2024年4月4日
オンラインで語り合う
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その04

ドイツ国内でホロコースト・ドラマ上映

花田:私は似たような経験を思い出すんです。1979年、私はその頃西ドイツのミュンヘンに暮らして居たんです。ドイツの公共放送協会でアメリカのNBC制作のテレビドラマ、『ホロコースト』4回シリーズなんだけど、それを放送するか、放送しないかで、放送する前から社会的に大論争になったんです
そういう放送があるということが広まって、それの是非について、大論争が起きた。公共放送協会は大変周到な準備をして、放送の前に特別番組でシンポジウムやるとか、いろいろ準備をして4回シリーズの放映に踏み切るわけです。当然、右翼は反対しているわけです。つまり「アメリカのハリウッド映画作りの娯楽映画でホロコーストなんかをドイツで放映されること自体を許せない」という反応ですよね。

ところが、放映してみると30〜40%の高視聴率で、テレビ局へのパッシングは結果的には起きなかったんですね。むしろ逆に、あのテレビ番組でホロコーストという言葉自体がドイツ人の間に定着したんですよ。それ以前、ホロコーストというボキャブラリーはほとんど使われていないので。だからホロコースト問題にある意味で大衆レベルの間の受容というかアクセプタンスを作り出して、大変な社会問題を引き起こした。
同時にその時に、ノーベル文学賞受賞者のハインリヒ・ベルとか、ドイツの文化人たちが放映後にどう発言したかと言うと、「自分たち自身の手で・・・」つまりドイツ人の手で「このNBC制作のホロコーストを越える番組を自分たちが作る必要があるんだ」と、「それに協力する用意がある」と声明を出しました。

今回の映画『オッペンハイマー』が日本でどう受容されているのか、いろんな感想も出てる。だけれど、あれを娯楽映画だとか、エンターテイメントだというふうに定義をして、ある種の価値を割り引くよりも、じゃー日本映画で日本の映画監督がパールハーバーとかあるいは南京事件とかをテーマにして、ノーラン監督のような映画が制作できるのかどうか・・・それが問われると思うんですよね。そこを棚上げにしてはいけない。


佐藤:先に言いましたが、鈴木先生から紹介されいろいろな感想文を読んでみました。映画『オッペンハイマー』批判の中に「日本人による映画を作れ」はなかったです。日米開戦、パールハーバー襲撃など日本軍が起こした帝国憲法下での加害者として世界に通用する、世界の観客に見てもらえるような映画を日本人が作ってきたのかと問われます。
フクシマ原発事故に関しても同様な批判は成り立ちます。被災者に安住し東電と政府を叩き満足してていいのか・・その問題にも広がります。フクシマは事故継続中ですから各自がそれぞれの場所でコツコツ、フクシマ原発事故の悲劇の様と問題点と背景を記録する段階だとは思います。長い時間続く災害は特別な課題をフクシマに出現させてしまいました。

私は、福島で原発事故が起きなかったら、オッペンハイマーのことも、ニールス・ボーアのこと、ロートブラット博士たち、鈴木先生にも会うことなく、パグオッシュ会議のことも知らず、『マンハッタン計画』全訳を古本で手に入れることもなかったです。古本を開くと608頁に1945年8月6日広島原爆投下直後に発したスチムソン長官の声明文が載っています。フクシマの事故が起きなければそのスチムソン長官の声明文も読むことはなかったですね。
声明文には「今は発電には使えないけど開発していけば民需・平和のために使えるんだ」とあります。原爆を落とした人が!製造指揮した陸軍長官が民需に転用できるとの声明を出していた。80年前の指揮官の言葉のとおり原発となり世界を覆いフクシマに至りました。オッペンハイマーや科学者たちの心配は、2024年の世に、原発事故で福島県だけでなく(世界)日本のあらゆる人の身近な問題になりました。













ホロコーストに関する動画の例






絵:webより

フランク・レポート

花田:オッペンハイマーの映画のシーンで驚き感心したのは、ロスアラモスの中で若い人たちが集会しているでしょう。自分たちが携わっている科学技術、兵器開発している真っ只中で原子爆弾の投下、その使用方法についてクリティカルにウォッチして、その事をみんなで集まって議論してる。ああいう文化、あれは驚きですね

