映画を語る

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その03

パラドックスを生きる科学者たち

花田:そこが私は面白いと思っているんです。オッペンハイマー個人が、あの映画の主人公として、個人が非常に面白いと思う。

鈴木:そうですね。

花田:興味深い存在であって。私が関心を持つのは二つのことがあって、一つは鈴木さんも科学者だから、科学者の前で言うのは一寸はばかるかもしれないんだけど。
鈴木:元・科学者です。

花田:(微笑)科学者の欲望、あるいは本能というのかな。彼は実験が苦手だけど理論は得意になって、トリニティー実験ではいわば不得意な実験でリベンジするわけです。実験に成功してね。理論的技術的な成功を望む、そういう欲望が非常に─科学者のみんながみんなそうとはいえないけど─オッペンハイマーやアーネスト・ローレンスなどもそうだけど、みんな成功ということに取り憑かれていると思うんですね。

そうするとその裏返しで、それが使用された時の政治的な影響とか、社会的な影響とか、その結果は一旦棚上げにしてしまうと。後でオッペンハイマーは後悔する。エドワード・テラーは水爆を開発しても後悔してないと思うんですけど。

で、理論的・技術的な成功と、その技術が実際に使用された時の政治的、社会的影響なり結果ということを分離して考える。その事によって科学者としての欲望というのかな、本能を発露させていくというのかな。結果的にあとでそれで悩むことにはなっちゃうけど。

そういうあり様を見て、同時にそういう人たちが集まってくるミリューというのかな。あの映画に出てくる著名な物理学者たち、天才と呼ばれるような人たち、アインシュタインもニールス・ボーアも含めて出てくる。そういう一群の物理学者たちのミリューというのかな、それが非常に面白いと思うんです。

そういう人たち同士の間での名誉心の闘いとか、あるいはコンプレックスとか、あるいは嫉妬の感情とか、そういうものでグルグルグルグル回りながら、物理学者たちが競争しながら業績を達成していく

そのロジックの先に何があるのか?結局は原爆という兵器を開発することに至るけど。なんて言うんですかね、ダイナミズム。変人奇人たちが作り出す、天才たちが作り出すタイナミズム。場合によれば負のダイナミズム。

そこに登場するプレーヤーたちの、とりわけオッペンハイマーはそうだけど、複雑な人格、パーソナリティーの複雑さとか、その後の逆説的な人生かね。パラドックスを生きていかないといけなくなってくるとかね、そこが非常に面白いと思いましたね。

同時に、そういう人たちでないと、ああいう物理学のブレークスルーは達成できないんだろうなーという気もするんですよね。常識人によっては分からないような事を考え出す、アインシュタインもね。その人達が変人奇人であったからこそ、常識人が考えないようなアイディアを思いつき、閃き直感を持つことができた。それ自体もパラドックスだと思うんです。

そこがオッペンハイマーに非常に具現化されているというんですかね。オッペンハイマーが一身にパラドックスを担わされている、自ら担うというかな。そこには非常に興味がありますね。

鈴木:おっしゃるとおりだと思うんです。今回の「マンハッタン・プロジェクト」の科学者がどういうふうにしたか、花田先生の仰るようにたいへん面白いダイナミズム。そういう見方ですけど、科学者の中にもいろんな人が居る。そこを映画にもうちょっと出てくるとよかった

なぜオッペンハイマーが研究から飛び出してロスアラモス、あんな所に行ってしまったのか。それは追求心とか自分の欲ではないんですね、たぶん。やっぱりね、ナチス・ドイツに渡してはいけない。アインシュタインがルーズベルト大統領に手紙を書いた(1939年8月2日)のもそうですし・・。ロスアラモスに行ってしまうと論文は書けないです国家極秘プロジェクトだから発表できない。

それでも、みんな集まるわけです。それのモチベーションは明らかに戦争なんですよね。だから、普通の状態の科学者のメンタリティーとは違う。そのメンタリティーがロスアラモスには明らかに有った。

で、残念ながら、今回の『オッペンハイマー』には、シラードは出てきたんですけど、ご存知のジョセフ・ロートブラット博士はポーランド人なんですが、彼は、ドイツが核兵器開発に失敗した・・・と知った時に「じゃもう爆弾作る必要ないじゃないか」と、マンハッタン計画を辞めてしまう唯一の科学者なんですねその彼がパグウォッシュ会議を作るんですね、ラッセル・アインシュタイン宣言を出してパグオッシュ会議を開催するんです。

