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福島第一原子力発電所の事故によって起きている様々な問題を勉強し始めました 勉強過程の記録をつくってみますご活用ください |
震災復興における高校教育の現状と課題 01 02 03 04 05 06 |
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02 3番目ですが、14:29 学校の再開までということで。 主に避難所になった体育館から、避難された方々が別な場所に移られて学校から避難者が居なくなるという状況が4月上旬まで、ということです。 福島東高校は市内の県立高校では一番最後に避難所を開けたようです。私の記憶では3月14日の夕方だったと思うんですが。「避難所を開設しますよ」という話しが朝あった訳では無くって。突然夕方になって、電話が入ったりで。校長先生の処に電話が入って。 「もう東校に向かっているので、今すぐ体育館を解放して対応してください」というかたちだったようです。当然ながら「避難者を受け入れない」と言っていた訳では無いんですが。受験の事もありまして、「なるべくならば、入れたくない」という気持ちも校長先生にはあったのかも知れませんが。一番最後になったとうことです。 市内ではたぶん橘高校が一番早かったのかなーと。おそらく市の職員がすぐ入って。受け入れの時はたぶん先生方も出たと想うのですが。最初の日は先生方も出たと想うのですが。後は普通に職員室のほうにおられて。「避難所の方は行政の方にお任せして、学校の体育館を貸すみたいなかたちで避難所の運営がなされた」と聞いてます。 15:57東高校は一番遅かったということもあるんでしょうが、行政の方はなかなか来ませんで。 後々 色んな県同士の提携で我々の所に滋賀県の職員の方が来られました。で2泊3日で大型バスで乗り付けて、市内を回って各避難所に職員を降ろし、帰る職員を乗せて。「滋賀県は偉いなー」と思ったのは「滋賀県に避難しませんか?仕事もお世話しますよ」ということで、福島から滋賀県に移住される方も一緒にそのバスに乗せてですね。連れて帰られる、ということがあって。「ありがたいなー」と思ったり。 滋賀県の方色々お話してですね、避難所で一番楽しかったのは、派遣されて来た滋賀県職員のかたと色々近江の歴史の事とか、琵琶湖の自然の事とか、そういうのをお話するのが楽しくって。人が代わるとまた話しをやり直して。それが自分の気晴らしになっていたんですが。 避難所が始まったと。これも学校によってまちまちでした。 東高は在校生は登校禁止でしたので、休校ということでしたのでしたから。学校に生徒が出て来ると「お前帰れ」と。校地に入って来ると出て行けと追い出しました。「避難所に手伝いに来るなんてとんでもない」ということですね。だけど人手が足りないので。卒業したばっかりの3月1日に卒業して3月11日以降の14日に避難所が出来た、その3月1日に卒業した、特に地元に残る福島大学とかに入るような卒業生が。メールでやりとりをして、何十人も来られても対応でいないので。10何人かに、制限したかと思うのですが。その十数名の卒業したばっかりの卒業生が来てくれて、物を運んだり。とくに小さな子ども達の遊び相手になってくれて。お兄ちゃんお姉ちゃんが背中に背負ったりですね。だっこしたりしながら子ども達のお世話をしてくれました。 それが避難所の中で子ども達にとっては一番の救いだったのかなーというふうに思います。 あとは東高の家庭科の先生は新学期授業が始まる準備もあって、調理室を貸してくださらなかったので。医療生協の渡利病院から調理の方が来られて、調理室を使うときに、間に入って大変な目に遭ったんですが。学校によっては先生方と批難された方が学校の調理室を使って、お母さん達と一緒に炊き出しをするという学校もあったようですし。まったくそういうことをしないという学校もありました。 本当にマニュアルが無いもんですから。結局は学校のそれぞれの状況と判断で温かい食べ物が出る学校もあれば、やまほど食パンが届いて、付けるものが何も無いみたいな、そういう学校もあったと。いうふうに聞いています。 19:11 私は「布団が足りない」となると、家で捨てるような布団があったもんですから、車で。