまう、その後web頁の記録をつくってアップして公開する、1984年からやっていた個人的なイベントです。web記録は2000年からあります。
ベラ(漢那)さんには2004年に私の家に来ていただいて、その時に花田先生の家「Voxel House(ボクセル・ハウス」と名付けられた、マンションの内装を作っていまして、それが完成したばかり位だったでしょうか。今、花田先生は写真を掲げられましたけど、棚が一杯並んでいて、その中にベットとか机が収納されている。新宿の傍だったですよね。

漢那:初台ですね。
花田:いや、渋谷区の代々木4丁目、参宮橋の傍でした。
佐藤
:花田先生から相談を受けたんだけど、その頃は今のようなZOOMもないので、東京で打ち合わせするのも大変だ。東京の若者と一緒に造ろうと思ったら、若い人達がどんどん進めて造ってしまったので、お願いして、造ってもらいました。それ以来、ベラさんとお付き合いができて、もう17年ほどんになります。
今ベラさんは沖縄の何処に住んでらっしゃいますか。
漢那:今は宜野湾市です。













2010年4月3日中目黒のベラさん事務所で

佐藤:2021年の4月に東京都・中目黒のベラさんの事務所を訪ねて「生い立ち」を聞き取りwebにアップしてあります。その記録では藤村龍至さんと一緒に仕事を始めるまでのお話を聞きました。

その後、福島県で原発事故が起きてしまいまして、すっかり放射能問題に追われてしまい、3・11以前の記憶はいろいろ消えてしまっていたんです。昨年から新コロナ災害に遭いまして、多重災害が積み重なって引き籠っていまして、話しをする機会がなくなってしまったので、今年はZOOM契約をしまして、声を出しながら健康を保とうということです。花田先生をむりやりお誘いして、月に一回ぐらい誰かと話し合いをしようと思いまして始めました。今日は7回目だと思います。建築あそびのZOOM版ですね。

8月4日は「編集者と建築家について語る」をテーマに6時間弱、語り合ってしまいました。話した内容は文字にしてwebアップするという事です。6時間の文字起こしは1週間ほど掛かりました。今は一部web公開しています。

高知工科大に渡辺菊眞先生がいまして、学生時分からですから40年ぐらいのお付き合いの先生がいます。彼はアフリカやインドで土嚢建築も造ってまして、高知の限界集落では足場パイプで神社を造り、地域を再興したりしています。ですから、坂巻さん、樵から見た高知の建築について語り合うのも、いいかなーと今、急に思いつきました。

ちょっと脱線しましたが、花田先生と私は老人なので喉を鍛えなおすためにZOOMするぞと始めました。花田先生の感想ですと「ZOOMやると胸周りの筋肉に効くよ」と語ってましたので、花田先生をどんどんお誘いして、先生の健康を増進させつつ先生の脳内の知識をフル稼働していただき、若い人に講義しつつ鍛えてもらおうと思っています。





絵:webより2枚とも。渡辺菊眞さんの建築

先日、ZOOMで花田先生と喋ってましたら、ベラさんが沖縄に移住された、と。私はまだ中目黒の事務所に居るとばかり思っていたんです。そこで今日は中目黒から沖縄に行く経緯を話ていただいて、その後沖縄でどんな活動をされているのか、話してもらいます。坂巻さんに漢那さんの画像を見ていただかなくてもいいかなー。

花田:坂巻さんには、沖縄テレビの放送のURLを今日送っておきましたから。
坂巻:はい、観ました。


花田
:漢那潤さんが今やっていることを坂巻さんには紹介しておきました。漢那さんに坂巻さんのことを紹介すると、私のゼミに居て、卒業して、縁もゆかりも無い高知に行って、高知新聞の記者になったんです。そこで10年ぐらい記者の仕事をして良い記事もいろいろ書いたんだけど。その後、何を思ったか四万十川の奥の森に入って樵になると。会社を休職したのかな。いや、研修か、その後会社を辞めて神奈川の森のある所に。

坂巻:神奈川県山北町という所です。
花田:そこで森林づくりをしている。
坂巻:お手伝いをちょっとしてます。

花田:だから、私は漢那さんが沖縄でやろうとしていることと繋がりがあるなーと思って。実は前から漢那さんと坂巻さんを引き合わせたいなーと、思っていました。今日、佐藤さんのこのイベントで漢那さんの登場となったので、ちょうどいいなーと思って、坂巻さんを今日、招待しました。二人とも木を育てるということに関係しているので、共通性はあるんじゃないかなー、と思います。