だからレオ・シラード、シカゴ・グループは開発まではやるけど、それを使うかどうかについての判断については科学者として声を挙げるべきだ・・という人が居たわけですよ。「フランクレポート」になって出てます。

そういう意味では科学者の社会的責任、『ゴジラ』の芹沢博士と同じ悩みを彼らは持っていた。そうでないエドワード・テラーのような人たちもアメリカに居た。それをメクラにしてしまったのが戦争。

だから私は戦争と科学の関係とか、政治と科学の関係というのが大きなテーマになって、そこを今回の映画を観た人たちに、そこの処にもう一寸とハイライトを当ててくれると、「戦争はよくない」となる。一応、反戦映画だと私は思うんですが、どうしてもオッペンハイマー一人に焦点が当たっているので、オッペンハイマーの苦労は分かるんだけど、多分、戦争が科学者を狂気に走らせて、凶器を開発してしまった。原爆をつくるわけですね。


もう一つですね、これは細かな話です科学者と技術者と違うんですね。原爆を作るのは科学者だけでは出来ないんです。工学部の人たちがいないと作れない。アメリカの産業界も参加しているんですね。産業界の役割はものすごいですよ。映画には出てこない、『マンハッタン計画』を読むとデュポンとか、とにかく原料を大量生産しなければいけないので、理論だけでは核兵器は出来ない

爆弾の設計までは科学者の仕事だけど、実際に製造するのはオッペンハイマーは手をかけていない。みな技術者が担っている。だから優秀な技術者も貢献していたんだけど、それが「ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス」になって今も残ってしまった

だから「マンハッタン計画」の生んだものは、単なる科学者のコミュニティーだけじゃなくって ─ロスアラモスは今でも残っていますが・・─ ニュークリアー・ミリタリー・インダストリアル・コンプレックスを作ってしまった。それが原子力発電も作っているわけですし、未だにそれが原子力の後ろに居るわけですからマンハッタン計画の罪は重い。その罪を作ったのは私は科学者というよりは戦争と。
























































科学者と戦争

花田:そうですよ。で、しかも戦争が物理学も発展させたわけだよね。

鈴木:おっしゃるとおりです。だからそこが難しいんですよね。核分裂は戦争原因じゃなくって発見されているわけです。だから「核分裂を、どういうエネルギーに使うのか?」と言ったときに、戦争が爆弾づくりの方に走らせてしまった

花田:アメリカではオッペンハイマーもそうだった。ドイツだったらハイゼンベルグでしょう。日本なら仁科芳雄。科学者がみんな戦争遂行のために・・・ということで、政府に命令なりを受けて、取り込まれて、仁科芳雄さんもサイクロトロンを造ったわけですよね。ドイツではハイゼンベルグも造った。

ドイツ、日本、アメリカと戦争中の3つの国の中で、科学者が、あるいは物理学者が兵器開発に消極的にか?積極的にか?あるいは強制されてか?いろいろな状況はあるんだろうけど、結果として取り込まれていく。つまり戦争状況という中でね。それによって理論物理も発達するし、産業も、軍事産業になるわけだけど、それも発達していった。要するに大きな状況が戦争だという点、それを押さえるべきだろうなと思うんですよ。


佐藤:ファシズムが台頭して第一次大戦の影響下でヒトラーがでてくるわけですけれど、ドイツでは核兵器は出来ていなかったんだけど、双方皆が被害妄想に陥る。ドイツより先に新型兵器を作らないと先を越されて落とされちゃう。根拠は無いんだけど人間が持っている被害意識というのが暴走し爆弾を製造してしまう。

鈴木:根拠が無いことはないです!ドイツで核分裂が発見されたわけですから。物理学的にはドイツの方があの頃は進んでいたんですよ。

佐藤:ニールス・ボーアが核兵器を作る時にソビエト連邦とも情報を共有して核の科学的開発研究はやったほうがいいという。シカゴ派の科学者たちのような科学者が一方にいて、軍の人たちは秘密にして開発したい。帝国主義とファシズム、共産主義と核分裂の発見段階が微妙に重なっているんでしょうが。あの時代は大恐慌とかファシズムの台頭とか、コミニズムの発達で科学者も予想もしない行動をしてしまい、いろいろ造ったりする。

