鈴木達治郎先生 1990年代を語る 20240726 | 作成:佐藤敏宏 2024年7月 | |
■サセックス大学から論文 佐藤:お忙しいところ90年代を語る、よろしくお願いします。 鈴木:体調いかがですか。 ・・・7月はじめから佐藤が入院、その原因を語っている・・・・ 鈴木:今回は90年代語りでしたね。 佐藤:はい。80年代末、サセックス大学にいったらショーンコネリーに会ったという話でした。 鈴木:それは95年。90年代はサセックス大学のプロジェクトに参加して、レポートを書いたのが90年で、論文出たのが90年だったかな。 内容は「ヨーロッパの余剰プルトニュウム問題」を書いたんです。ウイリアム・ウオーカーさんスコットランド人と、フランク・バーカーさんオランダ人。ウイリアムさんは、自分はスコティッシュだと誇りをもっておっしゃっていた。その二人と共著でアプローチング・プルトニューム・サープラス。余剰プルトニュウムが迫ってくる、とういう論文を書きました。(論文の表紙を見る) M商事に、その日に翻訳されて配られちゃって、批判されたんです。 それが切掛けで、朝日新聞の論壇に書いたら、と朝日新聞の人に言われまして。論文が誤解を招いているかも知れないので、書きました。1990年8月2日5頁に掲載された「プルトニュウム利用に新視点を─問題克服に日本の指導的役割期待」という見出しです。 90年頃だと思います、今でいえばオピニオン。当時は論壇と言われてました。 佐藤:その記事で、鈴木達治郎先生は日本のマスメディア初登場ですね。 |
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鈴木:はい。その論文の反響で大変だった。M商事に日本語に翻訳されて回った。日本の原子力政策を批判した内容になっていたのですが、でも「止めろ」、とは言ってないんです。「見直せ」、と言ってるだけ。「再検討したらどうですか」なんです。六ヶ所再処理工場の建設が始まる直前かな・・・。イギリスの同じ再処理工場内容で、イギリスではソープっていう、運転開始直前だったんです。イギリスは運転開始するかどうか、議論をちゃんと議会でやっていたんです。議会の議論に貢献するために3人で論文を書いたんです。スコットランド人のウイリアム・オカーさんもイギリスにいたので、イギリスとフランス政府から呼れまして。「君たちなんという論文を書いたんだ」、と。 佐藤:世界中、原発推進系は論法、科学者への圧の掛けかた一緒ですね。 鈴木:一緒です。特にフランスからは厳しい批判があったので、反論を書いた。 佐藤:世界中が高速増殖炉、もんじゅのような発電所を作ろうとしていたんですか。 鈴木:もんじゅですね。フランスも当時スーパーフェニックスという実証炉は諦めて、イギリスもPFRというが、もんじゅと同じ原子炉なんです。それも中止していたんです。だけど・・・政策だったので、プルトニュウムを再処理を続けるのはフランスもイギリスも継続していたんです。それに対して我々が論文で警告をしたので、政府から反対されるんです。 佐藤:再処理してモックス燃料で使う、という文脈で反対、批判されたんですか。 鈴木:そうです、日本とまったく一緒です。 ■プルトニューム問題の研究者へ 佐藤:92年プルトニューム輸送を直前に、政府・電力業界から批判を受ける。論文はサセックス大学の先生、ウィリアムオーカー先生と共著だ。前回の話ではウイリアムさんをMITの先生から教えていただいて30分会ったことで、その後の人生が決まったということでした。 鈴木:そうです。30分話したのが、プルトニュウムに関する研究プロジェクトにはいった切掛です。人生は出会いが大事だなと思うんです。 92年にフランスから日本へ1トンのプルトニュウムを輸送する。85年には晴新丸で輸送しましたが250kg輸送だったんです。92年はあかつき丸で輸送でした。1トンのプルトニュウムを世界では誰も運んだことがなかったんで、大論争になりました。 プルトニュウムをフランスから海上輸送することになったので、フランスの港を出てアフリカ大陸をぐるっと回って、インド洋を通って日本に来るルートでした。アフリカ大陸の国々、インド洋や南太平洋諸の国から「事故があったらどうするんだ」、と反対があったんです。最初のプルトニュウム輸送、85年のときはアメリカの第七艦隊が護衛したんです。 1988年の原子力協定の改定を受け、アメリカは護衛しない。日本で護衛しなさい、と言われても自衛隊は護衛できない、今なら護衛できるかも知れないけど。当時自衛隊は日本の領海域をでることは許されなかった。 それで海上保安庁がしきしまという専用の護衛船を、350億ぐらいかけて造った。─しきしまは2024年4月解役、後継は「あきつしま」です─で、しきしまが護衛するんです。第七艦隊護衛と比べればおもちゃぐらいかもしれませんね。それでも日本が努力をしたので、アメリカはOKしたんです。実質的には第七艦隊が待機していて何かあったらアメリカは助けに行く、そういう状況で輸送されました。 なんと!グリンピースが毎日ライブで中継した。今なら珍しくない。当時はインターネットが普及してない時期なので、映像で撮って流すんです。みんなこぞって、「今、あかつき丸はルーブル港をでました・・」、「今日はインド洋・・」、本当は秘密なんです。そういうニュース番組を見てる。それが、かえってよかった、と私は思います。実況され続けているので、そう簡単に海賊は襲えない。 でもこれが大批判が起きた。日本のプルトニュウムはなぜ必要なんだ、何に使うんだ、と国際的な批判をあびた。