編集者と建築家について語る 記録 01   文責と作成2021年8月佐藤敏宏
2021年8月4日 13:30より ZOOM開催 タイム・キーパー岸祐さん
■講話録へ 渡辺淳悦さん 井口勝文さん 中村謙太郎さん
       布野修司さん  花田達朗さん 
佐藤不慣れなZOOM 操作てこずっている
岸:わかりますか
佐藤:分らないからこのままいっちゃいます
中村:レコーディングは佐藤さんの方で
佐藤:皆さんの声も聞こえているので、始めても大丈夫です



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佐藤敏宏の粗年譜
佐藤:みなさんこんにちは。13時30分になりましたので始めます。今日は「編集者と建築家について語るかたる」ということです。前半の1時間は渡辺淳悦さん、井口勝文さん、中村謙太郎さん、布野修司さんの順で15分ずつ語っていただきます。花田達朗さんにも参加いただきましたので最後に話していただきます。
2時間目は公開ZOOMの参加者にも語り合いに加わっていだたきます。それぞれ語り継ぐように自由な内容で5分ぐらいずつ発言してください。前もって知らせましたように、肉声はそのまま文字にしweb記録をつくり公開します。ZOOMで公開中でもありますから責任を持って発言ください。

私のメディア関係・体験について少し話します。私の「建築あそび」「ことば悦覧」活動や生き方にロールモデルがありません。ですから、活動は意味不明で変な奴だ(参加者によると・天然不良)と思うでしょう。

中学校時分から土方バイトをたびたびしてました。工業高校を経てゼネコンの設計部員に運よくなれました。1980年代からは独立設計士となりました。それはバイト代で黒川紀章さんの著書『行動建築論』を買い読み「設計士はこういう事を考えているのか、面白い」と思い、面白さを追った結果が今の私です。1990代半ばまでは耳慣れない「建築家」と言われる者に興味がありませんでした。1975年頃ですが、安藤忠雄さんは我がゼネコン設計部の仲間を奴隷でもあるかのように、こき使って図面を書かせる、なんだか暴力団員あるいは奴隷主に見えてました。

ただ縁あって、1994年に『建築文化』特集されます。2001年に『住宅建築』にも特集され講演に呼ばれ「建築家」と言われたりする、望外のことも起きました。建築雑誌の編集者が私を建築家に仕立てた、ということです。自分で建築家と名乗ったことは無いです。それは人生でマスディアと関わり、初めてマスメディア体験も影響してると思います。今日のゲストである渡辺淳悦さんとは1983年、朝日新聞福島支局の仕事で出会いました。挿絵を依頼されました。週に1カットで1年間、挿絵を描く仕事でした。メディアとの最初の関わりは朝日新聞だったのです。

その次に、1984年毎日新聞社から原稿依頼が来ました。原稿料をもらいコラムを書きました。福島市の土湯温泉町の路上を占拠し身体表現やアート表現活動を主催したからです。その活動の記録集を自費で刊行しました。あまり売れませんでしがコアな身体表現者、勅使河原三部郎さんなどには届きました。

さらに1984年11月17日に、その年に完成した私の家の様子が朝日新聞福島版に載り、見知らぬ高校の先生から設計の注文が2件来ました。

次に、自分で刊行した本の体験を話ます。身体障碍者や知的障害者の肉声をまとめた『フロッタージュ』を刊行、増刷しました。売上は全部彼らに寄付しました。
三冊目は『新都白河』という記録集です。首都機能移転の代案を社会化した活動内容です。渡辺豊和さんが曼荼羅都市・新都白河計画をつくり、白河市民有志との私の三者共同で話し合いと講演会を開きました。その時の活動内容を記録した本です。地元の反対でゲラの段階で終わり、本を刊行するまでには至りませんでした。見本一冊を保管したままでもったいない出来事でした。
一般的な建築家なら自作集を刊行し広報するのでしょうが、私は自作集刊行や建築家への思いが無い、そのことを分かていただけるかもしれません。30代は必死に家族と共に生きていて余裕がなかったのでしょう。「建築」を高卒で世間知らずもあり、大学で学ばなかった影響もあるかもしれません。何を思って暮らしていたのかと言いますと「家人の病と共に暮らしていた」家人の病のことばかり考えていて「建築」に関することはさほと考えていませんでした。

 子供が成人してしまった50代初頭、2002年11月5日に福島の民友新聞、社会面トップに大きく千万家が掲載されました。事件を起こす建築士にのような扱いですかね、記事の内容は真逆ですが。その時、最初に電話を掛けて来たの人は福島県土木部次長(建築トップ)でした。「おまえ〜民友新聞に幾ら払った」と言われました。新聞を購読してないし手元に掲載紙がないので、とっさにはその意味がわかりませんでした。次長の言葉は、福島県は新聞社に情報をたくさん与えると同時に、多額の広告費を払い県行政の広報活動をさせている、そういう認識の現れですね。つまり「県と新聞社は強い癒着関係にある、お前もか?」と次長が言ったのです。そう私は受けとめました。当時民友新聞はは20万部ぐらいの発行部数だったと思います。押紙数は2割ぐらでしょうね。さら同じ月に福島民報新聞、発行部数30万部の文化欄に載りました。県紙2紙合計50万部、実質40万部でもって福島県内に知らせていただきました。が、注文は一件も来ませんでした。私が設計した建築が社会的事件や松井秀喜の引退記事と並べられ扱われたのです。事件の建築士に成ったわけですから、県内に発注者は存在しないのも当然かもしれませんね。2002年には福島テレビ局の番組レポートで2つの建築が紹介されておました。この時も電話は鳴りませんでした。2002年に「建築設計はやめよう」と決めました。対話の時代到来でしからweb発信と「建築あそび」活動に移りました。それまで建築を自由に造るために長年持っていた福島市内のゼネコンの株を売り払い、設計も開店休業にしました。粗く言えば福島ではマスメディアは企業や行政と癒着し広告費をとり記事を書いてあげる、ごろつき媒体がやるような関係なのでしょう。そんな編集者・メディアとの体験・経過となります。

建築媒体・専門雑誌ですが、建設業界や建築家、あるいは教育者などと癒着し共存共栄を企てている広報機関誌だと思ってました。建築業界関係者のための広報誌ですかね。ですからあまり購読したことがないです。建築系媒体も、その姿は読売新聞社社主であり首相の座をめざし、原発を推進し、読売巨人軍をつくり、日本テレビをつくり、よみうりランドをつくり、販促した巨怪の正力松太郎、あらゆるメディアを駆使して、一般の日本人の深層を支配しコントロールしてしまった、あの正力松太郎と、それを継いで今でも政治界(自民党)を誘導する渡辺恒雄主筆。アネハ事件もそうですが省庁のリーク先は読売が多いわけです。二人の巨怪たちが作り出した媒体の成功モデルを、建築の各業界誌が小さくした形で真似たかのように成り立っている建築媒体、そのような大まかな編集者・メディア認識です。間違ってたらご教示ください。
一方、建築家のロールモデルは東大を卒業し博士になり、同時に建築家になり、建築業界と雑誌と教育界を支配する。それが典型的な「希望の建築家像」だったと思います。2000年以降に出会った若者たちは、有名なプロフェッサー・アーキテクトになりたい、と真剣に頑張っています。既存のロールモデル建築家像を追っている人間にはさほど興味と興味が湧きませんけれど、観察しているのは身近な社会がわかるような気がするので楽しいです。ここまでは建築家と言われる人をさほど知らない体験での感想です。

分断対立するのは好くないので、今は行政の人をふくめ組織事務の方々、ゼネコンの人、教育者たちも含め、日々建築を主に考えて暮らしている人、建築を造る人、それら全てを「建築家」と捉えております。もちろん建築編集者も建築家だという認識です。

私の持ち時間5分が経ちましたので、1983年、私が最初に出会ったマスメディア人、元朝日新聞・記者の渡辺淳悦さんからお話をお願いします。


 

佐藤、19才現場監理姿









人生初刊行した本 記録集


1997年10月 新都白河計画・活動用チラシ
■ 渡辺淳悦さんの講話  

渡辺淳悦:佐藤さんと初めて出会ったメディアの人間ということで、今日お招きいただきました。相応しい内容のことをお話できるかどうか分りませんけれども、簡単に、事前に提出したレジュメに沿ってお話したいと思います。レジュメ通り読み上げても詰まらないので、簡単に。