現在も各国の政治がグニャグニャで第二次世界大戦に突入する、前夜のような時代状況もだから核についても考えよ!と。映画『オッペンハイマー』は有る種の警鐘を鳴らしているんだと思う。

鈴木:その通りなんです。でね、ドイツのハイゼンベルグはひょっとしたらわざと協力しなかったのではないか協力しているふりをして開発を遅らせたという説もあるんですね。ハイゼンベルグとニールス・ボーアと対話劇『コペンハーゲンが本になっていんるです。事実は分からないです。

佐藤:そうだとしたら科学者に希望を見い出せるような気がしますが。

鈴木:事実は分からないです。一方でフォン・ブラウンみたいにロケットを一生懸命、兵器で開発して、お金もらえば何でも造る。

花田:V2ロケットですね。
鈴木:そう、ロケットを開発した科学者も居るのでなかなか難しいんです。私が言いたいのは、学者は一様ではない。いろんな科学者が居る。それがオッペンハイマーという人間を、彼が科学者の象徴かのように扱われるのは一寸違うかな・・・・と。あくまでもオッペンハイマーはオッペンハイマーであると。







花田:ただオッペンハイマーのような複雑な人格、そしてパラドックスを生きた人生。だからこそ映画の主人公になれるんであって。アーネスト・ローレンスは映画の主人公には出来ない。

鈴木:オッペンハイマーですね。ロート・ブラットは主人公にしてほしいと私は思う、私のヒーローだから。
彼のような、オンリーワンという人が居るんですよね。今回の映画『オッペンハイマー』には彼はでてこないですよ!伝記にもでてきてないですよね。

佐藤:ドイツが降伏したので去る・・・鈴木先生のヒーロー!ロートブラットはロスアラモスを去ったと伝記には記述あります(註3)。ドイツが敗戦したので核兵器つくる必要はないから、辞めるロスアラモスを去った・・・と書いてありました。

鈴木:今回の映画でそこを使ってほしかったな。

佐藤
:映画ではロートブラットさんのロスアラモスを辞する様は描かれてなくって、水爆の父と言われたエドワード・テラーは去っていくシーンはあったけど。

鈴木:あれは有名なシーンです。


文庫『コペンハーゲン』小田島 恒志 (翻訳)












(註3)伝記『オッペンハイマー』上巻465ページ
我々の仕事が、ナチスの勝利を防ぐことになるのと考えていたので、ドイツを負する必要のない兵器の開発を続けることはロート・ブラットには意味をみいだせなかった。連合軍ノルマンディ上陸してから
1944年12月8日ロート・ブラットはロスアラモスを去った。

第二次世界大戦中の物理学者と共産主義

花田:もう一つね、さっきオッペンハイマーの人物に二つ関心があったと言いましたが、一つ目は先程言いましたけど、もう一つは物理学者と共産主義の関係なんですよ。もちろん全ての物理学者の問題でも無いわけだけれども、オッペンハイマーの場合、彼の社会的背景、あるいは自分の周りに共産党員が居た。あるいは彼自身も党員じゃないけれど、集会に関わりはもっていた。そこに私は関心があります。物理学、しかも理論物理学の学者がマルクスの思想や弁証法的唯物論に関心をもつというところ。映画の中でもオッペンハイマーは「ドイツ語で『資本論』全3巻を読んだ」と言ってますよね。

鈴木:言ってましたね。本読むの好きだった。

佐藤:あっという間に読んだと。
鈴木:そうそう、あっという間に読んだと言っていた。
花田:ドイツ語で読んでいるわけですよね。
鈴木:そうそう、ドイツ語で、すごいですね。

花田:凄いよ。
佐藤:オッペンハイマーの語学力すごいと伝記にあります。フランス語、ラテン語、ヒンディー語、なんでも読めちゃう、いろんな国の言語で詩を吟じちゃう。

花田:理論物理学者がどうして弁証法的唯物論を。どちらもマテリアリズムというか、物質論なわけだけど。理論的、抽象的なこととして両者がどう結びつくのか。必然なのか、偶然なのか。そこが非常に面白いなあと思いました。

佐藤:オッペンハイマーは共産主義者ではなかったと思います。資本論をドイツ語で読んだけどコミュニストではない、スペインのファシズムに対抗した共産主義者たちに寄付をしていたから、イコール共産党員だとはならないと思うんですけどね。