絵:沖縄テレビより
Vera Junから漢那潤へ 

佐藤:沖縄に移住したことも知らなかったんです。花田先生から漢那潤と聞かされて、誰だかわからなかったんですよ。Vera Junとしてしか覚えてなかったから。名前を変えたことと沖縄へ移住したこと、最初に二つ、話してもらえますか。

漢那:もともとベネズエラで生まれたんです。母親が日本人で父親がベネズエラ人。ベラ(Vera)という名字はベネズエラ国籍の父親のものだったんです。実は母親が漢那という名字を持っていて、私も日本の国籍をとった時には漢那になっていたんですよ。なので、10年は経ったと思うのです。けっこう早い段階で、大学を卒業して何年か経って日本の国籍をとっていました。でもベラ・ジュンで名前が通っているので、仕事はそれで、通称名という形で書類も全部それで通っていたんです。
漢那は沖縄の名字で、母親の両親が沖縄だったんです。沖縄出身の祖父母が東京でお見合いするような形で結婚して、横浜で母親が生まれた。沖縄の話はずーっと、おじいちゃんから聞いていたんです。そんな事です。で、日本の国籍をとって名字が漢那になって。それまで話半分に聞いていた沖縄の話だったけれど、名字が変わると、徐々に沖縄の人間なのかなーと、徐々に徐々に膨らんできて。
たまたま独立して、そんなに経っていない2005〜6年頃に沖縄の仕事が初めて入って、沖縄に行き始めるんです。けれども東京と環境が違うので、沖縄で建築をするというのは楽しいなーというのがあって。その時はすぐに沖縄で建築をしようと思っていなかったんです。東京の方がチャンスは有るし、自分のその時の興味はまだまだ、単純な最先端建築を造るというのが一つの目標としてあったから、東京にいることには特に疑いは無かったです。
だんだん、結婚しようかなーとか、子供もつくろかなーとか、思い始めたのが2012、3年だったかなー。ちょうど前回2010年のインタビューの後なんです。そうなった時に、いよいよ自分の家を造らないとなーと思い始めて。どこに造ろうかなーとなったときに沖縄かなーと。子供を育てるなら沖縄かなーと。自然が豊かだし。
自分はベネズエラで育ったんで、環境が沖縄はけっこう近いんです。中南米の雰囲気と凄く近いんで、同じような環境を体験させてみたいなーというのがあって。沖縄で家を建てようというのが切っ掛けです。

適当に建てるわけにはいかないので、いろいろリサーチし始める。土地をどこにしようかなーと。それは今思えば一番楽しい作業でした。土地探しから始めてどういう建築にしようかなーと。いろいろしているうちに、徐々にいろんな事が見えるようになって。だんだんコンセプトが固まってくる。せっかく造るならそれなりに、何か、自分は沖縄で建築を造っていきたいなーと漠然とした気持ちが生まれ、どういう建築にしていくかということも含めて、整理していく時間があって、研究する、調べる、どうしよう、ああしようと、悩んだりしながら楽しかった。

同時に家を造って子供を育てて、移住と言っても直ぐ仕事なんか生まれないので。家を建てると言いながら、ビジネスというか、その金も回収したり。いろいろ考えなきゃなーというので。
ちょうどその頃エアビーアンドビーというサービスが出て。建築をやってきたんで、建築の事業性というのはよく分っていました。お客さんの方がいつもそういう事を考えていたんで、それに対して情報などを提供しなければいけない立場だったんだけど、逆にお客さんのチャレンジに寄り添って、事業性のあるものを造っているうちに、ああすればいいのに、こうすればいいのにというのがずーっと有って。でもお客さんの企画なのだから、自分の方は情報を提供してあげるというのがありました。自分だったらどういう企画を立てるかというので、丁度、エアビーの良い処は1棟でも管理の固定費が低い、というか放置形態で建築を運営できちゃう。固定費が凄く低くって、1棟ちっちゃいのを建てただけでも、やってみたらビジネスが成り立つ。
以前はホテルや、あるいは集合住宅が、なぜ面積を大きくして集まるかというと、集まって固めて大きくしないと建築費と収入のバランスがとれないからなんです。だから大きくならざるを得ない。ホテルも大きくならざるを得ない。掃除だったりいろんなものがあって。受付だったり、管理上のことでも多くの部屋をくっ付けないとビジネスとして成り立たない。だけど、ITが大きな規模の必要性を完全に吹っ飛ばしてしまったので、1棟建てたらそれだけでプラスになるなーと思いまして。しかも、利回りでいうと凄い出ちゃうんです。
今の時代に大きなホテルを造っている人たちは、僕から見たら正直、気がふれている感じなんですけどね。

