佐藤敏宏の70年の主なできごと 2021年8月2日作成
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1950年代
( )1951年福島市東部の農家に長男として生まれる。
  (母乳が少なく山羊の乳で育てたと言う。山羊様には足を向けられない)
 
 「病弱で長生きしない」と両親は思っていたという
 (栄養のバランスが悪かったのだと思う)
 自宅での食べ物は農作物、味噌、醤油、お茶、豆大豆
 なんでも自家製、タンパク質が不足してたのだと思う

( )1958年 分校入学 同級生・男5人女5人 
  10人←右絵参照 一番左が俺
 分校の準備室にTV受像機がやって来た
 夕方5時から7時までTVが開放され、毎日分校で見る
 紅白歌合戦は大勢の大人が分校に集まって皆で見る。
 TV情報と比較し周囲の大人は時代遅れな価値観持っていると知る
 大人になったら福島市を出ようと決意するー家出思想が芽生える

( )小学4、教師が理不尽にも石炭小屋に閉じめた。反抗して高窓から
 同級生を10人連れて分校を脱走し、大騒ぎになるもおとがめ無し (家出実践
 のちに、その教師に住宅・木造建築の設計を依頼される。満足いただく(習作時代)不思議な縁だ

 小学4年、 杉や松の植林を祖父にさせられる。我が家には屋根ふき用の茅場があり茅を刈り屋根を葺いていた
 毎日、山遊びと、小川で釣り、分校で球技やブランコ、鉄棒など運動三昧 農作業も時々手伝う
 朝寝坊で、遅刻常習犯登校、夜はいつまでも起きていた (夜型人間)

(  ) 小学5年本校片道4kmを徒歩1時間の通学 後に自転車通学
  本校の同学年はクラス崩壊していたが5年生になると男性教員が来て整える。
  本校生徒と闘い勝 校舎は中学校と一体校舎であった。
( )小学校6年生毎、
    ソフトボールに熱中する
( )1964年中学入学するも校舎が2階になっただけ。同級生は30人弱だった
( )1964年東京オリンピック開催となり、開会式を全校生で見る授業あり。
   中3、修学旅行で丹下健三代々木第一体育館と出会うコンクリートに感動
   後にガーフレンドとのデートコース定番の場所と成る
( )1966年中学校が統合されることになる。
 俺は統合賛成派だった。建築現場で土方のバイトをし始め 日当500円
 最初の現場は電電公社の中継局RC4階建。コンクリート打設バイトから始める。
 辛い仕事だった。その時造った建物は2021年8月現役建築。
 家をつくるなら鉄筋コンクリート造だ

 当時は生コンポンプ車が無かったので現場で練ってタワーを建て
  ネコ車で生コンを運ぶ、俺は時々転倒してしまう 
  工業高校受験発表はバイトの現場から、2時間休みをもらって見にいく 
  合格して安心した。現場の人と酒盛りする、酒は弱かった



( )1967年 福島県立工業高等学校の建築科に入学。男子校・同級生50人
  自動二輪通学が許可されていので2年生からバイク通学する 。雨雪の日は厳しい命がけ通学
  クラブ活動は器械体操 入部早々頭から落ちてしまった。むち打ち症だったが奇跡的に半身不随にならず
  3ヶ月休み未履修科目が多く落第しそうになる.なんとか対応
  クラブの上級生、俺の「ラブレターを福島女子高にもっていけ
  と命令され恋文の伝書鳩になる。
  福女高に行ったら ショーケンチャンが来た!
  と言われ、新体操クラブの女性たちに囲まれる。女はいいな
  先輩は渥美清なみの面相、相手にされず
  受け取ってもらえず、気の毒だった。
  代案として合同ハイキングを提案しOKがでる。先輩をよ喜ばせる
  絵:福島女子高生、新体操クラブの女性たちと夏だ川遊び〜、デート中(俺・左端)