私は1981年に社会人になったので、70年代後半に学生生活を送った者なんです。その頃、一種の都市論ブームというのがございまして、どちらかというと建築というよりも都市論に関心があって、いろいろ関係の本を読んでいたような気がします。

高校の同級生がたまたま建築に2,3人進んたのがおりまして、東大と、早稲田と武蔵美なんです。彼らの模型作りを手伝いに行ったり。そういうことで建築との関わりと言えば都市論への関心と友人の模型作りといったところから始まりました。ちなみにその3人は建築を出たんですけれども、今、建築をやっている者は一人もおりません。差しさわりがあるので、どういう事かは触れませんけれども。今、63,4歳になるんですが、建築出た同級生が一人も建築に係わっていないというのは、大変残念な気がいたします。

レジュメに戻りますけれども、そういうわけで佐藤さんと出会ったんです。けれども佐藤さんが建築家ということは全く意識しておりませんでした。どういう経緯でイラストを依頼したのかもちょっと記憶に無いんです。何となく佐藤氏は福島における一種の文化ムーブメントの仕掛け人といいますか、イベンターというか、そういった印象がありまして。特に、東松照明写真展の全国巡回では福島における中心人物でしたので、何となくそんな感じの人ということでお付き合いが始まったわけです。

ですので、佐藤さんの作品そのものを知ったのは福島を離れずいぶん後で、福島県の梁川という所の駅前に建てた物と、それから千葉県の松戸に建てた個人住宅。その二つを案内していただいて拝見したことはあるんです。そういう意味では佐藤さんを建築家として意識したことは、ずーっと後のことでございます。


その後、新聞社であちこち周りまして、意識的に建築と接点を持ったのは名古屋におりました時です。名古屋はどういうわけか、建築家の方々が文化活動に熱心に取組むというか、そんな背景がありました。特に「C&D」という雑誌は建築に限らず色々なイシューを特集する形で発行する雑誌で、いろんな方が集まっておりました。そんな所からヒントをもらって「スペース」という、名古屋を中心とした東海三県の都市空間のエリアを一つずつ取り上げて探訪する、そんな連載を3年ほどしました。それが一番濃密に建築家を通して都市と関わった時期だったのだ、という気がします。

当時、名古屋は世界デザイン博覧会。それからその後、私は名古屋勤務3度目の時に、2005年の万博ということで何となくあげあげの雰囲気の時代で、もしかしたら「名古屋の建築家の方々はそういった時代の気分を、ちょっと背負っていたのかなー」というふうに今になって思い起こします。 

その後、東京に勤務しまして、たまたま美術記者を数年やることになりました。丁度、劇場や美術館が続々建ってる時期で、私はコンテンツに即して書くというよりも、器ですね。つまり金と美術について関連記事を幾つか書いた記憶があります。

当時、朝日の学芸部には松葉一清さんという、この方は建築評論でも名をなした方ですけれども、先輩格としておりました。彼は個人的な著作活動は社業とは別にしていたわけですれど。たまに文化面に建築ないし都市論的なこどを書く事がありまして、そんなことを眺めたり。年下なんですけれども、大西若人という記者がいまして彼は編集員やってます。レジュメに書いた通り、たまたま松葉氏は京大の建築で、大西氏は東大の都市工学を出ているんです。そういった建築、都市工学をバックグランドとする人間が美術記者だったという、ちょっと変わった環境で刺激を受けたと。そんなことを思い起こします。


今、建築ということで振り返ってみると、やっぱり学生時代の都市論ブームというんですかね、その辺の影響がいまだに、個人的には読書をしても強い印象があります。原広司さんの『集落への旅』ですとか陣内秀信さんの『東京の空間人類学』であるとか、そういった著作に刺激を受けて都市をふらふら歩いて来たといったところが、私と建築との関わり、ということが言えると思います。

特に編集者として建築と関わったということは今申し上げた通り、ほとんどございません。若干建築家の方々と連載を組んで、仕事をしたということが数少ない思い出になります。とりあえず時間的にはこれぐらいでよろしいでしょうか。

佐藤:岸さん時間どうですか。
:あと7分ぐらいあります。
渡辺:でも他の方が長くなると思いますので。僕からこれ以上膨らまして話すことも特にございませんので。

佐藤:渡辺さん、ありがとうございました。











1982年12月18〜26日東松照明の世界展 
福島実行委員会刊行のパンフレット





梁川駅前の建築 

同上内部





















井口勝文さんの講話 (いのくち よしふみ)

佐藤:井口さんのことを紹介します。井口さんには2010年に会いました。私が大阪で若い建築家たちの聞き取り活動(ことば悦覧)をしておりましたら、井口さんの話が出たので押しかけて行き、お会いました。で、その場で井口さんの家に長期滞在、飯付き寝床を提供していただきました。井口さんの家を基地に聞き取り活動しました。同時に井口さんご夫妻の人生を聞き取り動画も公開しております(右欄動画)。311の震災時には家族の方々からも、たくさんの義援金もいだくことになりました。

井口さんが面白なーと思う点は、竹中工務店に勤務されていたんです。けれども大阪で始まった「都住創」、その前身になった研究会「みんなで建てる会」に参加していました。コーポラティブハウスという共同住宅建設のための手法、考え方とその実践活動があり、自分たちで土地を購入して、設計して、自分たちで工事を発注し、造って住む。そういう活動ですね。井口さんは初期に実践されました。8人で建てたので「八賢邸」という名称の共同住宅です。自分の家を造ってからは一切そういうことはしない切れ味もいいです。

共同で家を造るプロセスは面白いのですが、もっと面白くって興味深いのは「こんにちは!TERAUCHI」という新聞をつくり長年発行し続けたことです。寺内は住んでいる場所の名です。その新聞を武器に奥さまや仲間と一緒に寺内の地域づくりを激しくやっておりました。新聞を自らつくり地域をつくり改善していくのは建築家としても稀に見る、刮目すべき活動です。それらを実践していた人です。それを知ってからも井口さん以外に新聞を出し続け地域づくりのため、そのような行動をしている建築家には会ったことがありません。これからも出会うとはないと思い、今日はお招きいたしました。


 絵:1987年8月25日創刊号 新聞の題字

イタリアにも古い町家を改修した家を所有してらして、年の半分ずつ行き来しているのだと思います。つい最近はイタリアでの活動の様子を本に仕立て刊行されました。建築家でありながら自ら本も新聞も刊行する、そういうことをなさっています。これからの建築家像として魁の数少ない人であると思います。



井口:画面共有したいのですが、ホストは画面共有を無効にしましたとあります。
佐藤:ZOOM初心者なので、またiPad古いのでその機能が表示されません。済みませんが、画像共有なしでお願いいたします。

井口:なければ無いでいけます。みなさんどうも。

布野:どういう画面見ているのか分らないんですけれども参加者のところのホストは佐藤さんですよね。参加者のところクリックしてもダメ。共有ホストの前に画面の共有のところを「他者に共有できる」というボタンがあるんですけど。
佐藤:私のiPadにはそれが表示されないんで。 布野さんごめんなさい使っているiPad古すぎるんだと思います。
布野:誰かを共同ホストにしてもらって。
中村:共同ホストにも成らなかったんですよ。

佐藤:ということで画面無、共有なしで話てもらいます。


井口:はい分りました。今、佐藤さんが紹介してくれました井口です。紹介していただきました順番で話を進めたいと思います。

今この場所はご覧いただきますようにイタリアのメルカテッロという、英語で言うとメルカートに近いですかね。そういう名前の町なんです。ここに今は年に半部ぐらい住んでまして、「この町でいろいろ興味あることをまとめて本にした」ということは先ほど佐藤さんの話にもありました。その前に何でここまで来たか、あんまり理由は無いんです。

その前に私の若い頃からの話をした方がいいと思うので、先ほどの佐藤さんの話に合わせて、そうしたいと思います。私は1965年に大学を出まして、出稼ぎですね。私は福岡県の出身なんです。それで大阪の竹中工務店に就職しました。35年間、建築の設計と都市設計、どっちかと言うと僕は都市設計の方がメインでした。で、都市設計、都市開発をやってきました。先ほど佐藤さんが俺は建築家と思ったのは随分後の方だ、という話をされました。僕もそうです。その当時、今でもそうですが、ゼネコンで働いていると建築家とは認められないんですよね。