で、そういう事が出来るなーと思って、しかもその時は、まだ日本に観光バブルが起きる前だったので、簡単な、シンプルな建物を造ったら事業としていいなーと。田舎は今後逆に価値が出るし、一棟だけで、貸す。いずれ宿泊は一棟で庭付きで昔ながらの生活を体験するというのが最終的な形態としてゴールになるなーと。そのアイディアがあったのです。いろんな造りたい建築とビジネス的な要素とを混ぜて、巧くヒットしてやろうかなーと、思ったというのが、移住の切っ掛け、移住の段取りというか。で、そのタイミングで漢那という名前に切り替えまして、ベラ・ジュンという名前だと、ぱっと見は目立っていいんですけど。

佐藤:Veraだと沖縄で地元感、出ないよね。

漢那:地元の感じがしないし。うまくやっていくには、地元の名前の方がいいなーと。沖縄にいると東京にいるよりは、自分の居場所にいるというか、受け入れられ方がちょっと違うんです。漢那は居心地がいいんです。というような感じですね。けっこういろんな条件を整理していって、一点突破した。これだったら移住しても、とりあえず何とかなると。実際一軒で何とか、しばらくはなったんです。東京の仕事も引き受けながら,行ったり来たりしながら。その時には沖縄テレビのニュースに取り上げられたようなストーリーがまとまりました。せっかく一棟造るなら、それなりに意味あるものにしたいなーと思いました。











 絵:観光庁HPより 
奥さん、沖縄移住に反対しなかったの

佐藤:この11年間のことはおおよそ分りました。結婚と事業と移住というのは時系列で分らなかったですが、それはどういう順序だったですか。同時進行ですか。
漢那:全部、同時進行です。
佐藤:奥さんそんな無茶な移住によくついていきましたね。普通なら家があって事業が整って、安定したから沖縄に迎えて結婚かなーと思うはずなんだけど。事業もしならが結婚もしちゃったと。
漢那:たしかに。理解してたんだと思います。たぶん好きだったんじゃないですかね。
佐藤:むりやり奥さんを沖縄に連れていったわけじゃないと。
漢那:内容を話して、何度も連れていったので、プレゼンは当然してます。

佐藤:最初は設計事務所をつくるつもりで、行ったけど、建物を造ることに切り替えたんですか。
漢那:最初から事業する考えで移住しました。旅館業として建物を貸し出ししながら、プロモーションにあるような家を建てて一軒目から依頼が来るもんなので。
佐藤:最初に一棟建ててそれを事業としつつ、奥さまと掃除など旅館業を一緒にやりつつ、管理と雑用もおこない!。
漢那:管理をしつつ手伝ってもらった。
佐藤:家も一緒に建てたということですか。
漢那:自分の家はまだ借家なんです。
佐藤:借家に住んでいながら事業用の家を一棟建てたと。
漢那:別荘を先に建てた感じで、しかもそれを人に貸しながらお金ももらって。この方法は移住のやり方としてはいいと思うんです。
佐藤:それはそうだ。事業が成り立つように作ってから自分たちが動き出したと。しかし奥さんは旅館業体験してなかったら戸惑わないのかなー。そこはなんとかなるさーで始めたんですか。
漢那:そうですね、なんとかなるさーで。一軒ぐらいだったら、一人相手にするぐらいだったら。でも最初から掃除と管理のシステムもインータネットで仕組んで、なんとかやれそうだなーと、目途が立ったので。ちょうど新しいサービスがいろいろ出てて、それを組み合わせていくと、携帯電話で管理できちゃう。最初は行ったり来たりしていたのですけど。
佐藤:漢那さんの手法を巧みに使えば、世界中どこにでも自分の実作を造って旅館業というか事業化して自分も移住できてしまうということですね。