で、その1トンのプルトニュウムは、当時の動燃事業団、もんじゅのための燃料だったんです。動燃事業団の菊池三郎さん、企画部長。80年代語りで菊池さんと3人でヨーロッパへ行った話をしました。 批判を浴びたので、菊池三郎さんがMITに訪ねてこられ、なんで、日本はこんなに国際批判を受けたのか、と調査依頼にきました。「日本政府はなにも国際的なルールを破ったわけではない、すべて国際法を満たしているし、環境も守っている。安全基準も満たしている、なんの悪いこともしていないのに、なんでこんなに批判されるんだ」、そのことに対する調査をしてほしいと、依頼に来たんです。 そこでMITの先生がたに相談しました。どうでしょうか、これを調査してもいいでしょうか・・、と。私はその時、エネルギー環境政策(究所)センターにいたんです。このプロジェクトを受けるんだったら、センター・フォー・インターナショナル・スタディーズ(Center for International Studies: CIS)という国際問題研究所、どちらかというと国際関係論の研究所、そっちに移籍しなさい、と言われた。 例の原子力安全研究をやめて、日本のプルトニュウム問題の研究の主査みたいな形になったんです、1993年ですね。 佐藤:年譜では92年から95年まで、ロシアの解体プルトニュウム・ワークショップに呼ばれたとあります。二つ同時に研究されていたんですね。MITでは、鈴木先生はプルトニュウム研究の主査になった、と。 |
六ケ所村(日本原燃HPより) 再処の必要性 エネルギー資源に乏しい日本が貴重なウラン資源をより有効に利用するため、原子力発電の使用済み燃料からウランとプルトニュウムを原子力燃料として再利用すれば、エネルギーをより安定し、確保することができる 再処理を行うと、使用済み燃料を直接処分する場合(ワンスルー)と比較して、放射性廃棄物・・1/2以下に減らすことができるため、放射性廃棄物の処分事業に関する負担が軽減される サセックス大学での論文表紙拡大する あかつき丸 絵:webより 護衛艦しきしま webより |
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朝日新聞1992年2月19日 |
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■1992年ごろ、MIT夏休みWS、ロシアの解体プルトニュウムWS 鈴木:ロシア、その話もしましょう。すごいインパクトがあったんですが、MITでの研究の話は後回しにすることにします。92年ぐらいにアメリカのフランク・フォン・ヒッペル先生、ここから何回もでてきます、プリンストン大学の先生、すごい人です。 マンハッタン計画の滞在中に、日本に原爆を落とさないほうがいいんじゃないか・・・、とフランクレポートを書いた。そのときのジェームズ・フランク博士のお孫さんがフランク・フォン・ヒッペル先生でした。お父さんの名前は覚えてないが、父さんも物理学者でMITの先生をやっていた。フランク・フォンヒッペル先生は有名な先生で、原子力問題の大権威なんです。 彼が私のプルトニュウムに関する論文を読んで、たしかMITが刊行している科学雑誌があって、『テクノロジー・レビュー』─雑誌Technology Review掲載の論文を読む─と言った。そこに私が、日本のプルトニュウム政策について批判的な論文を書いたんです。それをフランク・フォンヒッペルが見ていて、お前ちょっと来い、という話になった。 MITでサマー・シンポジュームを開くので、理科系の学生に軍縮問題を専攻するような指導をする。そういう内容で夏休みのセミナーが開かれたんです。2週間ぐらいだったかな。そこにフランク・フォンヒッペルが来るというので、私も参加させていただきました。で、フランク・フォンヒッペル先生に初めて会いました。 そこで先生から、「実は、ロシアで解体プルトニュウムの処分について、ワークショップをやるんだけど、お前来ないか」、と言われた。「じゃ行きます」、と応えたら、「日本のプルトニュウム政策についてしゃべれ」、と言われた。そういう切掛があって、ロシアに行ったんです。初めてのロシア行きでした。当時、ロシアはまったく混乱の時代で、貧しい。 ■ ロシアへ第一歩 佐藤:91年ソ連邦が崩壊したばかりですね、ソビエトのお金も紙屑でしたでしょうからね。 鈴木:ひどかったです。行っても、町を勝手に歩いちゃいけない、と言われて。赤の広場を歩いていると、ロシアの市民や警察がみんな来るんだ。何かと思ったら、「ドルほしい、ドルほしい・・」、と集まって来る。 佐藤:物乞いですか? 鈴木:物乞いという感じの人じゃなっく、普通の人ですよ。普通の人がお金が無いので、外国人を見ると、みんな・・・ドルほしいほしい、と寄ってくる。 佐藤:何と交換するんですか。 鈴木:そうです。闇市場があるんです。闇で食べ物とか洋服とか必需品を買っていたので、ドルが欲しいほしい、と言ってくる。それがね、1ドルでも十分感謝されるんですよ!ホテルは高級ホテルが開いているんです。我々はそこには泊まらなかったんです。高級ホテルに行くと、みな飲み食いしてる。彼らはどこの人だか分からないんだけど、ロシアの金持なんだよね。それ以外の人たちは皆貧しく、1ドルほしい、と言ってくる。ボディーガードとか兵とかもいる。近づいちゃいけない、とは言われてたんだけどね。アメリカ人とかイギリス人とかと一緒にたくさん行ったから、目立った。でもロシア人たちは平気で話しかけてくる。