誰が「建築家」と認めているかと言うと、建築家の間でしか自分は建築家であると認められていない。一級建築士、これは認められています。僕は肩書は一級建築士ということにしてます。それで、35年勤めたあと、2000年から竹中を早期退所して京都の造形芸術大学で教えるようになって、自分でも都市デザインの事務所をやったりしました。イタリアに居ると、「建築家という肩書を入れた方が通り易いな」みたいなこともあって、日本でも「建築家」の呼び名が普及して、今はたいていの場合、「建築家」と言うことにしています。最近、出している本には肩書は建築家としてまして、そういう半端な建築家です






動画: 井口勝文父を語る




2010年8月の八賢邸

八賢邸 事業経過

1975年10月
 土地
さがし メンバー拡大開始
1976年9月
 
組合「八賢邸を建てる会」結成
 
土地購入不動産売買契約
1977年2月
工事請負契約 着工
  9月 竣工、入居

事業費 一戸当たり平均
 土地代 経費込
 7、500千円
 建築費 屋外工事とも
 9、200千円
 経費(設計料とも)
   500千円
 金利
   300千円
計 17、500千円














イタリアの小さな町 暮らしと風景




65年に大学を出て、大阪に勤め始めたんですけども。丁度、マンションがようやく一般的になりつつある頃でして、ずいぶんマンションの設計なんかもやりました。
ところが、自分で買うのはなかなかお金が足りないくってですね。これはもー、自分たちで造るしかないなー、というのでコーポラティブハウスというのを始めまして。仲間でやってたんですけれども、今そこに住んでいるんです。1977年に8人で八軒のコーポラティブハウス、八軒集まったマンションですね、それを造りました。今も住んでいます。

家を造った(豊中市内)その町が区画整理で出来た新しい町だったので、道路もまだちゃんと通されていない。ほとんど町の体裁を成していなかったのですね。いろいろ問題もあるというのも分ってきた。そこに住み始めて半年ちょっとぐらいして「これはミニコミ紙を作ってみんなで色々ワイワイやらんといかんなー」という思いになりまして。
前に住んでいた所。今は市会議員している人ですけれども、彼も町に関心のある人で『こんにちは!』というミニコミ誌を出していたんです。その人に「今度、こんにちは!というタイトルなかなか好いので使わしてくれませんか」と。「ああいいですよ」ということでで『こんにちは!TERAUCHI』というミニコミ紙を始めました。ミニコミ紙でいろいろなことをやりましたね。一番大きいのは道路問題です。その町が、御堂筋をご存知だと思いますが、大阪市のメーンストリートで、それが真っすぐ北へ伸びていって新大阪を通って千里ニュータウンに通じる。郊外の非常に重要な道、メーインの通りですね。その通りに面したもんですから区画整理をやった。当然そこは商業地区になる。オフィスビルも建つだろう、というような考えで造ってたんですね。


1978年8月 寺内町図 世帯数1817戸 男2582人女2783人(創刊号より




1978年8月25日発行

こんにちは!TERAUCHI 創刊号トップ頁




2010年8月2日
井口さんご夫妻と「八賢邸」にて

1週間ほど泊めていただくことになった


ミニコミ紙を積み上げ
ワインをいただきならが
井口ご夫妻に聞き取り (居間にて)


ところが、そこに住み始めた。その頃はマンションがたくさん建っていたんです。だから先住民が住宅所有者になったんですね。要するに住宅地になってきたわけです。僕らもそのつもりでそこに住んだもんですから「これ商業地になったら困るなー」と。で、その幹線の新御堂筋にいつも大きな開口部が、そこから出入りする道路がすでに区画整理で出来ていて。ただまだオープンにはなっていなかったんですね。「これオープンしてもらったら、市が考えているような商業地になってしまって、住宅地が壊れてしまう」、というので反対運動を始めまして。そのミニコミ紙でも「みんなどう思う?」みたいなことをやりながら。その当時は道路問題が大きなミニコミ紙のテーマ。

そのうちにそこが皆さん記憶があるかどうか分りませんが、ワンルームマンションというのがその頃、出始めました。今のワンルームマンションと違いまして、はっきり言ってセックス産業なんですね。そういうのにワンルームマンションを使うようなのが、その界隈に非常に多かったもんですから。「ワンルームマンションもここの町で造ってもらっては困る」と。ワンルームマンション反対運動ですね。自治会活動はもちろんやりますけれども、そうやってみんなの集会場を造る、定番のお祭り、運動会、そういう事をいろいろやりまして、ミニコミ紙は3,4年やりましたかね。それが先ほど佐藤さんから紹介していただきました『こんにちは!TERAUCHI』です。

30年以上前の古い話なんですけども、最近自分の町を歩いて思うことは、道路も結局開放されずに純然たる住宅地になり、あのミニコミ紙で我々がああやって騒いだ、空騒ぎしたようなもんだったんですよ。結局、我々が言っていたことが、言っただけのことはあったなー、みたいな感じを今持ってます。ちょっと満足しています。



2010年8月 井口家の庭 



奥様 画家:井口純子さん

そういうことがあるうちに、僕は1970年にイタリアに留学したことがあるのです。その繋がりでずーっとイタリアとの関係があるわけです。それで、ちょくちょくイタリアに来てたんです。けれども、いろんな経緯があるです。今住んでいるこの町で、小さな廃屋を見つけまして。そこが、「なんとか買えるぜ!」みたいな値段だったんで。人口1400人の町なんです。山奥で、最寄りの鉄道駅まで行こうと思うと車で2時間ぐらいは掛ります。日本で言えば完全に廃村、限界集落になるような所なんです。そういう所で、廃屋寸前の建物を買って。それを修復しまして、今、そこに年の半分住んでいる、という状態であります。

そんな田舎町ですけれども、イタリア人は外人に慣れている、といいます。まったく隔てなしにやってくれて、僕も良い性格してんだろうなー、と思んですけれども。受け入れてもらって、仲良くしています。僕もそうやって町づくりとか都市整備やっていましたので、その興味はずーっと持ち続けていたので、町の都市計画やそれを支える住民の暮らし、地域経済を見聞きして、それを本にした。『メルカテッロの暮らし - イタリアの小さな町で考える、日本の都市の可能性』という壮大なテーマの本です(京都造形芸術大学出版局・藝術学舎)。
で、これはイタリア語版なんです。「イタリア語版にしたらどう」と、薦めてくれる人が居て、翻訳してこの春にローマで出版しました。「外国人が自分たちのことをどう見ているか」なんか、日本人と違って、イタリアの人は興味ないと思っていたんですが、出してみると意外にそうでもないことが分ってきました。今年(2021年)初めに日本語版の、これ前著の改訂版ですけれども『イタリアの小さな町 暮らしと風景 - 地方が元気になるまちづくり』というタイトルで水曜社から刊行しました。「こんなもん絶対売れませんよ」と言われながら、なんとかお願いして出してもらったんです。

1960年代ぐらいの撲が建築を勉強しはじめた頃は、イタリアというのは一つの聖地と言いますかね。都市デザインする時には欠かせない所で、コルビュジェもそうだけど、槇さんもそうです。その当時の建築家はみんなイタリアを訪れ、手本にして、「一度はイタリアに行かなくちゃー」みたいなところがあったんです。メディアでもイタリアの特集があった。『SD』とういう雑誌があります。創刊号はイタリア特集ですね、そんなだったんです。今やイタリアなんか、ただ食べ物が美味しい、というだけのことで。景色はいいという観光地というだけで、建築家は誰も振り向きもしませんけど。僕は人生の大半を、イタリアとの関わりでいろんなことを考えてきたんですが、何の役にも立たないという状況になってしまいました。そういうなかでイタリアの本をまとめて出したわけです。

やっぱりあんまり売れない。(町の鐘楼がカン、か〜ん鳴っている)陣内秀信さんは撲よりちょっと後にイタリアに行った人なんですけども、陣内さんの本はよく売れるようです。僕のは売れませんね、アカデミックではないし、かといって大衆向きでもない真面目な本、そういう事です。
それからもう一つ話さなければいけないの、ミニコミ紙、イタリアの話、もう一つ佐藤さんいわれなかったですか

佐藤:またあとでお願いします(建築家、槇さんの事)

井口:とりあえずここで

佐藤:井口さんありがとうございました 










井口さんが改修された町家外観


広場を活かし楽しむイタリアの人々





イタリアでの井口さんの日常

中村謙太郎さんの講話    中村謙太郎さん略歴

佐藤:次に中村謙太郎さんでし。いますかー。
中村:はい。
佐藤:中村謙太郎さんと僕との出会いは1990代の中頃だったと思います。大阪の若手が主催している「大阪・アーキフォーラム」に呼ばれた会場で会いまし。僕は建築家になる気もなかったので、中村さんが編集者として所属していた『住宅建築』にも特集されたいという欲望は無く、仲間のように呑んだりする間柄でした。ある日、なぜか中村さんは私が設計した建築を取材し、特集してくれました。特集するだけではなくって表紙にもしくれた、変わった人です。「田舎者の私を取り上げる変わった編集者もいるんだなー」と思ております。

