2021年4月24日 柳沢究先生に聞く2021 建築食堂 えで図 14:15〜オンライン | |||
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佐藤:この本知ってますか『占領下の「原爆展」』西山卯三も支援したと書いてありますよ 柳沢:あーはいはい、あまりよく知らないです 佐藤:広島に原爆投下され、占領下にも関わらず原爆展。京都大学の学生が開催したんですよ。 柳沢:立命館でやったんですか、京都大学で 佐藤:京都駅南側っていうのかな、丸物百貨店で1951年6月、15万人も見に来たと書いてあるよ。 柳沢:へーえ〜 佐藤:1951年6月総合原爆展というの、やったらしいんだね。丸物百貨店は今は無いと思います 柳沢:そうですね 佐藤:学生が主催して、西山さんは学生にいろいろ支援していたみたいです。被爆者の写真など貼ってショッキングな展覧会だったようです。まだ日本は独立していない、講和条約が成立していない状況下だから、いろいろ困難あったんだろうけど、6月の展覧会だから。講和条約は1951年9月8日成立だから(発効1952年4月28日)占領下での原爆展やっちゃた 柳沢:なるほどなるほど 佐藤:あまり知られてないんようだけど、福島に放射能が降ったから、昔の人たちは「どうやって被曝の事を伝えたのかなー」と思って調べていて古い記事、読んで知ったのでこの本を買いました。広島長崎の被曝の現状は投下時はあからさまになっていなかった、この展は6年後ね。投下されたその敗戦のときに原爆展は開くことができないから、時間掛かってる。 大きな戦争被害でも時が経ち風化し忘れたりする。京大生を主体に原爆展をやっていた。すごい昔の学生のエネルギー。フクシマに来た大勢の学生さん、柳沢先生が京都大学生を連れて私のところに来てくれた〜学生さん。フクシマ問題も同じ放射能の被曝なんだけど、今は低線量被爆の問題展を学生は開いてない、この違いは何なんだろうと、謎として残っている、解明できていないんです。 ちょっと飛躍するかもしれないけど、布野先生に誘われて新グループの人たちとの話で分ったのは建築雑誌を編集し、例えば平良敬一さんは共産党系のようだし。西山さんもマルキストみたいだからね 柳沢:そうなんですか 佐藤:共産党員の人たち西山さんもたしか共産党員みたい当時の知識人は共産主義者が多いそんな印象が残りました 柳沢:うんうん 佐藤:戦争なんか行きたくないよね。西山さんも大学に行くと学生だと兵役、20才過ぎても行かなくっていいじゃない、大学卒業までは免除されるので。「他の学生は徴兵されないのに俺だけに赤紙来ちゃた」そんなボヤキが書いてあって(註1)面白いんだけどさー。それを読むと大学生は「兵隊に行くと、えらいことになる」と分ってたんだな・・と、そのことも分る。西山さんの記録から分る 柳沢:ふんふん、なるほどね 佐藤:学生同士の間では日本の徴兵制度がいかに酷いかということとか、兵隊生活や戦争の悲劇は分っていて、そのことと共産主義のようなものが重なって原爆展の開催の動きがおきたのかなーと勝手に想像したんだけど。 3・11後の福島の放射能被爆問題については学生の反応しないように思うってこの違いは何なんだろうと 柳沢:なるほど 佐藤:それも謎の一つです、今答えを出す必要がないんですけど。これからフクシマ問題のインタビュー続けてね、その辺りも分るといいなーと思っているんです。やろうかなーと、これはなかなかですよ。 マスコミの情報の流し方が、反政府的なというのかな、新自由主義の嵐が吹いているので自由に話したりすると就職できにくくなるみたいな、自己規制が働いているのかも知れないし、分からないです。重たい話なのでやめましょう 柳沢:うん、難しい話ですね、学生によるとは思うんですけども、 佐藤:答え出さなくっていいです、次に行きます 柳沢:はいはい、それこそ学生にインタビューして、そういうのを聞くと本音が聞いてみたいですけどね 佐藤:そうだね、コロナが収まらないとそれもできにくい、オンラインで喋って問うのもいいけど、うまくいくかなー。 話題変えまして 柳沢:はいはい |
