| 佐藤敏宏・博多漫遊 2026 (5月30〜6月4日) | 作成:佐藤敏宏 2026年7月 | |
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博多漫遊(粗日程)録 5月30日 福島から多博多へ 5月31日 赤坂から名護屋城へ 6月1日 福岡城・大濠公園〜能古島 ペイペイドーム 6月2日福岡城〜西公園〜港・食堂 6月3日板付遺跡 大宰府政庁 6月4日 博多から羽田空港 東京芸大 |
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■ 能古島(のこのしま)をめざす 能古島へ渡ろうとした動機から始める。一つは、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」に襲い来た蒙古兵の気分(視線)を体験するためだ。朝鮮半島や対馬まで行き、玄界灘を船で渡って戻るのがベストなのだろう。だが、時間も体力もない。そこで、姪浜(めいのはま)から能古島へ渡り、同じ市営のフェリーで引き返すのが最適だろう。そうすることで蒙古兵たちの視線をすこしだけ追体験できそうだ・・・と考えた。 能古島に渡ってみよう!と決め、博多漫遊の旅日程から6月1日と決めた。後に追記するけれど、檀一雄が晩年暮らした家屋敷は現存していそうだし、歌碑も建立されていると知っていた。蒙古兵の視線を追体験する前に、檀一雄の終焉の地を訪ねよう。晩年の檀一雄は、どのような土地に立ちどんな景色を眺め、どのような思いを重ねながら暮らし、生をまっとうしようとしたのだろうか、後期高齢者の俺には、何か参考になりそうな気がした。人生の最後にまっとうするための大地を、人はどのように選ぶのだろうか。今の時分の選択は、人として好ましいものなのだろうか。後期高齢者目前になって、そんなことを考える機会が多くなった。だから、先人が選ぶ終焉の大地を見ておきたかった。 福島市には阿武隈川が南から北へ流れくだり、そこには渡し船があった。小学生の頃だが、乗船し市街に入った経験がある。その記憶を思い出す機会にもなるだろう。海上を島に渡り、港に降り立つ。なんだか久しぶりの高揚感と海風に包まれる体験ができそうなのだ。海を船で渡ったのは20才のとき。酷い船酔いに襲われ、船底で寝ていた。あの東京都伊豆大島への往復だ。また30半ばには、新潟港から佐渡島の両津へ渡った。最近では東日本大震災後だが、塩釜港から定期船に乗り、寒風沢(さぶさわ)や朴島に渡った。これだけだから海上の乗船は数えるしかない。 700人ほどが暮らす小さな能古島から170万人が暮らす大都会・博多の現在のシルエットも眺めてみたかった。 ■6月1日、大濠公園を突き抜け姪浜駅へ この日は大濠公園そばの民泊を8時前に出た。福岡城跡内を西に進みながら城跡を突き抜け、大濠公園を20%ほど反時計まわりに歩いて明治通りに出る。通りにある地下鉄唐人町駅をめざしたのだ。 大濠公園から流れ出ていたはずの黒門川は、1988年までに暗渠化され、現在は黒門通りと呼ばれている。この通りから東へ那珂川までが、黒田如水、長政親子によって町割りされた福岡城下町で、多くの街路は現在もそのまま残っている。 博多湾岸は何度となく埋め立てることで市街は広がり、その先端に都市に必要なエネルギーや食料などのインフラ、兵站の基地も整然と配置されている。福岡国際空港を加えるまでもなくコンパクトにまとまり興味深い都市の一つだ。 ![]() 大濠公園から地下鉄・唐人町駅までは、唐津街道を少し歩きながら唐津と福岡の昔の往来を想像してみた。唐人町からは、地下鉄の終点であり、筑肥線の始まりでもある姪浜駅(めいのはま)へ向かった。地下鉄の車内は月曜日にも関わらず空いていた。 |
・檀 一雄(1912明治45年 - 1976 昭和51年)小説家、作詞家、料理家。 ![]() 能古島は福岡市西区にあり博多湾の島。2024年2月末の人口は621人。、船で10分程度で渡れる。 |
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■フェリーで10分、能古島へ 姪浜(ひめのはま)駅からバスに乗って15分ほどだろうか、9時過ぎに姪浜・旅客待合所に着いた。急いで乗船券を手に入れ、行列にならんだ。予想していたより乗船客も多く、外国人観光客も10名ほど並んでいた。 博多市営フェリーは姫浜から5時15分を始発とし、23時(休日注意)まで、日に23往復のフェリーが行き来している。大都会・博多の夜景を眺めつつ夜の博多湾海上を20分ほど楽しめるデートコースとしても推せる。ロマンチックな思いを誘うような気がする、一度試してみてから、彼女と共に夜風に当たり、月をめでる。都市の喧騒を簡単に離れるための、好ましい選択ではないだろうか。 乗船すると能古島までは約10分ほどで着いた。この日は月曜日にも関わらず親子ずれも多く乗船していた。傍に来た彼らに声を掛けた。 