プロの建築編集者なので、東京で会って仲間と一緒に酒を呑んだりしていたんです。けれども「編集者って何」みたいな話を一度もしたことが無かった!と最近気が付きまして「編集者と建築家について語る。ZOOMで一緒にやりましょう」、とお誘いしました。今日は編集者中村健太郎さんにもあれこれを話ていただきます。「私のような変な者(天然不良)を相手にしなくちゃいけない、建築編集者ってかわいそうだねー」とも思います。そのあたりも含めて自由に語っていただければと思います。中村さんお願いいたします。



中村:はいわかりました。後でも話に出ると思いますけれど亡くなった大島哲蔵さんて言う方がいらして、大阪と名古屋を拠点に「スクウォッター」という名の洋書店を営みながら、建築・美術の評論活動や関西圏の大学の非常勤講師を受け持ったり、「豊和塾」は世話人をされ、豊和塾解散後は「大阪アーキフォーラム」の世話をし、若い建築家を焚きつけるような活動されていました。
その方に佐藤さんが「中村っていうのが取り上げて2日間で10軒ぐらい回って撮影すると言ってたんだけど、大丈夫だろうかと」心配のメールを送ったら、大島さんが「まー悪い奴じゃないとは思うけど、向こうのペースに巻き込まれないように気を付けてください」と。そういうメールのやりとりを盗み見た記憶を、今、思いだしました。

それはさておいて、僕は、『住宅建築』という雑誌と、『チルチンびと』という生活系の雑誌に所属していたものですから、いわゆる何て言うんでしょう、建築の最先端の時流を追いかけるようなメディアとはちょっと距離を置いておりまして、建築系メディアの主流とはちょっと違う、ような気もするもんです。おいおいお話していこうと思います。

まず、僕の両親は建築とは関係ないんです。けれども、父方の祖母の兄、つま伯父が建築家の牧野正巳と言いまして、1928年頃にル・コルビュジェの下で図面をひいておりました。その当時のコルビュジェのアトリエの様子を克明に『国際建築』に寄稿しておりまして、ということを僕は後から知ったんです。そんな事もあって、隔世遺伝とも違う、もしかしたらそういう血を受け継いでいるのかも知れないと思っております。

僕は武蔵美の建築学科で長尾重武さん、歴史家のゼミに在席しつつ、建築と評論家の長谷川堯さんの授業に熱中しました。そこで、ジョン・ラスキンやウイリアム・モリスをモダニズム批判の文脈で教わりました。それが建築を考える僕の今のベースになっていると言えます。

で、その延長線上で在学中に『住宅建築』の存在を知りまして、卒業後どうにかそこに滑り込んだと。そこに至って初めて『住宅建築』を創刊した平良敬一という人を知って、その人が村野藤吾の読売そごうを取り上げて全員編集者が首になった、新建築問題の首謀者である、ということを、そこで初めて知ったんです。

見えるでしょうか、この座っている人が平良敬一さん、この写真は北田英治さんが撮った写真ですけれども。お互い60代ぐらいの写真ですね。で、立っている方が二代目の編集長の立松久昌さんという人です。

平良は鹿島出版で『SD』 を創刊し『都市住宅』を仕掛けたあと出版部長になったんですけれども、それが物足りなくって場所を転じて『住宅建築』を創刊するに至ったと。平良敬一は1986年の5月号に永田昌民さんという建築家の特集の中で「もう一つの前線」というキーワードで、その思いについて原稿を書いてまして。
どうも「もう一つの前線」というのが通底する思いだったのではないか。つまり時代の先端とは違っても「設計者と住まいについての関係をインタラクティブにしたい、だとか、ギ-ディオンの言う(時間・空間・建築)にさらに「場所」というキーワードを入れたいと、いうようなことを考えて、「もう一つの前線」で奮闘する建築家を取り上げて光を当てたいと。そういう事をやっていました。

常々、平良というのはネットとかそういったものには一切、疎かったんですけれども、「将来は一人一人がメディアになる」とも言ってました。そのことはネットを通じて今は現実のものになっている気がして、まさに慧眼というしかありません。

もう一人、立松は僕にとっては凄く謎でして。というのも、毎日顔を出すわけではないんです。どこかで何をやっているのか分らない。で、知らないうちに版元の建築研究社に行って色々交渉事をやったり。立松の母校の東京の名門私立校の麻布学園が何か大問題が起きて存亡の危機にになると、旗本退屈男みたいに「やあやあ」と現れて、問題をさっと解決して帰ってくる。そんなことをやっていたそうです。で母校の理事もやっていた。元々早稲田の文学部の出で、桂文楽を卒業論文で書いているという人物なので、建築とは関係ないところですが、物事の本質を見抜く直観力がとてつもない人でした。
例えば、どこに現れていたかと言うと、建築家の方が亡くなると追悼記事というのをやるんですね。普通、だいたいいかにもしかるべき人に追悼文を頼む。ただそれが良いのか?という事がありまして。例えば立松は前川國男さんの追悼記事の時に伊東豊雄さんに頼んだ。後年、林雅子さんの追悼記事では鈴木博之さんに寄稿を依頼してます。そうすることで亡くなった人への興味を今の人にも湧かせるような、そういう角度の違う視点、それが編集者には重要であるということを教えてくれました。常々言っていたのが、「楽しいということが大事なんだ」ということです。つい堅苦しくなりがちな建築のメディアなんですけれども、いかに楽しいものにするか、ということを今でも僕は重要なものだと考えています

もう一つ建築家と編集者の関係において「建築家と編集者は五分と五分でいけ」と、常々言っておりました。「そこに主従関係というものは無く、あくまでも対等の関係の中で、ものごとを進めていくべきなんだ」と言ってました。

話を僕の方も戻しますと、僕が入社したのは1992年頃でして当時、編集長が三代目の植久哲男という者に変わっておりました。三代目になって、これまで取り上げて来なかった建築家も取り上げていくよ、なんて機運があって、僕はその担当になったりしたんです。
けれども、すぐ1995年に阪神淡路大震災が起きました。そこで問題になったのは「在来木造という、地域地域の大工さんが自分の経験則で建ってた物が一斉に被害を受けてしまった」ということで「全部金物で補強しよう」とか、次々に「性能数値で表示せよ」とか。どんどん住宅が堅苦しくなって。その中で、木造住宅はどういうふうにあるべきか、という記事を取り上げていきました。
その中で、僕は特に注目しいたのは長谷川堯に手仕事の意味というものを学んでいたもんですから、それを日本に適用するっていう意味で、左官とか土壁とか、そういった物の今日的な意味というものに注目するようになってきました。


写真撮影、中村謙太郎さん。長谷川堯さん2017年8月6日神楽坂建築塾公開講座にて 





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大阪のアーキフォーラムには2度呼ばれた。若い方たちは講演会後批評を書いている。
牧野研造さんの講評へ 





大島哲蔵、愛称「てっちゃん」

2002年6月6日気管支肺炎で死亡
FAX交信記録 佐藤分はほぼ捨てて無い
大島哲蔵さんからの便り
1995 1996 997年
1998年
 999年分 2000年分 2001年分


















平良敬一さん 2019年、仙台にて
写真撮影:中村謙太郎さん 












そうこうしている内に、確か2000年頃に佐藤さんに出会ったわけです。『建築文化』の特集(1994年11月号)を見たのが最初でした。その時は植田実さんが解説を書かれていたと思います。

実際に会ったのはそれから数か月後に。さきほど言われた通り大阪のアーキフォーラムのシンポジュームで大島哲蔵さんなんかもいらっしゃる中です。
てっきりコンクリートの造形的な物について中心に語られるのかと思ったら、個々の住宅における家族の在り方ですね、依頼主にその現実を突き付けて「さあ君たちはこれからどう生きるんだ」と。「突き付けながら日頃、設計している」という話を聞いて。一方で造形についてはかなり客観的に覚めた目で観ている眼差し、というのが凄く印象に残りました。

