編集者と建築家について語る 記録 02  2021年8月4日 文責、作成佐藤敏宏 20210808 
 02  1:45:52

ZOOM参加者みんなで語り合い

佐藤:時間が予定より過ぎました。このZOOM語り合いは何か目的を持ってそこに達するために開いているのではないです。いろいろ話が出るのは願ったりです。若い人の話を聞きしたいのですが、どなたか、岸さんどうですか。
・・ZOOM回線 混乱す音が混ってる・・・ 布野さんどうぞ。

 ■公共圏 公共建築 メディエータ-不在 エディターシップに期待 

布野:ちょっとだけコメントさせていただきます。目から鱗的な、編集者、メディエーターの役割についての話がでました。花田先生とは比べものにならない経験しか無いんです。けれど、本当にメディエーターが居なくなった、という感じはあります。私が若い頃(1970年代初頭)に、初めて建築批評的なことを書かしてくれた。私の処女著作みたいなことですね。アジられて書いた!っていう体験があります。実はこのシリーズ(戦後建築ジャーナリズム再興)で元・編集者、そういう人たちにインタビューしました。今、佐藤さんがテープ起こし済んで、編集者たちにいろいろ聞きとりしています。建築編集の原点みたいなものと、今のSNS等ですね。花田先生が原稿を送られたのは、しっかりしたメディアだと思います。その出版社が編集会議をやって採否を決定する、そういう時代になっている、と。そうすと当然そこにクリティカルな忖度とか、ある種の本来の批評とか、論とか、そういうものとは違う機能が働くような状況になっている。

花田:ミュートになってますよ。
布野:全部聞こえませんでしたか。
花田:一部聞こえてました。

布野:今「ノスタルジー」と仰いました。原稿を送り付けて「採用・非採用」って懸賞論文みたい。芥川賞などみたいな話ですけれど、本当は「編集者とのディスカッション」あるいは「読者とのディスカッション」があって、論が鍛えられる、そういう機能の部分を今は作りたいなーと、そういう気があるんです。先ほども言いましたように、元編集者への聞き取り取材は90歳にならんとする編集者(『建築文化』田尻氏)です。「田尻さん、一体どういうつもりで70年代に布野に書かせたんだ?」。みたいなことを確認しながら進めています。花田先生の話を聞きながらそれを思ったのが一つ。前半の(花田著作集)空間論については佐藤さんから「読め、読め」と言われながら、先生の本はちょっと高額なもんですから。

花田:笑う。

布野:私が出している10冊ぐらいの本も出版助成が通った本でして、高い。何千円する本しかないんです。失礼ですけど花田先生の著書はタイトルだけから見ても、建築畑からすると、凄い魅力的です。東北大の小野田泰明君なんかは私と分野が同じで「建築計画学」。それは戦後の公共建築ですね。公共空間ではなくって、公共建築。学校、図書館、それらを要するに定型化して大量に造っていった。そういうデシプリンというか研究室です。ですから、花田先生と私は世代は同じくらいだと思います。けれど、大量に造ってるだけで、それでいいのか?。とう処が出発点にあります。誤読したかもしれませんけど、ハーバーマスの『公共性の構造転換』とかイリイチの『脱学校社会』とかですね。そういうインスティテューション、制度で決められた空間をただ大量生産するだけでいいのか。戦後の空間が足りないプアな段階では大量生産しないといけなかった、けど。そういう事情はあったかもしれない、けど「それが問題じゃないか?」というのは出発点なんです。
学校の話でいうと、我々の時代は教師と生徒が対面で50人とか60人ぐらいが一クラスの定員でした。対面で一斉授業。という教育ではなくってチーム・ティーチングとかですね。低学年に分けるとか、いろんな試みがあったんです。今、それが制度的には文科省にステレオタイプ化されていく。それをどうやって改善するか、というのが建築屋も原点で。ずーっと考えた来ています。ということをちょと言っておきたいなーと思います。

佐藤:花田さんコメントに対するコメントお願いします

布野:「建築のメディアは何のために作るのか?」といっても基本的には、「どういう空間をつくりだいしていくのか?」。それが原点にあるぞ!と言いたかっただけです。

花田:エディターシップの復活、っていうのを期待はしたいわけですけどね。「建築もやっぱりメディエーションだ」と思うんですよ。「建築物をマテリアルな空間に投入する」。ということは、そこで建築物がメディエーション機能を発揮しているわけですよね。だからその意味では今回のテーマ「建築家と編集者」というのは、ダブルバインドでオーバーラップする処のある、非常に面白い切り口だと思いますけど。

布野:エディターとしてのアーキテクトとかですね。いわゆるスター・アーキテクトで非常に古典的なマスター・アキテクトすね。そういうのじゃない「概念」は既に何十年も前からいろんな形で存在してます。最近はコミュニティー・アーキテクトですね。いろんな建築の概念についての議論はやってきている、つもりなんです。社会的な制度として、そういうものが拡張できない。そのためにもメディアが必要なんだ、と考えているんです。

花田:そうですね。お!ホストがいなくなっちゃったよ。 (佐藤、来客対応にてZOOMを出てしまう)


タウンアーキテクトについて

中村:今の話でいうと、布野さんが以前に書かれましたタウンアーキテクトのお話も、今の話につながるような処があるでしょうかね。

布野:タウンアーキテクト論序説。『裸の建築家ータウンアーキテクト論序説』は小泉淳子さんが編集担当だったですよ。小泉淳子さん、今の(住宅建築の)編集長ですね。立松さん編集長で「何か書け」と言われたんですよ。偉そうな議論とか、私が今しゃべったようなこと理念的な話なんですけど、偉いそうなことを書いてます。「建築は武器を持ってないじゃないの」というのが、メインタイトルの「裸の建築」はたぶん僕が決めたんだと思います。当時の意識、今でもそうです。先進諸国、日本も含め新築が明らかに少なくなっていく、というのがはっきりしている。日本の空き家が800万戸、もう直1000万戸ですよ。その状況で建築家が生き延びるには当然リノベーション。現存してる空間をいかにコンバートし、リノベーションしていく。そういう仕事が増えていくんです。新築・建築やりたければ、バブリーな、当時だと「ドバイだとかの富裕な海外に出て行って新しい挑戦しなさい」と。もう一つは、町づくりしかないでしょう。地域をベースに町づくりに手をだす。そういう意味で「タウンアーキテクト論序説」をサブタイトルにしたんです。それが2000年ぐらいです。

