佐藤敏宏・博多漫遊 2026 (5月30〜6月4日) 作成:佐藤敏宏 2026年7月
博多漫遊(粗日程)録

 5月30日 福島から多博多へ 
 5月31日 赤坂から名護屋城へ 
 6月1日 福岡城・大濠公園〜能古島 
       ペイペイドーム
 6月2日福岡城〜西公園〜港・食堂
  6月3日板付遺跡 大宰府政庁
 6月4日 博多から羽田空港 東京芸大


■ 5月31日 名護屋城跡へ篇 

(筑肥線に乗る)

台風の進路にあたるとの予報は東にそれ、福岡の空は雲一つない快晴となった。福岡城跡から東そばにある民泊を6時30分に出て、地下鉄空港線の赤坂駅に。早朝で電車の本数は少ない。バスに変えようかと一度地上に出るも、バスの本数も少ない。やはり電車だと決める。地下鉄は筑肥線に乗り入れしているので、西唐津駅までその電車に乗っていれば着く。早朝なので乗客もまばらだ。

糸島駅までの車窓からは、博多のベットタウンが連なっていて、鉄筋コンクリート造りのマンションが林立している。その中を西に向ってゆったり走っている。一時間ほどすると、唐津湾(玄界灘)に浮かぶ姫島は現れた。空と海の蒼さが溶け合い、にじみ合って、姫島は浮かんでいるように見える。

日本海の海は、青森県の鯵ヶ沢から山形県遊佐町まで自家用車で南下したことがあり、その時に見た暗い海の色は今も覚えている。季節によって海面の色は変化することも考えられるので断言は出来ないけれど、日本海の南部と北部では、こんなにも色が違うとは知らなかった。唐津湾の海は青い、瑠璃色がかり、軽やかさと爽やかさ含むような印象を受けた。島々と岸辺の濃い緑の樹木が茂っている影響で、いっそう青く感じるのかもしれない。

唐津駅を通過すると、半島状に突き出た岬の小高い丘に築造された唐津城が見える。HPの案内によると、唐津城の魅力は天守閣と玄界灘、『虹の松原』が織りなす地形の美しさとある、という。鶴が翼を広げる姿ににていることから、「舞鶴城」の別名もあるそうだ。後に知ったことだが、唐津城は名護屋城を取り壊した際に出た建材をリサイクルすることで築造したそうだ。


■唐津出身の上司

唐津の空気を初めて吸い込んだ。唐津市出身の上司のもとで、5年間ほどサラリーマンだったことがある。上司は京都工芸繊維大学を卒業し、設計部員として社会人をスタートした、と言っていた。折口信夫が好きで著作物もたくさん所蔵していた。家具作りも好きで、家の台所には手作りの分厚くいい感じのテーブルが設えてあった。家では寝てばかりいた20才半ばの俺は、家具を自前で作る時間をどうやって捻出しているのか不思議であった。上司の人格に合ったように奥様も穏やかで清楚な方だった。だから俺は唐津と聞くと穏やかな上司を思い出す。

玄界灘が運んでくる唐津の瑠璃色をおびた空気を吸った子供は、趣味も教養も豊かな上司の人柄のように成長するんだろう、と思い込んでいた。ここの目の前の爽やかな海と空の間を、玄界灘から流れ来る空気を体内に入れながら育った上司のことを思いだした。


■西唐津駅

8時40分ごろ西唐津駅に着いた。降車客は我が親子の二人だった。駅員も居ない。ホームや待合室には、唐津や福岡に出かける客が4人ほど、退屈そうに電車を待っていた。駅舎内には、イカ祭りや有田・伊万里焼祭りを知らせる古びたポスターが壁に貼られたままで、駅前の道路を行き交う車も人も見えない。気温がとても温いので、福島市からずいぶん遠くに来たもんだ、と思った。