花田:共産党員ではないけれど、共産主義思想にシンパシーを持っていたとは言えると思うんですね。
佐藤:権力者に叩かれた弱者支援と共産主義運動支援が絡まっている。
花田:そうじゃなかったらフランコを倒すための人民戦線に寄付なんかしませんし。

佐藤:ジーンという愛人が登場するじゃないですか、精神科の女医さん。
花田:彼女は共産党員。
佐藤:愛人に付き合って影響受けたのではないかな?
花田:だけとオッペンハイマーの弟も共産党員なんでしょう。
佐藤:そうですね。

花田:周辺にね、共産党員がたくさん居たのは驚きですね。そんなに共産党員が一杯いるのかと?
佐藤:第一次世界大戦後から共産主義は流行ったのではないですか。後に赤狩りするぐらいたくさん共産党員がアメリカにもいた。ドイツファシズムと共産党が戦っていたりしてる、ドイツがロシアに攻め入る口実か?

花田:だからそれはやっぱりファシズム登場の中で出てくる。さきがけはスペインのフランコ独裁に対する人民戦線。それを支援する義勇軍に外国から参加していった人たちって、かなりいるわけですよ。ジョージ・オーウェルとか。

佐藤:オッペンハイマーはお金を支援するだけですからね。
花田:だけどシンパであることはかわりないですよ。彼はマルクスの本を読んでたわけだし。弁証法的唯物論と理論物理学を頭でどうして接続していくのか?そこが私は非常に知りたいですね。なぜ彼はそうなったか。簡単に言うと彼はレフトなわけですよね。

鈴木:分からないですけど、たぶんカルフォルニアじゃないですか。

花田:カルフォルニアの文化ね!
鈴木アメリカの東海岸の科学者で共産主義者はあまり居なかったですね
花田:そうですか。
鈴木:たぶん、ですよ。西海岸のリベラルなエスタブリッシュメントの文化じゃないかなー。日本で言えば大阪みたいなものだ。彼はカルフォルニア大好きだったでしょう。最初カルフォルニアのバークレー大学にいく。わからないですけどね。


佐藤:例えば花田先生が科学者で共産主義者だったらどうしましたか。
花田:想定する必要もない。

 みなで大笑い

花田:私が、ああいうものを発明できるとは到底思えないのでね。前の話との関連なんですけど、さっき理論的な成功とそれを実際に現実のなかで使用する、そこに踏み込むということの関係、その二つの関連ですけど
ベルリンのフンボルト大学に行くと、メインの建物のホールの奥に、マルクスの言葉が彫られてあって、そのまま今でもあるんです。東ドイツ時代にベルリンに行った時もありました。

有名なマルクスの言葉だけど、「哲学者はこれまで世界を解釈してきただけであって、重要なのは世界を変革することだ」という 2,3行の言葉なんです。それが彫ってあるんです。それとオッペンハイマーのパラドックスは多少パラレルであって、つまりマルクスは理論家だと、しかし同時に彼は革命家でもあったわけですね。それがさっきの言葉なわけです、世界を変革するということ、それが問題なんだと。

だからマルクスは理論研究から逸脱をして革命家になっていくわけだけど。完全にパラレルではないけれど、オッペンハイマーも理論物理学をやって、しかしそこから逸脱をして原子爆弾の開発、そして実際の広島・長崎への投下ということには関わっていくわけですよね。
その時に、戦争を終わらせたいと。それからナチスが原子爆弾を持ったら大変だから、先に造くらなきゃいけなんだと。そういう現実世界の中で、実社会の中で自分が果たさないといけない役割。つまり理論の世界だけではなくって、現実の世界の中へ踏み出して自分が原爆製造を果たさなければならない。しかも自分にはそれができる能力があるかもしれない。そういうことで踏み出していく。何かそこに、多少のパラレルな関係というのを感じるんです。


科学者が国のためと則を越えるとき

佐藤:ドイツが降伏したあとの短い時間の中で、伝記には、日本への原爆投下について議論しています。科学者たちは公開実験して、原爆投下はしないほうがいいと。シカゴ大学のシラードなど署名運動をしている。ロスアラモスのオッペンハイマーは、署名せず核兵器づくりの実践家としての道を行く。映画の中であれ?と思ったのはオッペンハイマーが軍服を着ている姿が出てくる