『占領下の原爆展ー平和を追い求めた青春』小畑哲雄著1995年6月25日かもがわ出版 (註1)『住み方の記』p96より 高等学校でボートをやっていたけれど、小学校以来、体は弱い方だったと思っている。その自分がよりによって「甲種」合格とは。猶予して3年間、体を立派にしたのがいかなかったのかもしれぬ。ー「いけない」というものはゆかなくてもすむ兵隊にゆかねばならぬからである。15人余りの同級生のうち、現役にとられたのは私だけだった。 兵室の平面図 『住み方の記』P106頁 |
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佐藤:柳沢さんは街の建築家であったはずなのに、あっという間にプロフェッサーアーキテクトになり、「教える快楽」というのも身に付けている。教えるっておもしろいねーっていうの、建築家の面白さとはたぶん違うのか、両方一色単になって面白いのか、分けて話してもらうほうがいいかなーと思うんですけど。どうですかその辺りは、建築設計そのものの面白さを教える面白さと、建築学を教える面白さは別でしょう。そうでもないですか建築の設計の面白さを教える違い 柳沢:それは全然違いますよね。 佐藤:居住空間学というのを教える面白さを教えてくださ 柳沢:はい。それは全然違うと思うんですけども。建築を教える面白さ、う〜。建築に限らないとは思うんですけども、昔、布野先生から聞いて、そういうものかなと思って聞いていたんです「乞食と教師は三日やったらやめられない」みたいな。ふふふふ 佐藤:どっちもやったことないから分らないなー 柳沢:僕も乞食はやったことないんですけど、それぐらい楽しいというか、面白い、「やっている本人は楽しいんだ」という話だったと思うんですけどね。 佐藤:自由にあふれてるからかな、そう思いますか 柳沢:いや、まーそうですね、それは建築に関係なく教師全般の仕事がそういうものだと思いますけど。何でしょう、自分が何かを教えたりとか、ちょっと自分の影響というとあれですけどね。自分が何かしたことでその人が凄く成長したりとか、いい方向に向かったりするのを観るのはとっても気持ちのいいことですよね。本当にそこに尽きると思うんですけどね。 建築に関してはもちろん私は専門として、世の中の建築はこうなったらいいなーという思いがありますけれど、それに学生が多少は僕の言ったことに共感してくれたりとか、その影響を受けてそっちの方向に進んでくれたら、世の中が一歩。直接建築はつくらないけれども、、最近はぜんぜんつくてないですけれども、そういうふうにして、1歩ずつそっちの方に向かっているという、そういう達成感を感じられるというのでは、そこは醍醐味ですかね 佐藤:なるほどね 柳沢:住経験の話も、僕は京大に来てから大学院の授業でずーっと住経験インタビュイーをやっているんです。大学院生にやらせているんですけど、うちの研究室の学生だけじゃなくって。40人ぐらいやってもらっているんですけど。住経験とか、住居感とか言い続けていたら普通に、4回生ぐらいの学生とかも「住経験」とか「住居感」とか普通に言い出して、それが凄くうれしいですよね 佐藤:それはいいねー分るよ。言い出しっぺは言い続けなければ、だめだよね。もっと広まるといいんだけどね。住経験がお茶のみ話のネタの一つになるような、それを語るのは日常茶飯事・当たり前になるといいんだけど。初めて会って挨拶代わりに今日の住体験を教え語り合うなんていいですね。 柳沢:そうそう、ははは。将来的には建築学科の学生は4年間の内に一回は絶対やるべきみたいな、そういう必修カリキュラムにしたいなーと思ってますよね 佐藤:そうなってもらいたいです,期待してます 柳沢:はいガンバリます。はははは |
3月24日 学位授与式のきとこま 3月17日柳沢究さん 2枚ともFBより 研究室集合写真 |