といった訳で『住宅建築』2001年の7月号で、あちこちの地域の建築家を取り上げるということになりまして。僕は佐藤さんを推薦したところ企画が通りまして、佐藤さんを取材することになったと。
で、『住宅建築』の中では佐藤さんという建築家は異色の存在だったですけれども、ちょうど取材したのが5月だったか、田植の終わった田園の中に佇む佐藤さんの建築の美しいカットが撮れて「これはいけるー」と思いまして、「表紙にしないか」と、うまく表紙になった、「してやったり」と思ったものです。


で、そうこうしているうちに2003年には立松が亡くなりまして「ちょっと早かったなー」と思うんですけれども。また今度『建築雑誌』というものの売れ行きがどんどん落ちていきまして。で、問題になって。2004,5年には平良がまた『住宅建築』の指揮を執ることになりました。
それでも売れ行きの低下はとどまらず、2008年には『住宅建築』は月刊から隔月になりまして。そうなると編集部員がそんなに要らないということになりまして、「そろそろ君とも話をしなきゃいけないなー」と平良に言われて。「やばい!肩たたきだよ」と。「どうしようかなー」と言っていたら、ある日出勤したら「『チルチンびと』という雑誌の編集長に話をつけたから、そっちに行くように」と。それで行くことになりました。それが2010年です。

何かと僕は震災と縁があると言いますか、その翌年の2011年に東日本大震災が起こりました。『チルチンびと』は自然志向の住宅誌なものですから「自然を放射能が汚す、原発の依存から脱却したほうが好いんじゃないか」ということで脱原発を銘打った連載がスタートします。僕が担当になりました。

で、くしくも私、この前オリンピックの開会式に演出する予定のミュージシャンが中学生の頃に虐めを行って問題になった、同じ学校に通ってまして。そこでは小学生ぐらいの時から「平和教育」ということで、広島に修学旅行に行ったりとかしてたもんですから。「原発」と言ったら「反核」ということで、僕は刷り込まれているもんですから、まさに、最初からどうも偏っているんですね。

で、『チルチンびと』それの連載で福島に行って、再び接触しました。佐藤さんが震災後どういう動きをしたか、ということをレポートに書いた。と同時に、次の取材先に、行く先ざき探すんですけれども、どうも色んな人に会うと、そういう人がだいたい佐藤さんの知り合いとか、元・佐藤さんに設計を依頼した依頼主だったりするんですね。

ということで、先ほど渡辺さんも仰ってましたが、どうも佐藤さんというのは福島の、変な言い方ですが「サブカル・ネットワークの中心に居た」ということがよく分るんですね。これがどうも平良が言うところの、「もう一つの前線がここにもあったな〜」ということですね。ちょっと思ったもんです。

で、『チルチンびと』に居たんですけれども、2013年いっぱいで退社しました。現在は『住宅建築』に居たころから追求してました「土壁の住まいの普及」ということで建築家の人と一緒に勉強会をやったり、見学会なんかもやったりしつつ、いろいろ細かい仕事をしています。

建築雑誌が少なくなって、建築メディアはどうなるのか、と思う話なんですけれども、一部の雑誌、『新建築』とかですね。そういう主流のところは情報源として残りつつ、平良が予言した通り建築に関わる様々な立場の人が、ネットなどを通じて個々に発信するようになるんじゃないか、と考えています。しかも、最近、ネットに限らず、建築家が出版社も始めた。少部数で出版して情報発信する、なんていう建築家が増えているもんですから。それもちょっと注目したいなー、と思っております。

いすれにしても長谷川堯、平良敬一の薫陶と、これまで出会ったいろんな方々のご縁で、今はこうなっていることは、自分にとっての「もう一つの前線」ではないかと考えて現在に至っていると。そういったわけです、どうもありがとうございました。

佐藤:中村さんどうも、ありがとうございました。    1:04:41









中村謙太郎さんの住宅建築の記事へ






チルチンびと 中村謙太郎さんの記事を読む


布野修司さんの講話     布野修司編集活動録 

佐藤:つぎは布野修司さんです。布野さんと私はまるで学歴と業績でみると対極、東大と土方なので比べものにならない、人生の形式というのが違います。何で?一緒にこのようにZOOM関係になっているんだろう、と思います。

1991年、私が渡辺豊和さんの自宅に2週間泊まり込こんで「渡辺さんはどんな建築造ってきて、どういう生活しているの」というのを体験させていただきました。当時は「安藤・毛綱・渡辺は関西の三奇人」と言われていました。その奇人の生活、暮らしぶりを知らないので泊めてもらい、渡辺さんの朝から晩までの行動と家庭での暮らしぶりを見せてもらいました。

同時に、関西周辺と対馬の公共建築など、主に渡辺さんの初期建築を見ては感想を渡辺さんに告げました。渡辺さんの大きな建築は、玄武建築という秋田には親子の亀の形をした体育館を造りましたね。青龍建築は龍神村の体育館で、学会賞を受賞しまして、あの体育館建築をきっかけに、日本の木造建築の大型化の道を拓きました。渡辺さんは建築基準法を変た日本で唯一の建築家だと思います。建築士ではアネハとう人がいます。白虎建築は対馬に大きな建築があります。朱雀建築は無いんですね。現在、息子さんが高知県におりまして、赤いシャツを着ています。とても面白い変わった人です。私の15才年上のおじさんなんですが、私が東北人だからだと思います、渡辺さんんはとても質素な暮らをされてるように見えました。アルミの弁当に飯を詰め込んで「日の丸弁当」を持参して寝押しのズボンを履いて大学へ行くんですね。子煩悩というか親ばかで、私が会った日本三大よい夫婦の一組です。

奈良の自宅に泊めていただいたのは、渡辺さんの『芸能としての建築』という本に共感・同意したからでもあります。渡辺建築を見学して関西をうろちょろ過ごしていたら、ある日渡辺さんが「布野って言う東大出の凄い優秀な奴が京大に来るから、お祝い会に連れていくぞー」って言われました。「はい分りました」と応じて付いて新大阪の駅前のホテルに行きました。その時、初めて布野さんに会いましたし2次会にも行って、関西圏の若い建築家との交流が始まりました。
布野さんとは震災後の交流の方が濃いんです、今日までの付き合いが続くことになり30年経ちました。布野さんと、がちで喋ったことが少ないかったですけど、最近、新コロナのおかげでzoom時代が到来。このところ、頻繁にZOOM交流してておりまして、文字起こし支援で腱鞘炎になりそうです。今日は対極にあることが分り絶交になる機会かもしれません。

ロールモデルが無いけど一時、建築雑誌によって建築家に仕立てられた私と、日本国家の建築家モデルを生産維持しつづけ優秀な弟子もたくさん育てて来た布野さん。研究書籍も雑誌もたくさん刊行されています。比べる必要がない建築専門人との付き合いは、とても楽ですね。弟子でも無いんで、遠慮する必要が何もないんです、言いたい放題です。

濃い接点の始まりは、滋賀県立大学に「DANWASHITSU」という学生が運営している勉強会があります。あれは私が設計した福島市内の住宅で育った息子が始めました。依頼された住宅の建築現場で、ちょろろ付いてきたので、「大きくなたらお前も、建築の設計やれ」と模型をあげたことがあったんです。我が家から自転車で15分ぐらいの渡利地区にあります。あの時の子供が「DANWASHITSU」、を起動させたんです。始まりは僕の家にその子が大学生になり夏休みでした。友達と一緒に「滋賀県大面白くない」と相談に来た。で、お前たち寝ぼけたこと言ってないで、餓鬼じゃないんだから自分で面白くしろー。俺が一人で我が家で開いている「建築あそび」のような感じで、web記録も公開し実践すれば簡単だよ、と。彼の尻を叩きました。
それを忘れていたんですが大震災後、滋賀県大に呼ばれて、川井操さんが引き継いでいたと知りました。川井先生に現在までの「DANWASHITSU」の経緯を教えられました。滋賀県立大において、時を経て僕の飛ばした激が活動となり、布野先生の研究者の軌道が交差することになりました。

それから少し布野さんとは話をするようになりました。そんなことで布野先生よろしくお願いいたします


2012年11月02日佐藤敏宏とDANWASHITSU集合写真 熱気がすごかったよ!
他の講師のときは知らないけど、学生は俺の挑発に乗って乗って、異様に盛り上がった。佐藤は旅費を学生から前借した。宿代もなかたので、その晩は30人ぐらい引き連れて学生の借家にみんなで泊まった。雑魚寝というよりは誰も寝ていなかった。翌日は京都に車で送ってもらい、学生とO邸に遊びに行った。写真前列左から2人目布野さん 3人目佐藤。




布野修司さん編集活動歴





























動画:当日の会場の様子





布野:はい喋ります。昨日と一昨日佐藤さんが渡辺さんのレジメの後だったかな、佐藤さんから自分のライフヒストリーみたいものを送っていただいたんです。これは皆さんには行ってない。
佐藤:配信しています。
井口:読んでますよ。

布野:あれを見て、今ご説明があったように佐藤さんとは1991年に会いました。私は京都大学に行くんです。その時に、渡辺豊和さん、安藤忠雄さん、高松伸なんていうのが「東京から布野が来た」と言って大歓迎会やってくれたんです。そこにたまたま豊和さんの「餓鬼舎」という渡辺豊和邸に泊まっていた佐藤さんが居て、いま仰ったように、参加したようです。
それは後になって「ああ、あの時に居たの」っていう感じです。あの会は京都大学で問題になりました。たかが助教授が赴任したことで何をやっているだ、と。怪文書は回るは、敵が一杯、あの瞬間にできたことがあります。

それはそれとして、その後、佐藤さんから滋賀県立大の話が出ましたけれど。
そしたら布野の編集経歴みたいなのは皆さんに行ってると思っていいですかね?