  高校生の時分は暇さえあれば土方バイトをする
 バイトで黒川紀章著『行動建築論を買い、設計者になろうと強く思う。囲碁にも熱愛
 設計室で製図しながらコルビュジェの輝ける都市の話をしてた
 「設計者はこうじゃなければ」と大きな声で話ていたら、教員に聞かれてしまい
 餓鬼が何言ってんだと 多いに馬鹿にされて傷つく。

( )1969年
 高校三年まで現場で土方バイトをし現場の監督、職人 土方など。
 全ての人を観察しながら現場の大半の人の動きを知る
 同時に手抜きの方法や、職人たちの悪戯の仕方を学教えておらう
 現場監督にならないと決める。設計部に入ることを目指す
 修学旅行で、法隆寺の五重の塔と、京都国際会議場を見て 
 関西に就職しようと決める。設計事務所は眼中になく
 設計事務所とは資本金量が違う 
 お金の動きも違うゼネコンの設計部を目指す
 会社の資本金を全部使って設計するど〜と思う 
 最初に求人が来た関西の中堅ゼネコンを受験
 悪いうわさもあったが関西に行こうと決めいたので 
 (設計部長は建築士をはく奪されていた)
 就職試験4月に合格。高3年はあとは土方バイト三昧、時々スキーに行くぐらい
 卒業設計模型(絵)をつくる。合宿と学習可能な複合宿泊施設。褒められもせず無視される
( )1970年3月31日関西へ
 西四宮の本社に行くとよど号ハイジャック事件が起きTVの前は人だかり。万博会場に行く 




■ 1970年代 絵:高卒当たりの俺
 (ア)1970年3月社会人になり兵庫県西宮市で1ヶ月ジョブトレーニングをT受ける
 (イ)JT最後の日に「働きたい部署の希望を1〜3まで書け」と言われたので
 1〜3全部設計部と書い。新入社員100人超いたかも
 配属されなかったら即辞めて福島に戻ろうと決めていた
 運よく高卒で一人、俺だけ!設計部に配属となる、多いに嫉妬される
 俺の気合勝ちだったのだ。
  東京支店・設計部員8名の1人となった
 本社は設計部員満杯なので東京支店に配属指令でる
 山手線・恵比寿駅前7階ビルは寮付き東京支店 
 (エ)6階の寮から4階の設計部への出社だが、毎日遅刻
 門限破りの常習犯。絵:恵比寿駅そば屋上松江出身の先輩と
 (オ)透視図を習うために原宿駅傍の夜学に通う
 たくさんの建築若者に会いだべり呑んだくれた
(カ)タイピスト女性から製図台山盛りのバラの花束をもらう。
 20歳誕生日。社内で話題になる。嫉妬もされる

 1971年度所得総額437,406円
 賞与1971年夏1140,000円 手取り104,378円
 月給1971年2月25日 36,902円 手取り22,100円

 (キ)国立代々木競技場第一体育館はmyラブラブ最適地
 (ク)デートで映画を観も直ぐ寝てしまうので、嫌われる。
    女性と分れる手法はこれがよい
 (ケ)寺山修司著『家出のすすめ』を買い読みふけ、俺が実践して来たことじゃ〜と膝を打つ

 (コ)21歳3カ月で結婚。新居は代々木駅と新宿南口が最寄り駅
  浅草生まれの女性で、しょっちゅう下町笑を連発な女性
   (後年・心の病になってしまう )
  絵:お正月の初詣。代々木第一体育館から明治神宮へ行くのが定番
  体育館周りの敷石は都電の敷石を転用していたと後に知る
  結婚前、代々木第一のプールで泳。夜、その建築まわりでデート
 (サ)新妻に家出され、追いかけて引き留める
 (シ)調布市菊野台に引っ越す
 ( )A忠雄さんのところに本社の設計部員が派遣され
    奴隷のようにこき使われてた 
  Aさんは暴力・組員みたいで、酷い奴だと設計部員は皆が思って顔をしかめた
  住吉の長屋の図面は仲間の書いた仕事だ手描き図面だから分るのだ