佐藤:そうですね。核兵器を造る場に科学者たちが自由で平等に討議する場を維持した。(伝記上巻347頁)平均年齢25歳、科学者4000人、支援・監視する兵士2000人とあります。6000人が暮らすサイトは鉄条網で囲まれ監視され、その中でも毎晩自由に討議し合うというのがオッペンハイマーの赴任にあたる条件のようです。地位・身分の垣根を払って自由な討議をさせた。(431頁)医療費無料、映画は週2本上映、最初の1年間で80人の子供が誕生し、翌年は月に10人のペースで生まれる。「多すぎる」と軍将校がぼやいた・・・と、多様な交通と交流の実態が記載されています。
軍は自由な発言と科学者同士の自由な討論にタガをはめようとしていたようです。オッペンハイマーは二っに分解した、一つはオープンに出来ない秘密の科学的討論の場作り、もう一つはロスアラモスに集まった科学者と家族を交えた討論と飲み会・懇親会ですね。奥さんのキティーはキッチンドリンカー、アル中だったかもしれません、彼女は午後4時になるとマティーニを呑みはじめる。
一方、オッペンハイマーは仕事三昧、ドイツが負けたあとでも科学者をまとめる。オッペンハイマーは身につけた話術によって、原爆造りに際し科学者たちがバラけない。核兵器製造へひた走る。シカゴ大学で研究していた科学者の思いとは距離が大きくなっていく。

1989年公開、『シャドーメーカーズ』にはロスアラモスでの暮らしと科学者の対立が具体的に描かれている。

鈴木:そこの処をもうちょっと描いてほしかったですね。

花田:日本の文化の中でね、忖度構造があるからあんな集会が起こるだろうか。上の人の指示に従って一所懸命わきめも振らず仕事すればいいんだろうとなる。

佐藤:現在の若い人には、自由な討議の場作りは見習って実践してほしいですね。鉄条網で囲われ、盗聴・監視兵付き、お互い生活がオープンになっていた状況下でも自由に語り合う。(参照:『シャドーメーカー』にはロスアラモスでの生活の詳細が描かれている)

花田:ああいうスペースがあるということが驚きです。日本の文化には無いよ。

佐藤:毎夜、マティーニを飲みながら自由な討論の場ですね。
花田:あれは凄いよ!
佐藤:囲われた監視付きの環境下で2年暮らしていると誰が何をやっているのか、お互い分かってしまったそうです。監視され情報にアクセス制限がかかってもいる中でも、彼らは自由な討論の場を維持し語り合う、それも参考になります。オッペンハイマーは今、ここで何をやっているのか、そのミッションはなにかを巧みに科学者と家族に伝える。

鈴木:シカゴ・グループの「フランク・レポート」は今読んでも素晴らしい。で、日本語になってないですけど、それが後々核の国際管理のレポートになるんですそこにはオッペンハイマーは入るんです。だから今の世界の拡散(核)軍縮体制の元は「フランク・レポート」と書いてある。

アメリカ人の科学者の中には二つあるんです、仰ったように自由な議論を許すアメリカ社会の寛容さもあるし、それから核兵器を開発してしまった科学者たちの良心というのかな、贖罪的なものがあるんだと思うんですね。それが表に出てくる科学者と、出てこない科学者が別れちゃった。
エドワード・テラーは逆に「ここまで来たら水爆まで行かなきゃ意味ないよ」と水爆開発までやっちゃう。それが戦争の怖さで、緊張関係にある。

その緊張関係があると、核抑止のための政策が軍拡につながる、こないだ私の所属するRECNAが発表したレポートのエッセンスなんです。相手が開発したらこちらも開発しなきゃだめだ・・・となっちゃうんで、終わりがないですね。それがかえってリスクを高める。そういう事につながると知っていた人たちが、マンハッタン計画実行当時にいた。最初からそうだった

花田:最初からそうだったんですね







鈴木:そうです。
フランク・レポートにちゃんと書いてあるんです。「もしアメリカが日本に対して武器として使ってしまったら、一生アメリカはその罪から逃れられない」。で、武器として使ってしまった瞬間に他の国が核兵器開発を始めるそれは軍拡の始まりになるから絶対、武器として使ってはいけないやるならデモンストレーションで十分だ」という内容がフランク・レーポートなんです。

そこまで読んでいたわけですから、すごいなーと思います。それは科学者としてだけじゃなくって、レポート自体が核兵器に関する社会政治的影響に関する委員会なんです。科学は物理学者の人たちが、社会経済学的影響を考えるレポートを書いていた。そこが凄いなというふうに思います