お前大丈夫か、と。カチッとしている人が向こうからやって来て、ドルよこせ、と。ははははは。 で、ごはんも酷かったですよ。宿は昔のソ連軍の兵士の宿舎に泊まらせられた。酷いもんでした。シャワーも無い、トイレは酷い、汚い。季節は冬ですよ、そんなには寒くなかったですけど、毛布とベットはある。だけどシャワーは付いてなかった、ような気がする。あってもお湯はたいして出なかった。ご飯も酷いの、今日は御馳走だ、というから何かと思ったら、ポテトと薄っぺらい固い肉が出てきてね。朝もミルクとパンだけ、そんな生活状況だったんです。 佐藤:ワークショップどころではなく、食い物探しに行く必要がありそうでしたね。 鈴木:それがね、不思議なんだけどワークショップに行ったら、太っている人ばっかしなの? 佐藤:何かたらふく食ってそうだね。 鈴木:何かおかしいんだよ。で、チェルノブイリ原発にも初めて行った。 佐藤:現地でのワークショップの内容ですけど、ミサイルからプルトニウムを取り出すんですか。 鈴木:そうです。解体した核兵器から回収したプルトニウムをどうするか、というワークショップです。それを燃やす、MOX燃料にして原子炉で使うというアイディアと、そのままゴミとして捨てる、という2つのアイディアがあった。 そこでアメリカとロシアがワークショップを開いた。アメリカはゴミとして捨てたいわけです。 佐藤:ソビエト連邦が崩壊してしまって、その後プルトニウムはどこの誰が管理していたんですか。 鈴木:グットクエスチョン。それで管理が危なかったのでアメリカは政府がお金を出して、共同脅威削減プログラムです。コーポレート・スレット・リダクション(Corporate Threat Reduction: CTR)、というプログラムを作った。それでアメリカの専門家がロシアに行って、管理の支援もした。 佐藤:米国はお金もだしたんですね。 鈴木;そうなんです。そこがアメリカの議員さんでサムナンとルーガーさん。有名なナン・ルーガー法を議員さんが提案をし、そのお金で旧ソ連を助けた。 そのプルトニウムの処分ワークショップ、その予算のなかの一つでした。 佐藤:その議員さんは核兵器について精通していたかたでしたか。 ■ソ連時代の秘密都市 鈴木:外交の専門家です。 佐藤:ソ連のプルトニウムを放置し世界に拡散したら大変になると。 鈴木:本当に大変なことになる。有名な話なんです、専門家がいって。旧ソ連は秘密都市で核兵器を製造してたので、まったく防護ないんです。そこに住んでいる人たちは核兵器づくりで働いている人たちなので、みんな仲間内です。秘密都市なので外から来る人がいない。 行ってみたら、ジョークなんだけど、ポテトのほうがちゃんと護られている。ポテトを盗む人はいるけど、核兵器を盗む人はいない(笑)。で、核物質どのぐらいの量があるのか、核弾頭の数もどれぐらいあるのかはっきり分からなかった。盗まれたというニュースもありましたが、ロシアは否定している。 佐藤:元・ソ連兵が現金欲しさに持ち去ってしまう、そういうこともあるんでしょうか。 鈴木:それもあります。高濃縮ウランを盗んでどこかに持って行ったと。実はそのころにオーム真理教もロシアにやって来てウランを買おうとしてた(オウム真理教の兵器)というニュースがあるぐらいです。 佐藤:あの新宗教団はソ連製の軍事ヘリを購入し持ってましたね。兵器を流す闇市場があったんですね。 鈴木:間違いなくあった。その頃は非常に混乱状態でした。1ドル欲しいと言っているぐらいですから、ウランを持っていったら高く売れますからね。そういう時代です。 佐藤:オウム真理教団に、プルトニウム渡らなくってよかったですね。日本国内に撒かれちゃう可能性あったな、危ない。 鈴木:危なかった。92年ぐらいのソ連プルトニウム・ワークショップでフランク・フォン・ヒッペル先生と仲良くなって。その時、日本から参加していたのが高木仁三郎さんです。高木仁三郎さんとはその時、初めて会った。彼は私の論文をちょっと知っていたみたいです。脱原発の旗手だから、私のほうが彼をよく知っていた。 |
フランク・フォン・ヒッペル先生webより 恩師の鈴木篤之先生と初めて共著で書いた英語論文、拡大して読む 1990年 エネルギーフォーラム拡大して読む 1991年、科学朝日寄稿文拡大して読む Tchnology Review 1991を拡大して読む |
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佐藤:プルトニュウム政策の研究結果が高木さんと同じだったと、1980年代語りででました。 鈴木:85年の頃ね。ロシアで高木仁三郎さんと初めてお会いして、いろいろ個人で話する分には抵抗なく話し合いができました。それにフランク・フォン・ヒッペル先生が「高木は良いやつだ、鈴木は良いやつだ」とお互いを紹介してくれまして、お互いは知り合いになった。チェルノブイリにも夜行列車で一緒に行ったんです。 面白いエピソードなんだけど。夜行列車に乗って行くんです。みんな特別扱いだから、日本でいえば一等車で寝ていくんです。夜寝るときにロシャンティー、ラムが入ったお茶が出るんです。飲んだらウォッカが入っている!ひと口のんだらヤバイと思った。なんでオゥッカ入れるんだと聞いたら、これが美味しんだ、体が温まるよ、と言う。ウォッカ抜きで作ってと頼んでも作ってくれない。ラムが入っているから甘いんだけど。ウィスキー飲んでいる人は一杯いたんだけど、ウォッカだからね。 ■ロシアの高濃縮ウランの処分 佐藤:アメリカ政府は知恵もお金もだして、旧ソ連のプルトニュウムを国際的に管理しようとしたんですか。 鈴木:話せば長いんです、まず90%以上の高濃縮ウランもある。これは実は最近、つい数日前に亡くなった私の恩師、トーマス・ネフさん(右欄)の話は1980年代語りでしました。 私のマスター。彼が高濃縮ウランを薄め原子力発電所の燃料にしたらいい、という提案をニューヨークタイムズに出した。それが切掛けで、アメリカのペンタゴンが動いた。ロシアと話をして実際に高濃縮ウランを低濃縮ウランに変えて、市場で売ってそのお金でもうける。そういうビジネスプランを作ったんです。メガトンツーメガワットという、素晴らしい提案。それを作ったのが私の恩師のトーマスネフさんです。数日前に亡くなったんです。81歳だったから私よりも8歳上だったと分かった。 |