 (ス)1974年 長男生まれる 電車と本好きな子供で賑やかに
 ( )1974年二級建築士製図の試験落ちる。都庁になんで落ちたと聞きにいく「教えられない」の一点張り
 ( )1975年3月31日東京都にて二級建築士登録する
 ( )1976年 長女生まれる
 ( )1978年次男生まれる
 同僚が転勤となり彼の千葉市内の郊外住宅・一軒やに引っ越す。通勤片道2時間強 電車内を勉強部屋に変えた
 製図のアルバイトをしまくる。子育て資金を稼ぐ稼ぐする
 (ソ)一級建築士に合格した。かつ、ゼネコン設計部在席10年で退社すると決めていたので、訳なしで退社
    会社を辞めることは世にあっては家出の実践なのだ
 

(セ)24歳、敷地3ha弱 シュークリーム工場を設計
 泣きながら監理

 発注者と親密になり過ぎていて
 現場監督に嫉妬されたのが虐めの原因
 だが、会社始まって以来の大儲となり
 特別賞与をもら
う 経費は使い放題でも許された
 設計部の経費は2.5%設計料を現場から徴収
 意匠部員は年間請負い金額6億円の設計する
 それがノルマ。何でも設計するのだ 


 絵は現在2020年も現役のシュークリーム工場
 工場の企画立案で洋菓子工場に入りびたり
 どこに雇われているのか分らなくなる
 農地転用許可、工場立地法届けで、開発許可申請
 実施設計、確認申請、現場管理

 敷地がデカいので見て歩くだけで数時間かかる(成田空港闘争の傍で現場へ行くのは検査され大変だった
 受付棟、事務棟、シュークリーム棟 シューアイスクリーム棟 冷凍庫、合併浄化槽 
 社員食堂棟、独身寮、駐車場,井戸掘り工事、植栽、など
 24才だったが、上記それらを一人で行う。 仕事で死ぬか、殺されるか、どっちかだと思った。若いので乗り切った
 工場長から見合い話を何度もされる「結婚して子持ちだ」と行っても信用れずこまる。
  高級アパレルメーカーの専務の家を設計した(開成高校のそば)その時も見合いを勧められで困る
  20代は
 子育て資金も稼ぐ、寝る暇なく、選ばずバイト図を書きまくる。村野藤吾さんの工場の図面など印象深い物件もあった
 鉄骨原寸図もたくさん描いた、バイト料給料より多しことが何度もあった。

 20代は結婚し子持の俺は先に書いたが
 施主の方々から見合いをすすめられて「結婚している」と応じると「嘘だ」と、気分を害されて困る事多々

 ゼネコン設計部時代は 有名設計事務所などへ請負うため、無償で派遣されることも 多々あった
 10年間でゼネコンの裏技を全て学ぶ ゼネコンは株主になるのが いいと思った
 

      
■ 1980年代
 (タ)1980年2月20日福島市に戻る
 ( )同年5月30日一級建築士免許証を退職金で登録する
  1979年に合格したけど登録料が無かった
  登録受付は県庁天下りの人だった
  「俺が設計事務所紹介するから3年間働け」と言われ従う
  設計事務所サラリーマンに突入す
  学校や公営住宅などの設計が主、見積もりもする自分たちでする。
  県・家畜市場を担当「バラ色のプランだ」と県職員・住宅課課長に当たられる
  畜産課の担当者と相談して押し切り建てちゃう
  監理も請負する。家畜競り場は今(2020年)でも現役

 (チ)東松照明写真展実行委員に
  会場設計したり。ポスターを描き存在感増す

 (ツ)1983年1月15日朝日新聞福島版一年間挿絵を担当する 
  渡辺淳悦さんに出会う。初マスメディアに載る


 1983年(31才) 挿絵連載は目立ちすぎサラリーマンでは居ずらくなり、独立・建築士となる
 下請けは一切しないと決める TAF設計とする (私と家人と家族の頭文字を並 )