繰り返すと、秀吉の命令で築いた肥前名護屋城跡を体験するためには、福岡市内から筑肥線に乗り入れしている地下鉄電車で唐津駅、あるいは西唐津駅で行きそこで下車する。そこからは毎日まばらに走る公共交通(昭和バス)の路線バスに乗るしかない。予め時刻表を見て、待ち時間の少ない時刻に合わせて電車に乗っても、30分弱は待った。

地方駅の待ち時間は嫌いではない。少しの時間、西唐津駅周囲を彷徨い、その地の家並や人の姿を見て、この地域の暮らしを想像する時間としているからだ。何にも感じられないこともあるが、それも後々、その町を知る体験として効いてくると思う。

定期路線バスに乗ると乗客は4人。バスは唐津呼子線(204号線)を走り続ける。道路形状は上下左右でウネウネしているので揺れ続けるし、玄界灘の海面が見えたり隠れたり、海水浴場が見えたり、田んぼも見えたりするので面白い。養老院の敷地内に停車場が設置され、敷地内で方向転換したのには驚いた、そういう未知の体験をいくつもできる。

路線バスに乗っていて、活気があると思ったのは呼子駅周辺だった。呼子から先はさらにうねりは激しくなり、そこまでとは比べものにならないほど、落差も曲がりかたも激しい。でも車窓からは玄界灘の美しく、多様に変わり続ける海面や漁港を俯瞰したりできる、珍しい体験を楽しめるのだ。バスに弱い人は酔い止めの準備は前もって必要かもしれない。激変する車窓に映し出される風景巻物を、充分楽しめた。


















(名護屋城跡に10時40分着)




名護屋城に近づく頃、昭和バスにはmy長女と私、そして学芸員ふうの中年男性の三人だけになった。西唐津駅のバス停からは、先に書いた複雑な海岸沿いの道路と美しい漁港や海水浴場、それらの豊かな地形の形状や、人が行き交う入江などを眺め約1時間、とうとう名護屋城跡の足下に着いた。

名護屋城が築かれた場所の地形は複雑だった。一望することは不可能で歩き回って体験し、足で知るしか方法がない。地図で調べると、谷底より40mほど高いところにバス停がある。バスを降りて見上げると、名護屋城跡はさらに45mほど高いようだ。
国土院のweb地図は使い勝手がよく、城廻りの断面を簡単に知ることができる。(上の断図)調べると、入り口まではさらに20m登るしかない。名護屋城跡の受付入り口から天辺までは、さらに25mほど登る、ビルなら8階建てほど登るのだ。天守は海抜85mほどの地盤に築いたので、各自自分の足で登るしかない。昇降機も車椅子も装備してないので、足の弱い老人などは体験はむずかしい名護屋城天守位置だった。

この日は猛暑のように暑かった。バス停からは、はあはあ息を切り、時々足を止め水分を補給しながら、名護屋城の門の傍にあるチケット売り場までの急な階段を登りきった。跡で振り返ると、この階段が最もきつかった。毎日ストレッチしてきた成果が現れ、ヘトヘトと倒れることもなく受付に着いた。

記念写真を入り口の下品な看板前で撮る。時刻は10時42分。民泊を出てから4時間ほど経っていた。2026年5月31日10時44分、とうとう秀吉が命じた名護屋城跡の入り口に立った。

入場料は無料だ。協力金を払う。受付傍の大きな看板、つぎに大手門口そばにある碑で記念撮影。

名護屋城跡には石垣しか残されていない。唐津城などに転用されてしまい、門や櫓を期待して行ってもない。石垣と高低差の激しい地形によって防御態勢は想像することができる。

大手門を過ぎると緩やかに登り東出丸跡の石垣に至る。ここは大手門周囲の防御と監視場所だ。東出丸の背面は急傾斜地なので人が登ることは難しい。東出丸を過ぎ左側にU字型に歩みを進める。そこは広い三の丸だ。三の丸の空間は思ったより広く、木々が茂り鬱蒼としていた。雲一つない快晴にも関わらず暗い。木漏れ日が古の時間へと誘う。木漏れ日の中を進むと本丸。この鬱蒼とした空気が入り口を演出しているようで、期待は高まる。右に折れると、正面には本丸の石垣が見える。本丸に至るには三の丸を対角線上に進み、階段をのぼり右手に曲がり、U字型にさらに進み登ることになる。

