2021年4月24日 柳沢究先生に聞く2021 建築食堂 えで図  14:15〜オンライン


目次
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2019年9月9日福島を観た
  日曜日 午後2時15分 zoomにつないでいる
佐藤:入ってますか〜、聞こえますか 沈黙 音が出ていない
    聞こえますか 聞こえてないね
柳沢:あの、ちょっとね機器の調子が悪いみたい、ちょっと待っててください。
佐藤:だいじょうぶ、だいじょうぶ
柳沢:なんでやろ・・・
佐藤:聞こえるよ 聞こえますよ
柳沢:ちょっと待ってください あ、やっと繋がりました。すみません 聞こえます
佐藤:聞こえますよ
柳沢:すみませんお。待たせしました よろしくお願いします
佐藤:どう〜も、お忙しいところすみません
柳沢:ご無沙汰しております
佐藤:いえいえ、1年7ヶ月ぶりですからね。学生さんと福島に来ていただいてから、2019年の9月9〜10日でしたから
柳沢:その節はありがとうございました
佐藤:いえいえ、フクシマに来る先生と学生さんがいないので、私は大変感激したけど、つい紹興酒のみすぎて、かなり酔ってしまい、いろいろ聞き洩らしてしまいました。フクシマ見学を誘ってもね誰も来なかったんでね嬉かったですよ。
柳沢:あーそうですね。なかなか僕もいく機会がなくってよかったです。ようやく行けてよかったです。
佐藤:よく、学生の家族からクレームが出ませんでしたね
柳沢:ああ、そういうのは大丈夫でしたね理解してくれてました。
佐藤:父兄の同意を得るんでしょう
柳沢:そうですね、もちろん学生から話ていると思います、特に大きな反対はなかったと思います。
佐藤:それはよかったです、みなさん理解があるんだね
柳沢:そうですね


2019・9・9福島市内の中華屋


2019・10浜通りの被災者の声を聞く
佐藤:どうですかね、あの時フクシマの感想は
柳沢
:なかなかニュースとかで聞いてるのでは実感が湧かなかったことが「本当に、とてもよく分った」と、いうのは言えないですけども。非常に自分に近い事柄として受けとめる機会になったので「行ってよかった」とみんな言ってました。
佐藤:浜通りのだだっ広い所で人も居ないし、家々にはバリケードしてあるし、人が所有者も入れない地域が日本に在るっていうのは、ショックかも知れませんよね。
柳沢:それは本当にショッキングな風景でした。私からしても、はい。
佐藤:そういう「事故が起こってしまったというのに、(学生の)皆さん勇気があってよく来てくれました」って感じですけど

柳沢:いやいやこちらこそ。だから今の学生にしてみると、2011年は9年前です、20才ぐらいだと小学生ぐらいの頃の出来事なんですよね。だから、かなりの学生にとっては「凄く昔の出来事のように感じている」と思うだけど。それが今も続いているのも、普段の生活だと実感しずらいところだと思います。

佐藤:(大熊町役場の)目と鼻の先に事故を起こした発電所が在り、見えてたわけだけど、あそこには行きませんでした。が、日本で最大の建築現場だからね。解体しているけど、1日6000千人働いている(註1)というから、巨大現場ですよね。
柳沢:6000千人ですか
佐藤:そう、6000千人と言われているね。スーパーゼネコンが何社も入って総力をあげて、「新しい技術を開発しながら廃炉作業、(事故当時は)40年で廃炉完了」と政府も東電も言ってましたけれど、すでに10年経っちましたから。どうなんでしょうかね、もうちょっとしたら「また皆で発電所の中まで行く」というのも、ふふふ、いいとは思うんですけどね。

柳沢:今でも申し込めば見れるそうですね
佐藤:そうですね。20世紀の文化という結末はこうなった・・・という。高度成長の幻想かな。そういうのが露わになっている場所だから。炉心は見なくてもあの工事現場に入っていた方が、若い人はいいと思う。(父親たちが造った現場に俺も行く気が起きないんだけどね)。死ぬまでに一度は行ってみようとは思っているんだけです。


大熊町空間線量模型色分け 右下赤色
東京電力第一原子力発電所
エリア

空間線量色指標 大熊町役場の
低い地域でも 3.8〜9.5μSV/h




(註1)『すごい廃炉』2018年2月刊行


佐藤:それから福島県庁の方々の話を聞いてもらってね、よかったです
なにか建築学会賞を今年度受賞したらしいですよ。一連の活動、県の311直後から仮設住宅とか借り上げ住宅とか一連の行いに対してかな。
柳沢:そうですか
佐藤:「発表に成ったばかりだ」って言ってましたから
柳沢:そう「今週発表された」とは聞いてますよ。私も詳しくみてないけど
佐藤:建築学会受賞したから、俺、だいぶ前に県の人たちが何をやってきたのか分らないから、多重災害の時にね、どのよに、普段の仕事をやりながら、多重災害対応もやなきゃいけない、じゃないですか。(被災者の)数が凄く多いしね。「どう対応したのか」っていうのを、これからも災害が多発する、それも広域で重なって災害が生まれるから。福島県の対応はみんなに知らせた方がいいからね。「俺、インタビューするからどうでしょうか」ということで申し込んでいたんでけど。ようやくOK、県の人たちもいろいろあるみたいでさ
柳沢:なるほど、ふふふふ