初期投資費用


漢那:
ですね。ただ最初に建築の費用が問題なんです。
佐藤:その費用はどうしたんですか? 
漢那:セカンドハウスローンというのがあります。丁度、漢那に変えた頃ですが、普通に東京に住んでいて、いきなり住宅ローンなんか沖縄の田舎で組めないんです。事実なので徐々に沖縄がルーツだという話をして、親戚も多く居て、仕事が徐々に増えつつあった。実際沖縄でちょこちょこ仕事はあったんで。ホテルに泊っているともったいないから、家を建てたいと銀行に話しに行ったら、ぽろっとローンが下りた。

佐藤:銀行からセカンドハウスで融資を受けて、事業計画を作ってから始めたということですかね。
漢那:事業計画だというと事業ローンになってしまうので、ややこしくなる。当時一棟建てていきなり、それが利益が出るなんて誰も分らないので、事例がほとんどない、無理な話なんです。住宅を民泊にするって当時、法律も整備されてなくって、自分の別荘を、ちょっと遠かったから、住むのをやめて民泊にして貸し出したというストーリーにすれば、住宅ローンでも問題ではないし。あとあと旅館業にしないといけないとなったとしても、100u以下の建物は用途変更が要らないんじゃなかったかなー。住宅のままでもいけるので。
佐藤:ちょうどいいタイミングで民泊とかインバウンドの話が出てきたんだね。
漢那:その後ですね、インバウンド・バブルになった。こっそり増やそうと思ったんです、ちょっとずつそれを建てていこうかなーと思っていたんですけども、バブルというかインバウンドブームで土地が3倍ぐらいに値上がりしちゃったんです。
それはもういいかなーと、面白くなくなってしまった。建てても意味がないので。いろんなお金持っている人は言って来て、バタバタやっている。そこはそこで本当は旅館の木造を見せながら、住み方に話を展開していこうと思っていたんですが、設計の仕事が、旅館だとかホテルばっかりになってしまうので、思っていた方向と違う流れになっちゃったんです。
新型コロナ前までに、設計の依頼は個人住宅以外にホテルの話ばっかりに来て。
佐藤:本当は人間が住み暮らす所をちゃんと作るために旅館業みたいなものを一時、始めておいて、お気に入りのお客さを相手にしながら、自分の生活も整えていくという事での計画だったわけですね。旅館業をやりたかったわけではないんだよと。

漢那:
そうですね。新民家の建築を体験してもらいたかったんです。
佐藤:ベラさんが作った建築と環境と仕組み全体と沖縄を体験してもらいたかったと。

建築は住居か、神殿かだ民家、沖縄の風景、そして場所性


花田
:私は沖縄が好きで何度も行っているんです。最後に沖縄に行ったのが3年ぐらい前かな。その時に漢那さんと沖縄で初めて会ったんですよ。漢那さんのお宅にもお邪魔したし、賞をとった「新民家」、今帰仁村にあるので見学もさせてもらって。


 絵:漢那潤さんのFBより

実際に新民家という建築物、それからその運営システム。つまり旅館というのかな、貸し出す設備としての建物でもあるんだけど、それも見せてもらったんです。
今、漢那さんがずーっと話してこられたことは、ある意味、漢那さんのビジネスモデルの話なのよね。新民家というビジネスモデル。自分で家を、民家を建てて、それをツーリズムに提供するというビジネスモデル。それと漢那さん自身の生活プランというかな。その重なり合いの話だったんですが、もちろんそれにも関心はあるけれども、今日もっと話をしたいと思うのはおそらくそのビジネスモデルを支えるストーリーというものに相当しているものかな、そこに私は沖縄で会った時から、関心を持っていて。沖縄テレビのニュースもそのストーリーの部分に焦点を合わせているわけですよね。これはおそらく漢那さんが構築したストーリーだと思うのです。そのストーリーでビジネスモデルが支えられ、そのストーリーによって商品価値が付加され販売される。
だから建築を造る人が建築を造る時にどういうストーリーにのせて建築を世の中に送り出していくかという話。あるいはもっと積極的に言えば、売りに出していくかということだと思うんですね。そこはつながっているんだけれど、ある程度切り離して、観察することも出来ます。ストーリーの方だけとかね。


絵:漢那潤さんのFBより

私に関心があることで言いますと、今日話せたらいいと思うのは三つある。一つは民家というコンセプトね。もう一つは沖縄の風景の問題ね。それから建築の場所性というお話。この三つなんです。