■ (独立にあたり家人と子供達の添え書き 1983年6月1日
 ・大海に小さな小舟が漂いはじめました燃料もわずか、いまにも沈没しそうな
 でも、ダメでもともと、なにもしないよりは、自分の力で精一ぱい努力しての結果ならあきらめもつきます
 元気な子供たち3人も、あなたの活躍を期待しています。主かじいっぱい、取り舵かじいっぱい
 ・長男のことば パパ頑張ってください
 ・長女のことば パパはやくもうけて うちをたててね まってるよ なるべくはやくね
 ・次男のことば  パパ がんバレ
 ・佐藤敏宏自身のことばもある

  自邸を建てたら、後はどうでもいい。なんでも設計屋になろうと思っていた
  1984年2月3日 自邸の確認通知書 おりる 第1920号
  野外展参加 1984年8月18〜19日 場所福島市 水林自然林 キャンプ場
  事業計画をたくさん請負い、経営分析、企画立案、銀行交渉、
  ゼネコンを決め、地上げも、なんでもガンガン実行し稼いで子育する。
  数年後福島市内の大手下請けを主にした
  社長気に入られプチ・ゼネコンの株主なる ガハハハハ
  これで施工会社はコントロールできて、思う存分!造れちゃう
  (元ゼネコン設計部員パワー炸裂するよ) 

 子供達と手作りのラジオドラマ「三匹の子豚」を作ってあそぶ。 その音が残っている
 長男小学4年生 長女小学1年生 次男幼稚園生
  



(テ)1984年夏 土湯温泉町に各地から若者集めイベントを主催する
 身体表現とアートイベントは刑事事件に発展し逮捕者をだす始末 
 建築設計にとって決定的な影響をあたえるイベントとなった 
 絵:人生初本を刊行した 活動記録集 33才
 福嶋泰樹の朗読で中原中也の曇天を体験する 

1984年9月12日毎日新聞社から原稿依頼
 人生初
 記事が東北版に掲載される


 (ト)1984年10月20日コンクリート自邸が完成。引っ越す(33歳3ヶ月)
 1984年11月7日 朝日新聞福島版に自邸の記事掲載なる マスメディアデビュー建築となる

 (ナ)1984年11月、第一回建築あそび (俺の家はお前の家活動)実施。
 ゲスト建築家の
毛綱モン太氏 (福島市のジャズ喫茶で会う)
 家人の病状が悪化する2008年まで、24年間建築あそびを開く
 (記録が残っていないのが悔やまれるー色々活動する人間になるとは思ってなかった)
1985年11月 福島市タウン誌『信夫野』に自宅掲載される   
1986年福島県内雑誌 月刊テルミー4号に 建築家と表記・掲載される
 (ニ)建築あそびin旅館 「日本人と漂白について」
  村上護さんを講師に種田山頭火と漂白などについて語り合う
 (  )無名だった勅使河原三郎さん宮田佳子さんに会う
   KARASU 初演、福島公演を手伝うな、どそ後も後交流が続いた
 (ヌ)毛綱もん太さん建築学会賞受賞、市谷で祝う会があり
  村上護さん六角鬼丈さんや渡辺豊和さんなどと二次会で呑む
  状況劇場(通称赤テント芝居)福島市公演を毎年手伝うようになる
 ( )my建築できる敷地10坪 ポストモダン・パロディ建築にする
    (条件が厳しくって完成に至らないだろうと、泣きながら設計)

  1階画廊、2階ジャズ喫茶 3階住居 
  1階画廊で森山大道さん大野一雄さんなどの多様な表現者たちに出会い呑む
 (ネ)1987年 渡辺豊和さん福島市と新潟市で講演する
  追っかけしながら、佐渡にも渡り、ウニを食べる 美味い
 ( )1988年my建築『商店建築』編集者に見つかってしまい掲載依頼が来る。掲載される
 
 福島県内の政治経済雑誌に連載依頼をされ1本書いた。業界誌なので熟慮して原稿を取り下る(今もある)


■ 1990年代
1990年12月24日13:00〜14:30 福島大学経済学部で講演する 会場:福大AVセンター
       旅館の女将 クラブのママ ゼネコンの社長 下請け人、友達やTV局の取材も来てしまう