「どうして能古島に渡るんですか?」 母親は、「小学生の息子が学校で地域の歴史を学んでいて、能古島についても勉強したんです。家でその話をしてくれたので興味が湧いて、船に乗ってみました。」と即答した。 「東京で暮らしていましたが、転任になって福岡に来て、能古島について知らなかったんです。だから体験しにきました。」 親子三人で楽しそうに、乗船の理由を語ってくれた。 「福岡市は暮らしやすいですか」と、聴くと頷き微笑んだ。転勤生活は楽しい日々のようだ。 東京都にも海はあるが、市街域はだらだらと拡散しつづけ広すぎるし、行楽地も多数ある。竹芝桟橋から大島や三宅島に渡ろうと思う人は、多くはないだろう。 ■能古島へ上陸 ここちよいフェリーのエンジン音と潮風に吹かれながら、博多が描きだすシルエットを眺める。針の先のような福岡タワー、銀色に丸く光り輝く福岡ドームも見える。子供たちも大人もフェリーの上段に登り、フェリーが作る波しぶきを眺めながらワイワイしているのだ。口の動きは見えるが、会話の内容は潮風とエンジン音で聞こえない。 そうこうして10分、あっという間に能古島に着いた。 月曜日は休日なのだろう、20代の男2人は草履を履き、釣り竿を片手にぶら下げて、能古島の岸壁で釣りに来ていた。 今、福岡市の政治は三国志に例えられる政争でマスコミをにぎわせている。福岡市街を離れるとこの静かな絶景がある。政争は別の世界のできごとのように思える。 船に揺られ「10分」すると、のんびり岸壁で釣りもできる。こういう環境は、人間の暮らす場所としては最も好ましい一つではないだろうか。 島のおばあちゃんはフェリーに自転車を載せ、姫野浜の商店街を目指す。彼女は買い物用の足としてフェリーを活かしている。船の乗り降りを見ていたので、それが分かった。 老人になっても、フェリーで島をいつでも出られる。この気持ちの切り替え装置のようなものがあることは、日々の暮らしによい環境を作り出しているのだろう。 島に暮らすばあちゃんは、庭で採れた甘夏や枇杷なども船着き場にならべ販売していた。おばあちゃんから甘夏を4個780円で買い、その場で2個を娘と食べ、残りの2個は福岡市内の民泊で厚い皮をむき食べた。 枇杷は甘味がなく味がしなかった。この地も今年は日照不足で、果物から甘味を奪い取っていたのかもしれない。 |
![]() 快晴に歓迎され、姪浜出発前9時15分発 福岡市営・定期船「フラワーのこ」を背に。 ![]() ペイペイドーム、や福岡タワーのシルエットの連なりを見ているオモシロさを楽しめるひと時 |
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■檀一雄の碑へ フェリーを降り、港の南にあるヨットの係留所を眺めながら南西に少し歩く。能古うどん製造所のあるT字路を右に曲がる。東西の家並に挟まれた狭い坂道を、ウネウネしながら上る。檀さんの終の棲家へは迷わず着いた。 登りきる手前で、老男性に会ったので、「檀さんの歌碑はどこでしょうか。」と訪ねると、「ここだ」と、先に立って歩きながら案内してくれた。 歌碑に着くと、その老人はそばの大きな家に戻り、裏口を開けA4の紙を持って来た。 渡された紙面を見ると、「檀一雄 歌碑銘」とあり、碑の説明文が描かれていた。 その老男性は「私が長男です」と告げ、立ち去った。 彼、檀太郎さんは西側にある柵が設えてある畑に入りながら、大きな声で、「枇杷の実を突く烏用の防御網を補修しているんです」と言い、見上げた。両手を伸ばし見上げながら防御網の修復を熱心に作業をすすめている。 老眼なので網目はまったく見えない。太郎さんが脚立に登り、一人で何やら変な仕草をしているように見えるだけだった。 my長女は歌碑のあたりを歩き回ったり、写真を撮ったりしている。碑をなでてみたり、しばらく佇んでいた。 歌碑には一首(短歌)、彫り込んであった。その詩歌の内容を記しておこう。 「つくづくと 櫨の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の有りと云えなく」 「じつと見ていると、櫨(はぜ)の葉が赤く染まって地面は照り映えている。けれど愛しい妻はここにいるとは言えない・・・」。そういう詩なのだろう・・わからんけど。 櫨(ハゼ)にはウルシオールが含まれ、触れるとかゆみや炎症を起こす。俺は3・11津波被災地支援の除草作業で、うっかり触れてしまい、お腹の皮まで酷くかぶれ、高温をだして3日ほどふらふらしていたことがある。皮膚科に行ったら笑われた。 漆の葉は秋深まると真っ赤になり、我屋の近所の野山では紅葉より目立つ。 伝統文化日本という者は多いように思うけれど、パートナーの死に際し、和歌を作り謡う男性日本人には会ったことがない。俺・飯炊き爺さんは俳句を時々つくる。 いろいろな思いに浸りながら、登り来た坂道をmy長女と下った。 帰りのフェリーが発つ11時までには間があった。船着き場の屋上に登り、波音を聴きながら博多方面のシルエlットを眺めつづけた。 フェリーに乗ると、すぐ客室には入らず、最上部に登り潮風に吹かれることにした。 姪浜の船着場にはきっかり10分で着いた。11時10分だけれど能古島に渡ろうとする乗客が40人ほど並んでいた。 |