民家ということで言うと、私は建築っていうのは二つの種類と三つのカテゴリー、範疇しかないと思っているんです。建築は二つの種類しかない。それは人間が住むところと人間が住まないところ、この二つね。三つの範疇というのは当然人間が住むところ、つまり住居です。これが第一の範疇。それから人間が住まない所の建築、これは一言でいうと神殿です。宮殿とか殿堂とか神殿、モニュメントとかそういうものです。それらは用途としてはたいてい宗教施設です。神殿もそうだけど、そういう所には人が住まないわけです。住むために造ったんじゃない。

現代でも、例えばオリンピック競技場とか、美術館とか、あれは全部神殿です。美術館は美術作品の神殿。オリンピック競技場はローマのコロセウムみたいなもので、人間の肉体を展示する神殿ですよ。神殿という一言でくくれる物、美術館も含めてね、全部共通していて、人間が住まないです。神殿という言葉を今使っていますが、神であれ仏であれ、人類の建造物で重要なものとして残されているのはみな宗教施設ですよね。
もう一つ、第三番目の範疇って、これも人間が住まないんですが、建造物なんだけど生産設備とか管理設備ですよ。工場とかオフィスビルとか役所の建物とか、そういうものです。私は本来これは建築と、アーキテクチャーと呼ぶべきか疑問に思っているんです。建造物ではあるんですよ。生産設備、工場とか、オフィスビルとか、これはアーキテクチャーというよりファシリティーですね。本来のアーキテクチャーというのは第一と第二、つまり住居と神殿だと思うんです、歴史的に。

今私が住んでいるのはマンションですけど、マンションってこれは一番目の住居でもなく、二番目の神殿でもなく、三番目の設備だと思うんです。つまり住宅設備ですよね。だけど人間が住んでいるんです。建築って人間が住むところ、それから人間が住まないところ、二種類あるんだけど、一番目の住居こそがね、アーキテクトにとって重要な仕事の舞台なんじゃないかなーと思うんです。

ところが、歴史的には現在も続いていますけれども、名前の残る建築家ってみんな神殿を造っているんですよ。現代であれば、例えばオリンピック競技場を造った人とか。美術館を造ったのは誰とかね。神殿を造った人が有名建築家なんですよ。

ところが、私はアーキテクチャーの中心というのは住居じゃないか、と思う。住居。それは民家と呼ばれたり、住宅と呼ばれたり、私邸と呼ばれたりしているわけです。プライベート空間ですよ。神殿はパブリック空間ですね。三番目の設備はプライベート空間でもパブリック空間でもなくって、ファンクショナル空間、機能的空間ですよね。繰り返すけど、アーキテクトにとって中心となる仕事というのは、人間を中心にして考えれば、人間が住む所であって、住居であるべきだと。

前置きが長くなりましたが、だから私は漢那さんが「新民家」というコンセプト、民家というコンセプトで打って出てきたということに非常に意味を感じているんです。アーキテクチャーとして新民家。民家というキーワードで打ち出したこと。そのストーリーを作り出そうとしたことに私は非常に意味があると。沖縄で最初に賞をとった時の新民家のパンフレットというのかな、解説を見たときからそう思っていたんです。











絵:漢那潤さんのFBより



絵:漢那潤さんのFBより



絵:漢那潤さんのFBより




絵:漢那潤さんのFBより
ボクセルハウスについて

佐藤:では、漢那さん、新民家のコンセプトを話してもらえますか。木村さんという方が入ってらっしゃいましたけど、誰の知り合いですか。
木村:花田先生の知り合いです。
花田:木村さんどうも、お久しぶりです。現れてくれましたね。私の知り合いばっかりになった。木村さんをちょっと紹介しておきましょう。木村さんは私の専属不動産屋さんです。名前は「トランジスタ」。私が家を移るたびに何時もお世話になっている不動産屋さんでして、ちょっと風変わりな不動産屋さんなんです。若手建築家を一杯知っているんです。
木村:最初の花田先生のお部屋はベラさんにデザインしていただいた。
佐藤:ボクセルハウスですね。
花田:あのボクセルハウスを移築した早稲田界隈の物件は、トランジスタの木村さんに見つけてもらったんです。それから、その一つ前の代々木4丁目の賃貸マンションも。そこに最初にボクセルハウスを造ってもらったんですけど、そのマンションを見つけてくれたのも木村さんなんです。