京都には各大学に建築学科や造園の先生がいらっしゃる。京都造形大は建築も造園もあります。京都は大学、もの凄く多いので、そういう研究室が地区を担当しウォチングをして、毎年一回報告し合う。「ここにはこう問題がありますよ」と。フィールド調査をやっている時に「仕事を頼まれたらやってもいいですよ」と。京都は11区で40幾つの小学校・校区からできいました。だから京都府立大の学長をやった廣原先生を頭にして、「校区数に対応し42チーム作ろう」と。タウンアーキテクトというと偉そうです。結果的には11区に、アーキテクトを設けるということで、市長選を闘ったんです。廣原先生6万票差くらいで負けましたのが2004年。もし勝っていたら日本で最初に区ごとに区コミュニティー・アーキテクト制ができたんです。その時僕は京都大学の国家公務員だったんだけど、裏で公務員違反で、公約づくりを手伝ったことがあります。タウンアーキテクト普及活動が続かなくって、僕は滋賀県大に移る話になって。
滋賀県大では近江勧進という地域再生学座をつくりました。当時、滋賀県には26市町村だったかな、そこで「コミュニティーアーキテクトとは一体何だ」と。いろいろ議論したんです。「首長作ろること」だと言って26人育てる。当時、嘉田知事が居たんだけど、嘉田さんも小沢さんと組んでいろいろ失敗した。未来塾か何かつくって。今は国会議員になってます。今でもそれは続いてます。150人近く「大学院コースで地域のことをやる」『裸の建築家ータウンアーキテクト論序説』のデッセンバーは試みつつあるんです。今の国交省なり、建築士の制度枠じょう、いろいろ難しい問題が有って、なかなか取組むことができないんです。今、僕の考えは制度の隙間で多様な動きをする。いきなり、制度を変えるのは無理。今の政治力学の中では無理。中村さんからどういう振りかたされたか忘れました。僕はそんな事もやってきましたよ。


中村:今、町のリノベーション、建築家が新たな職域とか職能ということで地域に入っていって、リサーチしたりして。その結果から「何を造ろうか」なんて話をしている人たち、僕の同級生も、そういう仕事をしているんです。『裸の建築』は今の時代を予見した、そんな感じがしました。どういう切っ掛けがあったんですか?。

布野:それはねー。議論だけしてるんで「じゃーそういう人たちは、どこから金をもらうの」という話になる。実際、誰が作っているのか?それは現実には省庁と県などに付いてるコンサルタンです。彼らはそれで喰っているんですよ。本来はコミュティーがお金を出すべきなんだけど。今は少子高齢化でコミュニティー自体も維持できなくなっている。だから、「大学が地域に学生を派遣してやって、いろいろな動きをしようと。文科省の施策でも地域に支援しなさい、など。いろんな位置付けでやっていたりするんです。余裕がある地域、例えば滋賀県内では1億とか2億ぐらい貯めている町内会が在ったりするんです。そういう地域は、お金を使いなさといいながら支援活動をしていたんです。本来は大学がするのではなく自治体がやるべき仕事なんですね。
コミュニティーあるいは自治体からお金を取っているのは現実にはコンサルなんですよ。コンサルの使っているマニュアルは中央官僚の若い優秀な人が作成しているんです。それ使いながら国の予算獲得するために新しい概念をつり、予算を確保して、それコンサルといマニュアルを合わせて県に流したり市町村に流す。そういう役目をやっている。それが現代のコンサルなんですね。そうすると地名だけ入れ替えて、同じようなものを出すわけです。だからコンサル頼みじゃない!新たなタウンアーキテクトが生きる仕組みが要る。そういう問題解決するために建築系の大学の人たちとタウンアーキテクトは手を携えて応援するのがいい。既存のコンサルと違う動きをする。新しい動きをする人を応援するような新メディアも必要なんです。今日の企画に乗ってわかりやすく語るとそう気がしています。

中村:どうもありがとうございます。


■元編集長の語り 編集者は建築家のよき理解者?!


中村
:『建築文化』の元・編集長の亀谷さんが参加していらっしゃるので。
布野:ZOOM苦手だと仰ってたよ。 2:04:01

亀谷:聞こえますか。布野先生の発言の処で画像が乱れてしまって。布野先生の今の発言についてはほとんど聞いてないです。それまでは全部拝聴しておりました。今日はテーマが「編集者と建築家」。それが一番の関心のあるとことです。中村さんは私が『建築文化』の編集長をしている時、建築雑誌業界に入ってきた方です。1992年ぐらいの頃かしら?。

中村
:92年からですね。

亀谷:いろいろな所で取材されていました。身体も大きくって分かり易かった。ご挨拶してますね。今ままで皆さん話されたことについて編集者とかの話ではなく、最後に花田先生が「編集者抜き時代、中抜き時代に入ってきた」。そこで、私との接点が見えてきたのなーと思ってました。今日は佐藤さんがメイン・ゲスト(zoom主催者は佐藤)みたいな流れであるように認めているんです。建築文化の編集をしている時に、私が最初にやった連載が「活動する地域の建築家像」みたいなことです。例えば山形県だと本間さんとか。いろいろな地域で地域の中で密着型の活動されている建築家がおられました。東京だけが建築の場所ではない、という意識ですね。
それからもう一つ。建築雑誌は当時はまだ「スター・システム」というか、それが健在でした。私には「人材育成、人を育てる」という気分が有ったですね。ですから、『建築文化』は特集に無名の方々で、自分がこの人をと見込んだ若手の方たちをゲスト・エディターに招いて、特集を組んでいただいていたんです。あれから四半世紀経つと、彼らがその分野でリーダーになって活躍されております。「その視点というのは好かったなー」と、自画自賛しております。