MIT トーマス・ネフ先生 |
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その提案で高濃縮ウランはどんどん減らすことができたんです。500トンぐらいアメリカはロシアの高濃縮ウランを買っているんです。プルトニュウムのほうは、ちょっと話が違って、薄めることはできない。ロシアはプルトニウムは燃料だ、日本と同じで資源だと言っていた。だからゴミとして捨てたくない。で、モックス燃料にして原子炉で燃やしたいと言っていた。 アメリカはプルトニウムはゴミだ、として燃料に使わず捨てるべきだ、という意見だった。お互い外交交渉です。アメリカとロシアは最初、デュアルトラックと言って、廃棄物と燃料と両方をやりましょう、と。早くできたほうがいいでしょう、と提案した。ロシアは捨てない、と言って頑張った。 95年ぐらいだったかな、お互い合意してるんです。お互い34トンずっ余剰プルトニュウムとをこれを核兵器には使わないと。お互いに申告し、お互いにゼロにしましょうと、合意した。が、現実はそれから全く進んでいないです。 佐藤:難しいですね。 鈴木:なぜか。アメリカも政権がかわって、クリントンの時はデュアルトラック。2000年、ジュニア・ブッシュになって、彼は原子力推進派だからゴミにして捨てなくっていいよ、モックス燃料にしようと。一方、ロシアもモックスにする、と言っても工場が無い。フランスが助けます、とは言ってたんだけど、それも実現していない。アメリカもモックス燃料にすると言っても工場が無いので、フランスから工場を買って、アメリカにモックス工場建てることにするんだけど、これがお金がかかって。ブッシュの次にオバマになる。オバマの時に高額すぎる、と言って止めちゃう。 その頃にはロシアとアメリカの関係があまり良くなくなって。オバマ政権二期目のときに、アグリメント、今は、34トン残ったまま、ロシアは使うつもりでいる。アメリカは捨てるつもりで工場開発している状況です。 佐藤:合意はわかりましたが、誰が全体の保管を正確に管理しているのか分からないですね。 鈴木:おっしゃる通りです、グットクエスチョンです。お互い合意したときは、もう要らない、だから軍事転用できないように、保障措置(IAEAが実施する査察のこと)、しましょう、と。IAEAに頼んで、IAEAがチェックします、と一度、三者で合意しているんです。ところが実現しなかった。今は、結局それぞれが管理していることになっている。 佐藤:なっているだけだから、現実に管理されているのか、問題ですね。 鈴木:アメリカは少なくっても、この部分については保障措置を受け入れる、と宣言しているんです。IAEAも忙しい、お金も無いので、積極的にやりたくないのね。大変な作業だから。他のことで忙しいから、特に六ケ所のセーフガードが大変忙しい。核兵器国のセーフガードなんかやってもしょうがない、と思っているわけです。だから積極的でなく、進んでないです。 佐藤:政権も経済情勢も変わりますからね、なるほど、そういうことを知ると怖い世界に生きてきているですね。 |
1999年5月26日朝日新聞夕刊 記事を拡大して読む |
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鈴木:でも、アメリカは必死になって守ってます。だけどロシアは、自分たちのプルトニュウムが使われてしまっても困るので、管理はしていると思います。ただ検証ができていないので、どれだけ使ったか、どこにどのぐらいの量があるか不明です。アメリカは発表してます。 ロシアもIAEAのプルトニュウム・ガイドライン、これも話せば長いです。日本が92年、国際から海上輸送で批判を受けた。その後これではまずい、ということで余剰プルトニュウムを持たない政策を92年に発表します。世界でも初めての政策だったんです。フランスも同じようなことを言ってて、フランスに並んだわけです。 その時にIAEAに話しかけて、プルトニュウムを使っている国としてアメリカ、ロシア、中国、スイス、ベルギー、フランス、イギリス、ドイツ、日本。9ヶ国がIAEAと話をして、独自にボランタリーに毎年プルトニュウムの在庫量を発表します、と合意をした。これが国際プルトニュウム管理指針と呼ばれているものです。今でも生きている指針です。民生用のプルトニュームの在庫量を毎年発表する。これはすごいいいアイディアだったと思うんです。アメリカは民生用に再処理していないので、解体後の余剰プルトニュウムを報告しています。ロシアは余剰プルトニュウム以外にも再処理工場を持っていますので、余剰プルトニュウムと民生用のプルトニュウムを報告しています。 佐藤:プルトニュウムの管理が、ソビエト連邦からロシアにスムーズに移行されていたのはすごいですね。 