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佐藤:フクシマ放射能災害10年で、今は新コロナの問題も加わっていて、専門知識のある人に政府は外注している。放射能被爆問題もそうでした。外注して判断をするという形になっている。放射能降ったときも福島には専門家が一杯来ていた。住民というか普通の人との声の大きさ、重さが、アンバランスなわけね。 マスコミも有識者に聞いてと書いて垂れ流すから、有識者しか発言できないみたいな、そういう歪んだ言説空間になったままになるの。それでいいのか〜。よくわからないんですけど。俺としては現場で暮した生きる人々との思う事実は違うなーと思うんですよ。日々更新しつづけて共有すべきだと。 住経験インタビューの豊かさを発明されて、ご存知のように、被災経験のインタビューもあって凄い多様。で奥が深いと思うんだけど。それは語らせないんだよね、一部の人は特権的な震災(被災)スターみたいな人が生まれちゃう。マスコミがその人に聞きに行くから、いつも同じ芸で同じことを流す。くりかえし、くりかえし同じ事をニュースで流し、単純化して刷り込む。広まっていく良さはあるんだけど、その内容から弾かれしまって落ちてしまうのもあるのね、 その辺りをどうふうに記録保存していくのか、は311の課題でもある。、倣えば建築の面白さも有名建築家が造ったのが面白いみたいな広報活動だ、マスコミで流すだけではなく、住経験も面白がり方も多様に広がるのがいいんだけどね。有識者がそれを全部まとめて抽象化してだから「住経験はこれだ」とレッテル貼ることになる。 有名人がレッテルをつくって貼る、とその事がレッテルとして皆に鵜呑みにされて流布する 柳沢:ふふふふふ 佐藤:そういうレベルの低い状況になって思考停止させられちゃう。どうやって抽象化し共有していくかっていうのは難しいところだなーと何時も思います。住経験インタビューという概念・言葉が広まると同時に安直にそれを捉えてもらっちゃう問題が起きてしまうじゃないですか。振られて彼女の住経験インタビューをばらす奴も出て来たりする。その問題。 福島に来た柳沢先生が大熊町を見てこれこれ、こうだったよと言うと、聞いただけの学生はそういうもんかーと受けとめる。固定される 柳沢:なるほど声を代表してしまうんですよね 佐藤:それをどうやって更新し続けるか、というのは学会のようなところで継続的に議論する・・・ということ一つの方法としてあるんだけど、交流し続けて更新するというのが基本だし、その事も課題として残ってんじゃないかんなーと 柳沢:なるほど、なるほど、たぶんそれは歴史的な作業でもありますよね。歴史家のやっている仕事って、定説ではずーっと言われていたけど、実はその当時からこういう意見の人もいた、それを掘り起こしたりするのが仕事ですし、 佐藤:そういう記録についてどうしてるのか〜、と調べてもいるんだけど。ここにある分厚い災害誌は南相馬市でつい最近刊行したものなんです。700頁弱あるんですよ 柳沢:すごいですねーへーえ 佐藤:この記録誌には人間の感情的なものはほとんど載っていない。主な内容はデータと時系列と各領域のそれらがこの記録だ。 福島市にも災害の記録は刊行されているですけど、数字が主、市政だよりの綴られている。とても事務的な記録集なんだね。公的に発行した内容だから、たしかに共有されるべき情報なんだけども、住経験インタビューのような生きた人の感情は記録されていないんだよね。もっと言うと西山さんの住み方の記のように、ほとんど生活開けっぴろげー、人間の息遣いが記録されている本もあるんだけど、公的な記録にはそれが無い。 記録の振れ幅がパブリックな記録集と個人の記録の間にあるグラデーションも考えて、被災地の記録を作ったり伝えたり、しないといけないなーんだなーとい気付きです 柳沢:なるほど、なるほど。それは大事ですね。はい。、そういう語り手的な活動されたり、記録している方もいるんじゃないですか、そういう方も 佐藤:いそうだけど、放射線量を記録して発信している人は一人います。被災地の声は主に党派別に分かれて同じ人の声が主になるんだね。 柳沢:佐藤さんが言う震災スターの声ですか 佐藤:そういうスターの声が流布することによって、語り手も同じような芸が磨かれて、何とか流派みたいになっていく 柳沢:広島の原爆の話も。実はうちの奥さんは広島出身なんですけど。