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■福岡ドームと王貞治記念館を体験する。 パンとサーカスがあれば人は元気に日々暮らし続けられる。博多における、その事例はぺいぺいドームと「王貞治ベースボール・ミュージアム」のようだ。 能古島から戻り午後は、それらを体験しにバスと徒歩で行動してみた。 ドーム球場は浜辺にあるのでバス停からは1kmほど歩いた。ソフトバンク・ホークスは絶好調のようで、連戦連勝。交流戦では広島カープの赤いユニフォームを身にまとったファンも押しかけ、球場は熱気に溢れていたようだ。 その熱は博多駅構内にももたらされ、赤い軍団が立ち飲み屋で熱弁をふるい、口角泡をとばすように論戦わせている。そばと行き来していた通行人の俺でも彼らの熱を感じるには十分だった。 ベースボール・ミュージアムには東アジアの家族が多く来場していた。とくに小学生が実践体験できるスペースもあり、人気で行列ができていた。家族同士で声の掛け合い、父親は熱心に打撃フォームや守備の動きを教えている。互いの家族愛を思うには十分だった。 ぺいぺいドームは、ここが国際交流都市の見本というほどに面目躍如。 玉に傷なのは、駅からやや遠くて不便。世界で高収益を上げ続けているソフトバンク率いる孫さんなら、地下鉄支線のドーム球場駅を作ってしまうのではないだろうか・・。 パンとサーカスはなくとも、自然とともに生きる能古島が目の前に見える。 大都会暮らしに疲れを覚えたら、能古島に渡りノンびりひと時を過ごせばよい。バランスよく大都会と天然の島がコンパクトに存在する博多は今後も人気となり続け、人口増はとまらないかもしれない。 止るとすればマンションなどの販売価格が高騰しすぎて、人の手の届く物件が消え、投資対象のそれに変わったときだろう。 そんな風に博多の次の世を、飯炊き爺さんは想うのでした。(月曜日なのでナイター観戦はかなわなかった)。 (注)割れ残りの警固断層があるので旅の前に福岡市の地震対策などを見てから、でかけると災害に遭っても被害を少なくしたり防止できるように思う。 福岡城〜西公園〜港・食堂 〜福岡市博物館 篇へ続く |
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後日 福島に戻り檀一雄さんの著作を読み始めた 檀一男さんは不羈奔放(ふきほんぽう)な行動に加え、世界のどこへ出かけても自ら調理して現地の食材を手に入れ喰ってしまう!なんというか気持ちがいいし、人本来の動物としては基本を護生き方はいい。俺・飯炊き爺さんの鑑でもあると感じる。彼と違う点は食材費に金を掛けること。俺は安い食材を探す、その違いだ。檀は珍しい美味しい食材を集めて調理し仲間にも振舞う、その点も重ねて飯を炊き爺さんが30代から家で開いていた「建築あそび」と似ていて、ホストの鑑のような男だ。 檀を「建築あそび」をひらいてから40年も経って知るとは想わなかった。人生はやってみなければ分からないが檀さんとは縁ができた気がする。では檀さんの著書を読んでみよう 『火宅の人』『リツ子・その愛』『リツ子・その死』を読みだす。火宅の人は読み終えた。 飯炊き爺さんの鑑である檀一雄さん文に挿絵をたのまれた横尾忠則さんは、「檀さんは料理研究家だと思っていた。」と書いている。(火宅の人の栞「真の芸術家の肖像」に書いてる) 県立図書館から上記三冊を借りた。子供の病気対応はしない父親、奥さんの人間分析、20歳ほど違う愛人との関係などオモシロおかしく書いてあり、読み始めると止まらなず一気に読んでしまった。檀さんの終の棲家の在る能古島での体験記は進まなかった。 『火宅の人』一部に、昭和35年1960年の檀さんが買い物手提げを両手に持つ、詰め込んだ野菜などもみえる。檀さんの買い出しする姿はいいね。 俺もスーパーに毎日行っている。檀さんのような明るい笑顔を身に付けて買い物している老人男性は皆無。女性も同様。日々スーパーの老人たちの顔を見ていると、時が進むほど身の回りの人間関係が貧弱になって来ている証のようで2026年、身の回りには活気が見えない。 檀一雄全集におさめられている『火宅の人』についている写真一枚はそれを教えてくれる。日々笑顔で暮らす。そうして人間関係をつくり続け、豊かにすることに無意識に努めていたようだ。人に会ったら明るい笑顔で対話するんだと教える写真だ。 合理性を追求しつくし儲けようとする世に生きているのだから、失われ続ける本来の人間性回復のためには、笑顔で対話とその練習は要る。それのみのに努める老後の日々でもいいように思う。 |
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