鈴木:それはアメリカのほうでやっています。 佐藤:ソ連の混乱後のその管理は、資金と管理技術、アメリカの提供によって混乱なく済んだ、と。 鈴木:今はそういう話はないです。でも、同じようなことを北朝鮮ともやろう、という話はあった。ロシアの秘密都市で働いていた科学者を民生用に転換させよう、ということで、モスクワに国際科学技術センターをつくった。その話には日本もお金を出しています。科学技術センターでロシアの専門分野の人をだしてもらって、例えば材料とか、物理学とか化学とかいろいろ専門家が要るので、こういう民生用の技術を開発したらどうですか、と、マッチングの提案をした。ロシアの科学者たちが路頭に迷って変な所に行ってしまわないように、ということです。 佐藤:国家が無くなっては、人は食うために持っている技術を生かし職を探し国境を越え移動するでしょうね。 鈴木:食うためにイラクに行ったりとか、イランに行ったりしたら拙い。 佐藤:北朝鮮にも行きそうですね。就職斡旋など対策しないと後々厄介で危険ですね。 鈴木:それで、国際科学技術センターをロシアに作って、それなりに成功したと思います。それもアメリカをふくむ西側諸国が、G7がみな、お金を出してサポートした。日本もお金をだした。 |
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佐藤:プルトニュウム政策批判は受けたけど、世界中の科学者と政府が連携しながら量を少なくしていこう、という道が拓かれたと。 鈴木:そういう流れはソ連崩壊後からあったから。日本とイギリスとフランスは再処理を続けていたので、どんどんどんどん余剰プルトニュウムが増えていった、そういうことです。 佐藤:日本のプルトニュウム、六ケ所村問題で1980年代語りで、日本は決定的に間違った道を進んでしまった、ということでした。相変わらず現在も続いています。今日も鈴木先生はFBに投稿されていました。 鈴木:六ケ所に使用済み燃料を持っていくって話ね。50年後に動ているかどうか分からないのに、そういう事を言うな、と。 佐藤:本当にそうですね。 鈴木:1995年にMITのレポートが出るんです。93年から始まって2年間でレポートにまとめているんです。その時に、私一人ではなかなか出来ないので、ケネス・オオイさんという日系のアメリカ人です、今でも研究所にいらっしゃる。彼は純粋なアメリカ人、オオイさんと、ジーン・スコルニコフさん、著名な私からしてみれば大先生なんです。彼らが一緒に研究してくれるということで、お二人の指導を受けながらレポートを書いた。 このレポートも、これも話せば長い、1年後に中間報告をやったんです。だいたい骨子は出来ていて、我々の提言は六ケ所再処理工場を動かす理由ははっきりしない、合理性が無い。で、もんじゅの燃料はともかくとして、それ以後について、もう一度再処理工場を動かす合理性がないので、見直したらどうですか、と。先ほどのサセックス大学の提案、その延長線上にある。結局、日本の政策を批判的に書いている論文になっちゃった。 中間報告は非公開でやったんです。そしたら、動燃事業団からケチョンケチョンに、ここはダメ、ここはダメ、ここは書き直せ、とコメントが一杯来た。 佐藤:そのコメントは国賊と呼ばれた事とつながるんですか。 鈴木:後につながります。つながる前なんですが、動燃事業団との内々の打合せの時ですね。もちろん、コメントしていいですよ、コメントしてください、と頼んだのでコメントしてくれるのは有難いんです。 が彼らはスポンサーだから、従来の日本の委託研究だと、スポンサーが変えろ、と言ったら、日本のシンクタンクは言うことを聞くんです。私は、どうしましょう、とみんなに相談した。とにかくある程度の趣旨が変わらない範囲での修正は私がやったんです。ところが、どうしてもここ修正したら拙いよね、というところは絶対断れ、と言われます。それは我々のMIT独自の見解を出すわけですから、コメントは受けたけど、ここは変えられません、ということを明確にしたんです。それで応えたんです。そしたら怒っちゃってね、 佐藤:科学者の論に対して、素人が怒る理由が分かりませんが。 鈴木:彼らは自分がお金を出しているから、スポンサーの言うことを聞くと思い込んでいる。日本のシンクタンクだとそうだから。 佐藤:明治人のお役所頭脳のようですね。六ケ所村は妥当な規模だ、おおいに動かして問題ないというレポートが欲しいんだと、 鈴木:そこまでは言わないですけれど、彼らは、直接は六ケ所村には関係ないので。高速増殖炉です。 佐藤:もんじゅの話ですね。 鈴木:もんじゅの話なので、高速増殖炉の研究開発はもっとサポートして欲しい、という感じだったんです。我々はもちろん厳しい見解を出したんです。でも否定はしてないんですよ。見直せという話だけです。もう一度アセスメントしたらどうですか、と。読めば止めたほうがいいと分かるが。 佐藤:科学者は提灯記事書け、といわれても書きませんね。 鈴木:書けない。MITは絶対書かない、言うこと聞かない。契約のときにちゃんと書いてある。中身についての責任はMITが持つので、独自の見解として出します、と書いてある。ただし、発表する前に動燃事業団には提出します、と書いてある。 佐藤:動燃事業団の意向に沿った中身に変えますと書いてなければ、いちゃもん言うなと言えますね。 鈴木:それは絶対許さない。 佐藤:動燃事業団は契約を崩す、虫のいいことを言う。日本組織に見られる姿勢ですね。 |