1991年2月4日毎日フラフにBOX4 掲載される 
     ニューハウス4月号に同上掲載され客が押しかけて来る。設計を請負わず
 (ノ)1991年奈良に在る渡辺豊和さん自邸に2週間泊めてもらう
     (建築家の暮らしぶりを観察)

    初期・渡辺建築をめぐる間に、布野修司さんの京大就任祝に参加 
    以後、渡辺豊和さんを団長にしメキシコ・チベット
    ・チャンティガー・アンコールワット・などの遺跡をめぐる

1992年朝日新聞福島支局から原稿依頼来る 2ヶ月毎に6本入稿する
1992年3月28日 『フロッタージュ』を刊行する。増刷となる

1993年 絵本作家・田島征三氏よりたのまれ 東京都日の出町に造る焼却灰置き場 都に配布する代案をくる 
       「ゴミと自然とひととの広場」1km×1kmほどの規模

 (ハ)1994年3月カンボジアで渡辺豊和さんにmy建築をみせる
    「帰国したら建築文化へ写真を送れ」と言われ送る

 (ヒ)1994年8月家人が統合失調症を患っていると気付く 

 (フ) 同上 建築文化富重編集長が来福されmy建築を観て回る
 (ヘ) 同上 植田実さん原野りささんが来福されてmy建築を観て回る
 (ホ)1994年建築文化11月号に
    特集される。タイトル「自生する建築へ
    編集長に「建築が出来たら連絡せよ」と言われる

 (マ)1995年阪神淡路大震災が起きる建築を造り続けるか悩む
    地下鉄サリン事件も起き全共闘世代後露見さらに悩む
1996年大阪で書店主である大島哲蔵さんと友達になり交流する
      2001年若くして亡くなる。洋書をたくさん手に入れた
    知人4人をつれて5人の講義つき建築あそび (記録なし)
    豊和塾の世話人をされていたので、時折講評会に参加する

 (ミ)1997年『建築文化』2月号の表紙に採用される(右絵)
    寺山修司演劇作品『百年の孤独』の舞台をままmy建築化に成功作
 
 ( )5年掛かりで家人を精神病院に初めて入院させることが出来た
 ( )家人を別病院に再入院させる

 1997年10月28日 新都白河 計画を語る 渡辺豊和 市民有志を集めた 
  白河文化センタイー始まって以来の満席 『新都白河』ゲラまでつくったが市民の反対で刊行できす
  (ゲラあり)講演内容 アンケート内容 翌日のディスカッション 大島哲蔵の評論 図版などで構成

1998年 建築文化6月号BOX12掲載 (WEB頁13と誤記) 

    以降、家人の病は治らない」諦め社会と遮断し我が家で治療することにした
    自分が稼ぐための、お仕事を一時やめて診てることに決める脱設計士を始める(家出実践)
   以来仕事をしない人間となり、今日まで生き続ける 脱・近代人となる 

■ 2000年代 建築あそびのWEB記録 fullchin webサイト公開
      HP開設 fullchinとした。お茶水の画材屋女に白眼視される 

 人生初PCで肉声を文字化 篠原一男講演@直方体の森 
                 (
中村正義の美術館長と友達なのだ3週間掛かる

2000年 日記 建築あそび記録 ことば悦覧記録 など活動録多数あり)
渡辺豊和さん 八重樫直人さん 中山新太郎さん 植田実さん 

2000年 建築文化2月号にBOX13掲載される 3・11除染とともに解体されてしまう(理由不明)
       建築文化10月号に 千万家掲載される 編集者と読者に誤解されたままとなる
 ( )田中浩也さんに会う。たびたび代々木の家に泊めてもらう
   多次元フォトコラージュのヘビーユーザーとなる 原広司自邸を撮り建築文化フォトコラの付録となる

2001年7月
建築住宅に特集される 中村謙太郎さん編集 表紙にも採用

2001年8月22日嵐の夜 東大花田達朗教授にはじめて会う
東大〜早稲田大学〜現在まで(後・全集6巻刊行)
花田建先生のジャーナリズム研究所を支援、
早稲田時代は招聘研究員になった。
花田先生とは長い付き合いの始まりとなった