佐藤:配信してます。

布野:その話をすると長くなるので、後で出します。今日の会はあんまり理解していなくって。今いきなり佐藤さんと、この間、やりとりしてて、関係も後ほど話します。けれど、今日については全く打ち合わせしてなくって。何となく、佐藤さんとの出会いとか。佐藤さんの追悼座談会みたいな雰囲気ですので、まずそれをやっつけます。

最初の出会いはそういうことです。お話に出た滋賀県大におりました。滋賀県大から東京に戻って来て7年目ですね。
10年ほど滋賀県大に居た時に、今、初めて知りました。佐藤さんが仕掛けて「DANWASHITSU」ができていて。私が赴任したときに「これは凄いいい会を学生たちがやっている」と。ただ、凄いみみっちくって旅費が払えなくって、迎えられる先生ばっかり呼んでやっている。で、教師が「旅費ぐらいは出してあげるから、どこからでも呼びなさい」と。さすがに海外からは呼べない。今みたいにzoomが無いですから。海外から呼べないけど。日本じゅうから、話を聞きたいなら、呼びなさい!と。その代わり、呼んで話を聞いたことは記録に残しなさい!と。メディアを始めた。そのバックは布野なんです。『雑口罵乱』(ざっくばらん)にまとめ7号か8号ぐらい出ています。けれど、案の定、私が居なくなったら先ほど名前が出ていた、撲の研究室の後継者、と言っていもいいですけど、川井先生もいろいろ続けてくれない。メディアというのは、あるドライビング・フォースがいて、それなりの一種の思いが無いとサスティナブルではないなー、と思ったりします。

佐藤さんの紹介の二つ目です。後はですね佐藤さんが経歴によると、「建築あそび」とういうか。

佐藤:聞き取り活動ですね。独立系無名で若い人を対象にした聞き取りで、彼らの家などに泊めてもらって聞き取りですね。「ことば悦覧」と名付けてます。

布野:若手の聞き取りをして、文章にならない活字に起こすみたいなF注1。仕事を一杯。井口先生の豊中の自邸、「八賢邸」所に泊られた時もそれを聞き取りやって。インタビューされている、布野スクールというか私の研究室を卒業した若者の聞き取りもしてたのが、二番目のインパクトです。(F注2
それで、滋賀県大には3・11大震災後に学生たちが呼んで二人できましたよ。

佐藤:
私は二回呼ばれたんですよ。一回目が一人で、二回目は山形芸工大の竹内先生と原発の話でした。どちらも、学生に旅費を前借して出かけていきました。

布野:布野としては10年以上前から福島の佐藤さんという変な人が居て、何か僕の意識から言うと「布野の周辺を聞きまわ回っているぞ」と。いうのがあります。
正式にインタビュイーを受けたのは仙台メディアテークの日本一決定戦の最近の総括で「一体お前どう思っているだ」ということです。佐藤さんは五十嵐太郎に頼まれたのか分りませんけど。

佐藤:誰にも頼まれていないです。2018年3月仙台の「建築の終焉」を見に行って記録しただけです。

布野:頼まれてないの?!「SDL2018卒業設計日本一決定戦」の結果を見せられて「こういうのが一等賞なんですよ、一体どう思いますか」ということで、新宿の懐かしの「ちりんぼう」という騒々しい居酒屋で凄いロングインタビュー。それはたぶん訳の分からない佐藤流に活字になってます。その佐藤流・記録を見る







F注1単に記録に対する想いの相違。印刷媒体で育っちそれを信じている布野さん。
 未来のメディアはネット媒体を捨てて、フォログラフを使った立体動画として今の出来事が、あたかも演劇や映画でもあるかのように目の前に建ち現れて展開する。そんな記録形式になるだろうと佐藤は信じている。
未来の記録は今現在をそのまま、自在に切り取り記録保存継承、そして再現できる記録媒体に変わる。

布野さんは編集し文字・論文形式にする。一方佐藤はシナリオ形式の記録にする。

どちらが多くの若者に読まれているだろうか。記録は紙かネットかではなく、それを越えどのような媒体に記録されるべきなのか、議論してもいいテーマの一つだ。
この20年間に、私のネット記録は実に多くの若者が読んでいる、という実感。「壁に当たると何度も繰り返読んでいる」とも聞かされてももいる。独立前の若者たちから聞かせられことが多い。オジサンたちだってそっと聞かせてくれる。が公には言わない。

布野さんの論文は若者に読まれているのだろうか。若者の口から、私が野者だからであるが、布野さんの論文について語られるのを聞いた経験がない。



F注2独立系で無名の若者を対象にした佐藤の聞き取りは、若者の家に泊まり込んで聞き取る「ことば悦覧」と称している。
取材対象である若者を探しだすのは困難極まるので、取材先に行く、例えば京都に行き、建築系イベントに参加し、私の隣、あるいは周辺に居る最も若い人を見つけて,彼に推薦してもらう。当たり外れが極端なのだ。たまたま京都ではその若者が魚谷繁礼さんだった。魚谷さんは布野スクールの卒業生だったから、彼が推薦したのは尊敬する身近な布野スクールの先輩。若者ばかりを推薦したのだった。その事は後に分かった事である。

日本の若者の交遊関係は実に閉じていて、大学の先輩後輩でのみ固まっている。日本各地で「ことば悦覧」活動を続けていて痛感する事の一つである。
実社会に出ても、大学の人間関係は継続され、先輩が威張り散らすように見る。「村根性」の生産基地の一つは大学制度だろう。そのような人間関係の底流から継続的iに村人が生まれるのを生まれると知る。






2018年4月8日新宿の居酒屋でインタビュー

そういったような経緯です。何も喋っていませんけど。それで、もうだいぶ喋っていますけれど。この間、今日何人か若い人が参加ししてくれてますけれど。先に言っておきますと、最初に話した渡辺さんから、井口先生それから、今の中村さんと。出て来る名前は僕の歴史の中で、物凄い近い人ばっかりなんです。

渡辺さんの場合は朝日で松葉一清先生とか大西さん、今も現役で書きまくってます。最近、美術とかなんとかですけど。渡辺さんが名古屋におられたときの北原さんとか、瀬口先生とか、名前出てくる皆よく存知あげている。もちろん建築界というのが狭い、ということかもしれません。渡辺さんとはお会いしたことは無いと思います。名古屋を振り返れば「C&D」とか、東京へ来て西川さんが頑張っている『建築ジャーナル』ですね。

それから、中村さんが話された、大島哲蔵がんがおられた、ということを思い出しています。私はごく近くにいた記憶があります。それで、さっきの話じゃないですけれど、京都に移った時には、『建築ジャーナル』の、ちょっと名前失念しましたが当時の編集長とか、けっこう取材を受けた。大島さんとも「C&D」も入ったりしたことがあります。

それから井口先生とはお会いしたことが無かったですかね?たぶん環境デザイン会議、それで土田さんが先でしたでしょうか、後でしたでしようか。

井口:土田さんに紹介されて一度、京都で会いました

布野:造形大は京大の近くに在って、渡辺豊和さんとは一週間に一ぺん授業をやっては呑んでました。凄い近いです。「都住創」というのは我々の時代では、凄い先進的なムーブメントで、コープ推進協議会みたいになっていったんです。あれが日本にもう少し根付いていたら、ちょっと違う日本の集合住宅、共同住宅の展開があったんじゃないか、と思ったりします。物凄い近しい感じがします。