花田:あるある。

佐藤:変節というか花田先生の理論と実践のパラレル行為ですが、それを暗示しているんだと思うんです。最初は理論家だったけど・・・いつのまにか軍人になった。その姿を示している。花田先生がいまおっしゃったようなパラレルなというより、はっちゃかめっちゃかで何か理由のわからないことをやってしまった。それをやる人間。シラードやドイツ降伏直後ロスアラモスを去っていくロートブラット博士たちはバランスが取れていたけれども、オッペンハイマーはその辺りの節操がない。

鈴木:某国立大学の先生方がね(笑)、政府の審議会の委員になるじゃないですか、全く同じだと思いますよ。学者なんだけど、政府の審議会の委員になった瞬間に意識が変わっちゃうのよ。国のために自分は選ばれたという意識になってしまう。科学者の範囲を越えて政治のモデルというか、それが世の中のためになると信じて、思って、やってしまう。

だからそういう科学者はけっこう居るんです。そこは何って言ったらいいのかな、何のために自分は研究をやっているのか?原点は最初は自分の好奇心から始まって、世のためにということで・・・とやっていくと。段々それが戦争という大義があれば誰だってやるかもしれない。

花田:それと関連するんだけど、こないだNHKで元九大教授の吉岡斉さんのドキュメンタリーが放映され、亡くなった吉岡さんが残した原子力委員会関係の文書にアクセスをして制作した番組がありましたね。(2024年3月2日NHK「膨張と忘却 〜理の人が見た原子力政策〜放送)あれは非常に面白かったんですね。

つまり吉岡さんもそのジレンマ、逆説のなかを生きていた。彼は国の審議会に参加する。自分の正当性としては、政策決定過程の透明化とか、合理化とか、そういうものが必要なんだということで、あのような委員会の委員になっていくわけだけども。だけど結局は彼も見ている「利益政治」というものの中に、インタレスト・ポリティクスの中に巻き込まれて、結局は合理的な議論というのは出来ないんだと。その処に至らざるを得なかったですよね。私はある種の敗北感だと思うんですけど。

鈴木:仰るとおりですね。

佐藤:オッペンハイマーは原爆を実験し造るけれど、使うのは政治家の決めることだと、その問は外してしまいますよね。映画でははっきり言ってます。その議論は映画でも外していますよね。

鈴木:ずるいんだよね、逃げてしまう。

佐藤:ただ、分からないのはニールス・ボーアとかオランダやベルギーの科学者たちの発想、核技術を共有して、核の国際管理していこうと(註) ━ロートブラットは1995年核軍縮にかんする業績でノーベル賞受賞━ そういう科学者の発想を、オッペンハイマーも知っているはずなんだけど、どうしてか知っているボーア先生の思いを引き継がないし、パグオッシュ会議にも参加しないし。・・・そのあたりが「なんだこの科学者オッペンハイマーは?」、不審というか理解できない点ですね。

鈴木:それはそうでしょう、ロスアラモスの所長だからね。

佐藤ロスアラモスで所長を引き受けたときから越えてしまっていたと。

鈴木:やるしかない、俺が反対したらどうなっちゃうんだと思ったに違いない。辞任するしかないですよ。
佐藤:そうですか、それはアメリカにあるユダヤ人差別とか、お父さんが移民で商売を頑張っている後ろ姿を見て育ってきて、ここで一肌脱いで見せてやろう、そういう思いか?ユダヤ人とアメリカ人の歴史的関係は知りませんけれど、そういう背景があったかもしれない・・・だから核爆弾を造って軍に示すまでやる・・・その決意を想像しましたね。

鈴木:所長を引き受けた瞬間から、たぶん仰るような気持ちでやっていたと思いますよ。

佐藤:ノーラン監督は巧い手法で描いた。言葉で語らせず、軍服着せたり、脱がせたりしてオッペンハイマーの内面を洋服で示していた。マンハッタン計画を見ると文民のトップとして彼を招き入れる、任命するんだったかな。
映画は軍服をオッペンハイマーに着せている。着るはずはない軍服姿を映写して見せた。映画ではオッペンハイマーが科学者と軍人を行ったり来たりする。花田先生が仰ったようなジレンマ、迷いを観客に考えさせるための演出だった。複雑につくってあるな・・・と。