戦国の武将たちは用心深く、真っすぐに本丸に至るような単直進路は構築しない。

天守広場には現在、建築物は何もない。登り切った階段の対角線先の最奥が天守・位置となっていた。天守の基礎石だけは残され、転用はされずにあった。天守は幅16.6m、奥行12.3mとの看板が設えてある。

とうとう名護屋城跡に立っことができた!


my長女は「ここはテンション上がる。武将たちの気を高揚させる設計だね」と、天守・周囲を見まわしながら第一声を放った。人にパワーを注入することができるようなパワースポットだった。

朝鮮半島への進出を戦略しようと集った戦国武将たちは、この場に立つことで力を得たことだろう。秀吉の死がもうすこし遅ければ、半島を植民地にしていたかもしれない・・・そう思わせるほどの実感が湧き上がる、絶景の地だった。


大手口手前の碑をなで記念写真


階段を登りきりU字に右に曲がると本丸跡の広場にでる。この木々の重なりと木漏れ日は次を演出して効果よい空間構成になっていた。
(名護屋城天守台跡に立つ)



飯炊き爺さん「名護屋城天守台跡」に立った。とうとう来たぜ名護屋城!

秀吉の野望の具現化の跡を見た。

戦国時代末期の武士たちの地形把握、および咀嚼活用能力の高さ、そして戦陣の築き方を、城跡を観て体験したかった飯炊き爺さん、はるばる来た!

それにしても福島市からは遠い。400年前には無かった玄海原発も名護屋城に吸い寄せられたかのようにすぐそばにできた。(玄海原発史も知りたくなった。)

2026年5月31日は雲一つ無い快晴で、秀吉や武人たちの魂に大歓迎された気がした。天守台跡に立ち記念写真をmy長女に撮ってもらった。

腹が出ている。それはコツコツ筋肉を付けよう〜!と、飯や肉を喰らい、ストレッチを続けた成果だ。腹は出気味のまま、ビル10階程の高さを登るには体力が要る。で、後期高齢者マジかの者は喰って筋肉つけて体力を維持すしても、名護屋城跡だって息を切らずには登れない。ここまで博多の宿から4時間ほどかかった。

天守跡で四方を見まわし、堪能しきったあと、来た経路を戻らず、台所丸のある急な道を下ることにした。茶室跡もあり水手曲輪と看板地図にはあった。下ると、ほぼ水平の舗装道路が造られていて、名護屋城の裾を半周歩くことになった。

でも、「井戸」の跡も、御厨というのか「台所丸」の跡も視認でき、城全体の位置関係を理解できた。なるほど、戦国武将たちの地形活用術は、少し理解できたような気になる。それには、二本の自らの足を使い、城跡に歩き回り体感するしかない。写真はグーグルアースで手に入れてもこの感覚は得られない。

やはり人は自らの身体をつかい、いにしえの武将たちの思いに近づく方法しかないのだ、とも確認できた。

■ 名護屋城跡を上り下りし半周したあと

一旦、バス停傍の十字路まで戻った。そこか城跡受付入り口まで、再度、急階段を登り名護屋城博物館を目指した。

名古屋城博物館の屏風絵を見ると、天守は5層だ。高さは25〜30mほどと推定されるそうだ。天守跡から見まわしてもいい気分になるし、高揚する。天守はさらに30m高いのだから、さぞ見晴らしよく、戦う気分は充填されたことだろう。

異なる資料、名護屋文書には7階建とあるそうで、天守台の発掘調査では穴倉が発見されたのだそうだ。邪推すると、攻め込まれた時の秀吉の逃げ部屋はなかったので、隠し部屋を地下に設置したのかもしれない。攻めやすいが守りには欠点があったのだろう。