佐藤:いろいろ考えて応募したみたいで、それで「じゃー来月5月中頃から10回ぐらい」対応1年ごとに聞き取りし、10回ぐらい聞き取らせたもらったらいいんじゃないか、と思って。申し込んでいてそれがOKになったところでした。
柳沢:そうですかそうでしか
佐藤:福島県庁で学生さんと聞いた話の続きになりますね、それはネットで公開できると思うので柳沢先生にも見ていただけると思うです。俺は「学会賞もらったんだから学会でやったらいいんじゃないですか」と言ったですけど
柳沢:ほんとうですね、学会でやるべきところですね
佐藤:そうしたら学会の人たちに聞いてもらうのいやだという雰囲気・・・・ふふふ、福島の人に聞いてもらわないと「お前が聞くからいんだ」みたいな、ちょっと、どういう感情なのかは分らないんですけど。そういうふうに言われましたね。311直後の、あの切迫した緊張感っていうのは福島に居ないと、分らなかった事なのかもしれないね。
柳沢:そうですしょうね
佐藤:(県の人も)みんな伝えにくいって思っているのかもしれない。(心の片隅では死ぬかもしれないと思いながら仕事していたのかも)だったら言葉にして伝えなければならない、苦しいんで言葉に出来なかったのかもしれない。「学会賞ももらったし10年経ったし、言うぞー」みたいな感じかな

柳沢:やっぱり時間が必要なんですね
佐藤:しゃべり難いんだろうね。(俺もそうだけど、時間が経ないと喋りにくい)2月13日に余震というか
柳沢:最近、多いですね
佐藤:大きな、すごい地震が来て、家の中がぐじゃぐしゃになったんだけど。そういうショックもあったので「ここらで、そういうのを話てみようか」っていう気分にもなっている感じかな。
柳沢:なるほど






2019年9月9日福島県庁正門集合写真






福島県住宅課で質疑応答

■12年前  2009年8月4日京都で聞き取る

佐藤:福島の話はいいとして、前回(柳沢さん)聞き取りは2009年の8月4日ですからね。、
柳沢:2009年ですか はははは 12年前ですか
佐藤:もう12年。あの場で出来立てほやほやの博士論文『インドの伝統的都市における都市構造の形成と居住空間の変容に関する研究』
柳沢:終わったばっかりの頃ですね
佐藤:そうそう、いきなりサインして頂いて、今も持っているんですね
柳沢:はははは
佐藤:酒のみ始めちゃった(聞き取りスタートと同時にビールで乾杯、初対面なのに酒のみ始めちゃった 、金子国義のリトグラフもいい感じだった)
柳沢:はいはい
佐藤:俺、普段と違う聞き方してたんだね、本来なら「生い立ちから」聞きくはずなのに、いきなり違う話になっていって(生い立ち聞き逃して)柳沢先生が先生になるまでの話はあまり聞いてないのね。

柳沢:あの時は先生になってないですからね。
佐藤:そうそう、先生じゃなかった。街の建築家だったけど、博士論文できて、俺は、奥さんとても優しいね、お嬢さん生まれたばかり、あんまり幸せなんで、こいつの話を聞くしゃくだなーなんて思って
柳沢:ははははは
佐藤:娘さん、まだ1歳ぐらいかな2歳か
柳沢:いや1歳、今年中学生になりました

佐藤:そうですか、歩いてなくって、ガラガラっていうの押していたから。五条の橋のたもとで、暮らしていました。あのマンションは何階でしたかね4階ぐらいでたかね
柳沢:5階です
佐藤:そこで聞き取り終わって、(五条)橋のたもとの居酒屋に行って、さらに呑んで喋って。こいつは幸せ建築家だなーと

柳沢:あれはありがたい称号でした





2009年8月4日柳沢究さん ビールと版画

■ 大学の先生になる

佐藤:幸せプロセッサーアーキテクトではなかった。聞き取りの後、名城大学に行かれますよね、何年でしたか
柳沢:2012年からですね
佐藤:大震災の翌年からでしたか。聞き取りした後2年後ですよね
柳沢:2009年でしたから、2年半後ですかね。
佐藤:街の建築家の前は神戸芸工大でしたよね、助教をやられて
柳沢:当時、助手ですけれども、2003〜2008年の3月まで芸工大に居たんですよ
佐藤:では、博論は芸工大で出されたんですか。
柳沢:芸工大に居るときに出して
佐藤:その後は独立系建築家でしたよね、京都に行った(2009年8月)ときは。
柳沢:そうです、そうです。
佐藤:最初から大学のプロセッサーアーキテクトになる!つもりだったんですか、あの時は偶然ですか、ふふふ