木村:先生の隠れ家を探すというテーマでしたよね。
花田:そうです。
佐藤:ベラさんが参宮橋から早稲田界隈に移築したんだね。
漢那:そうです。あれを木村さんが売却のお手伝いをされたんですか。
花田:そうです。
佐藤:今まだ使っているんですか。
木村:買われた方は大切に使われていますよ。

佐藤:一度泊めてもらいました、また見たいですね。
花田:Iさんて言ったかな。
木村:女性が一人で住んでいます。
花田:デザイナーでね。情報を載っけてもらったR不動産のサイトから内見にきてくれたんだよね。
木村:その後もメンテナンスの話をいつもご相談いただいて、いまだにお付き合いしてます、Iさんとは。

花田:そうなの。話それちゃうけどね、ベラさんに設計してもらった内装のボクセルハウスという名前なんだけど。これね(写真を掲げる)。これは代々木4丁目のマンションで、最初に造ったやつです。この時に最初は木村さんからマンションを紹介してらいました。佐藤さんからは二人の設計者を紹介してもらって。藤村さんも居たけれども、本郷三丁目の喫茶店で二人に会って。それでマンションの内装を頼みたいだけどと言って、その時に私は一つだけ宿題を出した。逃げ出せる家がいいと、逃亡可能な家というコンセプト、それだけ。あとはお任せ。
それで造ってくれたのがこれなんですね。これは図面です。移築した時の設計図。40p×40pのボックスが並んでいるだけなのね。ところが平面図を見るとこういうことになっている。平面図を見ると波打っているんですね。横から見れば単なる四角なんだけど、上から見るとその一段の奥行の幅は全部違っている。しかも釘一本も使っていない。入れ子の組み合わせだけで造っている。何故釘を使っていないかというと、私のコンセプトを忠実に守ってくれていて、逃げ出せるため。内装も一緒に逃げ出すんだろうと思ったのかな。つまり解体移築できる内装なんですよね。それを実際に実践したわけです。代々木4丁目に造ってくれた内装を解体して早稲田界隈の、木村さんが見つけてくれたマンションに移築したんですね。

そこで快適に暮らしていたんですけど、2012年にドイツに行くことになって、実は密かに行ったっきり日本に帰って来なくてもいいかなーと。向こうから大学に休職届けとか退職届けとかを出すという手もあるかなーと思って、住んでいたボクセルハウスを売却したんですよ。家無しでドイツに行こうと。木村さんが苦労してくださって、ドイツに出発する直前でしたけど売却になった。私はカタツムリのような家を持たないままドイツに移っていったわけです。常に逃亡が付きまとっているんですね。住む場所から逃げ続ける。そういうことに漢那さんも木村さんも付き合ってくれた。

ちょっと話それちゃったけど、木村さん、お久しぶりです。木村さんをベラさんはよく知っていますよね。いろいろ東京で建築家の仕掛け人をやっていて、不動産業をやっているんだか、文化の仕掛け人なのか分らない不思議な人です。








木村茂さん














■ 沖縄 新民家のコンセプト

佐藤:では、話を戻します。

花田:民家。
佐藤:新民家とは何か。
花田:なぜ民家なのか。
漢那:どこからいこうかなー。
佐藤:新民家ってどういう概念か、そこからお願いします。

漢那:そのまんま、新しい民家ということなんですけど。民家って面白い。その土地のいろんな事情で、なん百年も掛けて積み上がってきた、皆の知識が集まって造られたもので、かつ最低限の手数で造られる、一番合理的な究極の住宅かなーというふうに考えたんです。沖縄の民家、それに気付いたのが、いろいろな建築を調べている時に、沖縄の木造の建物が物凄い、究極の答えに辿り着いているなーということに気付いたのですが、これが古民家と言われていた。

少ない手数で少ない予算で、自分が建てられる建築って限られている。いかに安くかつ合理的に、いろんな条件をクリアして造ろうとすると、自然と民家という条件に至る。それが僕がつくろうとしていたものだ。その答えのかなり近いところに古民家があった。そこから沖縄の歴史というか、民家を調べるリサーチに入った。それまで気にしてたのは、近代建築ばっかりだったんです。でも、それに気付いてからは徹底的に歴史を調べた。その方が楽しくなって、これこそ究極の住宅だなーって。何百年も積み重なってきたものの中に、自分が建築家として、次のアイディアを一番上にポント置けるかどうか、というのが設計とか建築を考える上で一番エキサイティングな課題、一番面白いことだと思ったんです。最高のフィールドを発見したって思ったんです。自分が建築を考える上で一番楽しい課題みたいな感じです。あえてそこに挑戦するという意味で新しい、そこで「新民家」と名付けた。そういう意味で、今、面白くってしょうがない。