現地を歩いて地形を体験したり、資料を見たりして調べないとこのような内容は手に入らない。高齢者よ知的好奇心を高めつつ、自前の行動と活動こそが、豊かな時間を与えてくれるのだ・・・・なんていう気分になるのだった。

(コマーシャルベースによるSNSも含む現在の情報各種は、体にも脳にも悪いと再確認できる、名護屋城跡体験だった。)























バス停から海抜88mほどの天守跡にたつには40mほど登る(赤いライン、下りは青いライン)。登り下りして名護屋城跡を半周ほど歩くことで台所跡や井戸の位置も理解できた。歩いてみると大きさや地形は体感でき、より理解は進む。


■ 名護屋城博物館

名護屋城跡をほぼ半周したのち、再度階段を登ったのは、各種資料を得るためだ。名護屋城博物館に入館すると、想像を超えた充実ぶりだった。佐賀県は気合十分で、秀吉の功績に応えているようで、素晴らしい博物館資料の豊かさだった。

1階にはホールや会議室、研究室など。常設展示場は2階にあった。先ほど歩き体感した肥前名護屋城跡の大きなジオラマが常設展示してあり、体験済みの城跡への理解は一気に進む。

全体の構造物の大きさを感ずるのにはジオラマは具体的に迫る力を発揮すると思えた。

下図は名護屋城跡ジオラマの一部を撮影したものに天守などの位置を書き入れた。(2026・5・31撮影)



リーフレット『名護屋城と軍配置』(博物館令和元年2019年初版)には以下のようにある。

天正13年(1590)に秀吉が天下統一を果たすと、大陸への出兵準備を開始した。・・・・荘厳華麗な城が築かれ、その周囲には全国各地から集まった大名たちの陣屋(160家)が参陣し、城下町が形成され、名護屋城を中心に3kmの範囲にわたり、20万人を超える巨大都市が忽然と姿を現したという。

名護屋城の築城について、黒田家譜では縄張りを黒田考高(よしたか)が担当し、浅野長政を総奉行として、天正19(1591)年10月より「斧初」=普請を開始したとある。九州諸大名を動員し「割普請」による効率化と工期の短縮が図られた結果、わずか4〜5ヶ月後の翌年2月には完成したとされている。(それ以前から着手したとも考えられる銘瓦は出土している。)

普請への動員の代わりに、九州の諸大名は小田原合戦(天正18年)における軍役が免除されたと考えられる
とある。(以上は資料より)

加藤清正らは1597年3月佐賀を出てから9月にはオラインカまで侵攻しちゃっている!


■黄金の茶室

秀吉は、黄金を効果的に政治や外交の重要な場面で披露し、活用したそうだ。博物館の説明によると、名護屋城は当時、世界最大規模を誇り、「7年間のみ存在」した。人口20万人を超える、幻の都市である。

加えて、戦場の幻のごとき「黄金の茶室」を持ちこんだ。秀吉がつくらせた「黄金の茶室」は、天正13(1585)年に登場した。 京都の御所や大坂城などで使用され、天正20(1592)年、秀吉は名護屋城に着陣した際には、黄金の茶室も運ばせ、茶会や外国使節の応接に使用していた。それは日本文化発展の「はじまりの地」の一つでもあり、この地に集った先人たちの想いや、当時の息づかいを今に伝えてくれるものです・・・ともあった。

金銀の国内算出量が飛躍的に増大したこの時代、天下人・秀吉のもとには、莫大な富が集まったそうだ。

茶室の詳細は、博多の商人・神屋宗湛(かみやそうたん)が記した、名護屋城での茶会の記録「宗湛日記」によると、茶室は三畳で、柱や敷居・鴨居や壁、障子の骨・板もすべて金。障子には赤い紋紗(紋を織り出した薄い絹布)が貼られ、畳表は猩々緋(しょうじょうひ / 鮮やかな深紅色)だった、と書き残しているそうだ。