2001年建築あそび記録

五十嵐太郎さん 田中浩也さん 槻橋修さん
 
 六本木ヒルズ美術館にて
  山手線の主なる駅巨大再開発巡り周辺を展示する
   ストリュートビューが現れフォトコラージュ人気落ちとなる
2002年 建築あそび記録 
 続八重樫直人さん 続花田達朗さん
  藤本壮介さん 花田達朗さ 南康博さん体験記

2002年11月5日 千万家 
 民友新聞社会面トップに大きく掲載される
 県土木部次長より直電話あり「おめー、銭いくら払ったんだ」と聞かれる。「銭なんか払ってねーよ!」
 my建築は福島県では事件扱いだれると知る。設計をやめた、と決める(設計士からの家出)

2003年 建築あそび記録
 菅野裕子さん 寺田真理子さん 太田浩史さん 
2004年 建築あそび記録
 松田達さん 南泰裕さん 藤村龍至+ベラジュンさん 石川初さん 
  建築雑誌に福島について寄稿

2005年 建築あそび記録
 植田実さん 小林聖明さん 

2006年 建築あそび記録
 岡部友彦さん 井上拓己さ 荒武賢一郎さん
 
2007年 建築あそび記録
 柳原照弘さん 松本晴子さん公開できず
 家人の病状が再び悪化しすぎて、何の活動もできなくなる

2007年 以降、出前建築あそびとしての ことば悦覧活動に入る

 ( )詩 寺山修司のこと。 知人が中原中也賞を受賞
    1年待って誰も祝わないので、my建築BOX12を会場に祝ってやる

2010年代

2010年9月井口勝文、純子さん夫妻の八賢邸に長期滞在し大阪聞き取り
  ことば悦覧、活動をする
 ( )2011年3月11日 東日本大震災が起き 福島市にも放射能沈着する
     建築士会に入り福島市内の除染監理員を3ヶ月する 
 ( )被災直後・新建築社から原稿依頼があり、現実・ままを寄稿
 ( )長男と仲間たちと宮城県内の被災地を回る
 ( )石巻市本間家土蔵再生支援しだす
 ( )気仙沼市唐桑町鮪立港づくりの支援しだす
   2012年8が7月4日 8月12日人生初新聞発行する。漁協と市会議員に回収され表現自由を侵される
 ( )宮城大学竹内泰先生に出会い支援をし続けてもらう
 ( )建築学会の『建築雑紙』寄稿依頼、2度あり書く
 ( )県立滋賀大学DANNWASITUに招待され話す 学生の家に泊まり込む
    『雑口罵乱F』に上記内容が掲載され

2013年より 新・fullchin に移動 (my次男サーバー間借り)

 ( )長女 西欧に移民する
 ( )放射能によって家人、三度目の精神疾患症激悪化の引き籠る
    家じゅうガムテープアートで埋め尽くされる
    手に負えず長男とともに手足を縛り精神病院に
    2ヶ月ほど入院、退院後は正常の路をひらすら進んでいた
  

 ( )福島市の除染監理員になり除染作業をする
    放射能沈着の現実とその実態として原発事故後を実体験する
 ( )長男、国会の参考人に呼ばれ、さらにユネスコ本部にも呼ばれ
    311被災地および古建築の文化財レスキューの現状を伝える 

2020年代
 ( )2020年 COVIDー19による感染症拡大する
 ( )2020年12月 ZOOM会議にて種田元春博士に会う

  2021年になると嘘のように 家人は正常な老女となる
 ( )2021年 zoomで聞き取りや話し合いなど ことば悦覧活動をし始める 
    福島県庁住宅課のこの10年 県建築文化賞の記録づくり 
    布野修司さんの聞き取り記録づくりを支援開始(若者に嫌われているようで本にならず) 
    毎日記録作り三昧。腱鞘炎になりそう  

 2021年 8月4日 編集者と建築家について語る 中村謙太郎さんと共催  
  以後の活動はmyHPにて