1990年代頃はバブルの時代の後期だったので、ゴルフ場建設だけでも、2〜300あったのです。これを一つ一つ取材しても意味ないなー、と。まとめて巧くやる方法はないか。あるいは、もっと他にやるべき事がないか。という見方ですね。その中で変な印象を持ったのは批評が非常に難しいジャンルである、と。それはなぜか?と、一生懸命考えました。建築は受注産業である、というのが最大の眼目です。自分が凄い天才的な力でも、建て主が現れない限り実現する仕事はできない。自分で次々に作品を造って、建築を造って、社会に訴える建築家は皆無だった。自分で仕事を取るシステムを自分なりに構築していくのか。各大学の建築学科の学生は考えなければいけない。ですが、仕事をとる教育が大学教育で一番欠落していたことです。造る技術は教えても、いかにして仕事を取るか、全く教えてこなかった。私のその当時の印象でした。

で、そうすると建築家の性格が複雑になって来て、エキセントリックな行動が出てくるわけです。基本的には建築は極めて保守的なジャンルの仕事じゃないかと。王侯貴族の方々がクライアントで、ヨーロッパの場合多々あることです。日本のように「住宅分野において、これほど大勢の建て主がいるので日本の建築家建は恵まれている、と言ったらいいんじゃないか。それが次の感想でした。
で今、話てみると、自分はこういうふうにしてやって来た、というのもあり。それは建築家のポーズであって、世の中をどういうふうにしていきたいか?どういう目的で建築家になったのか?。原点に戻って仕事をしていくのかなーと。私は若い人たちに、焚きつけてきた。私自身が建築学科を出てなかったのが非常に幸いしております。出身校であると、出入りご免になっちゃた。あるいは色眼鏡で見られる。例えば東大の建築学科はこういうことであり、芸大の建築はこうで、早稲田はこうでと、いろんな問題があった。私はお陰様で、建築については全部ニュートラルで、何処にでも自由に動けました。会社(彰国社)のネームバリューもまだ健在な時でしたので、どなたにも簡単にお会いできた。建築家の中で今日のように話ができるのが僕が一番好きだった点です。

不本意にも、今、zoomという形態でしか話ができにくい。その前はパソコン(PC)時代があって。PCが一般の業務に導入されたことによって人と人との接点、直接その人に会って侃侃諤諤の議論を闘わせた、あの時代ですね、布野先生は過ごして来ているんです。PC普及以降(95年)それが無くなってきちゃったんです。建築界は人と人のコミュニケーションを育てることを一番大切にしてような分野だ、と私は思っているんです。対話によって建て主と建築家の信頼関係が生まれます。社会の問題とか、総合的に、対話の中に凝縮されてきます、それが私の印象です。住宅一つ造るにも、家族とか社会とか、いろいろな学問、心理学とか、それらを総合的に建築家は自分の中で考えなければならない。建築家という職能は造形の神様から仮託された仕事である。これは3〜40年間編集の仕事をやって来た結果の建築家像です。編集者は一生懸命、建築家をバックプしていく、よき理解しであります。同時に批判者であり、造形の神様に従って造られる建築が社会に対して、好いのかどうか、その、モラルまで踏み込んで問われる職能ではなかったのか。今のところの元編集長としての結論です。失礼しました。


■ 建築ジャーナリズムの評価がそのまま歴史的評価になっていいのか
   今日の話し合いは、若い私の生活と切り離れされている

中村:
ありがとうございました。佐藤さんミュートになってます。プログラムとしてはどうですか。
佐藤:若い人の話をお願いできますか。今日のZOOMでは、私は岸さんしか知らないんです。若い参加者、発言していただけますか。
中村:そしたらぱっと当てちゃいます。フルヤアユミさん、顔ないかな、そしたらサトシさん。
布野:岸君も居ますよ。
佐藤:岸さん聞こえてないみたいですけど。

岸:はいはい。聞いてました。

:ノスタルジーたっぷりな親父たちの話を聞いて、新世紀の若い博士の声をお願いします。今日は私の追悼会なんだ、ですから引導を渡してしまいましょう。

:はははは。僕の率直な感想を言います。「歴史になりつつある話を、今、聞いていた」そういう印象ですね。僕は建築をちゃんと勉強したことがなくて、自分では日本史を勉強していると思っています。日本近現代史です。その立場からすると、建築の場合は戦前からずーっと、ジャーナリズムの評価がそのまま歴史的な評価につながっている。そのことが不思議です。つまり、当時のジャーナリズムの評価が、そのまま歴史の評価につながる。本当にそれでいいのかな、と思います。ずーと不思議なところです。


中村:何か具体的な例はありますか

:一つは、丹下健三が一番分かり易いかも知れないです。あるいは前川國男ですね。その前だと分離派建築会。もちろん建築はアカデミズムと密接に結びついている歴史があります。そうすると辰野金吾、伊東忠太も入ってくる。逆に当然、揺り戻しがあって、下から発掘するみたいな動きも出て来るわけです。なので今日のみなさんの話を聞きながら「これは、同時代の歴史学の傾向とパラレルにつながっているのかなあ〜」と考えてました。つまり国家を主語(守護)する建物の話があって、それが一番、歴史にも記録にも残り易いですね。1970年ぐらいになると、歴史では「民衆史」自由民権運動への注目とか、色川大吉とか、そういうような人たちが出てきて。国家の歴史に含まれない人たちへの興味が出てくる。それはそのまま70年代以降の動き、それが建築だ、と。いわゆる大学出身ではない人の活動の場も東京や大阪ではなく、地方で活躍している人への注目が登場してくる。そういうような動きとも連続しているのかなー、と。何にも裏付けが無いですが、話を聞きながら思っていました。感想です。ただそいういうこと、ジャーナリズムそのものがどうあるべきか。それは少し距離があるかなー、という印象。