で、1983年テレビ映画『ザ・デイ・アフター』がアメリカで公開されて凄いインパクトがあって、一般の人たちが核兵器の恐ろしさを学んだという映画なんです。核兵器がアメリカに落とされた後に、アメリカの街がいっぱい壊れて、人が一杯死ぬシーンがあるんです。それは広島長崎の実情を知っている人が観たら阿呆みたいな絵なんです。全然怖くもなんとも無い。助かる人も一杯いるし。それでもアメリカ人は凄いショックを受けて「核戦争は怖いんだ」と思ったんです。だから映画『オッペンハイマー』をアメリカの人たちが観たら、きっと怖いと思ったに違いない。仰る通り見せなくっても十分にインパクトがある。それだけ、今回の映画としてインパクトが有るというのは、今後の参考になる。

私の希望だけど、若い人たちがこの映画を観たら広島長崎の話を知らなくってもああやっぱり核兵器は怖いんだ」と思うんじゃないですかね。














淀川長治 解説 「ザ・デイ・アフター」


若い人が大勢観た 映画『オッペンハイマー』


花田:3月30日、土曜日に新宿ピカデリーで観たんです。ほぼ満席で、観客のほとんどが20代、30代でした。私のような後期高齢者は一人。

鈴木:長崎とえらい違いです。

花田:あれは印象的で、映画が終わってね、みんな立ち上がって、ぞろぞろ出ていくのを眺めていた、どういう観客かなと。20代、30代ばっかり。そこで私は思ったんだけど、あの映画を観た後の、さっきのインパクトの問題ですね。あの映画を観て映画館を出て若い人たちが核兵器廃絶運動に参加するだろうか?と。つまり、そう直結はしない

鈴木:しないです。

花田:だけど、鈴木さんがこないだ発表された「核兵器使用の5つのシュミレーションレポート」(内容を読む)。あれのリアリティーと言うんですかね、レポートは画面でシュミレーションを示していますけど、あそこからはリアリティーは出てこない。だから『オッペンハイマー』のような映画と鈴木先生のシュミレーションをリンクさせないと、なかなか社会的インパクトとか、人々が行動を起こすとか、核兵器廃絶運動に参加するとか・・・デモをするとか、投票行動に表すとか、核禁止条約に日本政府は書名しろ!とか、そういう運動を起こすかどうかというのは、単純なアクションとしては起きないので。映画観たから、じゃ、デモするとはならない。
だけど、シュミレーションのリアリティーを作るための何らかの装置としては『オッペンハイマー』の映画はいいと思う。


 (絵:NHKサイトより

鈴木:私もそう思います、だからああいう映画を日本も一杯作るべきですよ。『ゴジラ』でもいいですけど。

花田:『ゴジラ』でもいい。エンタメでいいんです。

鈴木:話が変わるかもしれませんが、ネットフリックスで『オッペンハイマー』上映されているのを契機にドキュメンタリーが幾つも流れていて、『アインシュタインと原爆』というのがあるんです。BBCが制作している、これは面白いです。アインシュタインが原爆をどういうふうに考えていたか。これには広島長崎が一杯出てくる。

花田:BBCらしいですね。

鈴木:エンターテインメントじゃないので、半分フィクションなんだけど、基本的にドキュメンタリータッチで作られている。アインシュタインは最初「俺は相対性理論を作っただけで、原爆を作ったわけじゃない、俺が責められるわけない」と意気がるんですけど、実際にもそういうふうに言ったらしんです。最後に「私が唯一人生で後悔しているのはルーズベルト大統領に手紙を書いたことだ」と、それで終わる。

花田:なるほど。

アインシュタインと原爆 (字幕付き) | 日本語の予告編 | Netflix

鈴木:だからやはり科学者としての後悔はあった。さっき花田さんが仰ったみたいに、一般の方々が核問題に「これは本当に深刻な問題だ」と思うよになるには、単なる研究やドキュメンタリーでは駄目で・・・もっと強い(感染力のある)ものが必要ですよね。
で、アル・ゴアが映画を作り『不都合な真実』あれはよく出来ている。あれでノーベル平和賞をとったんですけど、核兵器でもああいう映画が作れたらいいのになーと私は思っているんですね。あれは凄いインパクトがあった。それはアーティストの仕事だと思うんですよ。映画プロデューサーですか。ただ私たちの研究を見て、NHKが簡単なシュミュレーションを作ってくれたんです。