アインシュタインにはオッペンハイマーは興味ない。(伝記下巻124頁 )映画のように親しく対話していたとは伝記には書いてないですね。
映画での二人の対話は広島・長崎に核爆弾投下後の絵柄です。彼らはプリンストン高等研究所に招かれて━、要するに米国の成金が科学者を遊んで暮らさせる、家屋敷と給与を与えられて研究生活できる科学者に戻った━同じ敷地に暮らしているのにアインシュタインと親しく交流していたとは書いてない。
毎日、マティーニを妻や友人と飲んだくれては、詩人とか文学者とか歴史研究者、文系の博士たちと交流していた。オッペンハイマーは科学者が嫌いになったんだと思います。
映画では多く描かれなかったけど乗馬して何日も野宿しながら彷徨う旅姿が。草木もない原野を野宿しながら彷徨うのが好き。オッペンハイマーを描くためには必要な絵柄だと思って見てました。

鈴木:ちょっとだけ描かれていました。

佐藤:子供のころからスポーツは乗馬のみ。

鈴木ロスアラモス自体が彼が乗馬して気に入っていた土地

佐藤:原野に惹かれた、子供の頃からの鉱物好きも関係しているのか・・。自然のなかで、食うや食わずに身の安全も保証されない場所で暮らすのが好き。船で航海したともありました。野山で出会った女性を好きになったりする。女好きは一生つきまといますね。そういう極端におかしな人間性。
あらゆる行為が監視されたロスアラモス。弟の誘導でしょうが愛人に会いに行く、あの行動もデタラメで女好き。酒好きでいい加減な野郎だと私は思い見てました。映画には描かれてませんが。長男、長女の扱い方も伝記に書いてあるけど「お前は本当に父親なのか・・・」と思うほど酷い男ですよ。

鈴木:大笑いしている。

花田:天才だからしょうがないじゃない。
佐藤:天才の子供にはなりたくないですね。オッペンハイマーの自伝の〆が娘さんの自死のことです。

鈴木:孫が日本に来てますよ。

佐藤:そうですか、たぶんオッペンハイマーの長男、大工を生業とした彼の子供。長女は家族でくらしていたバージン諸島のセントジョーンズ島の家で「地域の人に遺産は寄付する」と遺書を残して、首吊り自殺。彼女の誕生から両親との関係そして、就職に失敗し続け自殺まで克明にあるので想像しやすいです。彼女は両親に本当に平凡に愛してもらいたかった一人の女性なんです。オッペンハイマーは人を愛することが分かってない父親、娘さんや息子さんを父親として愛し方が分かってない。文字の中、詩の中では愛を理解できても実の暮らしの中での愛を理解し実践ができない男ですね。

オッペンハイマーは良い女性にも出会うんだろうけど、自分が本当に愛されている・・・それが分からない。で、やたらに仲間の奥さんを奪ってしまう男ですよ。そういう点も原爆製造に突っ込む変わった男として描いても良かったのでは。

鈴木:ちょっとだけ出てました。





吉岡斉さん絵WEBより


 


(註)伝記上巻 468頁〜
核戦争から世界を守る・・・ガジェットが文明に及ぼす影響を公開討論
戦争が実質的に勝利に終わったあと、なぜわれわれは爆弾製造を続けているのか?

470頁
今後永遠に恐怖のなかで生きる運命にある、一方で戦争を終結させる可能性もある

討論内容
この恐ろしい兵器は世界にどのような影響を及ぼすのか、我々は何をしているのか、それとも悪いことをしているのか、科学者はどのように使われるのかについて心配してはならないのか

政治の問題としてオッペンハイマーは討議を反対した








伝記下巻124頁
アインシュタインはオッペンハイマーを親友の一人としてあげることをしない「科学的な意見が正反対に異なる」アインシュタインは量子論を受け入れることを拒絶、オッペンハイマー完全に頭がおかしいと批評した


原爆の被害は描かれていたか?