僕は今41才で、1980年生まれなんです。僕が大学を出たのは2000年前後なのです。日本の社会的は超不況のど真ん中。その少し前、1990年代末から、フリーターで生きている、みたいな話もあったし。非正規雇用でもなんとか生きていける、という幻想があった。 で、それ以降現在まで非正規雇用が圧倒的に中心です。僕は国際基督教大学に居たので比較的、みんなそれなりの仕事を見つけて、正社員として新卒採用されていく感じではありました。むしろ、何かやりたい職業に就くのではなくて、正社員として採用されることが最優先される、そっちの方です。社会的な身分が重要。だから正社員として採用されるんだったら、自分がやっていない仕事でも、とりあえずやる。もちろん全員そうじゃないです。新聞社などのジャーナリズムとかに行く人たちは明確に目的を持って就職してる人が多かったです。

ただ私の体験した状況の中からすると、ジャーナリズムはどこか遠くの世界の話をしている。それに対して、まずは自分の目の前の生活世界を生きるのに必死。もう半径5kmの世界を維持するだけで一杯一杯ですね。それ以外の社会的な不正義の前にしても、目が行きようがない。そういうのがありました。 建築もそれに近いんじゃないのかなー、という気はするんですね。今日は亀谷さんから「仕事が来ない」という話がありました。逆に言えば、仕事がもらえれば何でもやる。そのためなら何でもするし、それで生活しないといけないから、格好なんか付けていられないっていう。こういう現実があるんじゃないか、と思います。この20年は特に顕著だった、という気がしました。なんとなくそういうところと、今日聞いて来た話は切り離されている。そんな印象があります。


■  建築のシステム 評価基準 監視機能はあるのか建築編集者は権力であっ

佐藤:花田さんどうぞ

花田:今の岸さんの話を伺って思うんですね。ジャーナリズムの事をね、言及されたんですが。建築というものにとっての評価システム、それから評価基準、ある意味「監視機能」と言いますかね。そういうものというのは、「建築の世界の中で、存在しているの?」、そしてあるいは「そういうものが必要だ」というふうな意識とか、ニーズとか建築家の中にあるんでしょうかね。
建築物を評価するシステム。それから評価する基準ですね。そして何て言いますかね、「懲罰」とまで言わなくっても、悪い事をする、あるいは「悪い建築の機能を打ち出すような人」とかを監視するっていうのかな。そういう「三つの機能が必要だ」っていう考えは建築家の中にはあるでしょうかね。

布野:たぶん僕が応えた方がいいじゃないかと思うんです。花田先生ねー、当然あります。まず罰則というか、「こういう建築だめですよ」というので一番わかり易、建築基準法という法律で担保する。これもいろんな議論はあるんです。性能、要するに「これはダメです、この高さダメですよ」みたいな事があって。「壊れちゃーだめですよ」とか安全基準ですね。ただしそれは何も担保していなくって、壊れた場合にそれはある種設計者の罰則規定につながるんです。それは建築の評価からいうと、「それで建築家が評価されている訳ではない」
それから、建築学会の場では「何を持って好い建築とするか」これはなかなか難しいんです。建築もすごく細分化されてます。いろんな分野があります。今、建築基準法の例で言うと、建築構造的には壊れるようじゃ絶対ダメです、論外ですよと。後の評価はですね、いろいろ違って来るんですよ。要するに経済的で強い方がいい、とか。そういうような評価基準でいって「お金さえあれば」という話になります。構造の評価だけじゃなくって、環境的、設備ですね。要するに空調、設備、お金があんまり掛からない方がいい、とか。出来るだけ電気を使わない方がいい、とか。そういう分野の人たちはそういう評価基準をだすわけです。それはISOとか、その類と思っていただいていいです。例えばグリーン・ビルディング、とかですね。エコ的な配慮したのについては、こういう配慮があったら何点ですよ、みたいな。そいうのが各自治体が採用したりしている事はあります。だけども「建築をどうやって評価するか」というと、必ずしもそれを全員が認めている訳ではない。ましてや一般の人たちがそれを知っているわけでない。あとは、例えば建築学会賞、とか。

花田:賞ですね。

布野:そう、賞。賞が一番担保して。
花田:他の世界でもね、賞がひとつの評価システム、例えば文学賞。
布野:そうです、そうです。「文学賞に近い」と言ってもいいと思います。それも建築学会賞の場合の賞と、建築家協会の賞。協会の賞というのが文学賞に近いかも知れません。審査員が凄く限定されています。例えば文学賞で言うと選考委員の一人が「これは自分の文学生命賭けてもこいつは反対する」と言ったら、たぶんそうするような合議の中の評価基準みたいな。

花田:建築の賞、どっちもピュア・レビューですか。

布野:基本的にはピュア・レビューです。ただ、今「このメディアをどうするか」という話と関係あるのは、一般に建築の評価はそういう議論を含めて伝わらないんです。圧倒的に美術として扱われるんです。今、朝日におられた渡辺さんがよくご存知ですけれども。文化欄で扱う時には、美術系の評価になります。芸術性みたいな事で話になるんです。必ずしもそうなってない。「もっとややこしい」というか、例えばコンペティションをやって実施の設計者を決めるんです。そうすると誰が審査員をやって、ある自治体の公共建築、市庁舎を決める時には、誰が入って、評価基準としては一応リスト・アップされます。パブリック・プライベート・イニシアティブ。だから「全部点数制でやれ」と。そうすうと「点数を足して、平均点でもいいやつが好い」とか、いうような事とかです。評価システムには一杯議論が有るんです。けれども、仰るように、それを決めるコミュニティーの編成の話に成っています。応えになっているかどうか分りませんけど