まだガソリンがあったので取りに帰って6,7枚布団を持って来るとかですね。ガソリンが無くなってからは、家にジャムがあったら取ってくる。自転車で。笹谷なんですが。浜田町から笹谷まで、朝自転車で来て、ジャム取りに戻ってまた運んで来て、夕方帰ると。放射線量が高い時期だったのですが、行ったり来たりしてました。 14日に避難者が入って来て。まずはトイレですよね。もちろん寒かったので。ありったけのストーブとか運んできて。日頃けちる灯油をですね、有るだけ出して。暖かくしたわけです。それでも板の間の体育館で。背広一つで新聞片手に持って、背広だけで来た人も居ました。新聞紙で丸まって寝ておられましたが。避難所を幾つか回って来られた方は布団とかですね、、電気ポットとか。色んな食料とか、お持ちのかたも居たんですが。最後にそのまま来られた方は何にも持っていませんでした。 同じ体育館で一夜を共にする人達で、持っている物がこんなにも違うのか!と。すぐ温かい物も食べられる人と。何も無くって出された物しか無い人とかですね。大きな違いだったかなーと思います。 今勤めております北高校は、実は飯坂温泉が近くって、温泉をペットボトルに入れて運んできて。それを湯たんぽ代わりにするとかですね。温泉のお風呂まで旅館がバスを出し連れて行って、温泉に入ってまた送って来るとか。学校の周りの町内会、の人が学校の調理室など使って料理を温かいの作ってくださって振る舞われた。地域が入って来て、行政ではなくって住民の方が中心になって避難所の運営をされていたと聞いています。 21:20 ただ東高も公式には明らかにされていなかったのですが展示する前になって教えてもらったんですが。校長室の裏っ側の生徒が通らないクーラーの室外機が在って人が通れない所があるんですが、そこの側溝の落ち葉が貯まった所は「80μSv/hぐらいあった」と言ってました。それから飯坂は遠いので線量低いのか?というと逆に高くってですね。福島北高校の体育館から雨水が落ちて、雨水が貯まるんですね、大きな排水の流れて行くところの四角い所(枡)は「120μSv/hあった」と言います。 学校によってもまちまですね。高い線量で北高校なんかは部活を行っていた野球部の生徒なんかは手伝いをしてたそうですので、高い線量の所で子どもが活動するっていうこともあったようです。北高の方はその線量が出ていますけども。、東高校はたぶん秘密にしてあると思います。 実は2年目になってからですね色んなかたちで避難所のことが、映画なんかも作られているでしょうし。実は漫画にもなっています。そこに2つ漫画を挙げてありますが。上の方の漫画は我々の組合の方にも漫画の編集者、講談社が東校の1期生なんだそうで。その方が組合を頼って来られて。色々お話をしたり。 安達高校なんかにも取材に入ったりしてですね。浪江から避難して来た、生徒さんなんかにも話しを聞いたりして漫画の素材が出来ているようです。『デイジー311女子校生たちの選択』という連載が行われています。3月13ですから出ていると想うのですが。講談社のコミックで1っ巻が出ていると思います。単行本に、色々安達高校で聞いた話とかもですね、具体的なことが巻末当たりに載っていると思います。 それから福島北高校のことは野崎ふみこっていう漫画家の方が『ありがとう』という漫画を描かれたそうです。シリーズの連載ものの、いくつかの例です。作家が描く一つで。「ありがとう」という題で昨年の12月の秋田書店の漫画に載りました。 そういうことで、我々の手元に出ているということであります。 実は私はこの4月1日ですね、震災の翌月の4月1日に移動するという内示を震災の2日ぐらい前に。丁度入試の間に来まして。「やったーやっと転勤できるなー」と。思って喜んでいたんですが。震災が起こったもんですから。「人事異動がないようだ」ということで「どうなっちゃうんだろうな?」と「またもう一年ここで辛抱するのかなー」と思って。8月1日だったんですが、子ども達との絆が強い先生と子ども達の関係が密接なので、置いていけないという状況もあったかと思います。 それから高校の場合いはもうちょっと大人ですのでドライですから。「担任が残っていようが転勤してもあまり関係がなかったのかなー」と思う部分もあるのですが。実際被災したサテライト校の学校や浜通りの学校では、後で出て参りまが入学の意思確認とかですね、家庭状況の調査とか、学校のことをよく知っている先生がいないと対応できない状況があったなーと。