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■六ケ所村へ 鈴木:それも中間報告ですよ。たしか中間報告の前に日本に出張していたかな、六ケ所村にも行ったんです。93年か4年です。電力中央研究所の依田理事長、東電の副社長から電中研の理事長にもインタビューしているし、鈴木篤之先生にもインタビューしている。六ケ所村の土田浩(1931〜2009)村長のところにも行ったんです。これは面白かったんです。土田村長は頭のいい人で、我々の言うことをすぐ理解してくれた。そうか、このプロジェクトは国際批判の対象になるんだ、とすぐ理解して。長続きは出来ないよな・・、次のプロジェクト探さなきゃだめだな、とおっしゃっていた。そのことはもちろんレポートには書けなかったですけどね。一緒に行った、ケン・オオイ先生は感激しちゃって、あのメイヤーは素晴らしいメイヤーだ、と言って、日本政府、外務省、経産省の人よりも、ずっと理解が早い!と。 佐藤:首長は政治家ですからね。 鈴木:本当におっしゃる通り。広い視野で観てらっしゃったんです。自分たちが核燃料サイクルにコミットしているわけではないので、村のためになることが見えているわけだから。客観的に観ていたんですね、だけど役所は自分たちのコミットしているから、なかなか言うことを聞いてくれない。土田さんは素晴らしい、その後何回もやり取りして、実は土田さんはその後MITに来られたんですよ。 佐藤:村長さん。すごい行動力。 |
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■高速増殖炉論の矛盾 鈴木:そう、そこでもう一度、ケン・オオイ先生と話をして。 佐藤:この当時は日本とMIT、それからロシアを行き来していて、複雑な世界に影響を与える、鈴木先生の動きになってますね。 鈴木:この頃は本当に充実してましたね。プルトニウム研究は任されてましたからね。面白いのは動燃事業団から技術者、平尾君が一人派遣されていたんです。もちろん受け入れたんです、私の監視のためにやって来たんだね。 佐藤:はははは。 鈴木:平尾君は高速増殖炉の専門家ですよ。すごいいい人で、すぐ友達になった。だけど、高速増殖炉の言い分についてはなかなか納得しなかった。私はトーマス・ネフさんが論争しているときの姿勢を、まねして、じゃ分かった貴方の言うことを聞いてみよう、あなたの言う通りやってみよう、と。いろいろ計算したり、この場合はどうだと、彼のアイディアをいろいろ計算した。いつ頃ウランは無くなるのか、とか、プルトニュウムはどれぐらい必要なのか、本当に間に合うのか。いろいろやっていたら、最後はついに諦めた、鈴木さんやっぱりむりですね。 佐藤:ようやく解ったかと、手間かけてお付き合いすることが勝利への戦術の一つ。 鈴木:はははは。 佐藤:反対派の論に乗って一緒に論考計算し尽くすわけですね。 鈴木:技術屋さんだから計算すると、やっぱり無理ですね! 佐藤:やっと納得していただいたと、この手法は効くんですね。 鈴木:技術屋さんだから計算すればすぐ分かるわけです、矛盾が分かる。プルトニュウム、面白いのは、高速増殖炉ってプルトニュームが燃料なので、高速増殖炉を一杯造ろうと思ったら、プルトニュウムが一杯なきゃだめなんです。 最初の炉心は普通の原子炉の1年間の3倍要るわけです。毎年1/3ずつ交換するんです。だから立ち上げる時にウランもたくさん要るんだけど、高速増殖炉の場合はプルトニウム一杯要る。そうすると、プルトニウムを一杯作ろうと思えば、再処理を一杯しなければいけない。それから、軽水炉が一杯なければできない。けどおかしいじゃない、軽水炉が一杯なきゃいけない、と言ったら、その時にはもうウランは焚いてしまうかもしれない。で、増殖比率を1.1とか、1.2とに、言われたが、とてもそんなのは出来ない。1.06ぐらいなんですよ。1.1で計算しても間に合わないです。 高速増殖炉の伸びが、そんなにたくさんプルトニュームが供給できない。そうすると高速増殖炉の伸びは平べったくなる。軽水炉はガンガン伸びて。それでも足りなくなっちゃう。ウランが結局、先に枯渇してしまう。矛盾なわけです。ウランが枯渇するからと言って高速増殖炉を早く立ち上げるために、プルトニュームを一杯供給しようと思うと、軽水炉をもっと高くしなければいけない。 ウラン・プルトニュームのロジスティクスを計算したのが、70年代語りで話した、フォードマイター・レポートなんです、当時あまり知られてなかった。日本の人たちは計算してなかったんです。それが一番説得力があった。 結局、ウラン供給危機になる。ウランがもし足らなくなったときに高速増殖炉、間に合うのか?結局、間に合わないんじゃない、という話。でも平尾君は動燃の人だから、私たちがやっている事が反原発じゃないってことをまず理解してもらわなければいけない。で、彼らは反対する人たちは反原発派だと思ってしまってた。そうじゃない、ということも分かった。それが大きかったですね。 佐藤:どうしても、賛成反対で分けてしまい、そうして語るのが原発問題の常です、大切な議論が進められない。 鈴木:そうなんです。 佐藤:単純に二項対立にし、語ると単純で分かりやすいが、議論が膨らまず単純な結論へ誘導され、分断を誘うので危険な態度ですね。福島原発事故後も2項対立議論ばかりでしたね。現在もそのままです。 |