花田:やっぱりその時に社会の目がね、どういう形で、どれだけ入れるのか、という問題はあると思うんです。

布野:それで、我が業界は、結局、身内で決めると「ある種の談合」と見られるので、当然、第三者的な、別の分野の人も入れるんです。けれども、中身は委員のある種の「発言力」みたいなの、例えば物凄い有名な建築家が入っていたりすると、それに追随したりする、他の分野の人たちがね。

花田:そこで重要なのが、ジャーナリズムだと思うんです。
布野:そうなんです。
花田:ジャーナリズムが社会の目として、建築の評価に参加していく。

ジャーナリズムが働かない場 建築編集者は権力 建築編集者は建築を批評できない

布野
:そうなんです。その辺の問題も、先走って言いますと、亀谷さん居ますけれども。例えば『建築文化』という、今は紙媒体で無く(休刊?)なった。いまだに健在な、ここに関係者はいらっしゃったりするかも知れないけど、『新建築』がありまして、『新建築』の某編集者は「うちが載せたので、学会賞は決めてるんだ」ことを豪語するような編集者も居たりして。

花田:権力ですね。

布野:中から見るといろんな問題が有ったりするです。それは文芸賞でいうと、新潮とかなんとか、その辺で似たような事があるかも知れません。幾つかのライバル誌が有って差が分る。外部に見える化しないと、身内の評価になる。我が建築界はその問題はずーっと抱えています。
亀谷:それについて、ひと事いいですか。
佐藤:どうぞ。

亀谷:建て主が居る(言う)からですよ。「絶対この家は発表してほしくない、公にしてもらいたくない」と。そういう建て主がいるわけです。税金対策であるかも知れないし、事情があるのでしょう。私が建築編集に育った何十年か前では「お前そんなことも建主に説得できないのか!」と。上司に言われしまう風潮があった。『新建築』でも『建築文化』も同じです。建築学会賞の対象になる作品は公に発表された作品がメインになってくる。今ごろになって、何なにさんの別荘だ、別邸だといって、とんでもない凄いのが熱海の辺りで見学できるようになったり。出来た当時は公には目に触れてない。他人の金で自分の作品を造らなきゃならない、建築家の宿命すね。大先生が、これは公にできないから、せめて編集長の亀谷さんにだけにでも見てもらいたんだ、って、見せてもらった作品もあります。

花田:何か建築って境界領域みたいな性格がありますね。プライベートなエリアとパブリックなエリアの境界に立つ・・・。

亀谷:個々の作品においてもそうです。皇居の中に在る天皇家のお住まいだってパブリックなスペースは取材させてもらえます。けど、プライベートゾーンはシャットアウトされちゃう。だから、ある編集長は共同見学会の時に「国民の税気で建てている物なのに何たることか」と憤慨してました。分るような気もするですね。その辺がこの業界は難しいなー、と思って、お気の毒に思っている部分でもあり、しょうがないかなー、と思っている部分でもあるんです。
僕らは結果的にクライアント、建て主が要る以上は、雑誌に掲載して華々しく全国誌として紹介した以上は、けなすとか欠点を挙げつらうことはやめて、好いところを褒めよう、と。子供をあやすみたいなスタンスで、私はやって来ました。

建築学会の大会が年に一度あります、「建築ジャーナリズムと現在の建築」、東大に各雑誌の編集長が集められて言われました。「お前たち批評性に欠けている」と。建築家から、それは言われなくないんでね!。そんな事情もあるのです


建築あるいは建築家に対するジャーナリズムの評価がそのまま歴史として残っている

花田:さっき、岸さんが言われたこと、つまり、「建築あるいは建築家に対するジャーナリズムの評価がそのまま歴史の評価として残っている」と。「これでいいのか」と言われました。そうすると、「建築ジャーナリズムというものの評価自体に問題がある」っていうことなんですか。

亀谷:建築業界、そのものに問題が有る。一つ例を挙げますと大谷幸夫先生の京都国際会議場というのがあります。コンペでとった作品です。けれど落選した菊竹清訓さんは、しばらくは立ち直れなかった程のショックで。「菊竹さんの最高傑作は」と聞いたら「私の最高傑作は落選案だ」と言うくらいに力を込めていた。大谷先生に言わせると「なんでその年に出来た学会賞にこの作品が成らなかったか」。それぞれに問題があります。一生懸命。大谷先生から理由は聞きました、だけどここで話すべき内容ではないので申し上げません。おいおい分ってくるだろうと思います。

今度の新しい国立競技場のザハ案がダメになった。大きな問題があります。巷の言うところでは「最初に国立競技場が大成建設で造ったから、今度も大成建設が造る」。建築業界の不文律みたいなもんだ、と。そんな話をする人もいました。ジャーナリズムが暴いてそれをバリバリと直していかなければいけないんだが、我々(建築専門雑誌)としては手に負えない。一般ジャーナリズムでやってくれ!、と。大きなメディア、テレビ・新聞でやってくれ!、と。我々みたいな建築専門の雑誌では、そういうことをメーインにして考えているわけではない。、問題意識としては捉えておかなければいけないことですね。

布野:新国立競技場問題はもっとディープですよ。ディープで僕が知っていることも一杯あります。建築界におけるブラック・ジャーナリズム。岸さんが言っているのは正しいんだ。だから今の建築メディアである喧嘩を推すということはあるわけです。その暮らしの中でジャーニー(旅程)です、それすらも無くなって来てます。そんな状況では今後の建築史家たちはどうしようもないでしょう。今、複数のメディアで、いろんな評価を残さないといけない。建築界の力学があって現実的には難しいんです。亀谷さんが話した例の、大谷さんが京都国際会議場を取ってからの事後談。そこには審査員構成の問題もある。建築家界の力学で決まった。菊竹さんは、自分としてはこっちが最高傑作だ、と。しかしその案は実現しなかったが、京都国際会議の件は手がかりが残っていれば、歴史家としても今後、再評価できるわけです。