それで、もうそろそろ最初の発言やめますけど、最後の中村さんの話で、実は佐藤さんに、この間、去年の暮あたりから、参加している岸さんなど若い人たちも含めて建築メディアの活動しようとしていまして、凄く示唆的なことを中村さんから発言いただいたんです。建築とメディアと、建築ジャーナリズムの「もう一つの前線」というか「戦線」というか。それに絡んでです。実は平良敬一さんが亡くなって、新コロナがあるというので、お別れの会とか、追悼の会とか、今度、長谷川暁さんの本が出るんですか?どこでやるか、書かれてました。

中村:去年の4月号かなにかに。

布野:長谷川堯さんが亡くなられてその後に追悼号と、お別れの会がないかなーという話が。小泉淳子さんに、まだ何にも連絡していないですけど。もう一つは平良さんが出されましたよね『機能主義をこえるもの』あれは2017年ですか。
中村:これはですね、2017年ですね。
布野:2017年ですよね。連休開けだったと思う。平良さんの出版記念会ですけども。あの時は相当な大物、壇上には並んでました。たぶん中村さんは事務方やられたと思います。

中村:平良のお付きでした。
布野:あそこにいらっしゃった。壇上には、びっくりしたけど、パネリストは全部80才以上。磯崎さん、原さん、長谷尭さん、それから芸大の。
中村:益子さん。
布野:益子先生、一番若いのが安藤邦弘。壇上にいなかったかな?。
中村:居たかもしんないです。

布野:たいへんな出版記念会でした。その時に全員が呼ばれた訳じゃないですよ、僕も呼ばれまして。さっき仰った「一人でもメディアになる、一人でも、お前は一人になってもやれ!」と言われた。そのことが頭に残ってまして、何か「新しいメディアみたいなものを、そんなものが考えられないか、ということで若い人にも声かけたりしてます。戦後建築ジャーナリズム再興なんですが、その人たちも、今日も何人か参加しています。その時、佐藤さんの名前と顔というか思い浮かんだ。その前後にやりとりが有ったかで、声かけたんです。
それが僕に方からの経緯であって、今日の「編集者と建築家について語る」その仕掛けについては全く知らずに「参加します」って言ったら「最初に15分しゃべってください」と言われて。今たぶん20分ぐらい喋っていると思います。ということです。最初の発言はそういうことにさしてください。


佐藤:今日のZOOMでワイワイ、ですが何かをまとめる、そのような目的は設定してません。長時間、互いに自由な話しを交通させますと、課題は自然に浮かんでしまうと思っているからです。それらを意識し、各自のテーマにできるのか、それは参加している、それぞれの方の問題なので、主催者からはなも語りません。が、語り合いをそのまま文字にし、間違いなどたくさんあるweb記録をつくりアップします。参加者は、web記録を眺め今後の活動の参考にしていただければと思います。布野さん、ありがとうございました。 1:22:09


花田達朗さんの講話

佐藤:次は花田達朗さんです。花田さんをちょっと紹介しますと、仙台メディアテークの設計者を選ぶ時、花田先生がつくった「公共圏概念」を小野田先生が使って造っていたということです。僕はあの建築がオープンした時に、イベントをやっていたので、見に行ったら柱の裏の方で「いいこと言っている人いるなー」と思って終了後、挨拶して呑みにいきました。花田先生が言った事はおれがやっている「建築あそび」だと。あの晩一緒に酒呑んだのが最初の出会いです。
少し遅れてメールで「建築あそびをやっているから我が家に来て講演してほしい」。で、同じテーマで春と秋に2回講義をしてもらいました。それ以来20年間も付き合っています。(建築あそび 第一回講義録 第二回講義録

この新聞は東日本大震災が来て、全国の方から義援金をいただき、津波被災地の支援活動している時に発行したブランケット版の新聞です。(PDFを開き新聞の一面を見る)
この実践は花田先生の影響だと思います。新聞を発行して地域の人々、津波被災地の人々の多様な声をまとめて、可視化して共有し高台移転地を示し、人々をまとめる。新聞は本当に効きますね。先ほど井口さんが発行した「こんにちは!TERAUCHI」という地域新聞の話もあり、そういう町になったと。自分が立っている土地にメディアをつくることは大切ですね。「発行すると、こんなに地域・世界が変わってしまうのか」と思いました。私が新聞発行したら市会議員と漁協関係者に回収されました。言論弾圧だと裁判してもよかったんです。漁協の悪さ、ふれてはいけないことが書いてあったんですね。

中村:喋った事をそのままのっけたという話ですよね。

佐藤
:「そのまま載せますので、拙いことは言わないで」と言ってから聞き取りしてまして。悪口はカットしてますよ、喧嘩になるので。音もあるんです。「配慮しません」と言ってから聞き出しているのに。区長さんは「あんたは間違ってない。内容は誇張はあるが、問題は何もない」と言いまして、「もっと居てほしい」と電話してきましたね。「なんで俺は漁協の広報マンしなければならんのだー」と思いました。被災地において、目の前に在る問題を共有して解決するため、新聞はひとつの手法だよと。「まち壊しだから出て行け」と言われ。これはしめしめと。高台移転のための地権者との土地交渉は終えてました。で。「これで港町づくり支援をおえられる〜」と思いました。大変良かった新聞です。


最近花田先生は花田達朗コレクションという著作集を刊行し始めまして、4巻がすでに出てます。これは第3巻の『公共圏』。私の家での2度の「建築あそび」、私が作ったweb記録が、そのままこの本に掲載されています。絵はないのですが、文字はそのまんま掲載です。

花田さんは「パブリックスフィアー・公共圏」という概念でいろいろ考えて論じています。概念的な空間です。これは第4巻の『メディアの制度論と空間論』、「メディア制度は表現の自由を助け、人々を解放しているのか?」という帯がついてます。『公共圏』の帯には「権力と対峙する市民社会の創造とジャーナリストのために、その社会空間の主体は誰か?」が帯についています。
渡辺恒雄とか正力松太郎とかの考えているジャーナリストではないですね。その対極にある記者や市民のこと、そんなことです。僕はずーっと花田先生と20年間付き合ってて、こういう概念を考えだして論が精緻に組み立てて書かれている。20年前はさっぱりわからない日本語の文章でした。今は書くことはできませんが、読んでわかります。そんなことで花田先生よろしくお願いします。



花田:みなさん、こんにちは。初めまして。花田です。3年前に大学をリタイアしまして、今はフリーランスの社会科学者になっています。で、佐藤さんの追悼座談会にならないように。

佐藤:あとは死ぬだけ!の俺ですから、追悼で、いいですよ。(会場笑っている) 

花田:佐藤さん、死ぬのはちょっとまだ早いですから。知り合ったのはちょうど20年前で、2001年の事でして、切っ掛けは佐藤さんがさっき言われたように、仙台メディアテークの見学に行ったことですね。その時、東北大の小野田泰明さんにメディアテークを案内してもらったんです。
その前に、東北大の二人、小野田さんと阿部仁史さん。会ったことも無かったんですけれども、随分長い手紙をくれまして、「私の公共圏という事について書いた論文を読んだ」と。「それに刺激をされた」と。確かTOTOギャラリーだったかなー。その二人が「展示会みたいなのをやる」という案内をもらって。そこに出かけて行きまして、二人に初めて会ったんですね。
それで小野田さんと知り合ったものですから、「仙台メディアテークを観てみたいんだけど」と言ったら、「案内しますよ」ということになって、仙台に出かけて行きました。

で、「伊東豊雄さんはこういうチューブ状の柱を造るのか」と思って、実際に見て「おもしろいもんだなー」と。「こういうスペースで、パブリックスフィアーというものが実現できるかも」と。つまり「空間というものが人々のコミュニケーションを誘発する」、そういう空間のつくりかた。建造物のつくりかたですよね。

小野田さんと阿部さんは、熊本アートポリスでしたか、何かプロジェクトをされたそうで、私は観てませんので、どういうものか分りませんが、「社会学の概念が建築家の琴線に触れることがあるんだなー」という経験をしたのですね。




2002年3月3日 我が家の庭で
花田達朗さんと建築あそび
左から 佐藤、花田達朗さん、
日本画家の加山又造さんの孫
(花田ファンの一人)












 
公共圏という名の社会空間―




花田達朗さん最終講義録
「公共圏におけるアンタゴニズム、そしてジャーナリズム」




2次会で食べた仙台の秋刀魚の塩焼きが美味かった!