花田:観ました。

鈴木:あのシュミレーション画像制作は我々ではできないです。

花田:あれはやっぱり映像テクノロジーです。

鈴木:NHKの制作陣は凄いなと思って、我々のレポートをしっかり読んでいただいているんですよ。そうしてエッセンスだけ、ここを引っ張るんだとか、ここを見るんだ!と思うぐらいにいろいろな処を彼らは見ている。映像を創る人たちは違うところを見ているんだなと思って。そういう意味では我々もアーティストたちとコミュニケイションをとって・・・。

『オッペンハイマー』を批判された、蔦谷楽(つたやがく)さんというアーティストは核の被害について凄い絵を描くんですよ。ニューヨークでも個展を一杯開いています。女性なんですよ。

花田:蔦谷さんの絵は見ました。

鈴木:あのような絵を描く女性のイメージではないですね。おとなしそうな感じの人で話を普通にするんだけど、絵を描くとあんなになっちゃう。中に激しいものをもっている。何回も話をしているので多少知っているので。彼女のもっているものは、あの映画に対する批判ですよ。全くその通りで、アメリカはケシカラン!そのエネルギーがあの絵を描かせている。

佐藤:彼女たちの怒りや怒りの源泉はアメリカの人々に伝わっているんですか。






『不都合な真実2:放置された地球』本予告映像
蔦谷楽 ワープドライブ WARP DRIVE

鈴木:伝わってないかも知れないね。日本人は彼女の絵を鑑賞して分かるよね。わからないけどね。もちろん伝わる人には伝わるでしょうけど。『オッペンハイマー』を見て核兵器廃絶運動に走る人は居ないよね。だけどアーティストの仲間の間では彼女は凄い話題になっていて、

佐藤:アーティストの間では「戦争はいけないね・・・」となるわけだ。

鈴木:そうなる。
佐藤:鑑賞した全ての人が蔦谷さんの思いを受け止めてくれなくってもいい、アーティストなかまにまず伝わる。それだけでも世代を越える十分な広がり方と可能性はある。

花田:ピカソの『ゲルニカ』もあるし、丸木夫妻の『原爆の図』15部作もある。最初に言ったように映画って感情テクノロジー。感情で人間は認識したり動いたりするところが大きい。
『オッペンハイマー』における理論と実践、その間の分離か統合かの話はしましたけど、実践のところが必ずしもオッペンハイマー的にならなくってもいいわけで、裏返しの別の実践、つまり社会的インパクトを考えたうえでの実践、国家的利益を生まないような、結果を生まないようなそういう実践。そういう選択は十分あるので、鈴木先生はおそらくそれをやっていらっしゃるんだろうなと思います。

鈴木:(微笑)難しいですね。大学での研究という立場と、政策に影響を与えたいという気持ちと、実際パグウォッシュにも参加している個人としても、そういう活動をやっているわけです

花田鈴木さんの活動って、政府の内部でというんじゃなくって、市民社会ベースでという処、そこがポイント、重要な処だと思いますね。そういう戦略

鈴木:そうですね。フラストレーションが溜まりますよ(微笑)

花田:鈴木さんは元・科学者とか仰っていますけど。科学者として理論と実践というときにオッペンハイマー的な実践、要するに政府の中に入って原爆開発をしてしまうような実践、そしてそれをやった後に良心の呵責に苦しむ。そうなるのではなく、最初から理論と実践というときに、その実践というものが専門家知識をベースにして、市民社会の中でのコミュニケーションを創り出していく、そういう社会的インパクトを与える実践。そういう可能性がとりわけ核兵器廃絶では命綱ではないかと思うんですよね

鈴木:なるほど。

佐藤:長時間になりました。このような語り合いを継続していきたいと思います。今夜はありがとうございました。

鈴木:また機会を作っていただけると助かります。

佐藤:鈴木先生の人生をお聞きする、始まったばかりです。よろしくお付き合いください。

鈴木:また来月やりましょう。ぜひ東京でも皆さんとお会いできればと、福島にも行きたいし。
佐藤:よろしくお願いいたします、これからも交流いただき考え、発信していきたいと思いますので引き続きよろしくお願いします。今日は花田先生、鈴木先生、長時間ありがとうございました。
鈴木:今日はありがとうございました。

花田:じゃ、さようならー・・。


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