■ 佐藤の印象は「金尽くしは不気味な体験だ」

一瞬にして気持ち悪いという感情が立ち昇った。

秀吉は美術に関する仕事においても革命的存在で、世界における優れた日本文化の品々を残した。天才児と言われている(俺が書いてるだけかな)。

秀吉を観察記録していた神谷宗湛は、戦国社会のジャーナリストにして文化人・僧、そして豪商。さらに戦略家でもあり、利休と遜色のない政治能力を身につけていた人物だと思える。

写真には写りにくいが絹製の障子には、菊紋に次ぐ高貴の象徴を表す「太閤桐紋」が織り込まれて、かなりけばい印象をあたえる。利休が否定したのも当然だ。

今日の体験で名護屋城博物館は推しの場所の一つとなった。機会をつくり黄金の茶室も見学してみましょう。戦国末期に現れた武将たちの考え方の一端を体感できる場所なのです。

好き嫌いを越えこの地を漫遊することは、貴重な日本文化の意識の高さを一つ知ることにつながる。日本の文化を体感したいと思う者には必須の地の一つだと思った。
なぜなら、現在、地球上には帝国主義復活をさせようとしている政治権力者が多数現れてしまったからだ。

黄金仕上げは鏡効果も持つので、くらくらと幻想時空の入り口にもなっている、と佐藤は感じた。その中に入ると、茶と黄金、緋色の畳との対比によって、現代人なら大変気持ち悪くなる時空だとも思った。

でも、芸術家はここまで突き抜けないと、希代の芸術家とはいえないのも事実だ。








■名護屋城から現在の日本を考える

秀吉は日本の植民地化をたくらみ渡来したスペインなどの宣教師と、その背後にある帝国主義的な思惑を察知し、伴天連追放令を発した。それは、その後の彼らによる日本の植民地化政策を阻止し、日本人と日本の歴史を護ったとも言える。

加えて、自らが朝鮮半島、そして明国へと進出しようとした慶長・文禄の役についても「失敗して退却した」と断罪し記憶の底に捨てるのは、もったいない。かれらの失敗の背景と、その歴史的効果、私たちは十分に理解しているとも思えない。

海外へ打って出るための基地、名護屋城跡を訪ねることは、日本における政治力の現在を理解する行為にも繋がる。そんな感想も持ちながら、はるばる肥前名護屋城を目指し実現した一日はこれでお仕舞となった。

名護屋城跡に足を踏み入れたバス停から、今度は博多駅を目指す帰路についた。博多駅についたのは16時45分頃だった。

博多駅構内の雑踏に踏み込むと、秀吉の末期の世と、目の前の博多の世が、走馬灯のように繋がっていくように感じた。

人の営為とその動機は面白いもので、400年ほどかかり世相をこのようにも変えてしまうものなのだ。

いにいえの博多と現在の博多は思っていたより分厚く連なっていて、政治性と国際性を現在もその力を保っている
ように思えた。

(福岡県議会の様と影の実質的政治権力者元総理のの動きをみると同意されるkとだろう。


 博多城・大濠公園〜能古島  ペイペイドーム篇へ続く 
伴天連追放令:1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現在の福岡県福岡市東区)で発令した、キリスト教の布教を禁止し宣教師の国外退去を命じた法令。











名護屋城博物館刊行資料
・「肥前名護屋城屏風」の世界。
・大名たちの文禄・慶長の役
・名護屋城と配陣図 
など
を参照。


(参照)
名護屋城はなぜ破棄されたのかAIに聞いたら以下の内容をこたえた。
秀吉の死後にこの地域を治めた初代唐津藩主の寺沢広高によって壊された。
(理由と経緯)
�@1598年に豊臣秀吉が亡くなり、朝鮮出兵が中止されると名護屋城は使われなくなる。
�A
資材の移築:城の建物や天守、門などは、寺沢広高が建てた唐津城やほかの城へ移すために解体。←城をリサイクルしてた!
�B
一揆への対策:江戸時代に入り、残っていた石垣なども一揆の拠点にされることを防ぐために破壊されたと考えられる。

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