けど、私自身は空間という概念には案外ずーっと長い間関心を持っていまして、さっき著作集の第4巻の表題に『メディアの制度論と空間論』というふうに出てましたけれども、空間論ということに社会科学としてずーっと関心を持ってきました。それはですね、世界的な思潮と言いますか、そのものの考え方と言いますか、「思想」と言うか、そういうものの中で社会科学には(私の見るところ)近年では大きく三つターンというものがありまして。回転のターンですね。第1は語用論的転回ですけど、これは社会科学の中に「言葉とかコミュニケーションとかいうものを中心に置いて考える」という考え方ですね。プラグマティズム的転回とも呼んだりするんですが。

要は社会というものを観察し説明し解釈していく時に「言葉とかコミュニケーションとかいうものを基軸に置く」っていう、そういう転回ですね。それは従来の社会科学からすると当然、新しいわけで、従来の社会科学は物質、マテリアルなものを重視していましたから。「コミュニケーションというマテリアルじゃないものによって社会が編成されていく、そのモーメントとして注視する」というのは新しい方向への転回なわけです。

それの典型がドイツのユルゲン・ハーバーマスですが。さっきから出ている「公共圏」という言葉は実はハーバーマスの「エッフェントリッヒカイト」というドイツ語を日本語に訳して公共圏としているわけです。ハーバーマスの翻訳書はたくさん出てます。が、『公共性の構造転換』という翻訳書があって、細谷さんという哲学者が翻訳していますけれども。70年代の初めに出てます。公共性の構造転換と翻訳しているんですねー。公共性、公共性という言葉は非常につかみどころの無い用語でして。例えば「建築の公共性」なんていう言葉も使われるかもしれませんし、「医療の公共性」という言葉も使われるかもしれませんけれども、意味不明で、何て言ったらいいですかね、魔術的というか、厄介な影響を及ぼす曲者でして。
ハーバーマスは「公共性」のことを問題にしているのではなくって、空間の概念としての公共圏のことを問題にしている。その事が日本の社会科学の中では全然理解されていなくって、翻訳書のせいもあるんですけれども。ドイツ語原書で読む人も少ないもんだから、『公共性の構造転換』という本の書名のみ有名で、みんな「その公共性の話だ」と思っているですね。そうじゃないんです。空間の話なんですね、社会空間の話。パブリックな社会空間の話を書いているんです。

そこで「どういうコミュニケーションがパブリックなスペース、パブリックな場所、要するに空間や場所をつくり出すか、コミュニケーションを通じて、どういうパブリックなものがつくり出されるのか、つくり出されないのか」、そういう話しなわけです。


ハーバーマスと花田達朗氏。2012年9月ハーバーマス自邸にて







で、そういうコミュニケーション重視の社会科学的な思想への転換。この後カルチュラル・ターンというのが来るんですが。これはイギリスのスチュアート・ホールとかの、カルチュラルスタディーズに発するもので、今度は「カルチャーということをキー概念にして社会的な事象を捉えていく」という、そういうターンですね。
その次に来るのがスペイシャルターンで、これは「空間論的転回」と訳してもいいと思うんですが。新しい地理学者などが中心になってやりました。
これは案外ちょっと不発でして、第一発、第二発は形を作ってきたんですが、第三発目の空間論的転回というのは社会科学的にはちょっと、なんて言うかな、十分にターンしきれなかったというところがありまして、若干、今は下火になっていますけれども。とは言え、私はずーっとこのスペイシャル・ターンっていうことに拘っていて、そういう論文を書いたりもしてます。


今日のテーマは「編集者と建築家」、ということで、「編集者」ということがテーマになっているわけですよね。私自身は研究者として編集とかジャーナリズムとか、そういう職業の人との付き合いというのはあります。新聞記者から取材を受ける。あるいは原稿の依頼を受ける。あるいは雑誌の編集者から原稿の依頼を受ける。そういう形ですが、編集機能を持つ職能人と接触をしてきたわけです。

ただ私は全く満足できてないんですね。新聞記者との付き合いは全く満足できないし、それから雑誌とか書籍の編集者との付き合いも、本当には満足できないですね。で、「編集というのは、媒介機能、メディエーションの役割を担うものだ」と思うんです。編集者、エディターというのは、メディエーターですね、媒介をする。言わば「つなぎ役」と言ったらいい。著者と読者をつなぐ。著者と著者をつなぐ。それは「本来非常に重要な意味のある役割だ」と思っているんです。ですから期待しているんです。

例えば、具体的に言えば、新聞記者と会って「文化欄にこういう記事を書いて欲しい」とか、あるいは「論壇にどういう記事を書いて欲しい」とか、あるいは「何かの社会現象についてのコメントを求められる」とか、そういう時に「なぜ私に依頼しているんだろうか」と。その理由がほとんどの場合いっこうに分らない。何か駒を当てはめている感じで。私に向かって問題提起をして「あなたはこれまでこういう事を書いてますよね、ここのこのポント、これがよく分らないんだけど、この事と、今回起こったこっちの現象とがどういう関係があるのか、それ、どう考えますか」とかね。そういうのがない。

要するに挑発的に迫ってこない。挑発です、いい言葉を思い出しましたね。「編集者にとって重要なのは挑発能力だ」と思います。私を挑発してくれる、新聞記者とか雑誌編集者とか、残念ながら私はほとんど経験できませんでした。私がメディエーターと会う時に、こちらはコミュニケーターなわけですね。つまり著作物のプロダクションする側で、そこにメディエーターが居るわけですね。メディエーターが私の所に来る時に、私は当然、私に何か得るものを期待します。それは自分の思考への刺激ですよね。「刺激があるんじゃないかなー」と思って期待して会うわけで、挑発して欲しいわけです。ところが今時の記者は、申し訳ないけども、最近になればなるほど、そういう機会は、まず経験できないですね。

で、これは、私はある意味「媒介機能の危機なんじゃないか」と。メディエーションという機能、メディエーターという役割の衰弱。あるいはもっと言うと「不在」というところにまで行きつつあるんじゃないのかなー、と。そういう思いを今は持っているんですね。それは非常に残念な事です。私は「編集者から挑発を受け、刺激を受けたい」と。なかなかそういう者は訪れて来ない。

挑発というのは、読者に対してもそうです。「あんたはこういうことを考えたことがあるか? ないのか。ダメじゃないか。著者をたぶらかして書かせたから、これを読みなさい」、そういうこと。

私が考える編集者というのは、仕掛け人であり、発注者であり、ゲートキーパーです。ゲートキーパーは評価基準を持っていて、原稿を通す、通さないを決めて、合格した原稿をゴールに通す。この三つがエディターシップだと思います。

このエディターシップの危機はメディアの変化によっても増進されています。これまでパブリケーション(思考や情報を公開すること)では編集者が介在してきたわけですが、SNSではメディエーターはいないわけです。仕掛け人も発注者もゲートキーパーも蒸発している。

それで、実は、ここ3週間、どういう事をやってきたかと言うと、「もう編集者の注文を受けずに、ものを書く」と。つまり編集者抜き。編集者を中抜きして、執筆をしちゃう。そして、勝手に雑誌に送り付ける。「採用するか採用しないかはそちらの自由ですよ」と。そういう行動をとるようになりました。採用されないなら、webの個人サイトで公開しよう、と。
実は、昨日雑誌編集部から掲載しますという返事が来たんです。ゲートキーパーがゴールに通してくれたわけです。それはとても嬉しいことです。が、「これはどういう事態か」と。私が書いたものの中味に編集者がコミットしてないですね。ちょっと中味がややこしいものだったのですが、「昨日編集会議があって、掲載という結論になりました」と、返事がきました。掲載してくれるので喜んではいるのですが、私が書いたプロダクトの中味には編集者のコミットメントはゼロだということですね。仕掛け人と発注者はいないわけです。

で、私は一方で「そういう事で雑誌はいいのか」という気はするんですよ。でもそれは「ひょっとすると案外ノスタルジックな話なのかも知れないな」とも思うんですね。寂しがっているわけですよ。でも、むしろ「今や時代は編集者中抜きに移っちゃっているんじないのかな」と。「私自身もそれを実践しちゃったのかなー」と。

まあ、今の私の拙い話が皆さんへの「挑発」になったとすれば、多少、幸せなんですけれども。以上です。
 

佐藤:どうもありがとうございました。 つづいて皆さんで語り合い移ります。












スチュアートホールに関する 
花田達朗の伝言 2014年2月13日 「未完の対話」参照 


 
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 続く    1:45:52