今、問題にしようとしているのは、とにかく理論を含めて記録に残す。それが必要じゃないのか。SNSは呟いたら消える、一瞬に消える。後から図っても、どのぐらい炎上したか?だって、記録には残らないんじゃないですか。それを新聞は取り上げて、この件は炎上しましたと。そんな記録で一体中身はどうだったか後に調べようがない。ジャーナリズムはクリティカルな力学だ!と僕は思ってます。ある建築家の作品を推しますよ、そこには明快に推すための力学働いてるので全然問題がない。で、アカデミックな立場では、それではいけませんよ、と。僕は、アカデミズムも似たようなもんだ、そう思っている。ポリティカルな世界なんです。


新聞で扱われる建築 社会面 文化面  ビックネームの建築家 スター・アーキテクト

佐藤
:渡辺さんお願いします。

渡辺:ジャーナリズムという話が出たので。今は新聞を退いているんだけれども、現役時代の事をちょっと思い出して、幾つかお話したいと思いました。
建築が新聞に出るのは二つありまして、一つは社会面。もう一つは文化面です。社会面は圧倒的にネガティブな様相をして。ですから例えば、黒川紀章さんの山形県の寒河江市の市役所。面白い形の市役所だったんですけれども、これがある種の欠陥が有る。その後、判明してデザイン優先で云々という形で批判されると。そいいうケース。あと、住民感情ですね。原広司さんが京都駅の駅ビルを建てるという。そのプランが出た時に、一部の市民から「観光都市の駅前にあのような屏風のような。町を分断するような、建物は相応しいかどうか?」。問題提起が出て。あれも社会面でいろいろ取り上げられたと思います。社会に面に出る場合は主にネガティブなお話が出ると。

一方、文化面は、先ほどありました、美術としての建築、そういう評価。そういうスタイルが脈々とあったと思うんです。ですから、例えば申し上げた松葉記者が文化面でポストモダン建築をいろいろ採り上げました。けれども非常にバランスよく、ビックネームの方や、新しい方、そのへんを非常にバランス好く、名前を挙げて、一種ショーウインドー的に紹介すると。そういったこともやってました。個人的には、各社、一推しの建築家が居て、名前をここで挙げるのは差しさわりがあるんですけども、あからさまには「あの記者は、あの人を一推しなんだな」と、分るような形で紙面化すると。そういったことは日常的にあったように思います。とりあえず以上です 2:44:46

佐藤:花田さんどうぞ。

花田:今、渡辺さんから「ビックネーム」という言葉が出たので。ちょっと刺激されたので話します。2012年だったかな、私は欧州滞在中にベネチアの建築ビエンナーレを見学したことがあったんです。3日ぐらい通って見学。丁度その時に日本館は伊東豊雄さんが担当で「みんなの家」という展示をやっていました。ぜんぜん感心できなかったです。被災地の大きな写真が壁一面に張ってあったり、ビデオが置いてあったりするほかは、小さな紙の模型が並んでいるだけで、私は「変な日本館だな〜」と思ったんです。
丁度その時に、どこ国のだったか、誰だったか覚えていませんけれども、「スター・アーキテクト」という言葉を使って、スター建築家の問題性を取り上げているパネルがあった。私は「これは面白い視点だなー」と思いましたね。その展示は要するにスター・アーキテクトをいわばチェックするという視点。さっきの私の話で言えば「監視」というか、厳しく評価する。スター・アーキテクトがやっている事は好い事なのか、ダメな事なのか。あるいはスター・アーキテクトがスターに成るまでに、どういうファクターが作用して、スターというステータスを獲得できているのか。とかですね、要するにスター誕生のメカニズムとその背景にあるインタレスト、利害関係、権力関係ですね。
こういう視点っていうのは建築に対する、一つのクリティカルな視点だと思うんです。そういうクリティカルな視点がオープンに交換されている場所。それがジャーナリズムだと思うんです。建築雑誌も含め、それからマスメディアも含めですね。「ビックネームというのは、監視対象であるんじゃないか」と私は思います。

中村:あいにく私は、そういうビックネームとか、そういった者を中心に採り上げる媒体にいたことが無いもですから「何かそういう世界もあるだなー」と思って、ずーっと話を聞いてたです。なんとも、そうですね、だからそういう処から零れ落ちる人たちと付き合ってきたような処があるのです。合わせ鏡みたいなもんですかね、それもまた。

布野:ただね、これは渡辺さんの方が絶対詳しいはずです。僕のようなところでも、ポスト丹下健三で言うと、その後いろいろあって、黒川紀章あたりが分りやすいですかね。黒川紀章の後は安藤忠雄がいて、今は完全に隈研吾時代なんですよね。

中村
:すごいですよね。

布野:各自治体が全部、隈に特命で発注する。それは、構造的には分析はできるんですよ。国家が必要とするのは30人位アーキテクトは要るよ、とかですね。コミュニティー・レベルで、この位の建築家は要りますよと。それぞれ役割分担があって好いと思っているです。黒川紀章さんの場合の方が、今日の世代的にはいいかもしんない。彼はNHKの解説委員もやるとか、日本会議と関係も持つとか、政財界とも同様で。丹下健三の場合はもっとです、都知事と政財界との絡みが有ります。それで、ある種のスター誕生物語はできます。安藤忠雄の場合は、ほとんど無名の頃の関西財界から推しながら東大に引っ張った奴(鈴木博之氏といわれている)が居るわけです。みんなよく知っています。ある種の周りがピックアップする建築家界での一般的な動きは目の前にあるんですね。隈の場合も僕も若い頃から知ってます。東大建築卒の建築家が、なんでそういう処に行くか?。東大での彼の知り合いのクライアントになるのが多いからです。同級生でゼネコンのトップになる者が一杯います。官僚の中にも知り合いが一杯います。だから普通の私立大学出身で、絵が描けたり才能が有っても、ちょっと抜けない。そういう社会的な構造が有るんですね。最近そう事態をきちと書いた人、岸君、誰だっけ?。僕が「好いぞ」と言ったのは、なんとかじゅん君。