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鈴木:で、95年にレポートを出した。これもまた行き違いだったんです。最終レポート、ドラフトを動燃事業団に、フェデラルエクスプレスで─当時ようやく入ったころです─送ったんですよ。今は2,3日かかるんです。今でも覚えているけど、9月12日に送った。 朝日新聞の人たちがずっと追っかけていて、鈴木さんドラフトができたら、最終レポート出来たら送ってください、と言われていた。で、9月14日に発表する。そのときまでオフレコで、発表しちゃだめよ、と言ったんだけど。動燃と朝日に同時に送っちゃった。 佐藤:新聞社はオフレコ破りしますね。 鈴木:彼は、破ってはいないんです。彼らには9月14日に届いているんです。ワシントンにいたから日本より早く着いた。それで記事を書いて発表と同時に朝日新聞の一面に書いてしまった。 佐藤:あらら双方の距離の差が起こす事件、なるほど。 鈴木:動燃にはようやく届いた。びっくりしてしまった。朝日新聞に先に送ったのか?お前たち!と。先じゃなく同時に送った。 佐藤:確かに、スクープ見て、先に送ったなと、誤解される状況ですね。 鈴木:それで怒ってきた。ちゃんと郵送記録をとってあるので、アメリカの朝日新聞には発表までは公表しないように、というメールも付けて動燃に送ったんだけど、納得しない。怒られて。大変なことになった。 佐藤:それは大変なことになりそう、誤解を誘発しちゃってそうですね。 鈴木:でも我々はルールを破っていない、ということは最後は分かっていただいた。だけど、レポートの中身について彼らは納得しなくって、責任者だった菊池三郎さんは左遷されてしまった。 佐藤:それまでは、友達だったのにかわいそうですね。 鈴木:そうなの、かわいそうに、彼は一生懸命仲をとりもってくれていた。MITはアカデミックはインスティテュートで、彼らの言っていることと、動燃の言っていることは違って当たり前だ、と。そのストーリーを菊池さんはちゃんと説明した。 ところがスポンサーである理事長さんは、お前、なんのために仲間にしてたんだ、と。平尾というスパイを送っただろう、と。カンカンに怒っちゃって。菊池三郎さんは、わかったわかった、と言って。俺が辞めればいいのね、といって責任とって自分で辞めてしまった。 政府と、くっ付いてますからね。菊池さんも、思った以上に厳しいよね、と話していた。もうちょっと日本の立場を養護してくれるか、と思ったけど、それができなかったのは、残念だ、そう私にはおっしゃってました。 しょうがないですよね。MITのスタディーで、しかもピアレビュー受けています、他の先生も関わっていて我々だけのレポートではないし。で、大事なレポートなので、私が何回も書き直してもいますから。誤解のないように、何回もけっこう厳しいチェックを受けていました。ですから、私は自信をもって、これは間違いないレポート、として出しました。 |
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さらに、そのレポートを高木仁三郎さんが読んで、素晴らしいレポートだ、鈴木さん、ついては日本の我々の勉強会に来て、しゃべってほしい、と。呼ばれた。 高木仁三郎さんに呼ばれた、と、MITの先生がたにも話をしたんです。内々の勉強会だよね、それならいいんじゃない、と。高木さんにもお世話になったし。で、イエスと返事したんです。そしたら2週間ぐらいして、そろそろ日本に帰ろうかとしていた時に、動燃事業団からファクスが入った。見たら、MITプルトニウム批判した研究者日本に来る! 佐藤:あちゃーはははは、すごい誤解を煽るようなキャッチコピー。 鈴木:鈴木さんこんな反原発集会の講演にでるんですか、という内容のFAXが来た。ビックリしちゃって、内々の勉強会と誤解していたので、勉強会と言っても500人ぐらい入るところで喋る、対談するみたいな。 佐藤:動燃を怒らせるようなキャッチコピーで人を呼び集める、そういう魂胆。ありがち、すごい嫌らしいですね。 鈴木:これはやばい、と思って。これは私に対する誤解だ、と思ってMITの先生がたに相談したんです。そしたら、こういう事もあるかも知れないと思って、レポートの内容を公の場で発表する時は三人の著者が全員揃わないとダメ、ということを記者会見のときに明らかにしていたんです。 佐藤:さすがのMIT防護術です。 鈴木:そうなの、一人ずつやられてしまうと、一人ずつ叩かれちゃうかもしれないので。特に鈴木お前が危ない、と分かっていた。 佐藤:脇が甘いぞ、とふふふふ。 鈴木:脇が甘い、狙われると。共著者が三人揃わないと、公の場ではしゃべらないとしてあった。個人の意見は個人の意見だし、レポートの正確な発表ではないと。それを持ち出して、高木仁三郎さんに、すみません、公開の場で喋るのではないと思っていたので、行くと言ってしまいましたけど、MITのルールで三人で行かなければ喋れない、と。当時はオンライン動画はなかったからね。私一人だと発表できません、と断ってしまった。 そしたら、高木さんから電話かかってきて、お前誰の圧力に負けたんだ! 佐藤:早とちり芸、すぐ妄想の世界の話になるわけですね。 鈴木:そうなの。動燃がお前に行くな、と言ったんだろう、と言う。厳しかったですよ。ひたすら謝ったんですけど。申し訳ございません、私の意志ではないので、と。 佐藤:3人でないと公式の場でレポートについては語らない、そうしていたのだから、早とちり、一人よがったキャッチコピーを作ったほうの問題を棚上げにして、怒る、それは日本的ですね。 鈴木:問題なんだけど、彼にしてみたら絶対どこからか圧力かかったに違いない、そう勘違いしてしまった。彼とその時、決裂。 佐藤:絶交!