日本の木造建築 民家

佐藤:日本にも民家はたくさんあって、関西だと中井家を中心にした集団が造った。東北では気仙沼を中心に気仙大工が一番有名だと思います。木造船を造って、家も造っていた大工さんたち。林業と船を造る技術がセットになっていて、民家と言っても様式がいろいろありました。私は詳しくないです。沖縄の民家は全く知らないので、沖縄の民家に限定して話を進めたいですけれど。漢那さんのテレビ番組で見たんですが、赤い瓦が載っている、一番外の柱が軒下に並んでいる平屋の民家、あれが原形なでしょう。


絵:2016年高橋恒夫先生退官記念講演レジュメより

漢那:そうですね、原形というか、民家の歴史で言うと一番新しい。そこに行って観たら、そこで止まっちゃっているというか。民家の技術って、どんどん外から入って、加わって、更新発展していくのが良かったことだと思っているんです。そのようにその土地の人たちがその建築を進化させていく。ところが、それが止まっていたのが沖縄の状況だったです。写真で見たのですが、100年以上前に今の形になったんです。そこからは特に更新されていないんです。あれが一応、最終形です。

佐藤:福島にも民家が一杯あるんです。放射能が降り積もるまでは福島県内に古民家を求めて移住する人も多かったんです。福島の場合は、養蚕、お蚕さんを飼って繭玉から生糸を紡ぐ、絹織物を織る。地域産業と住むことが一体になった古民家です。養蚕業のための住む形態にもなっているのが、くまなく普及していました。繭玉をつくる生産工場に人が住んでいたと言い換えていいかも知れません。
沖縄の民家は何をするんですか。生産と無関係に住むだけだったんですか。


 絵:沖縄テレビ動画より

漢那:あれは純粋な家ですね。食べて呑んで。
佐藤:100年前の沖縄の人は何をして暮らしを成り立たせていたんでしょうか。
漢那:農業と砂糖。産業では砂糖つくって売っていた。あとは貝殻を磨いて、貝殻がとれたんで、当時は中国とかに輸出していた。
佐藤:家の中でサトウキビを絞って煮詰めたりするようなことは無かったんですか。
漢那:それは工場として別にありますね。そういう建築、工場というか、ほとんど牛を回してサトウキビを絞るですが、屋根だけです。住居のほぼ外部です。大きい家だと豚小屋があったり、別棟になっている。

佐藤:養蚕の場合は、数ミリの幼虫を5,6pに成長させるから室内の温度管理や換気が凄く難しい。養蚕の燃料は炭だから、炭焼きと山、そして民家はセットなんだね。
漢那:そういう意味では屋根裏というか2階で育てていたんだ。服もバナナの葉を編んで作っていたんで。そういうのは居間で叔母ちゃんたちがやっていたんですけど。織る人の家には織機があった。
佐藤:生糸の代わりにバナナの葉から繊維をとって織っていたんだと、だいたい分りました。それで新民家の場合は暮すだけですか。そこで何か交流するとか、生産するとか、働くとか、そういう人の営みをする機能は持たないんですね。
漢那:僕がつくった新民家ですか、純粋に住むための形にしています。

佐藤:それから新民家の材料です。さっき話した気仙沼だと、三陸海の背にある山がすごく深いから、そこから木材を生産していた。福島もそうだけど、山地に植林して森林があって、そこから材料を調達して家を造る。材料も構法もほとんど同じなんだけど、沖縄の場合は材料も構法もみないっしょですか。

漢那:話が長くなるんですけど、いいですか。
佐藤:問題ないです、どうぞ。 












・岩手県 気仙大工
・山形県
小国大工 大石田大工 岩川大工
・新潟県
間瀬大工 出雲崎大工
・富山県 大窪大工
・神奈川県 半原大工
・山梨県 下山大工
・長野県 木曾大工
・兵庫県 比延大工 宇仁大工
 日原大工 三木大工 木津大工
 浦大工 
など



























その02に続く