人事異動が延期されて、1年延ばされなかったのは私はよかったんですが。 実は年度途中で8月1日というのも複雑でありまして。途中まで仕事をしていて、その仕事もまともにやっちゃうと後大変ですので。私は実は異動する予定だったのもですから私の後任が人事異動で配置されていまして。私の後が新採用なんですね。新採用っていのは12時間しか授業を持たせないので。それに時間講師が通常付くのですが。8時間ぐらい時間講師がつくんですね。持ち時間が多いもんですから常勤が付いたんです。私が出て。日本史なんですが、私が出ていかないのに、日本史の正規採用の初任者と常勤講師の日本史が来たんですね。私が居るのに2人来た。 26:00 同じ科目に。 私の持つ授業が無いんです。なのでA科目っていう、近現代史の世界史のA科目をみんなからちょっとずつもらってですね、8時間ばつかり授業やらせてもらって。同じ給料をもらいながら授業は8時間しかない、大変申し訳ない。他の先生忙しいんですが。私だけ暇で何か居心地悪かったんですけれども。 生徒会顧問なんかやりながらですね。次の人に引き継いで準備をして8月を迎えたと。移った先では生徒会顧問というかたちで、学校代わって先生が代わってもそういう意味ではすんなりと入れた。26:39感じがします。 二重丸の処に私の気持ちを書いたですが。実は私福島県に出す健康調査を恥ずかしながら出しておりませんで。普通手帳に真っ黒くなるぐらい色んな事書いておく人間なんですが。この3月だけは真っ白け!なんですね。記録するっていう意識が無かった。夜勤を何日かやりましたので、東高の事務室にいって「私いつ夜勤しましたか?」って聞くと、その近辺の事は思い出せるかと思うのですが。自分の手元にその資料が、そういう記録が残ってないものですから、実は3月まるまる4月の頭ぐらいまで何をしていたか?って。ことがなにか断片的で思い出せなくってですね。 時間ばかり経ってしまって。いまさらなんですけれども。思い出せないままいます。本当に気持ちが張っていて。トイレの水くみでプールからですねポリタンクで。「肩が抜けるか」と思うぐらい何回も重いポリタンクを両脇に抱えて、走るように行ったり来たりしてましたから、そういう状況でも全く疲れませんでした。 本当に夜まだ3月でした、寒くってですね。よく眠れないような所で体育館で寝泊まりをして。「被災者の方に何かやってあげなくちゃなー」と思って。「気持ちが張っていた」という感じはました。28:07 ある意味一番仕合わせっていうか、何も考えないで、「人事異動どうなるかなー」って不安はあったんですが。「避難所で一所懸命やって忘れてしまうう」と。そういうこともあったかも知れません。 4番目ですが。で1年目ですね。学校が始まりました。 ということでどうだったのか?と。被災状況の処でも申し上げましたが「学校のは始まりがずいぶんずれた」ということです。ですから、すぐ始まった学校と1ヶ月半遅れた学校と。正直「ここで始まっちゃっていいのかなー」と。実は東校の場合は4月11日にが入学式で8日が始業式だったと思うのですが。8日の時はまだ、避難者の方がおられましたから。生徒が登校して、教室に入れて放送で始業式をやりました。それで充分だったんですが。 入学式は各教室でするわけにはいきませんので、体育館でというふうになると、8日と11日の間に体育館から退去していただかないといけないと。一番遅く開かれた避難所だということもあるのかも知れませんが。その次どこにいくのかっていう対応が遅かったようで。ようやく4月の頭になってギリギリになってからですね。 校長の方は「学校で対応することではないので、県の方で職員が来て説明して、退去ください」っていうことで県の職員の人がやっていましたが。 どうも 自治会長さんにうかがった処「舘岩村に行ってください」って言う。その方々は南相馬市の萱浜(かいはま)っていう所から、あとは同じ南相馬市の小高の方ですね。昔の原町の萱浜と小高町の当たりの方が中心の。避難されてきたのですが。ほとんど雪降らない所に三月だったらまだ壁のような雪が、雪の壁が残って居る舘岩村に行けと 30:12 その03へ |
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