岸:関西学院大学の松村淳さんの『建築家として生きるー職業としての建築家の社会学』ですね。

布野:関西学院大学の准教授です。その辺の構造分析を社会学的にやってくれた人が居るんです。そういう問題がずーっと有るんですよね。だから、新メディアを作って一般にも分るように記事して発信しなければなりません。


有名性キャピタリズム  無名性こそ評価する 

花田
:私が何が言いたいかと言いますとね。要するに有名性というものの問題点です。有名性というのは、建築家に限らず今、この社会では非常に資本になるんですね。資本・キャピタル。「有名性キャピタル」ということです。今は「有名性キャピタリズム」と言っていいような状態。有名性というものが、大きな力を発揮して、「有名性資本主義」になっているんですね。じゃ一体、その有名性資本って、いつどこで原始蓄積されるのか、とかね。最初に有名性を獲得する出来事というのは、どういう力が働いているのか。最初の有名性資本をどうやって獲得するのか。その後は、資本の論理で一生懸命拡大していくんですよね。増幅していく。
その時、ジャーナリズムは有名性に奉仕してはいないか。有名であることが評価基準となってしまっていて、有名性の色眼鏡で建築を評価することになってはいないか。そのようなことをしていると、スターアーキテクトがますます有名になるだけで、そこに注文が集中するだけではないでしょうか。
私が言いたいことは、「無名性に賭けたい」ということです。有名性ではなく、無名性こそを評価する。だからその評価基準、無名性を評価する評価システムとか、評価基準とか、それが建築に必要なんじゃないのか。要するに有名性っていうのは権力だから、ある意味でブルドーザーの様に平野をダダダダダーとやってしまう。そういう有名性の力に対抗すると言ったらいいのか、あるいは有名性というものとは土俵と共にしない所で、要するに無名性を土俵にして、建築を造るっていうことね。そういう人たちをどうしたら、エンカレッジできるのか。評価システムなり、価基準によってですね。どうしたら無名性を評価することができるのか。そういう思いがあります。

井口:今の話を聞いていて、一言いいたいなーと思って。僕はずーっと関西で仕事をしてきました。大学に教えに行く前にはゼネコンで仕事をしてました。そういう事で、いわゆるジャーナリズム、建築メディアというものと、非常に遠い所にいたわけです。自分の才能ももちろん無いんだけれども、そういうチャンスも無い。だから建築ジャーナリズムっていうのは全然、別世界で「ああやってますね」と。もちろん雑誌は読むし、本も見るんだけども、要するに別世界を眺めるってことですね。

そのとき別世界は2つの意味があります。まず「建築家の世界そのものが閉じている」だから建築家と言って通じるのは建築家の集まりの中だけです。「貴方何者?」と言われて「建築家」と言っても、建築家たちにしか通じない。建築家特区以外の世界では建築家なんて存在しないです。そういう意味で建築家の世界で起きていること、やっていること、話合っていることは閉じた世界の中だけにある。

それからもう一つ、これは建築だけに限らず、全てですけれども。建築ジャーナリズムも含めて全部(発信源が)、東京に在る。私から遠い所に在る。東京村の中で話がぐるぐる回っていて、皆さんそれで日本のことを話していると思い込んでられる。だから二つの意味で完全に我々(関西:ゼネコン設計部員)とは縁が無い。届いて来る、伝わって来ることに対して 興味をもって「ああ、なるほど」と、エンカレッジするんだけど、別世界の話なんですよね。そういうものとして、建築ジャーリズムが存在している。これは異常なんですよね、僕は異常だと思う。

イタリアに居るから、そんなことを言うんだ、というような見方でよく言われるんだけど、実際こっちでそういう事は感じないですよ。社会的な存在としての建築、建築家が普通に世の中で意識されていますよ。先ほど話に幾らか出てきました、ソーシャルな評価、社会的な現象として、そういう評価がされていますよ。今、日本の建築ジャーナリズムのような「何か別の世界で何かやっているなー」みたいな日本の感覚とは違う、全然違うんですね。

それから、先ほどの無名性と有名性という話になると、有名性から言うと、その通りだと思うんです。テレビでも映画でもそうです。有名になって売れると、それはいいですよ。そういうジャーナリズムもいいでしょう。それはそれでいいんだけど、それが建築家の目指す処、あるいは、建築家としての成功だ!みたいなもんじゃない。先ほど花田さんが言われた、無名性。これがベースだと思うんです。無名性というのと、建築家がいかに社会的であるか、という事。この二つはセットだと思いますね。これが無い日本社会は異常だと思う。

例えば安藤忠雄さん、さきほど布野さんが言われました。関西から出てきましたと。彼が閉ざされた社会(東京村のジャーナリズム)へ出て来たのは40年ぐらい前になります。彼は建築家の言葉で話さなかった。要するに閉ざされた世界の原広司さんなんか読めたもんじゃない建築家の文章です。そういう話し方を安藤さんはしなかったんです。社会で通じる話をしたんです。無名の人に向かって話したんです。だから関西の財界に受けたんですよ。そういう事があると思うんですね。
だから建築ジャーナリズム、今日の話なんかでもね、無名性、ジャーナリズム、あるいは建築のメディアというもののあり方が異常なんです、日本は。例えば新聞で言えば社会面、そういうところでこそ建築や建築家云々は扱うもんだろうと思います。先ほど渡辺さんが仰っていました。建築が文化面で語られるのは勿論ですが、社会面でちゃんと語られることがもっと大事だと僕は思うんです。そういう処で建築が取り上げられることにならないと、建築が一般の話にならいと思います。1970年代に「ドムス」や「カーサベッラ」が海外の建築雑誌として貴重でしたが、イタリアでは街中のスタンドで新聞と一緒に売られてました、今もそうですけど。