母親、義理の私の母親は小さい頃に被曝してるんです。そのお兄さんが亡くなったりしているんですけど。その頃の手記とか、あれは被曝、原爆の後10年後とかに、当時の被爆者の人たちが、本当に日常的な、その日、8月6日にどうだったかと、その後どう1週間ぐらいどう過ごしていたのか、日記みたいなもの、淡々とまとめた日記集みたいなのが発行されてい。やっぱりそれは凄い、何ん言うんでしょうね、息遣いを感じさせる。「こういうのが無いといけないなー」と思いますね。わかります今の話は分ります。 佐藤:ほんとうにそう思います。石巻市で古建築土蔵のレスキューもしたんですけど、所有者が自分で本を発行した。本当に飾りがない。俺のような長話でもない、読者を喜ばせてやろうという意図もない。それを読むと効くんだよねー。 柳沢:うんうん。 佐藤:行政が刊行した記録集には正確に放射能事故が地震から時系列で書いてある。単なる記録で読んでしまい俺の感情には効かないの。データの羅列だから。この辺りはこれから歴史の話も、でたけれど。インタビューするときに肉声が落ちないようにする、というのも面白いテーマだなーと 柳沢:うんうん 佐藤:俺は聞き取りは編集しない形で、やっていてそのままWEBアップしちゃうだけど。編集しないことと、編集することの良さ、悪さある、公的記録は徹底して編集して、数字しか残らないようなものも要ると。 柳沢:公的記録としてはね数字はとっても大事ですけどね 佐藤:多重災害の記録のありかた 今の課題があって面白いなーと、今日はこんな感じで |
2014年 福島市刊行 全465頁 2021年 南相馬市刊行 全692頁 |
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柳沢:ははははあは 佐藤:奥さんの話がでましたけど、奥さんお元気ですか 柳沢:はい元気でやってます 佐藤:今は自宅からですか 柳沢:いまちょっと出てたのですが帰ってきたかも知れません 佐藤:オンラインは家から発信しているんですか 柳沢:家です 佐藤:家はどこに在りますか 柳沢:家は京都の岡崎、最近話題の京都市美術館の近くです 佐藤:大学の近く電車の駅はなんですか 柳沢:駅で言うと「丸太町」吉田山の近くで、すすごく好い所です 佐藤:鴨川の傍ですか 柳沢:ずーっと東の山の方ですね吉田山に近いほうです 佐藤:吉田山、越えると真如町の岡田先生の家だな 柳沢:ああ、割と近いです 佐藤:山には面してないんだからあの辺りか、奥さんも元気だし、息子さんは今は何歳なですか 柳沢:、一番したが今年3年生で、真ん中が5年生、で一番上が中一になった。 佐藤:剣道の投稿ありしたねー、 柳沢:そうそう一番下が剣道はじめて、今日は5時から剣道にお付き合いいかないといけない、 佐藤:それは喋ってる場合じゃないですね、そろそろやめましょうお父さんが教えた方がはやいんじゃないの 柳沢:いやいや体が動きませんよ 佐藤:一緒に練習しているんじゃないんですか 柳沢:一緒にやってないです。とてもとても今は出来ないです40肩に、去年ね酷い40肩になりまして、左手があがらなくなっちゃって。 佐藤:40肩かー50肩じゃないんだ、早く肩にきたね。剣道練習なのでそろそろやめましょう、 柳沢:ありがとうございました 佐藤:これを文字にしますから、次回は「生い立ち編」を聞かせてくただい。 柳沢:はいはい、そういう方が話易いです、はいふふふふ 佐藤:今日は長くて俺がしゃべってばかりでしたが、これはこれでお許しください 柳沢:ウォーミングアップというおことで 佐藤:ありがとうございました 柳沢:ありがとうございました 佐藤:じゃー失礼します 柳沢:はいはいではまた 佐藤:奥さんによろしくお伝えください 柳沢:ははいでは失礼します |
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2021年柳沢究さんに聞く、最後まで読んでいただきありがとうございます 文責佐藤敏宏 home |
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