佐藤:映画での恋人ジーンとオッペンハイマーの別れる一晩の描き方はあまり良いとは思いませんでした。では、原爆のシーンが描かない!?その点の問題に話を変えますね。

映画では実験成功してロスアラモス内の科学者とその家族を集めて演説するあの場面で描いている。オッペンハイマーの脳内が映像化されてました。集まった人々の顔が爆風ではがれ飛び散るような絵で示してた。足元には真っ黒い人形が倒れていて、踏んづけてしまう。人間が炭のようにパリパリと壊れていく。あれで十分描けていると思いました。
愛することが分かっていないように、人が死ぬということが分かっていなかったのではないかな・・そういいう気がしてしょうがないです。

鈴木:顔が溶けるシーンの女性はクリストファー・ノーラン監督の、実の娘さんだそうです。

佐藤:そうでしたか!監督の娘さんの顔、皮膚が剥がれる、あのシーンは気持ち悪いですよね。
鈴木:あそこを見せるかどうか揉めたそうです。ノーラン監督はあのシーンは悩んだと思いますよ。

佐藤:娘さんを被爆した女性にメークアップし撮影した!それを映画に埋め込んじゃった!
鈴木:わからないけど、見せるとなると、どこを見せるか悩ましいじゃないですか。
佐藤:そうですね。

鈴木:見せたら見せたで、これだけしか見せなかったのかと言われるし。何を選ぶかによって変わってくるので。見せるなら徹底して見せるしかないと。ぱっぱっと見せただけではあまり意味が無い。オッペンハイマー自体はたぶん投下後の広島・長崎の写真しかみていないので、むしろ空想の中の絵のほうがオッペンハイマーの悩みに直結するというか・・・オッペンハイマーを描くという意味では幻想の方がきっといいんじゃないかと。

もちろんそれによって、広島長崎の方から凄い反対が出るだろう、日本の人から反対がでるだろうと、クリストファー・ノーラン監督は知っていたと思います。逆にだからこそ中途半端に見せるのはかえってよくないと思っていたのかなと。

私自身はあのシーンはずっとオッペンハイマーの顔を写していて、スライドを見ながら顔を背けるじゃないですか。あの一瞬の演技、あれはオッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィが巧いんだけど、なんとも言えない表情を見せるじゃないですか。あの一瞬はすごい価値があるシーンだし、私は、観ているときは「あこれで広島長崎の写真が出てくるんだな・・・」と思った。「あ、見せないで終わっちゃった」と。
ところがその後、黒焦げの死体がでてきたり、顔の皮がむけるシーンが出てきたりしたので、ああなるほど幻想を描いたんだなと思った。あそこは一番クリストファーノーランが悩んだんじゃないかな。

佐藤:あの描き方は巧いと思いました。最後の〆、アインシュタインとのプリンストン高等研究所内での立ち話して決裂したのかな、アインシュタインはオッペンハイマーを認めてないのが分かる、そして「計算し確認した、空気は燃えない・・と」アインシュタインと別れる瞬間、あの数式を握りつぶし、核戦争の連鎖で地球全体が燃えだす。死体や顔の皮膚が剥がれるシーンと繋がっていて、巧いなと感心しました。

起爆実験大成功し講演会場の聴衆は大歓声。だけど映像は、音が消えて被爆者を想像する幻想シーンに入る。大成功演説のなかオッペンハイマーは聴衆・観客のみなの顔が剥がれ壊れるていく姿を幻視してしまう。空気と海に、火はつかないけど、核兵器の応酬が始まり地球が燃え始める。核兵器は使う政治側の問題だ・・との絵で終わる。
それらの映像の連なりは広島長崎の地獄絵を見せるよりは普遍性をもっていた。戦争と核兵器の存在は地球全体の問題だと。火の玉地球は、映画の入りの水滴波紋シーンと対になっていて良かったです。

花田:逆にね顔を背けるところで、広島長崎の被爆者の実写の写真映像を出したら、あの映画はぶち壊しだと思うんですね。それで、出さなかった批判も出ているけれども、もしも実写映像を出したら、その数倍の批判があると思いますよ。
エンターテインメントの中で、長崎広島の被爆者自身の実写・写真を使った・・・ってなったら、その事に対して決して許せない!という拒否反応は猛烈だと思いますね。だから出しても、出さなくても批判される。

佐藤:出しても出さなくても批判されるならノーラン監督の描き方は巧い!

鈴木:米国の歴史研究者の方が批判しているのは、見せないじゃなくって、映画全体の描き方。基本的にアメリカの視点でしか描いてないと。映画としてはそれは無理なんです。だけど彼女たちはそういうことをやっている人たちなんで、そう思うこともよく分かるし・・・私はあの映画を観た感想として、そういうふうに出てくるのもよく分かる。

だけど映画としての価値はそれではない、むしろそういう反応がでてくる事を知っていてノーラン監督は作ったにちがいない


その04へ続く