柳沢:あの時は、「博士号もとったし、いつかは大学に戻りたい」とは思っていたと、当時も思うんですけど、そうですね。「しばらくは設計をちゃんとやりたい」と思って、設計事務所を自分で始めた。いつ戻るとは特に決めてはいなかったと思うんです。その当時は。

佐藤:住宅設計していて模型で説明してくれてますからね。僕は聞き取りは他薦で独立系30歳前後の人を聞き取っりしてたので・・・独立系建築家として建築設計事務所をやていくのかなーと思って聞いていました。魚谷さんの推薦でしたね。「やはりこの方は町場の幸せ建築家でいいなー」と思って ふふふふ。記録公開してから、皆から、からかわれなかったですか。そうでもなかったですか。
柳沢:そんなことないですよ。「幸せ建築家」はとても気に入ってます

佐藤:本当に珍しい人だなーと思ったもの。だいたい社会の難問を背負って自分でやった気になっている人多いけど。柳沢さんはそういのを苦にせず、「設計ってなんだかよー分らんのですよ」みたいな事を言っていたからね。
柳沢:そうですね
佐藤:俺も設計てなんだか分らねーなと思っていたから「この人はまともだなー」と思って
柳沢:はははははは
佐藤:何年経っても(設計ってなに)分らないね。状況が変わるからアウトプットの仕方がよく分からないっての、ありますよね。教員はどういう感じの(博論は)インドの都市と住宅両方研究されていて、京都では住宅を設計していたから、住宅をメーインに教えているんですか。
柳沢:今はそうですね。住宅が結局専門というか、一番の中心になりましたね。
佐藤:都市ではなくね
柳沢:そうです、そっちのほうではなく

佐藤:インド研究で一番面白かったのは、インドの人に騙された話でした。一服もられて(体調崩しさらに)金まで巻き上げられた・・という話には、さすが賢いなーと妙に印象にのこりました
柳沢:何が賢いんですか、はははは
藤:向こうの人、インドの人が賢い
柳沢:ああ、そうですね、やられましたね




















名城大学の先生 古建築改修工事

佐藤:そういう悪さを仕組んで稼いでいる人が世界には居るんだなーと思って感心しましたね。名城大学に行かれり、何年に名城大学に、居たんですか。
柳沢:名城にちょうど5年間です。2012年4月から17年の3月までです。5年間ですね。もう完全に「名古屋にずーっと居るつもりで名古屋に行って」。3年目には土地買って家の改修を始めて、住みだしていたんですけども
佐藤:コンクリートの住宅に屋根が熱いからって畳かなにか掛けて草はやしてましたよね 
柳沢:そうそう畳敷いていました。古畳緑化というのは開発して、何かやろうかと思ってやったんで、やったんですけど ふふふふ 

 屋上古畳緑化 究建築研究室 HP より ほら貝のRC住宅 (撮影笹倉洋平氏)
佐藤:今の古畳だと間に断熱材など入っているんじゃないですか
柳沢:そうそう、今のはだめなんですよ、古い本藁床のやつじゃないと
佐藤:よくみつけましたね
柳沢:あの家の中に有った畳なんですよ
佐藤:あーそうなんだ

柳沢:そうです。コンクリートの住宅が1976年ぐらいの築で、築40年ぐらいだったんですけど。和室が多くて畳がほんとうにたくさ有ったんですよね。だからそれを処理しようと、捨てるのも大変だし、バラさないとゴミに出せないとか。ごみ処理場に持ち込むのも大変だし。「屋上に、屋根に敷いてしまおう」ということで、それでやったんです
佐藤:自分で考えたんですか、そういう事例はあったんですか、聞いたことないから
柳沢:ないと思います。あれは独創的な、ははははは
佐藤:あそうか、天然素材、自然素材はああやって土に戻して「屋根でトマトとか出来てしまったりするといいなー」と思って見てたんだけど
柳沢:そうなんですよ、カボチャぐらいまではいきましたね。カボチャできましたよ、トマトもなりました、でもどんどん畳が薄いので、最初の段階で5pしかないので、1年に1pぐらいずつ痩せていくんですよね。腐っていく、ヘリはそのままです。
佐藤:ヘリは化学繊維じゃなかったんですか
柳沢:へりは化学繊維ですよね、だからずーっと残っていましたね。

佐藤:あの緑化はいい感じかも、断熱効果もありそうだし
柳沢:そうそう、断熱も遮熱もあってふふふふ
佐藤:オマケに野菜まで出来ちゃうと
柳沢:古畳いらない人がでてきたら、どんどん持って来て積み上げようと・・・はははは
佐藤:建物の大きさ、面積は何畳ぐらいあったんですか屋上ですが、重ねて敷いてました
柳沢:一枚敷きですね。重ねないです。40uだから25帖位はあるのかな








正面


2階

 2階屋内
  02へつづく