宣言されたと、高木さんも甘いな、と思います。確認せず、彼の思いこみでチラシ作り、まいてしまうのは問題ですね。日本によくある希望でものを進めて、勝手に怒るタイプは多いですからね。 鈴木:向こうは、鈴木・許さん!と。圧力に弱い、お前はと。 佐藤:お聞きしていると高木さんの準備不足が招く誤解ですけどね。高木さんがチラシの内容を相談し、相互了解せずにつくるからそうなる。左派ポピリストの悪い点かな。 鈴木:でも、私が誤解したのがいけなかった、拙かったんですけど、今思えばメールもなにもなく電話だけだったんですよ。 佐藤:ログが残ってない時代の誤解が騒動を起こす事例ですね。 鈴木:残ってないんですよ。電話でOKしちゃったんで。そろそろ打合せしなければと思った頃にFAXが来た。 佐藤:MITの先生がたはしっかりしてますね。 鈴木:しっかりしてますよ。そういう経験を何度もされている方なので。 佐藤:党派で分解するけど、高木さんも鈴木さんを運動のために利用しようという下心が大あり。で、怒るとは青いですね、世間知らずというか。 鈴木:利用しようとしていた。 佐藤:そういう人たちに巻き込まれて、誤解評が世間を走る。凡夫は鈴木先生に直に会って誤解をとく努力はしませんから、要注意ですよ。逆恨みして喧嘩をこじらせる必要はないですけど。 鈴木:そうそう。その話はまた後で続くんですけど。そこで一応MITの話は終わって、プロジェクトも終わったので、私はどうしようか?と。日本に帰ろうか、どうしようか。そういう時期になったです。で。95年、安部フェローに申し込んで。 |
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■1996年 日本に帰国 佐藤:年譜にある、SPRU (Science Policy Research Unit)これはなんですか。 鈴木:SPRUというのはサセックス大学の科学政策研究ユニットです、そこに2ヶ月かな。それから日本の電力中央研究所に1ヶ月。電中研は、さっき話した東電の依田さんはしょっちゅうアメリカに来ていて、来るたびに私に会ってくださって、いつ帰ってくるんだ、どずっと言っておられた。 だから安部フェローもらったときに、1ヶ月間は電中研で勉強さしてください、と言って1ヶ月電中研にいた。それが切っ掛けで日本に帰ってきたらウチに来ないか、と言われて日本に帰ることにした。 佐藤:1996年ですね。 鈴木:1996年、日本に帰るのに、お前は電中研に行くのか?お前大丈夫か、つぶされるぞ!今度はアメリカの研究者の方々が皆さん心配してくれて。フランク・フォンヒッペル先生なんか真剣に心配しちゃって、お前電力会社の研究所に行くのか?大丈夫かお前、って。でも依田さんは私の書いた論文を見て、ウイリアム・オゥカーさんを電中研に招待して。依田さんは東京電力の副社長で、企画部長の時に知り合ってます。向坂さんの国際エネルギーフォーラムのときに、企画部長でずっと来られていた方です。 佐藤:向坂先生の教え子ではないんですね。 鈴木:教え子に近いですね、ずっと向坂さんと親しくしていたので。その時から頭の切れる企画部長だったんです。原子力については、覚めてる、とまでは言えない。必要だとは思っているんだけど、原子力の専門ではないので、ちょっと横から観ている感じ。電中研に行ってからも、レスターブラウンとかご存じですか『地球白書』という本を発表している。環境問題の当時のヒーローです。エイモリ-・B.ロヴィンズは再生可能エネルギーのチャンピオン。いまだに元気にしてらっしゃいます。77年のカーター大統領の核拡散政策をだすときに、ソフト・エネルギー・パスって聞いたことありますか、 佐藤:ないです。 鈴木:77年です。原子力全盛のころです。ゆわゆる原子力発電所とか巨大火力発電所とか、巨大インフラを必要とするエネルギーをハードエネルギーと呼んで。再生可能エネルギーで分散型のエネルギーで、誰でも作れるようなエネルギーのことをソフトエネルギーと呼んで、これから世界はソフトエネルギーの方に行かなきゃいけない、という本を書いた。大ベストセラー。今思えばね、当時はこんな夢物語。 実は彼はハーバードだったかな、中退しているんです。だけどこの本を書いて、自分の研究所を作って、省エネルギーと再生可能エネルギーの大親分になってしまった。ソフトエネルギーパスで検索すると出てきます。有名な方です、ロッキーマウンテンに自分の研究所を作って再生エネルギーと省エネ。本が売れて、カーター大統領にも呼ばれて、大統領はソフトエネルギーパスのファンになっちゃって、ホワイトハウスを再エネの家にしちゃった。(笑) 佐藤:なるほどすごい、影響力を与えた本ですね。 鈴木:すごい影響力です。再生可能エネルギーの専門家のかたは皆さん呼んでます。 佐藤:建築業界にいた1970年代の中ごろ、水素エネルギーの話は聞いてましたが、太陽光発電に関しては聞いたことなかったです。 鈴木:ソフトエネルギーパスは当時、世界にすごい影響を与えて、彼はむしろ省エネルギーですね。エネルギーをいかに効率よく使うか。そっちのほうがポテンシャル高いと。それが全部、正しかった。 佐藤:70年代、オイルショック後の日本産業界は、エネルギー効率のよい機械、づくりにシフトして延命しきったですからね。 |
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★★その02に続く |
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