布野:どうしようかなー。こせ(古瀬)先生という元は建設省におられて英語で今、書き込みがあって。たぶん評価基準についての話だけ。ちょっとだけコセ先生コメントいただけますか。今の流れで行くかどうか分らない。

コセ:はい、建設省と言っても建築研究所で、私の専門が「使い勝手と安全性」なんです。私は造る側じゃなくって、使う側の立場でずーっと研究してたんです。だから、新聞でいえば、むしろ文化面ではなくって社会面に出るような話を方が近いんです。
で、大昔は、建築、だれが注文主なのか?。要するにパトロンという名前がありましたね。それはその人が金を出す方だから、アーキテクト、デザイナーとやりとりで、クローズドで片が付くんだけれども、今は普通に我々が目にするような建物は、パトロンが実は社会、要するに税金であることが多い。民間建物であっても不特定多数が使うことになる。税金なら制約を受けるわけです。その辺のことがね、大昔、建築家とパトロン大金持ちに対して、注文受けてればいいんだ、と言う意識が抜けてないんだろうなー、と思っています。最大に残っている尻尾が、いまだに「建築作品」という言葉。そこに残ってっているだと私は思うんです。あれは作品ではないです。作品というのは芸術作品について言うものであって建築物は作品という概念に相応しくない。私はずーっと思っています。以上です

布野:すみません。井口先生すみません、中断したみたいで。


日経 アーキテクチュアなどの雑誌 あれこれ

井口:今の言葉に僕も同感です。それで、先ほどの続きになります。今日は日経アーキテクチュアーの話が全く出ないです。僕は日経アーキテクチュアが創刊された時に、「ようやく建築の本当のジャーナリズムが出て来たなー」と思ったんです。もちろん、足りないところは一杯あるんでしょうけど。あの種のジャーナリズムがちゃんと、幅を効かせないと、日本の建築界、建築業界というものがまともに成らないなー、という思いがあるんです。どうでしょうかね、日経アーキテクチュアをどう評価するのか。

布野:それは亀谷さんの意見を聞きたい。3:00:00

亀谷:それはですね、私が『建築文化』の編集長になる頃、日経アーキテクチュアが勢力を拡大してきたので、よく知っているんです。『新建築』は新であれば載せる。他の雑誌に載せた物は載せない、そういうポリシーだったんです。『建築文化』は「建築は文化である」という視点でつくられた雑誌だから、「文化」というものを評価基準に置いて考えてきたわけです。で、日経アーキテクチュアは経済なんです、日経新聞を母体にした。経済を背景に背負っている。今まで我々(『建築文化』)が掬えなかった物も掬えるようになったんです。同じような傾向の雑誌で『建築知識』というのもあります。この辺は一番手堅い雑誌、多くの建築家が、あるいは建築家とは言えない人たちも、建築学科を卒業している人たちにも、その雑誌を見る。そういう点において、最後まで生き残る雑誌ではないか、というのが私の見方です。だから、部数も予約制をとっていて店頭販売していません。その辺の商売上のポリシーやコツ、それをわきまえた雑誌が日経アーキテクチュアーである。建築には住宅から工場から様々な建造物がある。経済という視点だけで括ってみた建築のありようは必ず歪になっていく。それは社会のニーズであり、日本の歪であり、我々社会、日本の問題として捉えられるテーマになるんじゃないか、その頃の漠然とした問題意識です。

佐藤:こせさん、どうぞ

コセ:自分で購読しってたわけじゃないし、ほとんど見てないんです。日経アーキテクチュアー。インパクト、私にとって重要だと思っているのは「有名建築その後」という視線ですね。要するに、建築は社会でユーザーにとって受け入れられなければならない。そういう視点を継続でやっているんだと、思ってます。私は日経アーキテクチュアーが、確かに日経新聞を後ろに背負って、経済がメインであることは理解するんです。けれども、他ではなかなか出て来てない「有名建築その後」という視点だと思う。

亀谷:「有名建築その後」は、建築専門誌でもBECA賞(ロングライフビル推進協会)があり、30年、40年経って素晴らしい建築に与えられる賞があり。「時間の流れに対する評価が少なくても親子三代100年の耐久性が欲しい」と。
こんな時代が続くわけがない、造られて直ぐ取り壊された日本経済のバブル時代を体験しました。どんどんどんどん土地代が上がって、り壊してでも土地を売った方が儲けがでる時代がありました。その中で「有名建築その後」は、日経アーキテクチュアーあの雑誌のずる賢い商売上手の点だなー捉えてみていました。

布野:日経アーキテクチュアーに一言だけ。創刊時には「予約制」と仰った、今でもクローズドですよね。発行部数が分りません。クローズドなのが問題。私は発行部数を知りたんです。また電子媒体化にどう対処されているのか?そこも気になるんです。僕には創刊当時から3年間ぐらいリクエストが有って、書かされたんです。好きなことを書かせてもらいました。アーバン・アーキテクト制など書きたい放題、書かせてもらったんです。その後、編集者が若返ったり世代交代などがあったです。作るという字に創造の創を書いたら「我が媒体では作ると書きます、創造と書いてはいけません」と、原稿の直しが入って。一体なんだ〜と思ったことがあります。私の体験ですけど。創刊の当時としばらく経って質が変わったなーと。あの雑誌は基本的に記者が書く、新聞記者が建築世界をレポートする。建築の批評書く媒体ではなくなった。そのような印象を持ってます。

 語り合い2へつづく  3:06:29