2006年9月30日 岡部友彦さん 建築あそび記録 HOME 自己紹介など 寿町 ヨコハマホステルヴィレッジ 1 ・ 2 ・ 3 ホスピス 1 ・ 2 コトブキガーデン1・2 講演後ワイワイ 岡部友彦さんに出会ったのは東京大学生産研究所だったか、原宿のパブだったか、それとも六本木ヒルズでの展覧会参加時だったか?覚えていない。 その後行った寺田真理子さん講演の建築あそびに参加していただいた。その時は 取り組んでいた研究などの話を仲間と共にしていだだいた。 数年経ち 生研をいったん離れ 寿町での活動を開始さたそうだ。 今日は 主に 寿町での活動について詳細を話していだだくことにした。 夕方4時10分着の新幹線で福島駅に着かれた。恒例の記念写真を撮り、外が明るいので各種映像や画像あり講演には 不向きなので、先に宴会をすることにした。 宴会ではとうぜん 現在の活動話しも含まれてしまったのだが 3時間ほど続いた。この数年に手がけられた太田浩史さんや伊藤香織さんとの共作 「ポピュラースケープ」や 自作「コトブキ」という名の映像作品の上映は 活動を要約するかのような作品群であった。 ここで記録し公開する内容は 宴会後に講演されたものである。 主に 寿町と 岡部友彦さんに 関すること。読んで頂ければ幸いです。 10月から生研博士課程に戻られそうです。 活動の持続と研究生活の両立は大変なこととだではあるが、 豊かな活動や 研究等の成果が得られることを祈念しております。 建築あそび主宰・記録作成は 佐藤敏宏 自己紹介など 3時間ほど続いた第一部で 大盛り上がりすぎ・・・ ビールや酒もジャンジャンすすみ、皆酔っぱらい右往左往している。 ワイワイもしている。語る者、トイレに行く者 水を飲む者 台所で片づける者 が居る。 s: いじゃないでしょうか。話し始めても。 M: 鍵 トイレの鍵閉まらない! S: だれも行かないから、大ジョブ大丈夫 (ゲラゲラ笑う) そこ明るくして(ビデオ操作を始める) テープは入ってます。 もう大丈夫です開始しても・・。みんなキャラメルなめているのね、食後に甘いものはいい・・ と岡部さんに頂いたロンドン土産の キャラメルつきお菓子を食べる。台所のほうがにぎやか s: Aさんまだですか〜 A :はい。 いいですよ s:じゃ〜第二部! 岡部さんの話です。ちょいと 軽く 自己紹介を願います。 いつも聞き忘れちゃうのでよろしくお願いいたします。 会場拍手 パチパチパチ 岡部: 岡部です。・・なんでしょうね。 s:何時どこで生まれたとか・・一般のプロフィールです。 岡部: 1977年。 生まれは神奈川で、江ノ島の近くです。オヤジの代からずーっと同じで、オヤジと同じ幼稚園に行き、オヤジと同じ小学校へ行き 会場 えぇ〜珍しい〜 s:鎌倉の地物だな 岡部:こてこての地物ですね。 そこから大学は神奈川大学という私立の大学へ行き。そこで建築を勉強して、そのあと一度 建築事務所に就職を1年しまして、そのあとで大学院。 運良く東大へ入れて ・・。先ほど話したカリスマ・ホームレスに出会ってしまいまして。そのあとkotobukiの活動にドンドンのめり込んでしまったというかんじです。 s:今日は「kotobuki」の具体的な活動の事例を紹介してもらえるわけですか。 岡部:そうですね。 s:いいね〜 岡部:寿町で・・僕のスタンスは、寿町で今まで やられていたのは福祉とか介護というスタンスから いろいろされていたのですけれど、僕はちょっと違って、建築とか都市というところの側面から入ってくるプロジェクトとしてやっている。それを紹介します。 会場:拍手パチパチパチパチパチ 岡部: ヨコハマ・コトブキ・スタイル。まづ寿町の立地から話しますけど。よく知られているのが山下公園、中華街がここ。横浜スタジアム。寿町が・・ここに石川町駅があります。JRの。ここから中華街と同じぐらいの距離に寿町という地域があります。 だいたい大きさが 300m×200m という。一街区ぐらいの大きさで、かなりコンパクトな所。 人口が結構多く住んでいるという そういう場所なんですね。三大寄場という。ご存じかも思いますけど。 s:知らない人多いよ。 M:山谷。 岡部:東京だと山谷というのがあって。大阪では西成だとか釜崎という所があって。横浜では寿町というのがあると。 s:三大 岡部:寿町の基礎データとしては太平洋戦争の前までは すごく普通の町だったらしいんですよ。すごく優秀な小学校があったりとか。というぐらいの所だったらしいです。太平洋戦争の後に 米軍があそこの地域だけ接収しちゃったらしいです。 m:はぁ・・。 岡部:米軍が資材置き場にした。 「元々の地権者と一切の関係を切ってしまったんだ」と言うんですけど。 戦後 米軍が撤退した 後に、陣取るように日雇い労働者向けの簡易宿泊所ができたんです。それがそもそもの由来らしいですね。 その後にこういう感じで職業安定所。職安だったり、もともとは ちょっと違う桜木町という所に在ったんですけど。 それが全部 寿町に移転してきて。全部が日雇いの人たちのための施設で覆い尽くされていた。 ちょうどその頃、横浜は港なので、港からの荷下ろしの仕事が多かったので、日本各地から仕事を求めて日雇いにやってくる人たちが「住む場所が無い」ということで、寿町のほうに簡易宿泊所が次々に建てられていったと。 maxの時は1万人もいたと。そのあと オイルショックから経済的にバブルもはじけたりして ドンドンと人口も下向きになるし 経済も下向きになると。 ここ十数年の間には生活保護の方がドンドン増えていくというような状態になっています。 これは昭和40年ぐらいの写真です。 会場:ふん〜 この頃はまだ家族連れがいたんですね。子供の数もある程度いたんですね。 人口が水色の風景なんですけど、だいたい6000千人ぐらい。これが生活保護。だいたい8割。この黄色いのが高齢者。紫が外国人。外国人は減っている。 s;外国人はどこの人 岡部:外国人はフィリピンとか。ようは出稼ぎでくる(芸能人と称する)女性たち。 バブルの頃は結構いたんですけど。もうだんだん下がっちゃっている。それに比べて子供の数は登録されているのは16人ですからね。 そのぐらい極端に少ないんですよ。一応 寿町の中に保育所とか幼稚園とか一個づつくらいあるんですが。それは町の外から皆 きているみたいで・・・どういう人たちが 僕も分からないのですが。 犯罪率自体は 全体的には下がっている。少なくなっている。 s:年取って〜暴れなくなってきた。 岡部:血の気が無くなくなってきた。それだけなんですけど m:あぁそう。 次のぺ−ジヘ |